第46話 応答なし
予定通り、翌日の夜にレゾンはシィアと合流した。この地域では雪は降らないようだった。シィアの新しい拠点は段丘の上に建てられ、魔力の気配と立ち上る煙でめちゃくちゃに目立っていた。狙われても迎え撃てるという自信の表れである。エルメは羽を休めているらしく拠点のそばにおり、幻鎧士の気配は一つ足りない。ジグマだろう。地図組はさっさとどこかへ行ってしまったらしい。
早かったな、と迎えられるままに大量の補給を受け、レゾンは疲れを癒すためによく眠った。
やはり夢は穏やかだった。エルメの現状について問うと、海魚の群れは遠巻きにぐるぐると泳ぎながら笑った。そしてレゾンに歌うようにこう言った。
——君の強さが、彼の祝福を……呼び寄せた……。
——……面白い……。運命は……やはり君に、微笑んでいる——。
レゾンは咳き込んで起きて、エルメの心臓にある魔力ではない何かをもう一度見た。……「彼」とは、天空神のことか? やはり“海”の仕業ではなくて、“海”はそれを認知した上で放置しているようだ。
祝福。それが、エルメにとって良いものであればいいのだが。
「——おはよう、レゾン君。よく眠れたかい?」
「おはよう、トウェンさん。相変わらずシィアは朝が早いな。気が急いて早く目が覚めたと思ったんだが」
「きみ達が出発するから見送ろうって、おれ達も思ってたからね」
また照れるようなことを言ってくれる。
「トウェンさんたちはどうするんだ?」
「エルメが休むから、しばらくはこの周辺で思い思いにって感じだね。おれと姉さんとかは、きみ達と分散して霧の中や外周を調べるつもりだよ」
「本当か! ありがたい……」
「姉さんの鎌が森をぐちゃぐちゃにしないか心配だけど」
「聞こえてるわよトウェン」とイレーナ。「ジグマがどっか行っちゃったんだから、大人しく私に任してたら良いのよ」
「あの子も、ソデルの代わりが見つかれば手伝ってくれると思うんだけども。レゾン君のこと自体は気にかけてくれてるからね。節約してて機嫌の上下が激しいんだ。今他のことをさせたらどうなることか……はは」
「そういうことか。あの甘党……」ため息が出る。「——そうするとキュミルがそっちについた方が良いんじゃないのか。俺には〈幻鎧〉も剣もある」
「心配どうもありがとう。でも、〈幻鎧〉を持たないシィアだって戦えるからね。きみだって初対面の時そう言ってただろう。ここは第34階層じゃないんだ」
「——ああ、そうだったな」
幻鎧士以外のシィアの動きの良さなら、[大地を泳ぐ蛇]と戦った時に見た。なるほど幻鎧士と魔物との戦いに参加して生き残ってきた実力は確かなのだろう。
「荷物は昨夜のうちに整えた?」
「準備は万全だ。すぐに出発したい」
「気をつけて。はぐれないようにね」
「ああ」
狩りへの出発を誰かに見送ってもらうのは初めてかもしれなかった。シィアみんなに手を振られて、レゾンはキュミル、リーデ、イヴンを集めて、段丘の下の濃霧地帯を眺め下ろした。
それは、神殿からエーレ丘陵を見渡した時の視界に似ていた。それほど濃霧が広がっているということだった。朝になってもその濃さは変わっていない。数十歩、あるいは十数歩の距離が命取りになるだろう。
「うえー、なんかもうベトベトするもんね。最悪……」
「砂漠育ちにはこの湿気はきついだろうな。残るか?」
「いやいや、ついてくって。絶対面白いじゃん」
「面白い、か。そうだといいがな……」
キュミルが面白がるようなことが起きるのも面倒だが、一番怖いのは何も見つからないことだ。時間と物資と厚意を無駄にすることになる。
風が吹いて、体の芯が冷えてぶるっと震えが走る。
「っくし」
「寒そ」
蛇は寒さに弱い、と言われたのを思い出した。癪だ。
「……動いてないからだ。早く行くぞ。足場なら作れる」
レゾンは下へ踏み出した。〈幻鎧〉を活性化し、ツノと尾が生える。魔力を通した地面は、レゾンが足を伸ばすとみしみしと音を立て、階段を形作っていった。……階段は尾を打ち付けてしまって、痛くはないが少し不快だ。新たな気付きである。
「おお、上達してる」
「何これ? すごっ!」
濃霧は近づくほどに魔力の気配がした。ギラムにいた頃のレゾンなら、ギラム人を探すためにと自分に言い聞かせた上で決死の覚悟を要しただろう。今は……習慣のせいで飲み水はできれば魔力濃度が低い方がいいが……魔力潔癖は随分ましになった。それがいいことなのかは分からない。自分が持つ魔力が多すぎて麻痺している。
霧の中に入ると、早速視界が悪くなった。朝の日差しはほとんど届いていないようだ。イヴンが明かりを灯すが、視界の確保にはならない。少し離れた時の目印として考えるべきだろう。
「キュミル、霧に含まれてる魔力を凍らせてみてくれないか。俺が分かるのは気配だけなんだ。魔力の癖を見て欲しい」
「りょーかい」
