第17話 火遊び-①
レゾンが三日間乾いた砂の上を歩き続けたのが嘘のように、シィア族の進路の先にはばっちりオアシスがあった。それはただ単に彼らの経験が豊富であるという話だったが、レゾンの目には彼らだけが砂漠に選ばれ歓迎されているようにすら映った。彼らにはそのような特別な雰囲気があった。
「日差しが一番きつくなる真昼は、一度止まって日陰を作って休むんだ」
「なるほど」
てきぱきと天幕を張るシィア族たちに近づき、「何か手伝いましょうか」と声をかける。すると彼らは、布を巻いた額の下で顔を顰め、「え? 何すんの?」と言った。こちらがそれを聞いているんだが。……彼らは天幕を張る作業を怠い仕事とは全く思っていないらしい。
「オアシスは聖域なんだよ」とトウェンは言う。「ここで狩りをしてはならない。動物は皆、ここで命を繋いでいるんだから、そこに争いを持ち込んではいけない」
「それは……いい心掛けだな」
「いいというか悪いというか……そういうものだからね」
シィア族たちは天幕を張り終えると、日陰で思い思いに過ごし始めた。敷いている布は見たことのない模様で、鮮やかな色彩に彼らの豊かさが醸し出ている。……砂漠の移動民族、それはレゾンの想像する都市文明とは正反対の存在のように思われたが——レゾンは今や彼らから目を逸らせないことを自覚していた。
「レゾン君も、こっちへ」
「ありがとう」
レゾンもその文明的な日陰に入れてもらって、都市ギラムの狩人の軽防具を外して座り、何度となく汗を吸って乾いた服を緩めた。はあ、と気の抜けた息が抜ける。この状況に安心してしまっている自分がいる。
「傷をつけるのはどこがいい? 二の腕のあたりがおすすめだけども」
「じゃあ、そこで」
褐色の左腕を露出して差し出す。トウェンは小さなナイフを取り出して、布で刃を拭った。無防備な状況にか、それともこれから起こることにか体が力みそうになるのを抑える。
「酷い傷痕だ」
「一度ヘマをしたんだ。魔獣の群れに目をつけられて、殿を務めた時に」
「それで生還できたのかい」
「噛みついてきたから、崖に向かって振り払ったんだよ」
「なかなか胆力があるね。……じゃあ、傷をつけるのは平気かな」
「そういうわけでもないが」
トウェンは笑った。……この人の冗談は少し怖いような気がする。いや、優しすぎるから勘繰ってしまうだけか。
「キュミル、樹液を用意しておいて」
「ハイハーイ」
キュミルはテンション低くそう返事して、どこかに[導灯の大樹]の樹液をもらいに行った。レゾンは考えるのをやめた。……なるようにしかならない。
「じゃあ、失礼するよ」
「…………」
トウェンのナイフが皮膚を薄く削り取るようにする。……擦り傷のようなものだ。レゾンは眉ひとつ動かさずに耐えた。トウェンはすぐに血を拭ってくれる。
「——実はね」とそこで彼は言った。「さっき言った、幻鎧士がもうすぐ減るっていう話。……おれのことなんだ」
「!」
レゾンは顔を上げた。彼から感じる魔力の気配はキュミルとは比べ物にならないほど小さく、また、キュミルが持ってきた[導灯の大樹]の樹液よりも小さかった。レゾンが幻鎧士を特定できなかった理由は、彼らが魔力を多く含む樹液や魔獣の皮を平気で持ち歩いているからだった。
トウェンからもレゾンが戦い慣れたような普通の魔獣程度の魔力量は感じられるが、その気配は幻鎧士や魔力を含むものを複数擁するこの集団の中にあっては特筆するほどのものではなかった。それが……幻鎧士の一度の寿命を迎えるということなのだ。トウェンは少し悲しそうに眉尻を下げて、もう運命を受け入れた声音で続ける。
「あと一度戦えれば上々……くらいかな。それも、主戦力にはならないだろうし。そして、この効果が切れればまたしばらくは大人しくしなきゃならない」
「それは……」
「それに、おれが〈幻鎧〉を得たのはこれが四回目で、その度に適応までが苦しくなってる感覚がある……。おれは、あまり柔軟に色んな魔法に対応できるタイプではなかったんだと思う」
それはどれほど悔しいことだろう。〈幻鎧〉という力を知っていて、適性もあるのに、擦り切れる。世代交代ができればいいが、三十八人の集団で、適性があるのは半分。十九人で月に一人。一人の脱落は大きな影響を及ぼすだろう。
