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階層紀元7世紀 流砂のテーゼ  作者: 三科享史
第三章 再会
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第45話 会いたい人の話

「下り坂だ。落ちるなよ」

「きゃー——ッ‼︎ っははー!」


 警告したのに、キュミルの笑い声が耳元で弾けた。じたばたと手足を動かして、彼女はスリルを全身で楽しんでいる。大燕でエルメの高度まで飛んだ時は無理だ無理だと騒いでいたのに、滑るのはいいらしい。


「いいねー、ノってきたね〜!」

「こら、揺れる!」

「えー、その調整のために尻尾があるんでしょ?」

「だからっていいと思わないでくれ!」

「おうい、イヴンが吐きそーだぜー」


 リーデがそう言うと、イヴンは必死に首を横に振った。だから揺れるって! とは言う余裕もなかった。

 薄い雪の地域に、蛇が滑走した黒い線が一本で引かれてゆく。どう移動したか一目瞭然だ。だが自分が動くと他の魔獣が避けるような気配があるので、問題がない。複雑ではあるが。

 いつもシィアを運んで涼しい顔をしていたエルメが羨ましかった。あれは反重力の魔法があるからだ。


「はあ……クソ、歩くよりは格段に早いが……移動の時までついてくる必要があったのか?」

「だってその方が楽しいじゃーん。ま、そろそろ今日は終わりにする?」


 キュミルが提案する。レゾンは地図を思い浮かべて、山脈の景色と見比べ、中間地点を過ぎていると判断して減速した。束陽はもう拡散していた。


「そうだな……どのみち今日中には着かない。この先の地形は険しいところも多いようだし、ここらで一晩過ごすか。明日の夜みんなと合流して、明後日から本題ってところだな」

「遠いねえ」

「陸路だからな。……遠い」


 レゾンは素直に呟いた。どこに向かえばいいか分かっているのに、届かない。そこに本当にいるかどうかも分からないのに。一分一秒が何かを分けるかもしれないのに。

 三人がレゾンの体から降りると、レゾンは思わずへなへなと座り込んでしまった。だが確かに、一人や二人で来るよりずっと気分は良いだろうと思えた。


「休憩してていいよー」

「ああ……頼む」


 イヴンはジグマが評した通りの働き者だった。天幕は見る見るうちにテキパキ組み上がっていく。レゾンはそれに甘えて空を見上げた。生き残りがいたとして、同じ空を見上げてはいないだろう。濃霧の中だ。


「ねえねえレゾンくん、都市ってどんなとこだったの?」


 キュミルが言う。レゾンは目を閉じて関連する事柄を頭の中に並べて、先入観のない客観する相手に都市について教えるのは初めてだと気付いた。


「……そうだな……」


 レゾンがこれまで暗に語ってきた都市の姿は、沈みゆく場所、滅びゆく文明、変わらなければならない社会だった。当たり前のように都市に生まれた都市人に、どうやってその像を捉え直してもらうことができるか——それが難しくて、レゾンは何度も失敗し、警告は現実になった。

 ここで同じことを言うことはできる。愚かだったと。必然の運命だったと。……だが、そうしたくはないと思った。


「階紀二世紀——“都市”再建を旗印として、シュカ族とイト族が共に旗を揚げた。この階層世界で都市文明を取り戻そうとする思想だ。このような者たちを、少人数で階層を次々と昇る判断をした開拓派に対して回帰派という。失われた文明への回帰、そして〈大浸食〉による喪失からの回帰を目指す集団という意味だ」


 レゾンは語り始めた。歴史は時々嘘を吐くが、それを読み解くことは、何より真実の形を明らかにしようとする試みだ。都市がどんなところか、という定義には相応しい。


「彼らは階層世界で逃げ惑う人々を取り込み、複数の民族を取り込んだ。大人数になるにつれ必要な冀石の量が増えて、かつ都市を建てるための猶予も必要になる。果てしない厳しい戦いの中で数々の英雄が生まれた。シュカ族のロー・ツァグラ、イト族のポラン・レッシュ、ハルマタ族のウルシャ・ハイェーンなんかは、特に武勇で知られる。——第30階層の頃には条件は揃っていた。苦難あって、実際に都市が建ったのは第33階層だったが」


 都市ルッカのことを思って、レゾンは一度口を閉ざした。悔恥がこみ上げる。……否、本当に恥ずべきかはこれから決まる。彼らがギラムを建てたように、自分はこれから次の都市への旅をするのだ。


