第27話 階層世界と哲学
くっきりと落ちた己の影の中で、頼りない触角と脚を持つ蟻たちは可哀想に右往左往していた。レゾンはその頭のところに瓶の口を添えて、指の腹で払うようにして蟻を瓶の中に集めていく。十分な数が集まったら栓をする。近くにいた女性のところに持っていくと、彼女は「ありがとー!」とまるで菓子をもらったかのように言った。これは後で調味料になるらしい。
シィアの魔物探しは再開され、今日でレゾンが起きてから三日目になった。北にいるであろう大魔獣を避けて、南東へ。
十数名が集まって岩山に登っていた。様子を見に行くと、彼らが眺める先、南の地平に、レゾンも目を奪われる。
「——木が生えてる」レゾンが感慨を込めて呟いた。「かなり移動してきたんだな。俺が寝てたのが四日だから……この階層に〈昇梯〉してから、今で十一日か」
「砂漠から出るのは、エルメがいる時か、〈幻鎧〉が適してる時だけだ。今は到底無理だな」
ジグマはそう、レゾンの憧れるような気持ちをバッサリと切り捨てる。……果たしてレゾンが第34階層の砂漠以外の地に踏み入る日は来るのだろうか?
「イレーナさんたちも十分強いのに」
「トウェンはもう魔力が切れたし、キュミルの氷は器用貧乏だ。バルターの幻惑は何の決定打にももならないし、イレーナの鎌は君も見た通り、小回りが利かなさすぎる。そして君は——まだ〈幻鎧〉を使えてすらいない上に、使えたとしても[風を切る大燕]の魔法は高速移動系だ。人間が使ってどれほど恩恵があるか」
「む……」
「もちろん砂漠の弱い魔獣はどうとでもなる。消耗は大きいが、大体はイレーナかキュミルが本気を出せば済む話だ。そして、それでも冀石としては十分量が採れる……わざわざ森に行く理由はない」
正論だった。レゾンは閉口して同意した。
レゾンが考えるべきことは一つ——[風を切る大燕]の〈幻鎧〉をどうやって使うのか、であった。使えるとなれば、レゾンは剣を握って前線に出るつもりだった。しかしレゾンの身体はまだショックから脱しきれておらず、〈幻鎧〉を使おうとすると錯乱状態にまで陥りかける。魔物の力を制御するのが〈幻鎧〉のあるべき構図だが、レゾンはまるで大燕が自分の体に対等に同居しているように感じるのだ。「魔獣が他の魔獣の生き血を飲んだらどうなる?」——まさにその答えなのかもしれなかった。
だが、“海”の言葉をあてにするのは癪だが——“海”はレゾンを人間だと言った。真っ新で、あらゆるものを取り込めると。ならばいずれは制御できるはずなのだ。
「耐えられる時間は長くなってきた。早いところ力になれるように練習するよ」
「練習するのはいいが——」ジグマはじとりとレゾンを見る。「君、最近更に魘されてるぜ。うちの野郎どもの鼾よかマシだがな。まさか君も海神に乗っ取られたりしないだろうな」
「心配してくれてるのか?」
「僕は神とかいうのが一番嫌いなんだ」
少し揶揄うと、ジグマは低い声でそうこぼす。レゾンはおや、と思った。常にシィアの一人としてレゾンに警戒の目を向けるばかりだった彼が自分のことを語るのは初めてなような気がした。天空神をも冒涜するような口振りだが……残念ながら、レゾンもそこで指摘するほど信仰心が篤いわけでもなかった。レゾンが信仰するのは、神ではなく生命そのものだった。
「神か、大きく出たな。この世界に神の影響がないものはない」
「それが最悪なんだ。天空神と海神が対立する前、世界は一つの空間だった……知ってるか」
「ああ」そのことを自分以外の口から聞くのは初めてだったが。
「神が、宗教上の存在じゃなく実存世界に影響を与えるようになったのは、その後だ。それから人類は奴らに翻弄されっ放しだ。〈大浸食〉に呑まれるのは一番癪だが、〈大浸食〉から逃れるために〈昇梯〉するのはその次に癪だ」
「その気持ち、分かるよ」
「君と僕とは違う」ジグマは断じた。「君には分からない。この敗北感は……」
降りていく彼を見送って、レゾンはまたもや突き放すような彼の態度に肩を竦めた。彼は仲間内だけで話していると「ギャハハハ」と汚い声で笑っていたりするのだが、未だにどんな話題で彼がそこまで盛り上がるのかは分からないままだ……。
正午を回った。束陽が拡散のフェーズに入る。一行は歩みを再開し、森を避けるようにして砂漠の縁を大きくなぞり、魔物を探していく。エルメと合流する前にあと一匹でも狩りたい、それがシィアの総意だった。
だが魔物は見つからなかった。レゾンは嫌なデジャヴを感じたが、第34階層の砂漠では普段から珍しくないことらしい。夢の中の警告もないし、まだ第34階層には猶予がある、そう信じていいのだろうか。
「…………」