「君からは敬意を感じる」と彼は続けた。「生きている者への敬意、かな。おれが初めて目を合わせた時、きみは奇跡を見ている者の目をしていた。だから、きみが力を使ってシィアを裏切ることはしないだろうとおれは信じている」
「!」
レゾンは驚いた。都市人には全く理解されなかった情熱が、この人には一度目が合っただけで認められていたのだ。
「……トウェンさん、俺が〈幻鎧〉を継げるかは分からないが、それだけは間違いない」
「そう、信じるよ。よかった」
レゾンは都市ギラムの中で急進的な思想を唱えるためあらゆる工作に勤しんだが、一つだけ、効率を度外視して絶対に取らないと決めている手段があった。それは殺人だ。
いくら憎しみに燃え、人間に絶望しようとも、この手が誰かに危害を加えることはない。レゾンはそう確信している。
「安心して、適性がなさそうだったらすぐに洗い流すからね。動けなくなったらおれがおぶってあげるよ」
「よし、一思いにやってくれ」
「耐えられるかはきみの体質次第だ。無理はしないで」
「……はい」
宥められた気がする。レゾンは落ち着いて息を整えた。……大丈夫、のはずだ。“海”の夢を見ること、魔力の気配が分かること、それらは睡眠や情緒を蝕むことはあっても、レゾンの命を脅かしたことはない。
これは仲間の証として体に刻む烙印のようなものだ。成人で耳に穴を開けた時も大概大変だった、それと同じだ。自分に言い聞かせる。
「ハイ、じゃ、塗りまーす」
「…………」
耐えれるよねお兄さん? とばかりにキュミルはサディスティックに笑った。
キュミルの指が瓶から樹液を掬う。ねっとりしたそれは、冀石よりも明るい透き通った黄金色をしていた。見た目だけなら、まるで神話に描かれた万能の秘薬だ。しかし実態は中毒を乗り越えて魔力許容量を増やすための劇薬。
「——っ」
濃厚な魔力の気配が裸の傷口に近づき、体が強張る。
ぬるりとした感触。傷口の細胞がざわつく。レゾンはその瞬間、身体中の血流が縦横無尽に飛び跳ねて暴走し始めたように感じた。
「……‼︎」
言葉にならない。魔力が……傷口から体内に浸透して侵入してくる。なるほど傷口は吸収効率が良いようだ。待て感心している場合じゃない。ドクン、と動悸がして意識が揺れる。やっぱり駄目なんじゃないか。
「どう?」
「っ、……ふらふらする」
レゾンはそうとだけ答えて、目を瞑って波をやり過ごした。体内に流れ込んだ魔力の気配を追い、制御しようと試みる。……無理か?
「……それ以外は?」
「待っ……てくれ、ちょっと……」
急かすように訊かれて、レゾンは恐る恐る目を開けた。あ、まずい、と思ったのは、昼なのに視界が真っ暗だったからだ。何も見えない。しかし——魔力の気配が、鮮明に分かる。以前よりもはっきりと。キュミルやトウェンの体内を循環する魔力が。遠くに見える——[導灯の大樹]の縦筋が。
「——どうなってるの?」
キュミルの声が遠く聞こえる。いや、キュミルは目の前にいるのだが、聴覚の感度が落ちていた。まるで殻の中にいるようだ。いや——水の中?
レゾンは手を彷徨わせた。腕がある。空気を横切る感覚。“海”の夢の中ではない。ではこれは……。
「……〈幻鎧〉、[氷を生む精霊]!」
「!」
その声で意識が醒め、視界が明るくなる。自然光のあまりの眩しさに目を細める。砂漠の昼。第34階層の、シィア族の懐。
頬に当たる空気がひんやりと冷たい。それもそのはず、レゾンの体は薄い氷に覆われていた。キュミルの魔法は魔力を氷に変える。それのおかげで魔力中毒が抑制されたのだ、とレゾンは思った。
「ありが——」
「やっぱり嘘だったんだ」
「え?」
魔力を光らせたキュミルがきつくレゾンを睨む。その表情に揶揄いはなく、純粋な怒りだけがあった。段々と冷気が全身の表面から内側に伝わってきて、体の芯が冷え始めた。……中毒を抑制するためならそこまでする必要はない。何のつもりだ?
「キュミル、落ち着いて」
「落ち着くも何も、もう分かってるじゃん」キュミルは投げやりに言う。「〈幻鎧〉なしに魔法が使えるなんてあり得ないもん」
「魔法?」レゾンは戸惑って鸚鵡返しする。
「とぼけないで! 今、キミの血が光ったんだから」
「は?」
血が光る——それは魔物と、そして幻鎧士が魔法を使う時の特徴だった。