「ギラムの社会は階紀以前にあった都市の制度を真似て作られた。元老院、執政官、そういったものだ。民族間の均衡を保つために、各族長と、民意を反映するために選挙で選ばれた者が共に政治を行っていた——詳しく話そうか?」

「ふえ?」キュミルは欠伸を噛み殺して間抜けな声を出した。「い、いや、聞いても分かんなそうだし」

「そうか。もう少し馴染みのある話をしようか——シィアの先祖であるキィル族は、開拓派ほど生き急がないが回帰派のように目的を持ってはいない気ままな流浪の集団だった。第25階層の〈大浸食〉を経験し、精神的に消耗した状態でギラムに合流したと伝わる。彼らがギラムにいたのは一、二世代の間だけだが、シィアの今の在り方からは想像もつかないくらいギラムに溶け込んでいたよ。〈大浸食〉という刻限と無数のまだ見ぬ階層を持つ階層世界の中で、ギラムは他の時空から切り離された安寧の地だったのさ。そして実際豊かだった」

「…………」

「都市ギラムは丘陵に建てられて、近くには山脈があった。地理的な安全性はもちろん考慮されていたが、何より伝説の類かと思われていたコンクリートの材料が採れたことが決定打だったそうだ。シィアは誰もコンクリートの建築を見たことはないだろう。あれは相当に美しいぞ。人間の知恵の結晶だ」


 神殿の装飾を思い出す。狩人になった後も、レゾンはしばしば神殿に通っていた。積み上げてきたものがほとんど無に帰した上に魔物の血を見る生活で気が狂いそうになる時には、あの美しさだけが癒しだった。

 キュミルはむむむと眉間に皺を寄せて、頷くことはできなかったがコトンと首を傾けた。


「なんかその……、おけおけ、そういうのが好きなのは分かったよ。よーく分かりました。じゃあその……人! 好きな人はいなかったの?」

「人か……」レゾンは少し考えて、「と言うとやっぱりトロス・ゴーデンか。我がティタ族の英雄なんだ、英雄といっても鍛冶師なんだがな。ロー・ツァグラの剣やポラン・レッシュの槍も最終的にはトロス・ゴーデンが鍛えたものだったと云われる。だが仕事に支障をきたすほどの愛妻家で、職人気質ではあるが仕事は好きじゃないという面倒な気質だったそうだ。都市ギラムが建ち始めると、トロス・ゴーデンは自分の役目を終えたとして鍛冶を辞めてしまった。彼の作った武器はほとんどが現存していない……していなかったが、一つだけ俺も見たことがある。ギラム建都の時に地面に突き立てられたシンボル、『礎剣』だ。かつては辰鈿剣と呼ばれていて、その名の通り美しい光を放つ、誰でも非常に扱いやすい剣だったという。それが礎剣として手放されたことは、もう誰しもが戦うような時代は終わったのだ、という宣言になってるわけだな。……とはいえ武器として惜しいものは惜しい、俺もあの剣が使えるなら長剣を習ってみたかった。ああそうだ、この短剣は実はミーチカ族に残っているトロス・ゴーデンの弟子筋の、先代の作でな。武を修めると決めた時からトロス・ゴーデンに縁(ゆかり)の剣を使いたいとは思っていたんだ。偶然を装って先代の妻と仲良くなって志の高さを見せたら、あとは早かった」


「…………」


「——というくらい、俺はトロス・ゴーデンが好きだ。……いや待て、言い切るにはロー・ツァグラはさすがに捨て難い——あの人は本当に格好良いからな、だが——そうだ、面白い話がある、これはギラムでも気付いている者は少なかったんだが、ロー・ツァグラの描写にはぶれがあるんだ。記述と口述の二通りの伝わり方があると大別した時、口述では全て『両手剣を使う大男』とされていてそちらが主流ではあるんだが、記述されている中には『噂と違い剣など持てそうもない痩身の男』と書かれている例がある。しかも三件で、どれも違うシーンの話なんだ。いくつか仮説を立てることができる。ロー・ツァグラは引き締まった体の小柄な戦士だった——ロー・ツァグラとされていた人物は二人いる——ロー・ツァグラの武勇は全て作り話……あり得るのはこの三つだろうな。俺は二つ目のロー・ツァグラ二人説を支持してる。というのも、外見の描写のぶれに伴って性格も違っているように見えるからだ。……だが都市でこれを口にしたことはなかったな。痩身の男という描写を全て間違いだとしてしまった方が、格好がつくし簡単だろう? そうして英雄というのはある意味偶像化されていくんだ。まあ悪いことじゃない、都市が苛烈な時代を過去のものとした証左であるし、広く浅く敬意を伝播させる手段としては理に適っている。だが俺がロー・ツァグラを好きなのは二人併せてで——」


