第23話 特等席
バルターが呼びかけると、まるで本当にそれに応じたかのように、巣穴から機敏な動きで丸っこい魔獣が頭を出した——その長い爪はバルターの目前で空振り。飛び退いたバルターを長い舌が追撃する。彼は「うわっち」とこぼしつつも完璧に見切り、胸から上をぐわんと反って躱す。
魔獣の背丈はバルターの身長の三倍くらいで、その舌はこの谷に橋をかけられそうなほど長かった。
「〈幻鎧〉、[氷を生む精霊]!」
そこに容赦なくキュミルの魔法が降り注ぐ。燃料はバルターが魔獣を起こすために使った魔法の残滓だ。なるほど、そのために一度魔法を解いたのか。
「〈幻鎧〉——」
続けてイレーナの声。早くもコンビネーションが光っている——しかしイレーナの〈幻鎧〉が発現するよりも、拘束を試みたキュミルの氷が砕け散る方が早かった。
「!!」
魔獣は背中に無数の棘を持っていた。魔力を帯びている——おそらくあれが原因だ。「巣穴を作る魔獣なんて……」というキュミルの予想が当たったわけだ。丸まった姿には愛嬌があるが、その棘の凶悪さは想像に難くない。
「拘束は無理か! オレが誘導するしかないやつね、了解!」
バルターはすぐに切り替え再度魔法を使う。すると魔獣は、バルターが逃げた西側とは逆方向へ走った。鬱陶しそうに頭を振りたくる。
「〈幻鎧〉、[火種を撒く飛竜]」
トウェンがそう唱えると、すぐさま太い角張った尾が彼の三本目の足のように現れた。彼が手を上げると、その指先に魔力が収束し、見たこともないほどの高密度の点となっていく。
「いくよ」
彼が指を下す。瞬間、爆発。頬を一瞬熱気が撫ぜる。丸まった魔獣の体が吹き飛び、壁に激突する。そして魔力は一瞬にして氷に変わり——氷柱が——砕ける。
「えっ、これも!?」
「そういう魔法なんだ」レゾンは確信した。
第一波を防いだ魔獣は攻撃に転じた。丸まったまま動き出す。砂埃を上げて——ドドドドと鈍い音を立てて、前転している! 転がっているのだ!
「ちょ——マジか、速いって!」
バルターの悲鳴。針鼴は彼のすれすれを通過する。そのままUターン。暴れる針鼴はもはや幻の獲物を狙っているのではない。これはほぼ無差別の破壊だ。
「うわー、これ殺さないの無理じゃない!?」キュミルが叫ぶ。「ってかバルちん、大丈夫!?」
「うおおお、オレは壁になる!」
「どゆこと? 大丈夫? 頭打った?」
砂埃のせいでバルターの姿は見えないが、死ぬつもりはなさそうだ。その不思議な雄叫びは、おそらく、幻の壁を作って自分から遠ざけることを試みるという意味だった。
「どうにも攻めあぐねるな」とジグマ。
レゾンは「魔法」を使った。魔力の配置がさっきよりも詳細に分かるようになる。それと視覚、そして地面の振動を感じる触覚を照らし合わせて、現状を一歩踏み込んで把握する。
「……拡散した魔力……これは砕けた氷柱のものだ。それから魔獣はやっぱり針に魔力を集めていて……それから……魔力は地表面にも広がってる」
「フム?」
「あいつが通ったところだけだ。だけど決して落とし物ではない量……。それに、転がっただけでこの振動。転がる時、針は寝ているのに」レゾンは推測を語る。「あの針、『触れたものを脆くする』魔法を使ってるんじゃないか。言わば毒だよ。毒の魔法だ」
「毒——」
「だけど待ってほしい、地面に効いて、バルターさんの魔法には効いてない——。つまり作用するのは物体に対してだけだ。魔法じゃない。……ジグマ。環境と合わないように思えても、不定形のトウェンさんの炎が一番効くかもしれない」
その提案に、ジグマはレゾンを睨むような目つきで見たまま、数秒間沈黙して、それから頷いた。
「聞け、キュミルはバルターを保護! ——トウェン! 君の炎だ! 直接焼いてみろ!」
「おれ? 分かった」
「バルちんどこ!」
「ここここここ! あもちょっと右! そう!」
バルターの周りに氷の結界が張られる。針鼴の体当たりを受ければすぐに壊れてしまうが、今はトウェンの炎から守るためのものだった。
