第28話 同志の帰還
——光を纏って見えるそれは白い鳥だった。広げられた翼は風を見事にとらえており、一度も羽ばたかない。
「エルメだ!」
誰かが叫んだ。シィアはわっと歓声を上げて、飛ぶその魔獣に、ここだぞとばかりに大きく両腕を振った。レゾンはしばらくぽかんとしていたが、徐々に理解が及んで肩の力を抜いた。どうやらレゾンは、神鳥との同盟の話を、知識として頭には入れていても何も実感はできていなかったらしい。
彼女はシィアの一部で、シィアは彼女の一部なのだ。
「……そうか、それなら、安心だな」
「レゾンくんのこと上手く説明してあげなきゃいけないね」
「よろしく頼む」
全ての魔力は“海”からの引力の影響を受ける。地竜は基本的に鈍いし、飛竜は機動力のために大量の魔力を犠牲にした。では、第34階層の魔鳥の同盟主は、いったいどんな姿なのか——。
「……——」
滑空して来るその姿に目を凝らす。到着までは思ったよりも時間がかかるようで、かからなかった。それは彼女の翼が長大だからであり、また、その速度が凄まじく速いからだった。
神鳥は美しい、白い鳥だった……細い首にしなやかな体、豊かに生え揃った羽根は陰影さえも透き通るよう。貴族の女性の装飾を思わせる上品な冠羽と体の末端にだけは黒い色を持つが、それは彼女の持つ清廉さを損なわない。その、繊細な美を持つ鳥が人間よりも遥かに大きい背丈を持つことは、世界に人間の手の届かない神聖な領域があることを感じさせた。シィア以外の人間が神鳥と呼んだのも無理はない。
「……彼女が」
そして羽音と風圧を伴って迫り来るエルメの、背に、彼女はいた。
リュキア。最後のシィア。遠目にはその飾らない格好と、長く無造作に風に靡く金髪だけが捉えられた。その髪は若い人間の女のものでありながら、野性のままに振る舞う鬣のようだ。彼女は高速で飛翔する神鳥の背に跨っていた。
「おかえり、リュキア、エルメ——」
シィアが歓迎の声を上げる。エルメは高度を下げるが、翼の角度を変えず、速度を下げない。
するとさすがにシィアたちも、「え、え、ちょっと」と狼狽え始める。レゾンは確信した。彼女たちは確かに、シィアの味方だ。危害を加えない。だが——レゾンに対しては違う。
シィアたちが左右に割れる中、レゾンはその場で足を踏ん張った。エルメの嘴が目前に迫る。
「危ない!」
「——っ!!」
彼女はレゾンの目の前で急ブレーキをかけて止まった。爆風。一瞬体が浮き、レゾンは踏鞴を踏む。
「……初めまして、レディ」
趾が振り下ろされる。クルルルルルルルル! と小刻みな鳴き声。この至近距離でなく、また威嚇の仕草と共にでなければ、風貌に似合った上品かつ可憐な声だと思ったことだろうが、残念ながら今は圧の方が強い。レディを愛でることは許されないらしい。当然だが、彼女は言葉を話せないようだ。助けを求めてリュキアを見るが、彼女はどうやらまだ彼女の背から降りてもいない。きっとレゾンの味方をするつもりはないのだろう。
威嚇される原因は何だ? 両手を上げながらレゾンは考える。同盟の鳥を死なせてしまったことか。もしかしたら、彼女にはレゾンの体の中を流れる大燕の血が見えているのかもしれない……あり得る。
「リュキア、エルメ! こいつはたまたま合流した面白い奴でな……」
「——面白い? そう……」リュキアが初めて喋る。無感動で口の動きの少ない、呟きのような静かな声。「確かにそうかもね。でも今回は止めさせてもらう。敵なら待ってあげてもいい。でもエルメは——彼を『悪』だと言ってるの」
「——ぐッ」
リュキアがそう言った途端、レゾンはまるで全身に無数の糸が貼り付けられ、それを真下へ引かれたかのようにガクッと全身から崩れ落ちた。身動きが取れない。手をついて耐えようとするが厳しく、すぐに肘をついてしまう。いや、それでもかなり耐えた方だった。気を抜けば今にも地面にへばりついて無様を晒すところだ。
エルメの魔法か?しかし血液が光れば一番に透けそうな趾の様子は変わりないように見える。まさか、レゾンの魔力感知強化よりもさらに些細な魔法だとでも言うのか?
