第30話 見下ろす景色
「いやいや、リュキアはエルメと一緒にいろって〜! ほーら、エルメも拗ねてる」
「違う、エルメはみんなが言葉を理解してくれないから怒ってるの」
朝、蛇討伐についての検討もそこそこに、シィアはエルメの鳴き声の解釈について論争していた。レゾンは肌に馴染んできた砂漠の風を感じながら、彼らの会話に耳を傾けていた。
「じゃ、結局一緒にいねーと困るじゃんか。しかも今のバルター以外の幻鎧士ってイレーナとキュミルとあいつだぜ? エルメのストレスMAXだって」
「失礼ね。私が何かエルメに嫌なことしたことある?」
クルルル、と短い鳴き声。
「……『魔力が眩しい』って」
「それは蟷螂のせいじゃないの」
「エルメの視界を邪魔しなかったらいいだけ」
「あたしは? あたしは魔力を収束させる方だからいいよね?」
再び鳴き声。クルル、クルル。
「『不自然、邪魔』」
「え、エルメ……!?」
キュミルはガーン、とショックを受けて、シィアたちは声を上げて笑った。……しかし本当にリュキアはエルメの言葉を解すし、エルメもまた人間の言葉を解するらしい。驚くべきことである。
エルメは揶揄っただけのようで、機嫌を取るようにイレーナとキュミルの髪を嘴で梳くようにした。あながち拗ねているというのは間違っていないのかもしれない、とレゾンは思った。リュキアに一緒に来て欲しいからそんなことをしているのだとしたら、かなりのお茶目度合いである。
「実際、エルメとのコミュニケーションはきみがいないと適当になっちゃうよ」とトウェンは苦笑い。「森で見放されたら洒落にならない。一緒に来て欲しいな」
「……エルメはそんなことしない。でも……そこまで言うなら、分かった」
リュキアはしぶしぶ受け入れた。これで隊の分け方は決まった。森へ行くのはキュミルとイレーナ、魔力適性のある幻鎧士予備軍(トウェンたち空白期間中の元幻鎧士を含む)と、リュキアとエルメ、そしてレゾン。
なんとなく分かれていく中で、ジグマは中間地点くらいにいた。レゾンには、ソデルの根を常時噛んでいるこの男に魔力適性がないわけはないと分かっていた。そういえば戦いが嫌いと言っていたか……。
「レゾン君、今回はきみの力も頼ることになるかもしれない。体調はどう?」
「トウェンさん——大丈夫そうだ。〈幻鎧〉もばっちり。それより、偵察の方は幻鎧士がバルターさんだけで大丈夫なのか?」
「うん、朝のうちにエルメが同盟の子たちに声をかけてくれたみたいだ。何かあればみんな空から離脱できる」
「それは心強い。……そういえば、その同盟のことが気になってたんだ」レゾンはふと気になって訊ねた。「エルメのことは分かった。だがその同盟の鳥たちはどういう存在なんだ? みんな〈昇梯〉を望んでるのか」
「いや、そういうわけじゃない。単に同族意識じゃないかな。エルメと話すと、他の魔物も影響されて、自我があるような振る舞いをするようになることが多いんだ」
「なるほど。“海”の支配から同族を遠ざけてるんだな」
「でもそれは、魔獣としての単純な野性を失うことでもある。その代わりにお互いに助け合うんだ」
「だから『同盟』か」
「そういうこと」
エルメには感心させられてばかりだ。……それに比べて自分が至らず滅ぼしたものの大きさに、レゾンは何も言えなくなった。しかし嘆いてばかりではいられない。彼女がその二の舞にならないようにしなければ。
「トウェンさーん、ジグくん、レゾンくん、はやくー!」
キュミルは早くもエルメの背に転がっていた。レゾンはトウェンの後についてエルメに近づいた。彼女はシィアを背に乗せて澄ました顔をしていたが、レゾンが近づくとレゾンをばっちり目を合わせた。
レゾンは立ち止まり、ギラム式の礼をする。
「我々の旅が続かんことを。よろしく、レディ・エルメ」
彼女は何も言わなかった。それが今彼女にできる最大限の譲歩なのだろう。十分だ。
「失礼するよ」
レゾンはそっとエルメの羽毛に触れた。……あたたかい。魔獣の体にこんなに優しく触れる時が来るとは思ってもみなかった。あたたかくて、ふわふわで気持ちいい。
「ほら、手」
キュミルが手を差し出してくれる。華奢な彼女に自分の体重を預けて大丈夫か、という懸念もあったがシィアという存在への信頼からそれを掴むと、ふわっと体が浮き上がる感じがする。
「!」
エルメの魔法か。レゾンはもふっと彼女の背に降ろされて、言いようのない幸福感を覚えた。それは尊敬する相手から一旦の信頼を勝ち得たという政治的快感であった。
