第38話 [大地を泳ぐ蛇]-③
戦況は膠着状態に陥りかけていた。だが一つ明確なことがあった。そろそろ幻鎧士の魔力が尽きて、純粋な魔獣同士の戦いへと移行するであろうということだ。そしてそうなれば——どちらが勝つか分からない。
ただし、決着がつかないまま蛇が逃げ切る可能性が非常に高い。エルメには引力に逆らって空を飛び続けているという大きなハンディキャップがある。戦闘が長引けば必ず影響が出てくる。
エルメの危惧することが何なのかも分からず、レゾンは平静を装いながら黙って考え込んでいた。キュミルのレゾンを見る視線には少し懐かしくも感じる警戒が混じっていた。まあ今現在の心理的なことはどうでもいい。問題はエルメとリュキアであり、二人を救いたいのはシィアも同じだ。
「何か……何かないか……決定打は……。あるいは、リュキアを説得する何か……」
ブツブツと呟きながら、空っぽの手が短剣に触れる。ただ、レゾンは強敵と戦うのが好きだが、もちろん自分の命を手放したくはない。敵わないと分かっている敵に挑み敗北することなど尚更だ。[大地を泳ぐ蛇]には勝てない。……苛立ちだけが募る。
「……駄目だ! そろそろ新しい枝は出せねえぞ。散開しろ散開! 被弾を分散しろ!」
「もうやってるよ!」
「オレの魔力、どうせ届かねーならキュミルに預ける! 全部使ってくれ!」
「まっ……かせて……!」
ジグマ、キュミルの負担が大きい。駝鳥の羽根も残り少ない。イレーナももう高頻度で叩き込むことはできない。バルターとレゾンにできることはキュミルの魔法への魔力提供程度だ。……それでもないよりマシか。
「レゾンくんも! キミの魔力、あたしに貸して!」
「——ああ」
悔しい。力がないのが悔しい。いや。力などなくても本当は、人を前向きにすることくらいは誰にでもできるはずだ。そうすればたくさんの意志が束になって、自然と新たな力が生まれるはずだ。それがどうして……こんなに難しい。
いや、諦めるな。まだ終わっていない。レゾンは己を律して、キュミルの手を取った。ひんやりと冷気を感じる。
「血を出して。少しでいいよ、そこから繋がるから」
「……こうか」手の甲に、短剣で浅く傷をつける。
「うん」
わざと血と指を絡ませるようにして手を繋ぐ。キュミルの翅がもう一段階輝きを増す。首筋の血管が強く光って透けている。
「——あ、あ、あ、あ——っ」
呻くような雄叫び。小さな身体に宿した神秘の力を御する奇跡。
「……!」
「うっ……、重い! でも——」
全身の血管に細い紐を通されたような不快感……。外に意識を向ける余裕がない。これが敵前でなければ片膝をつきそうだ。
「やっちまえ……キュミル!」
「っやああああ——ッ‼︎」
キュミルが吠える。
今までで一番、鋭くて重い、氷の鉄槌。
体内の魔力が吸い取られる感覚に、レゾンは意識が飛ばないようにするのに必死だったが、他のシィアの目には映っていた。氷が——確かに、蛇の首を圧し潰したのを!
そして、その後に起きた異変も。
「っ——何だ?」
歓声は上がらなかった。
「…………」
キュミルがふら、と倒れて両手をつく。バルターが「キュミルっ」と呼んで急いで抱えて下がる。レゾンは荒い息をしながら、辛うじて立っている。
「く……、どうなった?」
レゾンは瞬きをして、肉眼で荊豆樹の奥に焦点を合わせようとしたが、魔力だけの光と闇の世界から切り替わらなかった。荊豆樹の枝に手をつくと、その魔法で魔力が奪われ手の感覚が死んだように感じて、慌てて離れる。
「……?」
レゾンは怪訝に己の手の甲を見た。血が流れている。その血が滴り落ちるたびに——地面に、魔力の波紋が広がっているのが光って見える。その規模は——とてもレゾン個人の魔力量のそれではない。
「え?」
ドクン、と動悸がする。瞬間、レゾンは世界の全ての手触りを知ったような感覚に陥った。それは一人の人間に根源的な恐怖を催した。叫んだが、その時、レゾンには声帯がなかった。代わりに——世界が振動する。波は二度、三度と強く震えて、円形に広がる障害物をついに決壊させた。
「がッ……」
レゾンは内臓が破裂したかのような苦痛に喘ぎながら、ようやく色が戻った世界で崩れ落ちた。
「…………」
「おい」
ぐい、と襟ぐりを掴んで顔を起こされる。
すると見えたのは、見るも無惨に——外側から内側への力で——決壊した荊豆樹の檻と。その奥、水に濡れて色の濃ゆくなった砂、そして。
その上で一度死んで生き返ったかのように活発に動き回る、[大地を泳ぐ蛇]の姿だった。
「おい——『レゾン』。なんとか言ったらどうだ」
ジグマが低い声で唸っている。レゾンの視線は彼女に奪われていた——“海”。
「あれは……蛇であって、蛇じゃない。“海”だ」
