第24話 暗雲はなし
イレーナの鎌が、トウェンの炎に体を焼かれ、キュミルの細かい攻撃を受けてもがく針鼴に向かって振り下ろされる。
「今だ」と、ジグマの声がレゾンに確信を与える。
「っ」
鎌が針鼴を抱きしめるように捕まえ、破壊されない高密度の魔法がその肌に届く。血の赤が見える。丸みを帯びて愛嬌のある見た目からは想像もつかない、鼓膜を引っ掻くような悍ましい断末魔が、砂漠の乾燥した大地に響く。
斜面を跳び降りる。そのつもりはなかったが、レゾンの手は無意識に剣を抜いている。血溜まりを乗り越えて魔獣に肉薄する。
血を飲むんだ——自分に言い聞かせる。生き血を飲んでやる。そうすると、何か世界が変わる気がする。
「——あ」
そして次の瞬間、レゾンの腹は針に貫かれた。
——早くしないと針鼴が死んでしまう、という焦りがあった。鎌による傷は深く、内臓がこぼれている。
魔力の気配が錯綜していた。未だ魔力活性状態には慣れないので、「魔法」なしの鈍い状態で動かざるを得なかった。魔獣の魔力は地表に塗り拡げられており、キュミルによって大気中の魔力は凝結と拡散を繰り返し、トウェンの魔力は眩しく陽炎のように揺らめいている。イレーナの魔力は鮮明で目を奪うようだ。バルターの魔力は掴みどころがなく広がっている。
ゆえにレゾンは、従来の対魔獣戦闘でなら気付けていたであろう簡単なサインを見逃していたのだった。
命を貫く衝撃で全身の感覚が尖り、人間本来の知覚と“海”に与えられた感覚が交互に明滅する。そして今更、針の魔力が根本の方に移動していたことを知った。奴はそうして最後に身を守るための針を飛ばして抵抗しようとしたのだ。一本目は、矢が空を切る動きに似ていたこともあって、反射的に体が動いていた。だがその攻撃の密度は、とても至近距離で捌き続けられるものではなかった。
「レゾン君ッ‼」
——まずいかもしれない、と思う。レゾンは踏ん張って立ち続けた、が、進もうとする全ての動作が全身に警告を発する。痛い……。針とはいえ、巨大な体躯を持つ魔獣としての針鼴の針は、レゾンの掌ほどの直径があった。おまけに——この針には——魔法が。
その時、頬を水滴が打った。
それは雨だった。一瞬にして強くなり、ザアアアアと絶え間ない音を鳴らし始める。「……豪雨だと⁉ そんな兆候……いやそもそも、この砂漠で——」取り乱すジグマの声が聞こえる。
「掴める魔力が増えた……! いけるっ!」
針鼴を包むように、巨大な氷塊が出現する。それは針の飛散を防ぎ、それからレゾンの傷も凍結させた。レゾンは未だ立っていたが、氷をまるで温かく感じて恐怖する。運が良ければ、命は助かるだろうか——レゾンは思わず天を仰いだ。
「…………」
暗雲はなかった。豪雨は晴れた空から降っていた。
その中を、一羽の鳥が飛んでいた。二又の尾を持つ美しいシルエット。
「——あれが、神鳥?」レゾンは呟く。
「いや……違う。同盟の子だ。[風を切る大燕]……」
その光景は異様であり、異様であるからこそ神性を纏っていた。シィアは、既知のはずの存在を凝視する。豪雨の中、大燕はぐるりと円を描きながら徐々に高度を下げると、レゾンの近く、凍結した針鼴の上に止まった。こちらを見て。
「……同盟、の……」
レゾンは口に出す。同盟の鳥類なら、助けに来てくれたとしても、おかしくない、のかもしれない。だが——レゾンはシィアではない。偶然で砂漠にこんな雨が降るわけがない。[風を切る大燕]という識別名を与えられた魔獣が雨を降らせるわけがない。
目が合う。デジャヴ。
「——“海”——」
レゾンは消え入りそうな声で言って、後ずさった。バランスを崩して後ろに倒れ込む。衝撃が腹に伝わって意識が飛びそうになる。彼女は、レゾンの膝に飛び移った。柔軟な趾の硬い感触と重み。美しい茶毛の大燕はレゾンの顔を覗き込み、笑った、ように思われた。
——ああ、脆くて、可哀想に……。君は、こんなところで終わっては、いけないのに。
——私が、期待しているのに。
「っやめろ」
——魔法が……欲しかったのだろう?
——君には——翼が似合うと……、ずっと考えていた。
大燕の嘴から血が、垂れた。それは彼女自身の血液だった。その血はレゾンの腹に刺さった針を伝って流れ落ちる。
この時、針鼴は既に絶命していた。死はありふれていた。
彼女はレゾンに擦り寄るようにして嘴で針を咥えると、一気に引き抜いた。激痛に喘ぐ。その空洞でレゾンの血と大燕の血が混ざり、腹の中へ直接落ちていく。
「ハア、ハア、ハアッ……」
荒く息をする。息ができてしまう……。
「っくそ……見るな」
それは“海”に向けた言葉だった。また“海”に手助けされた、そして今度は拒めない形で。レゾンはその事実を理解していた。
心臓が重く、速く脈打つ。すると体の中心がむずむずして、身悶えするような痒みを伴って腹が再生していく。
「————」
大燕が死ぬ。レゾンも間もなく、体の中身がぐちゃぐちゃに掻き回されるような感覚に呑まれてあえなく意識を飛ばした。
「レゾン君!」
「何が起こったの——」
「……雨が止んだ」
変わり映えのしない晴天の下で、濡れそぼったシィアたちは洗われた二つの死体と一人の青年を見つめて、珍しくも沈黙する。
今日の魔獣狩りと、レゾンの〈幻鎧〉の入手は、そうして成功に終わった——。