「待って、駄目だ、この人やばい伝記マニアだ」

「都市が恋人なわけ? この人」


 キュミルとリーデが少し怯えたように身を寄せ合う。


「……マニアか。そうかもしれないな。伝記の類は、もちろん仕事にも役に立ったが、唯一趣味と言えるものだった。何度読んだか分からない」


 思えば、引用としてではなく単純に英雄が好きだという話をしたのも初めてだった。ついつい話しすぎてしまった気がする。


「はー、まあ、納得感あるよね。リュキアにキレてたのとか、蛇に飛び込んだのとか、相当キマってたし。素でこれなんだ……」

「でもさあ、キュミルが聞きたかったのはこれじゃないだろ?」

「これじゃない?」


 リーデの指摘に首を傾げる。リーデはそんなレゾンを見て呆れたように言った。


「リュキアが言ってたのはホントだわ」

「彼女は何を……?」

「『レゾンは会いたい人の話をしない』って。だから不思議だけど、本気なのは分かる……って。その通りじゃん?」

「会いたい人——」


 レゾンはふっと彼らの方を見た。天幕はすっかりでき上がっていた。イヴンは食事の用意に移っている。「入りなよ、風寒いでしょ」とキュミルが手招きした。

 天幕に入りながら、レゾンは会いたい人について考えてみた。今別れているシィアのみんな。会いたい。ギラムの街の人たち。会いたい。政治家たちにも、狩人にも、会いたい。どれも間違っていない。話そうと思えばいくらでも話せたことだ。——だが、話さなかった? なるほど確かにそうかもしれない。


「多すぎるんだろう。ギラム人は五千人だ。霧の中に誰がいたって俺は嬉しい」

「でもさ、『誰がいて欲しい』はあるでしょ?」


 思わず眉を顰める。そりゃあ、次世代を産めて育てられる若いのがいて欲しいが。


「不謹慎だ」

「えー、そんなことないでしょ! 仲良い子が生き残ってて欲しいのは当然だし。あたしだって、よく分かんないオジサンオバサンよりレゾンくんの友達が生き残ってた方が嬉しいよ?」

「自分も」

「——……」


 五千人の誰一人知らないのに、そう言うか。レゾンの思考回路では考えられないことだったが、それがあまりに素直だったので、レゾンは毒気を抜かれてしまった。


「友達いたんでしょ? どんな人だったの?」


 そして、気付いた。損得や政略を抜きにした関係値があったのは、純粋に狩りを楽しんでくれていたイグロスだけだった。家族、友人、そういったものを贔屓する余裕はレゾンにはなかった。五千人を抱える覚悟だったから。

 以前の自分なら、「会いたいのは『未来の』ギラム人だ」と恥ずかしげもなく答えただろう。だがレゾンは、イグロスのことを語った。


「——あの男の死体はこの目で見た。……生きていたら、今の俺の姿を見て笑ってくれただろうが。いやどうだろう、あの男の考えることは俺にはもう分からないんだ。案外本気で気持ち悪がるかもしれないな。……」


 キュミルとリーデは目を見合わせ、イヴンは両手に乾し肉を持っておろおろとした。レゾンはイヴンから肉を受け取って「ありがとう」と伝えつつ、もう一度座る。


「……気まずく思わなくていい、ただの悪友だ。俺は都市人全員を愛してる、別にあんたたちに理解されようとは思わない。——それに、個人的な付き合いという意味なら、今はシィアがいるだろ?」


 レゾンは少し照れ臭く思いながらそう言った。シィアに対しては、印象や思想のことは放り出して本心で付き合う——そうしているつもりだ。

 キュミルはレゾンに横から抱きついて、「よしよしよし」と口に出しながら頭を摩すった。くすぐったくて思わず吹き出す。妹には抱きつかれたことがあるが、頭を撫でられたことは父親にもなかった。


「都市の人に気持ち悪いとか言われたら、あたしが殴ってあげるからね!」

「それはやめてくれ、本当に……」

「いや、それは殴るでしょ」

「リーデまで」


 物騒だが、悪い気はしなかった。レゾンは肩の力を抜いて、その心地よさに任せるまま夜を過ごした。

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