粗い砂を踏み締めて歩きながら、レゾンはシィアの群れに混ざって歩く自分の姿をぼんやりと鳥瞰する。あの日以来雨は降っていない。快晴だ。背中に日差しを感じる……。
「……うっ」
小石に躓く。危ない。
「歩き疲れちゃった?」と目敏くキュミルに揶揄われる。
「〈幻鎧〉の副作用だ。問題ない」
「〈幻鎧〉の副作用が出てて歩けるなら、本来軽いんだけどね〜……レゾンくんの場合だと、全然別のことが起こってるって感じだよね」
キュミルはレゾンが「逸材」であることに密かに嫉妬しているような節もあったが、レゾンが命の危機に瀕したことが影響してか、今ではすっかり落ち着いていた。
「普通はどうなるんだ?」
「えーと、手足が痺れたり、頭痛で動けなくなったり……」
「やっぱり碌でもない」レゾンはすかさず首を振る。「シィアの忍耐力には恐れ入るよ」
「忍耐力っていうか、それに耐えたら〈幻鎧〉が使えるんだから、そりゃやるじゃん」
「そうだけどさ」
「ていうか、レゾンくんは〈幻鎧〉まだ使えないの?」
「慎重にやりたいんだ。俺が“海” に……それか大燕に乗っ取られたら嫌だろ」
「えー、それはそれで面白いかも」
「面白いって」シィアのその言葉は馬鹿にならない。「君が許してくれてもジグマに殺される」
「確かに、ジグくんはそういうの大嫌いだから」
「あいつだけなのか?」
「んー、ジグくんって意外と哲学者?文学家?だからね。だから悩みが多いんだよ」
「へえ」
「たまに話聞くと『たしかに』ってなるけど、あたし達はいっつもそんなおっきいこと考えてるわけじゃないからね」
ジグマの口数は少なく、基本的には伝えるべきと彼が判断した最低限のことしか喋らないが、上手い質問をすれば饒舌になるタイプかもしれない。レゾンは心の中にそうメモ書きした。
「不思議だ。シィアは他の誰よりも〈昇梯〉が似合うと思ったのに、〈昇梯〉しなくていい世界ならどんなにいいだろうと思ってしまう」
「何が不思議なの?それ。当たり前じゃん」
「——そうかな……」
「レゾンくんもいっぱい理屈であーだこーだ考えるタイプだよね」キュミルは少し呆れるようにそう言う。「でもジグくんと違って、何言ってるかあんまり分かんないよ。なんていうか——、それって本当にレゾンくんの気持ちなの?っていうか」
「…………」
「都市がどんなところだったか知らないけど、〈大浸食〉でみんな死んじゃって、悲しくなかった? レゾンくんって友達いたの?」
「友達……?」
思わぬ指摘に、レゾンは困惑した。友達、というと、例えばイグロスのことだろうか。頷く。キュミルは疑わしげにしている——失礼な。
「〈大浸食〉が起きた時一緒にいた。ジグマをバカにしてもっと粗暴で適当にしたような奴だ。いや全然違うな。あいつに哲学なんてない」
「〈大浸食〉が起きた時に一緒にいたって、それで一緒に〈昇梯〉できなかったの? そっか、冀石が足りなかったんだっけ。レゾンくんだけ〈昇梯〉したんだ」
「いや……そんなはずじゃなかったんだ。だけど……」
レゾンは沸々と怒りを思い出し、思わず顔を顰めた。リエネの背に回された手……あれさえなければもう少し心穏やかだったのだが……、現実には彼はリエネを受け入れたのだ。シィアならもしかすると、それは個人のやったこととして割り切ることができたのかもしれない。だがレゾンにとって都市人の命は全て他人事ではなかった。
「だけど?」
「俺と別行動した二人は——」第三者は共感してくれるのだろうか、怒りを押し殺して簡潔に語ろうとした、その時しかし、レゾンは本能的な反射で空を見上げた。「——今、何か感じなかったか?」
「え?」
「何か来る」
レゾンだけが感知できる——それはつまり魔力関係の異変だということだ。レゾンは魔力を活性化し、空を見る。光る柱が刺さるだけの暗い空に、尾を引く流星が一つ。
「速い! こっちに向かってくる——」
北の大魔獣の魔法の余波より、強い。それは強力な魔法そのものか、あるいは、魔物本体か——レゾンはその軌跡を目で追いながら、シィアに危機を伝えた。
「みんな聞いてくれ! 空から、飛んでくる魔力の気配が」
「空?」
森を避けている努力が無に帰するような強大な魔獣だったら? あるいはあれは大規模な攻撃の魔法で、シィアがまとめて全滅してしまったらどうする? ぐるぐると最悪の予想を積み重ねるレゾンに対して、シィアの反応は落ち着いたものだった。
「ああ、あれか。見える見える」
「かなり強大だ、隠れる場所なんてないぞ、どうする?」
「落ち着けよ、少年」
「あんたたちは落ち着き過ぎだ!」
「大丈夫だって。忘れたのか——第34階層の制空権は我が同盟にある」
シィアはそう自信満々に言った。レゾンが魔法を止めると、青い空に一筋の裂け目のようなものを見つけた。




