第1話 功と罰-①
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——階紀六〇三年十一月三日
第33階層 エーレ丘陵 “都市”ギラム——
二百年前、英雄たちはこの地に辿り着き、ここに人々が武器を下ろせる都市を作ろう——と言って、剣を地に突き立てたのだという。
それは人々の想いを束ねるシンボルとして丁重に保存され、今なお揺らぎを見せず、朝焼けを背負い都市の一日を見守るように立っている。錆が酷いがそれすらも、彼らの目指した安寧のもとに都市が存続してきた証のように思われた。
礎剣。横には、都市再建計画宣言の一幕を綴った石碑が添えられている。
周囲は都市人の墓地だった。礎剣を囲うように奥に立ち並ぶ墓石は一部の特権階級のもので、多くの人々は手前の土地に死者を埋葬し、その上に小さな石彫を置いたり模造花を供えたりするのが通例であった。
レゾンは他の客が誰もいない明け方の墓地で、墓ではなく礎剣の前に跪き、拝借したスコップで土を掘った。作った窪みに丁寧に花の苗を植え、土を馴染ませていく。
幼い葉が風に吹かれて頼りなく揺れる。レゾンは心配になってしばらく様子を見たが、しなやかな茎はむしろ風との戯れを楽しんでいるように思えた。立ち上がり、街へと戻る。
背筋を伸ばしてゆったりと歩き、口元は穏やかに。そして常に多方面に視線を配る。
ティタ族に特有の白橡色の髪と褐色の肌。耳朶に光る真鍮のリングは、十七歳以上、つまり成人の身分を示す。穴の赤みはもうすっかり引いた。
優美な顔立ちには若さゆえの柔らかさが残るが、自信の滲む立ち振る舞いは決してそれを甘さとは感じさせない。自信は文武両道の実力に裏打ちされており……しかし、かといって人を見下すわけでもない。
優秀で、話しかけやすく、頼り甲斐がある——それが族長の甥っ子、レゾン・オベスムという青年だった。
「だから——、……ああ! レゾンさま。いいところに。ちょっと来てくれないか?」
こうして呼び止められるのは日常茶飯事だ。レゾンは「はい、どうかしました?」と声を上げて、早足で彼らのもとへ向かった。彼らは本来、オベスム家やその他の権力者の邸宅の前に足を運んで陳情を述べなければならなかったが、レゾンは形式に拘らず民の相談に乗ることにしていた。もちろんその場で対応するのは、そうするに相応しい内容の場合に限るが。
手招く男はレゾンと同じティタ族の壮年で、相手はイト族らしい赤毛の女だった。今にも罵り合って背中を向け合いそうな、険悪な雰囲気である。男はレゾンが立ち止まらないうちに愚痴を語り出した。
「聞いてくれ——この女、建都祭で配られるパンがあるだろう、あれを作るのを今年いきなり任されたそうなんだがね」
「ミニャーチのことですね」相槌を打つ。
「そうだ。それなんだが、うちから肉を仕入れたいと言ってて、変な話だと思ったのさ……それでさっきよくよく聞いたら、ミニャーチにたっぷり具材を挟もうとしてるんだと!」
なるほど。レゾンは顎に手をやって、不満そうな顔をする女に視線を向けた。そちらの言い分は?
「わざわざ不味いものを作りたくなんてないのよ!」
なるほど。簡潔だ。
「あれが不味いと思うのは分かるが、それこそが伝統なんだろうが! あれは建都の英雄が初めてここで耕作してやっと作ったパンで——建都祭でわざわざあれを食べるのは、都市を建てた英雄たちの当時の苦労を知るためなんだ。そうだよな? レゾンさま」
レゾンは苦笑した。どちらに同調したともとれる笑みだった。
毎年きちんと食べているからすぐに思い出せる。あの粘性のある硬さと妙な生臭さは確かに酷い。ちなみに、「ミニャーチ」は英雄ウルシャ・ハイェーンの使っていた方言で「まずい!」という意味だそうだ——名は体を表す。
どちらの主張も正しく素晴らしい。伝統は受け継ぐべきだし、食べ物は美味しくあるべきだ。どうにかして両立できないだろうか?
レゾンは少し考えてから続けた。
「俺も伝統を守ることには賛成です。しかし……一つ気になることが。——ミニャーチに肉などを挟んだところで、美味しくはならないのでは? と思うのですが……」
「……!」
女は驚いたように目を見開くと、それから——よくぞ聞いてくれました! とばかりに身を乗り出した。
「それがね……違うの! あのパンはオレガノを使った濃い味付けと葉野菜の食感、それから肉の旨味を加えることで化けると思うのよ!」
「ほう。それは斬新で興味深いですね……是非食べてみたい」
「本当? 嬉しいわ。ねえ、この人のことも説得してくれる?」
「そうしたいところですが」レゾンは少し困ったように肩を竦める。「もう一つ懸念がありまして。というのも、ミニャーチの配布は無償奉仕的に始まった不文の文化ですよね。原価が上がれば、更なる支援が必要になるのでは? その嘆願はお済みですか」
「むう……。美味しいもの作るんだから、お金とればいいんじゃないの?」
「無料だったものを——ましてや元々不味いものを、具材が増えたからといってお金を出して買おうとするのは、物好きか俺くらいのものでしょう」
そう指摘すると、図星だったのか彼女は閉口してしまった。
都市ギラムの数ある功罪の一つ、それが貨幣制度の復活と定着である。物の価値は定量になり、市民の専業化が進み、社会には客観的秩序が生まれた。一方で、値がつかないものへの関わり方は消極的になっていき、淘汰されていく。
「——だから、こうすればいいのではないですか?」
「え?」
「ミニャーチは例年通り配布するんです。そしてそれを食べている人に、『おいしく食べる方法』を売るんですよ。そうすれば面倒な手順を踏まずにこの商談を成立させ、貴女の挑戦も実現させた上で、伝統も守れます——むしろ、この二百年の進歩を表すようじゃないですか」
「ああ……!」女がぱっと顔を明るくし、手を打つ。「それなら、伝統がどうって話にも納得できるわ!」
「いきなり大量に仕入れる必要はありません。もし本当に美味しければ噂も味方につき、次に大きな商機がやって来ますからね。一年目・一人目の客の心配は——いりませんし」
レゾンはそう言って、にこ、と微笑んだ。最初にあった険悪な雰囲気はどこかへ霧散していた。今はただ、新しい商機を見つけた二人の豊かな都市人がここにいた。
ティタ族の男は腕を組み、感心したようにしみじみと何度も頷く。
「そうか、そうだな。少し話を聞いてみれば思いつくことだった。レゾンさまは人を信じるのだなあ……。本当に、若いのに立派なお方だ」
「若いのにというのは、もう……。俺だって成人ですよ。政治に携わろうという者として当然の意識です」
「いやあ。そうかあ。これだけ活躍なさってまだ十七か」
「政界では、俺は伯父さんの補佐として勉強させていただいている身に過ぎませんよ。まだまだこれからです」
レゾンが謙遜の顔をすると、彼は「ハハハ、頼もしいな!」と笑って気安くレゾンの肩を叩いた。
——この通り、レゾンに対する民衆の支持は厚い。しかし——実際のところ、レゾンに都市ギラムの政治を司る元老院での発言権はなかった。元老院にはギラムの主な八氏族の族長と、執政官を経験した人物しか入ることができない。そして執政官の条件には、「三十八歳以上」という気の遠くなるような項目があるのだった。
「それでは、そろそろ失礼します」
「ああ、聞いてくれてありがとう。助かったよ」
「ありがとう、レゾン……さま?」
「レゾン・オベスムです。それではまた当日、ミニャーチを食べに必ずお伺いします」
二人は和やかに送り出してくれた。レゾンも機嫌が良いのを自覚していた。建都祭には毎年深刻な気持ちで臨むのだが……今年は一つ楽しみができた。
*
丘陵地に建てられたギラムの街並みには、二つの構造的な起点がある。一つは中央に最も立派に建てられた議場、一つは最も高い位置に建てられた神殿だ。ティタ族族長家、すなわちオベスムの本家は議場近くにあり、回廊に十二の部屋と立派な中庭を持ついわゆる大邸宅だった。レゾンの実父——族長の弟の家は別にあるが、レゾンは普段本家に身を寄せていた。もちろん、奉公ではない。
この時間になると、家の前には市民たちが集まり始めていた。これは古代文明を再現するように作られたギラムの政治の作法の一つであり、この人数が多いほど支持が厚いということを意味した。オベスムへの客は他と比べて多くはないが、少なくもない。下男が彼らを序列順に並ばせつつ、戻ってきたレゾンに気づいて目を見開いた。
「レゾンさま! どこかへ行ってらしたのですか? 珍しく起きてこられないなあ、とばかり……」
「ああ。建都祭が近いから、朝も少し街の様子を見ておきたくてな」
「そうでしたか!」下男は誇らしげに微笑んだが、すぐに顔を曇らせた。「……しかし、お出になるのであれば私どもに一言いただけませんか……。お恥ずかしながら、誰もレゾンさまが出ていかれるのに気がつかなかったようで。いつも魘されてらっしゃるのに、今日はよく眠られているものだと」
「すまない。とても早くに目が覚めてしまったから、起こすのは忍びなかったんだ。次からは気をつけよう」
「はい、お願いします。ああそれと、これ、今受け取った嘆願書です」
「ありがとう」
レゾンは軽く手を上げて、門を狭く開けてくぐった。執務室の扉はまだ閉ざされており、召使たちだけがせっせと働いていた。彼らは本家の召使であって、レゾンは彼らの助けをあまり必要としない。というのも、何もかも世話をさせるような身分にはまだない、ということにしておいた方が動きやすいからだ。
執務室に先に入り、帳簿と照らし合わせながら嘆願書に目を通していく。オベスムの元に届く相談事は、普段、借金や土木のことが比較的高い割合を占めているのだが、ここ最近はやはりこの時期とあって建都祭の話題が多くを占めている。
この立場で建都祭を迎えるのももう三年目だ。流れは分かっている。この祭礼をどれだけ支えられるかということが、権力の大きさを誇示する機会となるのである。
建都祭まであと一日。準備は大詰めだ。方針を固めていると、再び扉が開いて、伯父——カニス・オベスムが乱れた髪のままやって来た。
「おはようございます、伯父さん」
「ああ……」
彼は緩慢な歩きで椅子に向かうと、既に疲れたような表情で座った。すかさず召使たちが身なりを整え始める。
ティタ族の成人のリングには、節目ごとに飾りが増えていく。揺れるとしゃらんと真鍮のぶつかる上品な音がするのは、ティタ族の長老の権威の示唆だった。
元々の髪色が白っぽいから目立たないが、この人はこのところ白髪が増えた。レゾンは労わるように優しい声で告げる。
「伯父さん、ご安心ください、今日も完璧に補佐させていただきます」
「……ああ、……頼りにしている」
レゾンは頷いて、「では、まず本日ご留意いただきたいのは……」と帳簿をめくった。