「じゃあまた後でねー」
地上に残る偵察組とぶんぶん手を振り合う。レゾンも控えめに手を挙げた。エルメが立ち上がる。それだけでぐん、と慣れない高度まで持ち上げられて、見晴らしが良くなる。
「——……」
エルメが翼を広げる。そして、飛び立つ——レゾンは思わず少し身を低くしたが、その必要はなかった。エルメの魔法が乗客を包み込むように引き寄せていた。
「力を抜いて」とリュキア。「エルメの魔法は反重力の糸。安定して飛んでいる限り、どんなことをしたって落ちたりしないわ。——ほら」
彼女はそう言って、高度を上げていくエルメの背で迷いなく立ち上がってみせた。午前中の柔らかい拡散光が、その金髪をキラキラと彩った。
レゾンは言われた通り力を抜いてみて、改めて辺りを見渡した。
「——……」
砂煙を見下ろす空は晴れやかで、階層の遥か遠くまでを見通せる。砂漠の終わりも、森林も、一定間隔で生える複数の[導灯の大樹]も。レゾンは、こんなに大きな視界を、自分の目で持ったことはなかった。
「気分がいいでしょう。おれ達も、エルメと一緒に空を飛ぶのは大好きなんだ」
「……ああ」
「どうかな。そろそろこの階層の空気には慣れた?」
「慣れた……と言うのは烏滸がましいだろう。シィアに世話になりっぱなしだ」
「おれとしては、シィアにとってもいい出会いだったと思ってるよ」
「あんたには頭が上がらないな、本当に」
それから目的地に向かうまで、シィアはこの時間を味わうように黙った。レゾンは、都市ギラムがあった場所からの距離について考えた。しばらくすると、眼下は緑に覆われた。「もうすぐよ」とリュキアがみんなに言う。速い。人間の足とは比べ物にならない。
「——。レゾン君。……帰りたい?」
トウェンがふと、優しい声で言った。レゾンはハッとして彼の顔を見た。
帰りたいか。ギラムはもうない。それを分かった上で彼は訊いている。レゾンは答えに迷った。帰ることができない、と答えるのは簡単だった。だが——。帰りたいか……。
「……。なんて言えばいいんだろうな……」
彼らはもういない。彼らは愚かだった。だが……愚かな彼らが生きてゆける社会を作れなかったのは自分だ。
「やり直したいか、と問われれば、やり直したい。でも今は……何かもっと良いもののヒントを、シィアにもらっているような気がしてる。だからこれからのことを考えたい」
「立派だね。きみは」
「そんなんじゃない」レゾンは自嘲的に笑った。
「きみがいた都市の話が聞きたいな。海神や〈大浸食〉のことばかり話していたけども、それ以外のことも興味がある。きみは何をしていたの?」
「ああ——」
レゾンは噛みしめるように、故郷の姿を思い浮かべた。石畳の路地。統一された様式の家々。円形劇場。議事堂。神殿。礎剣。人々、食べ物、音楽……。
「都市ギラムは、あんたたちシィアみたいに全員が全部をやる共同体じゃない。例えば俺は狩人として魔獣を狩って、冀石を納品した報酬で寝食を賄って生活していた時期もあるし、その前は……。族長の補佐として政治の一端を担っていた」
「政治?」
トウェンはその言葉を、馴染みなさそうに舌の上で転がした。政治という概念はいかにもシィアから遠い。
「俺がやっていたことと言ったら、結局海神や〈大浸食〉のことに帰結することになる……。全ては早期〈昇梯〉、積極的〈昇梯〉のためだった。結果は失敗に終わったが」
「大変なんだね、都市っていうのは」
いいや、都市自体は偉大だった。老耄どもへの悪態が口を衝きそうになって、飲み込む。欺瞞でできたレゾンの精神構造は、シィアという共同体には嫌悪感を与えるだろう。……政治の世界ではああするしかなかった。説明して分かってもらおうとすれば反感を買うことをいかに通すか——そのためには、意識の無警戒の部分からそっと人の価値観に絡みつき、他の条件を確認させる前に「それしかない」と思わせるしかない。
レゾンの目には改めて、シィアの在り方が眩しく映った。否。シィアは少人数すぎる。レゾンの理想は、ギラムの大きさと、シィアの自由な向上心、その両立だ。
だがシィアは既に完成されており、在り方を変えるべきではない。他に人が必要だ。男と女、戦う者と未来を作る子供。レゾンに再挑戦の機会はやって来るのだろうか。……いや、信じるしかない。重要なのは、同じ轍を踏まないことだ。




