第20話 カルチャーショック
美しい鱗を持つ人魚に手を引かれて泳ぐ夢を見た。ロマンチックな夢だ。……その海が海神たる“海”でさえなければ。
悪夢で浮上した時に起こされるレゾンよりも、シィア族は健康的に早起きで、レゾンが起きる頃には出立の支度がほとんど済んでいた。
「あ、おはよー。めっちゃ魘されてたけど大丈夫だった?」
「おはよう。いつもより随分ましだったよ」——実際、今日は話しかけられなかった。
「えー、あれで?」
キュミルはけらけらと笑ってレゾンを迎えた。心配しているのかしていないのか分からない態度だ。
「都市の人って何食べるの?」
「朝は軽く、チーズやパンを食べることが多いな。——〈昇梯〉した時に持ち越した乾パンがあと一つ残ってる。あげようか。水で戻して食べるんだ」
「えー! ちょうだいちょうだいちょうだい!」
「何だって? 都市の食い物?」
「自分が住むのは勘弁だけど、ご飯は興味ある〜!」
「はは……これは携帯食だから、あんまり美味しくはないけどな」
食いつきが清々しく良い。羨ましいほどの素直さだ。レゾンが自分の荷物の中から乾パンを取り出すと、キュミル達はひったくるように取って、硬いパンをぐるぐると回して観察した。その後は、争うこともなく綺麗に切り分けて配布されていく。……文化交流というのは素晴らしいものだ。少し心が温まる。レゾンも昨日は、シィアの持つ乾し肉や乳製品を食べさせてもらった。
「レゾン君、こっちに。砂漠の食べ物もどうかな」
火の前に座ったトウェンが手招きしている。レゾンはすぐに彼の元へ向かって、その間、昨日の夜にあの男に言われた「犬」という言葉が頭に浮かび上がって離れなかった。……違う、そうかもしれないが、これは尊重すべき相手に対する適切な対応だ。その範疇の、はずだ。
「ほら、これ」
「————」
が、トウェンの手にあるものを見た瞬間、レゾンは硬直した。それは……丸焼きにされたトカゲだった。彼は優しい顔でその串を持ち上げて、レゾンに差し出した。
「それ、は……」
「ん?」
「いや、ありがとう。いただきます」
このような食文化を知らなかったわけではない。だが都市人は人の手の入った小麦や畜牛といった存在を好むようになり、虫や爬虫類は当然食用品からも排除されていった。……これは民族交流的に意義のあるやりとりだ。嫌な顔をするべきではないし、する必要もない。これは紛れもなく食べ物なのだから。
「香ばしいな……」
「そう。トカゲはね、小さく見えてたくさん脂を蓄えてるから。おいしいんだよ」
——頭からいった。彼の言う通り、脂が染み出してくる。内臓は抜かれているようだが奇妙な硬い食感がする。それに目を瞑れば……美味い。
「美味しい」
その呟きはすんなりと口をついた。トウェンは嬉しそうに微笑んだ。
都市の男が朝から食べるものとは全く違っていたが、ぺろりと平らげてしまった。レゾンは「ごちそうさまでした」と言って、トウェンはレゾンが初めて聞く単語を口にした。彼らの言葉で「食事は皆の功績」といった意味らしい。
それからレゾンは、シィアのキャンプを見渡して、青い髪の頭を探した。
彼は一人で座って、風の音を聞くように少し上を向いて目を閉じていた。昨日の地図といい、彼がシィア族の航海士なのだろうか——海を往く船に喩えるとこの階層世界では不穏に聞こえる——砂の海の。
「や、今いいかな」
「そういうのもウザい」
「そうか」
これは「話しかけてくるな」ではなく、いちいち確認するなという意味のはずだ。遠慮なく、素っ気ない彼の横に滑り込んで座る。
「——なあ、名前、聞いてもいいか」
そう言うと、彼は無表情のままじっとレゾンを見る。
「ふうん……。捻ってこなかったな」
「外面の敬語はあんたに禁止されたし、考えれば考えるほど分からなくなったんだ。今まで自分がどうやって人と話してきたのか。俺はレゾン——」
「ああはいはい。僕はジグマだ」
せっかくリクエスト通りに名前を訊ねたのに、彼は鬱陶しそうに呆気なくそう答えた。彼——ジグマは、「今いいかな」の一言すらウザがるくせに、なぜ名前を訊かなかったことは咎めたのだろう?
