第35話 運命は微笑んだ
どぷん、と砂が一個の塊のようにまとまって波打つ。魔力の波動が肌を撫ぜたが、鳥肌ならもう立ちきっていた。
追い込みは七日間に亘って行われた——こちらの手の内を見せないために、はじめはエルメの最低限の魔法だけで少しずつ刺激する方法をとったが、それが[大地を泳ぐ蛇]にとって些細過ぎれば奴は動かない。二日目からは強めに刺激して挑発し、こちらを追わせて誘導するという、おおよそ追い込みとは呼べない方法に変わった。
ジグマたちが作った地図はオアシスの位置と地形を正確に記録していた。レゾンはその簡易的な写しに地下水のあると思われる範囲を塗って記し、その結果、作戦開始時点で[大地を泳ぐ蛇]のいた位置より北東の[導灯の大樹]に近い地域が良いだろうということになった。[導灯の大樹]に近い地点に水が多いわけではない——というのは地上の話であって、地下水は豊富にあるのかもしれなかった。ただし魔力濃度は高いので、飲料水としては遠慮願いたい。
「ふう、やっといい感じのところまで連れて来れたわね。ここまで来れば、みんなを迎えに行って戻ってきても大丈夫そうかしら」
エルメの上で風を受けながら、イレーナが横髪を耳にかける。眼下には、大魔獣[大地を泳ぐ蛇]がサイドワインディングで移動した跡の波打つような模樣が続いていた。
砂からは[大地を泳ぐ蛇]の丸い眼とその上に突き立つ一対のツノだけが覗いていた。レゾンにはその後に続く、とんでもない魔力量を秘めた細長い体躯の形がはっきりと感知できた。あの愛嬌すらある顔の中に獰猛な牙が隠れているということにも慣れた。奴の周りの砂がどぷりと粘性のある海のように動くことにも……。
「そういえば、“海”は何か言ってる?」
キュミルに訊かれて、レゾンは首を横に振った。
「彼女がうるさいのは、俺が彼女にとって望ましくない動きをしてる時だけなのかもしれない。第33階層の頃は俺が〈昇梯〉しないことが彼女にとって不都合だったようだから、毎日うるさかったんだが……、今はどうやら良い動きをしてるみたいだからな」
「げー。それはそれでキモい」
「寝苦しさがましなのは助かる。蛇との戦いには万全の体調で臨みたいからな」
「ましなの? 魘され方だと違い分からないけど」
「そ、……そうなのか」
体感としては精神的な負荷がかなり減ったのだが、やはり水の中にいる苦しさは変わらないということか……(じゃあ“海”に憑かれていない人々はどんな幸せな眠りの時間を経験しているというんだ)?
「——“海”はきっと、あなたが強くなるのが嬉しいのね」リュキアが言う。
「と、いうと?」
「“海”の子である魔物が強さを求めるのが“海”のためだとすれば、“海”がああなたにも強さを求めていると考えるのは筋が通ってる。だとしても、人間に期待することではないような気がするけれど」
「……そうだな。強さなら、エルメの方がよほど上だ」
「でも、非魔法生物にわざわざ期待するほどの何かが、本当にあるのだとすれば——執着するのも納得ね」
「————」
リュキアの緑青の目は他意なく、ただレゾンの異常性のシルエットを見透かそうとしていた。
“海”の寵愛を除けば、自分は特別な人間ではない。疑いようもないと、レゾンはそう思っている。たまたま誰よりも人類を愛していて、たまたま護衛術を身に着けた、少し政治に気概のある青年……それはいくら同じ人間に賞賛されたところで、決して人間の域を出ないのだから。
「まあ、分からないうちは何だって変わらないさ。“海”が俺に力を許すなら、利用してやるまでだ」
「いいねいいね」キュミルは満足気にうんうんと頷く。「蛇を狩って、“海”なんて脅かしてやろうじゃん」
「——っはは。最高だな、それ」
レゾンは少し吹き出した。……〈大浸食〉を目にした時は、まさかこんな風に笑えるとは思ってもみなかった。もちろん課題は山積みだが——シィアと一緒に戦うのは楽しい。その事実を否定する意義はないだろう。
エルメは第34階層の空を南下。レゾンは目を閉じて、己の中にいる大燕と共に穏やかに風を切る感覚に身を委ねる。
「いよいよ始まるんだな——」
*
その夜もレゾンは“海”の夢を見た。魚たちはそわそわしていて、獲物を追い立てる時のように猛スピードで泳いでいた。彼女たちに乱された水の流れがレゾンの意識を揉み、レゾンは“海”の渦の力に振り回されているのかその一部となったのか分からなくなった。
レゾンは自分がこれまでの夜よりも深い場所にいることに気付いた。“海”が黒いのはこれが原因だった。水面から遠くて……なかなか浮上できない。もがこうとする。もがけない。苦しい、苦しい、苦しい!
首の辺りに左右から触れられたような気がした。“海”の夢の中に肉体はないから、それは錯覚だった。
目の前に人魚がいた。顔は暗くてよく見えないが、笑っていることは分かった。
——戦い、に行く……のね。
——祝福が、欲しい……?
いらない。お前の祝福なんて必要ない。レゾンは強く天空神を想った。すると人魚は——“海”は縦に大きく口を開けて、クスクスと可憐な声で笑い転げた。それがしばらく続いた。体を内側からさするようなその声に気が狂いそうになった時、ようやく彼女は笑い声を止めて、レゾンを抱えるようにしてぐるりと海水の中を回った。
——そう、君には……必要ない。
——君には……祝福よりも確かなものが、あるのだから……。
どういうことだ? と問う言葉は声にならない。
泡が昇っていく。それは見えないほど遠くに行ってしまって、そして初めて——水面に浮上しないまま、ハッと突然目が覚めた。
「——!! ……ッ、っう……」
まず嘔気。何も出ない。開ききった喉が虚しく空気を食んで、それから、いつもの咳が始まった。いや、いつもより酷い。吸う空気も液体のような気がして、体が内臓をひっくり返したがっている。
「ゲホッ、——ッ、っ、っ、」
大丈夫、大丈夫、大丈夫だ。冷静になれ。咳をしているということは肉体があるということで、肉体があるということはここは現実で、現実ということは水の中ではなくて、水の中ではないということは問題なく呼吸することができるのだ。
「っ——ハ——ッ、ゴホッ、……っふう、……、——」
息が整ってからゆっくりと上体を起こし、回復しない視界の中でシィアの水袋を手繰り寄せる。
……酷かったな、とぼやきながら、頭を振って“海”の気配を追い出す。ここ数日の寝溜めがなければかなりしんどかっただろう。“海”はいい加減、睡眠妨害がレゾンの足を引っ張っていることを自覚して欲しい。
「なんか、やばそう?」
「っ!」
声をかけられて、レゾンは天幕の入口のところに振り向いた。数人のシィアが中を覗き込んでいた。一番下はキュミル。
「……今日の“海”は饒舌だった。だが、第33階層の〈大浸食〉の示唆みたいな悪いことは言われなかった。まあ……、それが奇妙なんだがな」
「単純に敵だったら簡単なんだけどね」
「間違いない」レゾンは頷いて、即座に立ち上がった。「——すぐ支度する。ごめん、俺の寝起きが悪いから待たせたな」
「丁度いいよん」
「それならよかった」
布が降りる。レゾンはシィアの服に着替えて、短剣を腰にかけた。この装備にも慣れてきた。




