第25話 同じで、反対-①
レゾンは“海”の夢を見る。
魔力の許容量が少ない人間は、きっと海水の一滴を舐めるだけで苦しみ死に至るだろう……レゾンはかつてそう考えていたが、今は自分と“海”の境目すらもが分からなかった。その恐怖は、病状の進行を認めた時に似ていた。
“海”の中に、大きな塊が叩きつけられるように落ちてきた。水面近くを白く泡立てたそれは、一対の翼と細い脚を持っていた。濃い茶の毛並みを持つ上品な鳥だ。それが小魚の大群に覆われて見えなくなって、群れがそこから移動する時には、もういなくなっている。
小魚たちはそのままレゾンの周りにやってきた。くすくす……と笑い声。そして彼女たちはその口でレゾンの全身を啄むようにした。擽ったいような気がして身を捩る。口がないから、言葉にならない。
やめろ。俺は人間だ。
——そう——君は、人間……まっさらで、——あらゆるものを取り込める……。
彼女はそう言った。
「——ッ、げほっ、ッ、……」飛び起きる。
全身がむずむずする。レゾンは寝起きで朦朧とした意識のまま、己の体を掻き抱いた。自分の中に魔力がある。それがどうしようもなく気持ち悪かった。レゾンはどうしてこんなことになっているのか思い出そうとして、ある疑心に囚われて腕を見る。
「っ——う、ああ」
人間の腕。ティタ族の褐色の肌。そこから、羽根が並んで生えている。
レゾンは気が狂ったようにそれを掻きむしった。取れない。取れない! 一枚、二枚と羽根が散るが、減ったようには見えない。爪が皮膚を切る感覚だけが痛む。やめろ、嫌だ。俺は人間なんだ!
「——おい、何してる」
「!」
突然誰かに手首を掴み上げられて、レゾンは顔を上げた。ようやく、夢から覚める……腕は、細い傷が何本か走って血が流れていたが……つるりとして毛の少ない人間のそれだった。止めてくれたのは、青髪の青年だった。ジグマ。シィアと魔獣狩りのことを思い出して、意識が一気に現実に引き戻される。
「……おはよう。止めてくれて助かった。夢見が悪くて」
「それは知ってる。ずっとウンウン唸りやがるからな」
「ごめん……」
「夢見以外に異状は」
「俺の夢見が悪いのは異状じゃないよ。いつものことだ」
「——元気そうだな」そう言う彼は胡乱な目をしている。「何があったか覚えてるか」
「……。覚えてる」
答えながら、レゾンは周りを見た。シィアの天幕の中だ。隙間から見える外は薄暗い。少なくとも数時間が経過している。
レゾンの上衣は脱がされていて、腹の穴は何事もなかったかのように跡形もなく治っていた。
「…………」
「あれからもう四日経った」
「四日!? そんな。ごめん、迷惑かけた」
「僕らは君が起きるのを待ち侘びていた。あの時何が起こったのか——シィアは知りたがってる。君はまた驚いてなかったな。想定できた状況だったんじゃないのか」
「いや……想定はしてなかったさ。あんな……。起きた時に諦めがつく程度の心当たりがあった、それだけだ」
あれを見られた以上、隠すことは難しい。レゾンは腕の血を拭いながら正直に話した。ジグマの視線は責めるふうではなかったが、堂々と顔を上げることができなかった。レゾン自身がまだ、邪神の寵愛を受け入れられていなかった。
「同盟の鳥に悪いことをした……。弔ってやったか」
「君が何か『した』のか?」
「彼女は乗っ取られてあんなことをしたんだ。それは俺のせいだ」
「……。まずは止血しろ、せっかくの魔力がもったいない。それから服を着て外に出てこい。そこで聞く」
「ああ」
端に寄せられていた服を投げて寄越される。レゾンが元々着ていたギラム製のものではなく、シィアたちと同じ砂と日差しに強い服だった。「ありがとう」と言うと、ジグマは特に何とも思っていなさそうに少し頷いて出ていった。
ひとまず、邪教徒だと思われているとか、そういうことはなさそうだ。安心する。
着替えて外に出ると、トウェンが手を上げて、キュミルが駆け寄ってきた。どうやら明け方のようだ。みな軽い食事をつまんでいる。「レゾンくん、本当になんともないの?」