ギラムでは、名前よりも所属と立場が大事だった。役職名と名前の組み合わせが個人を決定すると言っていい。執政官など立場の高い相手になるほど、役職名で呼ぶのが礼儀だった。カニスに関してはわざと「伯父さん」と呼んでいたが。
しかしここに政治機構はない。つまり、名前だけがその人を決定づけるもの……ということなのかもしれない。
「……ジグマ、そういえば、ずっと噛んでるその草は何なんだ?」
「ハア……」雑談を試みるレゾンに、彼は呆れつつ答える。「ソデルの根だ」
「根か、茎かと思ってた。この階層で採れるのか」
「西部の密林の洞窟で採れる。舐めてみろ」
手早くナイフが薄く表面を削ぐ。平べったく硬い根の中は潤った白い組織がぎっしり詰まっていて、断面からじわっと液体が出てきた。受け取って、慌てて舐め取る。その瞬間、舌の芯にギクッと痛みが走って、レゾンは盛大に眉間に皺を寄せた。
「あッ……ま」
「言うほどか?」
「涙が出そうだ。……あとこれ、ずっと思ってたが、魔力濃度が高くないか。……分かった、これも訓練なんだな」
「嗜好品だっつの」
「……信じられない」甘党め。
口の中が甘ったるくて気持ち悪い。心なしか頭もジンジンしてきたような気がする。まあ……高級調味料にはなるだろうが。そのまま咥えているのはシィア族でも彼だけだし、多分普通におかしいのだろう。
「いらねえなら返せ」
「いやいや、ありがたく貰っておくよ。……もう一つ聞きたいことがあるんだ」
「何だ」
「実はあの時、あんたも口を滑らせてた」レゾンは指摘する。「あんたは、『シィアは今全部で三十八人だ』と言った。だがどう数えても今ここにいるのは三十七人。俺を含めたら三十八だが、それは違うだろ」
「ああ。——それは別に秘密でも何でもねえ。あとの一人はエルメのところにいる」
「神鳥の?」
彼は当然のように言うが、神鳥は同盟相手と言ってもそもそもは魔獣であるはずだ。神鳥と呼ばれる魔鳥が一体どういう存在であるのか、レゾンにはまだイメージが湧かなかった。「エルメ」というのが愛称で、同盟を結んでいない人々がつけた名が「神鳥」なのだとすると、実態は彼らが親しみを込めて語るよりも遥かに恐ろしいように思われた。
「彼女らにも〈大浸食〉のことは伝えることになる。——その時に、君、僕の言ったことを忘れるなよ」——都市ギラムとやらにしたみたいに僕らの〈昇梯〉を急かすようなことはするな。口にも出すな。
「……分かった」
「さて、今日の魔物探しはどうなるか。初めての〈幻鎧〉だがシィアは君に対して段階を踏むような遠慮はしねえだろう、覚悟しとけ」
なるべく弱い魔物の血から慣らしていく方が当然安全だが、そのつもりはない、ということだろう。
「シィア族の好きなようにしてくれ。もう俺の体はどうにでもなれって感じだよ」
「フン」
ジグマは面白くなさそうに片眉を上げた。彼はどうも、レゾンがシィア族のために自主的にしようとすることを拒否したがる。魔力適性が認められただけの余所者が彼らの信頼関係に入り込むのはまだまだ難しいということだろう。
「関係ねえが、そのシィア族って言い方やめろ。誰もそんな風に呼びやしねえ。シィアはシィアだ」
「シィア……ああ、分かった。——シィアって言葉、何か意味があるのか?」
「……。『共に生きる』だ」彼はそう、大切に発音した。「そろそろ行くぞ」
「ああ」
立ち上がる。彼はスタスタと静かな足運びで歩き出す。レゾンはそれについて行く。