「そんなもんは見れば分かる。あれが海神の使者、海神に操られた魔獣か。——君が呼んだのか」
「まさか……」
ジグマの侮辱的な発言に、吐き捨てて答える。まさか。レゾンはエルメのための戦いに本気だ。エルメ本人よりも。
「今、“海”は……俺を、見てない」
「ああ、エルメを見てる。そうだな。何する気だ」
「分からない……。……やめろ……今すぐ世界の裏側へ帰れ、バケモノめ——」
レゾンの叫びは力なく、“海”には届かなかった。
レゾンは恐怖で動けなくなったことがなかった。むしろその逆だ。だが今は、恐怖を感じても動くことができなかった。今、“海”の気まぐれで、エルメどころかシィア全員の命が刈り取られるかもしれない——それを思うと恐ろしいのに、“海”の接触の絶対性を知ってしまっている。
「撤退——」
キュミルが辛うじて、掠れた息を漏らしてそう言った。それを誰かが拡散した。「撤退!」
ジグマはレゾンの襟ぐりを掴んだ手を離して彼らと共に去った。レゾンは肘から先を地面について踏ん張りながら、“海”よ、シィアには何もするな、と繰り返し唱えた。それが逆効果でないことを祈りながら。
彼女は頷いた、ような気がした。レゾンの願望かもしれない。
ただ一つ確かなのは——レゾンの血が呼び水になった、ということだった。
「エルメ」
レゾンは声を呑んだ。リュキアはこう言っていたんじゃなかったか。エルメはしばしば“海”の使者に襲われている。
壊れた檻越しに、蛇と目が合った。
——さあ……やつを殺そう。
「は?」
理解には時間を要した。彼女は、蛇のことを言っているのではなかった。
——わが命を聞かない愚作だが……、君の糧には、なる……。
——君には、翼が似合う。
「……ふざけるな……、エルメは、他の魔獣とは違う」
——君が正しい——あの鳥は、間違っている。わが創造物は、命を持たない。
——君は正しい。わが仔らを、下し……、——進みなさい。
「——……」
——命を持たないものは、昇らない。私に、従わぬのなら……いい機会だ……。
——君のために……、今ここで——。
「クソが」
レゾンは砂を殴った。拳は爪が食い込むほど固く握られていた。
この戦いは、エルメの〈昇梯〉のための冀石が「足りていない」、ということを前提としていた。それを今、直々に“海”に否定された。問題は冀石の量ではないのだと。
頭を切り替えろ。今考えるべきなのは“海”にエルメを殺させないことと、リュキアのことだ。リュキアだけでも〈昇梯〉させないと……。
「“海”よ……俺は——」
次の瞬間。ザパン、と波が荒れ狂うようにして、砂の塊が跳ねた。
「っ‼︎」
その太さは、捨て身の攻撃の土台にされたあの塔の比ではなかった。そしてそれは、跳ね上がった勢いのまま拡散し、空を覆う巨大な壁となる。陽光が遮られ、砂漠に突如、大きな影が生まれる。
「待て、待て、待て——」
シィアたちが慌てる。信じがたいことに、その壁の高さは今エルメの飛んでいる高度をゆうに超えていた。それが倒れ込めば——シィアも巻き添えになる!
「やめろ‼︎」
レゾンは叫んだが、“海”はレゾンに一方的な期待を向けるだけで、レゾンの意思を尊重しない。ギラムを呑んだ時もそうだった。
世界から音が消えた。レゾンは固まったシィアの前に駆けつけて、両腕を広げた。シィアを傷つければ俺も死ぬぞ、という精一杯の威嚇だった。だが意味などなかった。
——膨大な量の砂が降り注ぎ、皆を攫った。その直前、姿勢を崩したエルメの姿が見えた。
シィアの立ち位置に到達した砂は魔法を纏ってはいなかったが、十分に重く、全身に重たい痛みが叩きつけられる。レゾンは必死に素肌を隠した。
砂が降り止んでから、レゾンはもがいて這い出ようとして、砂の重みで腕がほとんど動かないことに恐怖した。どうする、“海”は助けてくれるのか、いや助けてもらおうなんて考えるな、どうすれば——。
パニックになりそうになった時、砂が流れる感触があった。——砂が何かに掻き分けられている。薄くなったところから顔を出して見ると、それは荊豆樹の枝だった。
「っは——、ジグマ」
[絡め取る荊豆樹]の幻鎧士、ジグマは這い蹲りながらもなんとか意識を持っていたが、血管を透かす魔力の光が消えるのと同時に、力尽きてふらりと伏した。二度目はない。
シィアは端からペアを作って数を報告しながら、まだ埋まっている仲間を引っ張り出した。手慣れている。レゾンの出る幕はない。
レゾンはエルメを見た。エルメは、地に落とされていた。
——さあ……。
声が聞こえる。神鳥を殺せという声が。
応えている。魔獣を殺し生き抜こうとする本能が。
理解している。神鳥は何も生さずに死にゆく存在であると。