トウェンは再び魔力を集めた。砂埃の中でカッ——と爆発が起きる。一度目とは比べ物にならない爆風——これが主戦力としての出力か。レゾンは命の危険を感じて、咄嗟に、近くにいたジグマの腹を腕でガッと抱え込んで岩陰に押し込んだ。「うぐッ」と不意打ちで腹を圧迫され呻き、彼は舌打ちをしてレゾンを睨み上げる。……必要なかったか。
「離せ」
「悪かったって……」
「どうなった」
言われて、レゾンは身を乗り出して前を確認する。カラッとした谷底が一気に地獄絵図だ。砂埃に紛れて、魔獣の体に炎が灯っているのが見えた。
「転がり方が単調になった。消火しようとしてるんだ」
「そうか。あの飛竜の炎は魔力が尽きない限り消えない。——手軽な有効打を見つけたのは見事だった、レゾン」珍しくジグマが素直な賞賛を口にする。嫌な予感がした。「だがこれはもう、〈幻鎧〉は諦めたほうがいいな」
「あ……」そうだ、生き血を飲まないといけないんだった。
「フッ、バカめ。まあよくあることだ。かなり有用な魔法だから捨てるには惜しいがな」
「魔獣の血を飲むなんて考えたあんたらが悪いだろ、これは。……今からどうにかできないのか」
「どうにかなるとしたら、それは魔獣が強いってことだな」
「おい、そんなことを言うと」
それは経験から来る予言であった。レゾンは、ビシッビシッという聞き慣れない不穏な音を聞いた。
「やばっ」
戦場を覗き込むようにして見下ろしていたシィアが慌てて退避する。間一髪、谷を挟む絶壁に魔力が浸透して罅が入り、砕け崩れた。
「トウェンは確かにダメージを与えてるが……全盛期ほどの瞬間火力は出ない。炎を練る力が大分弱まってやがる。持久戦になって先にトウェンの魔力が尽きれば振り出しだ」
「イレーナさんの魔法の鎌は実体なのか? それとも、バルターさんの耳と尻尾みたいに魔力の塊なのか?」
「知らねえよ、そんなこと」
「……そうか、俺には魔力が象った実体のように思えた。初めて会った時、一瞬遠くから感じた情報だけの判断だが」
つまり、あの針の魔法がある以上、イレーナの鎌でさえ致命傷を与えることはできないかもしれないということだ。
「あの蟷螂野郎がもっと俊敏な敵に合わせた魔法を会得してればよかったんだが。あの森ののろまな地竜のせいだ」
「それより、坂ができたら登ってくるぞ、あいつ。どうにかしないと」
「そろそろバルターが動くだろう」
ジグマは特に焦っていない様子で、仲間への信頼を口にする。この戦場に自分の役割はない、という確固たる態度である。
バルターがトウェンとキュミルのいる西側の崖へ登ったのが見えた。狼狽えていない。状況を変える自信があるのだ。
「よし、みんなのことは隠して、北西に誘導する! 『登りきれない坂』付きでね。イレーナ姉さん、あとは頼んだー!」
その言葉を受けて、イレーナはゆっくりと北へ、レゾンたちのいる場所へ歩いてきた。その姿はまるで、絶対的な女王のように見えた。
キュミルの氷柱が針鼴の背に一発当たる。気を引くためだ。針鼴は存在しない何かを見て、誰もいない北西へと駆け上がった。そして登れるはずの坂で足を滑らせる。イレーナはレゾンのそばまで来て、
「——私の〈幻鎧〉は何もかも可愛くないけどね、みんなが私の華々しい一撃のために準備してくれるっていうのは気分が良くて気に入ってるの」不敵に微笑む。「さあ、特等席に見に来なさい。あなたはステージに上がらないといけないんだから」
「ああ」
「〈幻鎧〉——」
イレーナの頭上に巨大な一対の鎌が出現する。それはシィイイ……という音を立てて互いを擦り合わせ、そこに込められた魔力をどんどん鋭い魔法に変えていく。ああ、確かに、あれで斬られたら——ひとたまりもないだろう。その刃に高密度の魔力がこもっている。
「処刑の時間よネズミちゃん。[鎌を研ぐ蟷螂]——やっておしまいなさい」
針鼴……鼴だと思うんだけどな、とレゾンは思ったが、まあいい。