「お陰様で。あの時、針の周りを凍らせてくれてなかったら危なかったよ。ありがとう」
「あ〜もう、よかった〜」キュミルはほっと胸を撫で下ろす。
「元気そうで良かった。お腹空いたろう、何か食べれそうかい? スープでもどうかな」
「すみません、いただきます」
レゾンはトウェンからスープを受け取った。甘めの味付けのポタージュはすぐに体に染み渡るようだった。生きていることに感謝しなければならない。レゾンはシィアの輪の中に腰を下ろして、ほうっと息を吐いた。
「おーい兄チャン、見てみろ、これがあん時の冀石だ!」バルターがそう言って、両手に大きな冀石を挟んで持ってくる。〈昇梯〉三人前はある。「〈幻鎧〉にしちまうと冀石は小さくなるからな。これはこれで収穫ってワケよ」
冀石は美しい宝石だ。まるで階層世界で失われた本物の太陽のようだ——見たことはないが。胸の奥から何かが込み上げてきて、レゾンは「触ってもいいか?」と訊いた。
「いいけどうっかり〈昇梯〉とかすんなよー、まだ聞いてない話があんだから」
「しないさ、まだシィアに何も返せてないのに」
バルターの手から冀石が受け渡される。重い。それを膝の上に乗せて、レゾンは暫し目を閉じた。……これは、シィアが狩ったものだ。“海”に与えられたものじゃない。
今も自分の身体の中には、“海”によって注ぎ込まれた大燕の血が、魔力が流れている。それを意識するとおかしくなってしまいそうだ。だが冀石を見つめていると、迷いはなくなっていく。
「……その節は驚かせた。まず前提としてだが、俺自身も関連する現象の全てを理解できてるわけじゃない」レゾンは語り始める。「——俺は昔から、“海”の夢を見る……。幼い頃からずっと、“海”は俺に警告していた。都市の〈昇梯〉計画を待たずに〈大浸食〉が起こるということだ。……奇妙なのは分かってる。だがそうとしか言いようがないんだ」
彼ら相手に取り繕っても仕方がない、ということは、もう何となく理解していた。だからレゾンは生まれて初めて、抱えてきたものを赤裸々に口に出した。
「俺は族長である伯父を通じて、早期〈昇梯〉計画を推し進めようとした。だが海神の力を大きく解釈するというのは、下手をすれば海神信仰と関連付けられてしまう……大体、俺も俺自身の『直感』に半信半疑だった。だから証拠を探していたんだが、……到底間に合わなかった。——それが俺と、第33階層の〈大浸食〉と都市ギラムの滅亡との真相だ」
ジグマが目を細めた。考えは読めない。
「それから、俺は元々魔力の気配を感じ取ることができた。樹液を塗り込んでからはより鋭敏になっただけだ。……妙なことはそれで終わらない。〈大浸食〉の時——山にいて猶予があった俺と仲間たちの持ってる冀石は〈昇梯〉に足りなかった。別行動をとって魔獣を探したんだが、その時にも、“海”は魔獣を乗っ取って俺の前に現れた。自分で自分の胸を裂いて……俺に……冀石を与えたんだ」
支配した剣の上で自殺する新たな山の王。今思い出しても恐ろしい光景だ。
その構図が[風を切る大燕]の行動と同じだと思い至ったのだろう、シィアたちは目を見合わせた。
「つまり俺は、“海”に見られている……んだと思う」
「“海”はずっと、兄チャンを生かして〈昇梯〉させようとしてるってのか?」
「俺だって生きて〈昇梯〉したいさ。“海”に急かされなくたって」
情けない話だ。〈大浸食〉から逃げようと人を動かそうとした男が、“海”がいなければもう二度も命を落としていたのだ。
シィアたちはひそひそと声を潜めて何事か話していた。「信じられない話だろ、分かってる」とレゾンは自嘲的に呟く。
「いや——信じるよ」と言ったのは、トウェン。「あの雨の前ならどうだったか分からないけども、今聞くとむしろ納得だ。おれ達が戸惑ってるのはきみの話の真偽にじゃない。おれ達はエルメを知っているから」
「神鳥がどうかしたのか?」
「彼女はきみと同じで、まるで反対なんだ。シィアも秘密を話す時が来たようだね」