これが——第34階層の環境を変えた張本人……同盟の主、海神への反逆者の力。
「……っ随分なご挨拶だな。自己紹介の時間もなしか」
「自己紹介? あなたのことは分かってる」
「へえ……? じゃあ、俺の名前は?」
「あなたに名前なんて必要がない」
「どういう意味だ?」
「あなたは——“ 海” の使者だから」
「!! それは、ッ——」
なるほどエルメはレゾンをそう認識していて、リュキアはそれを信じている。だが反論する間もなく、神鳥が嘴を下向ける。このままじゃ、殺される——。
それだけはだめだ。
レゾンは叫んだ。
「——〈幻鎧〉[風を切る大燕]!!」
エルメが次に動く直前に、世界がストライプになる。これは大燕の視界だ。レゾンは命の危機に再び瀕して、急激に、大燕の意識を奪うのではなく同調することに成功したのだった。俺には見える——そう自分に言い聞かせる。
旋回。砂煙、左右に割れたシィアたち、その中央にエルメ。レゾン自身の理解を、うねるような映像と照合していく。見える。そして大燕は上昇した体を翻す。
これは戦いじゃない。シィアは大丈夫だ。自分自身の安全さえ守ることができればいい。レゾンは自身の位置を描いた軌道上に想像する。
「っ」
パッとエルメから大きく距離を取った位置にレゾンは出現したが、エルメの牽制ばりに捻り潰されるような感覚と共に、体が停止せずにそのまま吹っ飛ぶ。忘れてはならない、これは瞬間移動ではなく高速移動なのだ。咄嗟に転がって受け身を取る。
「……説得する時間までは稼げないか!」
立った砂埃の向こうで、エルメが怒りを露わにする。レゾンは魔力視を発動。目が潰れそうなほどの魔力の光を秘めたエルメの体から、魔力は霧のように立ち上る。レゾンの頭上まで広がったそれが凹むように動くのに反応して、レゾンはまた高速移動を繰り返す。
二度、三度と〈幻鎧〉を使ううちに、コツが掴めてくる。まず大燕の意識で移動したいルートを飛ぶ。直感的に扱うには直線移動に絞るのが正解だ。距離感は要練習。高速移動の後は、吹っ飛ばされると分かっていれば受け身を取るか滑りながら踏ん張ることができる。
「はあっ、……ッ!」
息つく間もない。なるべくシィアは巻き込まないようにしながら、レゾンとエルメの鬼ごっこは続く。逃げ回っているだけではあるが、これはレゾン自身の「魔法」によって魔力への感度でぎりぎり上回っているからこその偉業だった。それを切らせば終わりだ。レゾンは神経を研ぎ澄ます。
エルメが舞い上がる。問題はどうやってこの鬼ごっこを終わらせるかだ。エルメはレゾンを殺す気だが、レゾンは彼女達を傷つけられない。追いつかれればゲームオーバー。だがこちらが追いついても隙を晒すだけだ。いっそシィアに紛れて盾になってもらうか? エルメも誤って彼らを攻撃したりはしないだろう。いや、信頼を損ねたくはない。なら……。
「…………」
エルメを中心とした円をなぞるような軌道で〈幻鎧〉を使いながら、横目で狙いを定める。そう、狙うのは——その背の上。
大燕への同調を高める。レゾンはそして螺旋状に空を駆け上がった。
「ふっ——」
一気に飛ぶエルメの背後をとる。ハッとして振り返ったリュキアと目が合う。レゾンはそのまま宙で手を伸ばし、エルメの背にとりつくと、即座にリュキアと距離を詰めた。
「!!」
もちろん剣は抜いていない。振り抜かれたリュキアの拳を、手首を掴んで受け流して止める。見開かれた目は深く鮮やかな緑青の色。左の拳を、首を傾けて躱す。足を動かせないように乗り掛かって抑え込む。リュキアの動きも俊敏だが、こればかりは男女の体格差である。
「俺を、海神の使者と言ったか」
そう問い詰めると、彼女は斜めに顎を上げて流し目でレゾンを睨んだ。軽い金髪が波打つ。エルメが叫んで身悶えるように飛ぶが、二人の体勢は安定したまま動かない。リュキアを背に安定させるために魔法が作用していると思われた。
「すごい、まるで人間みたいに喋るのね」
「人間だからな。“海”の使者っていうのは、乗っ取られた魔物のことだろ。俺はそうじゃない」
「それには、私とエルメも会ったことがある」
「本当か? 何を言われた」
「エルメならともかく、他の魔獣の言ってることなんて分かるわけがないでしょう」
リュキアは“ 海” の使者の存在を知っているものの、“ 海” の声を聞いたことはないようだ。聞いたことがあるとして、エルメだろう。だがエルメは人間の言葉を話せない。リュキアに通訳させたとして、情報を共有できるだろうか。
「……ともかく、俺は人間だ。人間じゃないように見える部分があるとしても、人間として生まれ育った、いたって普通の天空神の信徒だ。名前はレゾン。シィアとは〈昇梯〉してすぐに出会って同行させてもらってる。リュキア、君の名前はシィアに聞いて知ってる」
「確かに、私にはあなたは人間に見える。でもエルメは、あなたに“海”の気配を感じてる」
「俺は“海”に見られてる——それは間違ってない」
「見られてる?」
「“海”は俺を生かそうとする。だけどそれは俺の意思じゃない。“海”から逃れたいのは俺も同じだ」
「…………」
「俺はエルメを尊敬してる。彼女はとても気高い」
エルメの体に沿わされたリュキアの左手が、ゆっくりと優しくその体毛を撫でる。
レゾンはそっとリュキアを解放して起き上がった。彼女は怠そうに腰を引いて離れる。
「そう、エルメがあなたをすぐに殺さなかったのはそういうことなのね」
「ああ。俺たちは海神に抗う同志として、情報を共有するべきだ。——降りよう」
リュキアは沈黙した。それが合図のようだった。エルメの飛行が安定を取り戻す。大きく旋回して、地上のシィアたちのもとへ……。