キュミルはすぐに〈幻鎧〉を使って、手のひらの上に魔力を集めていく。魔力は粒子となって集まり、塊を形作っていった。光が氷の結晶になる。
「——そういえば、初めて会った時、どうして〈昇梯〉の魔力に癖がないことを知ってたんだ?」
「結晶の形と実際の魔力の関係は、エルメと一緒に確かめたからね。エルメが、本当に癖がない魔力は〈昇梯〉の魔法と大樹のだって言ってた」
「ふむ……〈昇梯〉は魔力が閉じた冀石を使って行使される魔法だからな。仮に冀石を溶かすことができれば、その魔力も『癖がない』結晶になるんだろう」
「そだね。——んー、今回のは……癖がないわけじゃないけど、いきなり魔法の影響が出るような感じでもない——かな」
「なるほど? つまり……」
キュミルが魔法を止めると、氷は魔力に還って霧散する。彼女はじとりと霧の奥を見渡した。
「この霧自体に危険性はないけど、何かはいるってこと」
「そうか。……触れるだけで有害な霧じゃないなら、最悪の状況ではない。強い魔物の気配も今のところないしな」
レゾンは足取りを落ち着けて、気を取り直す。
地図の中、濃霧地帯の西寄りには大きな円が描かれている。都市ギラムの位置を中心とした円。ここに行けば少なくとも手がかりは得られるだろう、という希望だ。
「適宜指笛を鳴らしながら進もうと思う。ギラム人なら応えてくれるはずだ」
手袋を外し、人差し指を曲げて咥えて息を吹く。しかし——鱗が唇に当たって上手く音が通らない。こんなところで支障が出るとは! 溜まりに溜まっていた苛立ちが膨れ上がる。
「フィーって。フィーって、へたくそ」
すかさずリーデが笑う。鱗のせいだと分かっているくせに。……しかしそのおかげで舌打ちのタイミングを失って、レゾンはふうと呼吸を整えて手袋を着け直した。そうだ、苛立っても仕方がない。
「しょうがないなあ、やってやるよ。人間だって分かればいいんだろ?」
「……ああ、頼む」
リーデは手袋を外すと、見慣れない形に両手を組んで、その中に息を吹き入れた。
一音が伸ばされる——それだけだったのに、レゾンは思わず目を瞠った。それは指笛というより、職人の手で作られた楽器の音と言われたほうが納得するほど美しい音色だった。
やがてリーデは単音に飽きたのか、手探りするように音程を変えると、滑らかにメロディを奏で始めた。霧の森に、四人の足音と、清い笛の音が響き渡って、消える。階層の端まで届いている気さえするほど伸びやかに。
「上手いな。……心が洗われるよ」
「ただの遊び歌だけどね」
「それでもだ」
レゾンはテミテミの観察眼を思い出しながら視線を走らせ、返ってくる音がないか耳を澄ませた。
不思議と足は軽く、視程は短いが景色がどんどん変わっていく。リーデは通った道の木にナイフで傷をつけていきつつ、新しい地形が見えると足を止め、地図に何やら書き込んだ。問うと、リーデはジグマやタスカといった地図組と一緒にいることが多いという。頼りになる子供だ。
霧の中では時間感覚も相当にぼやけた。もう昼だろうと思う時間になっても薄暗いのだ。そのうちに一行は、地図に描いた円の中へと踏み込んだ。
「よし、一度強い音を出して、返事がないかしばらく待ってみよう」
「おーけい」
リーデはメロディを吹くのにも飽きてきていたようで、今度は思いっきりピィイ——……と単音を強く鳴らした。澄んだ音が、霧の森の中を広がってゆく。
「止め」
レゾンは手を上げて合図を出し、目を閉じて耳を澄ませる。
待つ。待つ。絶対に聞き逃さない。虫の声、風の通り、枯れ草の音、その向こうに人の気配は。待つ。
「——……」
生き残りには指笛でのやり取りに慣れていない人間もいるかもしれない。だがそれは、応える人間がいれば狩人がいるという証になる。そして狩人がいなくても、何かの音で返事して助けを求めるくらいのことは、誰だってするだろう。
「……返事、ないね」
「…………」
「もうちょっと進んでみよ?」
「……ああ。逆方向に移動したのかもしれないしな」
これは気休めではない。現実的な推測だ。
*
もうしばらく進むと、霧の中に届く陽の光が薄くなってきた。リーデとキュミルは芳しくない状況と慣れない環境に元気がなくなり始めている、とレゾンは先頭から振り返らないまま理解していた。それでも日没ぎりぎりまで止まってやることはできない。二人もそれは分かっているだろう。
レゾンが再び意味もなく地図に目を落とした、その時だった。一番後ろを歩いていたイヴンが早足で距離を詰めて、肩をポンと叩いてくる。
「ん? どうした?」
イヴンは無言で、人差し指を突き出して横を指差した。つんつんと突き出すリズムが何かを訴えているようだが、エルメと同じくらい分からない。言葉とは偉大だ。
「何かあるのか」
彼はこくこく、と頷く。そしてタッタッと駆けると、何かを拾って振り返った。




