第15話 アイス・ブレイク-②
「——〈幻鎧〉、[氷を生む精霊]」
「⁉︎」
キュミルの体と瞳が、ぼんやりと発光する。体全体ではなく、透けている血管がだ……。魔法を使う時の魔獣と同じ。すると信じ難い光景だが、彼女の背に、精霊の二対の薄い翅が魔力によって顕現し——二人の手と手の間に、魔力の気配がグングンと集まっていく。そして突然手の甲に火傷のような激痛が走った。
「っ……」
「——ありゃ?」
手が凍ってしまう。レゾンは本能的に危機感を覚えて手を引っ込めそうになったが、試されているのだと思って耐えた。見ると、レゾンの左手には白い氷の結晶がごろごろと付着していた。キュミルはどうやらその結晶の様子を観察して首を傾げる。
「どうだい」
「フーン。……トウェンさん、これ、本当に〈昇梯〉の魔力かもだよ。ありえないくらい癖がなくて、密度が高い」
「!」
「もしこれが何かの魔法をくらった後の残滓なら、この人、もう生きてないねって感じ」
魔力の癖? 結晶化のパターンで魔法の痕跡の種類が分かるのか。レゾンはその技術と、実際に明らかになった事実に甚だしく感心した。
「じゃあ、彼は第34階層ビギナーじゃないか。ということは〈大浸食〉の話も本当ということになるのか? 冀石が欲しいなら自分で戦うっていうのも、冗談じゃないんだろう。あんまり怒ったら可哀想だ」
「む……」彼女は不服そうにレゾンに向き直る。
「あ、ああ、いや。誤解が解けたならよかったです。……ところで、第34階層は他と何か違うんです?」
精霊の力を持つ少女の鋭い視線にたじろぎつつ、レゾンは訊ねた。先ほどから何か、レゾンが彼らにとって敵かどうかとはまた別に、現状について認識の相違があるような気がする。
「——とりあえず、自分の力で冀石を獲得しようとするのは諦めた方がいい。キュミルの言う通り、一人ぶんくらいなら冀石を分けたって構わないから、今すぐそれで第35階層に〈昇梯〉する、これがきみにとっては一番良い選択だろう」
心の中で即、却下しつつ、レゾンは顎に手をやって考える格好をした。一人では冀石の入手は困難……というのは、魔獣猟の経験が浅い人物に対する常識的な忠告である。しかし彼の口ぶりでは、まるでこの階層に特有の障害があるかのようだ。
「それは……どういうことです? 第34階層に特色があるならせめてそれを理解しておかないと、第35階層でも同じかもしれませんし——教えて頂けませんか?」
「いや、他の階層はこんなことにはなっていないと思うけども……」トウェンは歯切れ悪く言う。「——きみの得物はその剣かい?」
「はい」
「じゃあそれで、あの魔獣を殺せるか?」
問われて、レゾンは言葉に詰まった。彼らが狩った大型魔獣の死体を振り返る。冀石は既に抉り取られた抜け殻。巨体は崩れ落ちて潰れているが、それでも見上げるほど大きい。毛深いが、獰猛な顔と筋肉質な体をしているのが分かる。立派なツノは一突きで人間を殺せるだろう。牙、爪も然り。
もしギラム人があの魔獣を討伐しようとしたら、大掛かりな罠や武器を用意した上で五十人規模の部隊を編成するだろう。
「いいえ……まさか」
「そう、あれがこの階層では最弱クラスの魔獣だ」
——呆気に取られる。
「それは——なるほど……。貴方がたから冀石を貰おうとする輩がいるはずです。俺はお上りさん丸出しだったわけだ」
「どうする?」
「いやいや……、知ってしまったら尚更、恵んでもらうなんてできませんよ。何か俺にできることはありませんか?」
「きみが言ったんだろう、情報を先払いすると」
「あれで俺が不埒な輩でないと信頼してもらえたのなら、それが対価です。元々は、俺に仲間のぶんの冀石を諦めさせるつもりでああ言ったんでしょう?」
ここで勝手に一人で〈昇梯〉しろと突き放されるわけにはいかない。レゾンはあらゆる言葉を操って食い下がった。しかし同時に、レゾンを拾っても彼らには何のメリットのないことも、分かっていた。
ぐ、と覚悟を決めて、レゾンは眉を寄せて胸元の布を握るようにした。
「……お願いします、俺にはもう仲間がいない。しばらく貴方がたのために何かさせてください。考える時間が欲しい……」
この厳しい環境なら、ギラムの生き残りは、いるとして——その上で複数回ぶんの冀石をちゃんと〈昇梯〉に巻き込んで所持しているものとして——もうこの階層に留まる理由はなく、第35階層以上に〈昇梯〉しているはずだ。
そのことがほぼ確定しただけでもありがたい、しかし、足りない。レゾンは彼らの「魔法」が——〈幻鎧〉が、欲しい。……その欲望は、決して見せないように。
「…………」
キュミルは心底理解不能だという風にレゾンから顔を逸らした。だが、トウェンは違った。
「——みんな、ごめん。おれ……見捨てられないや」
彼はそう、仲間に向かってはにかんだ。仲間内の亀裂を作ってしまっただろうか、とレゾンは静観する。しかし、危惧していたようなことにはならなかった。
「……もう、トウェンさん優しすぎ!」とキュミルは呆れて、しかし反対はしない。
「え、今どういう状況? 〈大浸食〉がどうこう言ってなかった?」「よく分からん。まあトウェンが言うならいいだろ」「ちゃんと面倒見るのよ」
奥でようやくこちらを見た彼の仲間達は、顔を見合わせながら適当に対応する。
「みんな、ありがとう」とトウェン。
「え? ……本当にいいんですか? そんな、犬猫を拾うみたいに……」その軽さについていけず、思わず訊ねてしまう。
「おれ達は基本、個人のやりたいことを妨げないからね」
「はあ……」
都市じゃあり得ないことだ。構成員の一存で余所者を入れてしまうなんて。
「剣だけ、一応預からせてもらうね。あとはみんなを怒らせない範囲で好きにしてくれていい。ああ、忠告だけども——」トウェンは寄ってきてレゾンが置いた剣を拾いながら、最初から何も変わらない穏やかな調子のままで言う。「きみは〈幻鎧〉を知らないだろう。性質上、今、キュミル以外の幻鎧士はきみを殺さないように加減なんてできないから気をつけるようにね」
脅しだ。大人しくコクコクと頷く。
「それからおれ達——シィアは、エルメ……神鳥及び鳥類系の魔獣と同盟を結んでいる」
「神鳥、というのは?」
「おれ達はエルメと呼んでる。第34階層で、ある意味一番影響力を持つ強い鳥の魔獣だよ。そしてエルメは他の鳥の魔獣と仲良くしている。だから、彼女達の扱いにも気をつけてくれ」
「魔獣と、同盟、ですか」レゾンは目を見開いた。
「色々事情があってね、友好関係のついでに守ってもらっているんだ。おれ達から逃げおおせたとしても、彼女が必ずきみを見つけるだろう」
シィア族——近づいても尚得体の知れない存在だ。レゾンは「鳥類には優しく、ですね。心得ました」と返事する。それからほっと脱力してみせる。
「……貴方がたの不都合になることはしません、約束します。天の導きに感謝します——夢にまで見た新階層で一人野垂れ死ぬかと思っていましたから。シィア族の皆さんの力になれることがあれば、何でもやらせてもらいます」
「——。そうかい。ありがとう」
今のところまだ、トウェンの慈悲だけが味方の状況ではある。だがそれにしがみついて、〈幻鎧〉の正体に迫ってみせる。
「〈大浸食〉の話なんか聞かせて欲しいな。——その前に、水分補給しようか。きみ、今にも倒れそうだ」
「すみません」
トウェンはそう言って、水袋を取りに最後尾から離れた。トウェンの話が終わったらしいと見て、シィア族たちはゆっくりと歩みを再開する。キュミルはふいと前に混ざって行ってしまう。
どれほど無関心なんだ。レゾンは若干の不安感を抱えたまま、彼らに続いて歩き始めた。するとその隙に、遠巻きに見ていた青年が「おい、君」とレゾンを呼んだ。彼は両手をポケットに突っ込んで、葉巻をそうするように、植物の茎(?)をずっと噛んでいた。癖がなく少し長めに伸びた濃い青の髪はレゾンの目に新しい。都市ギラムなら「女のようでだらしがないので切りなさい」と言われかねない髪型だが、彼の態度やきりっとした太い眉に女性らしさは全くなかった。
「君はシィアには馴染めないタイプだ。一目でわかる」
「馴染めない……ですか」
彼もレゾンに忠告をしに来たようだ。レゾンは殊勝な態度で応じた。だが間隔を広くとって隣に並んだ彼は、歩きながら真っ直ぐに前ばかり見ていた。
「まずそのゴテゴテした喋り方」決してレゾンの方を見ないまま、前のめりに指摘。「方言だか何だか知らんが耳障りだ。殴りたくなる」
「な、……。……敬語のつもりだった。そうか、使わない方がいいか」
「断然マシだね。ゼロ点からプラス五点。百点満点中」
「厳しいな……」
薄々感じていたが、シィア族に上下関係の概念は薄いのかもしれない。しかし余所者にいきなりタメ口を叩かれるのも嫌ではないのだろうか。嫌なんだろう。五点ということは。
「第33階層が〈大浸食〉を受けたってのは、本当か」
「……ああ」
なるほど、〈大浸食〉のことには興味があるようだ。
「第34階層が〈大浸食〉を受けるのはいつだと思う」
「実際に〈大浸食〉の間隔がどんな風に狭まってきたのかはまだ分からない。八階層をかけて徐々に早まったのかもしれないし、いきなり数階層が一気に呑まれたのかもしれない。俺は丁度、それを調査しようとしてたんだが、間に合わなかったんだ。だけど……少なくとも十年以内には起こると思った方がいいだろう」
「フン……十年。長いな」
「少数の集団にとっても知っていて損はない情報だと思うが、あんたたちにとってはそうかもしれないな。都市であるギラムにとっては短過ぎた」レゾンはため息混じりにぼやいた。「あんたたちはシィア族の一部なのか?」
「いや、違う。シィアは今全部で三十八人だ」
「へえ……」
だいたいこの階層世界というのは、少数の集団の方が早く上へ上へ到達するものだ。その規模感の集団が健全な構成で魔法使いさえ擁しているのに、六〇六年になってまだ第34階層にいる……というのは珍しいことだろうとレゾンは思った。彼らの経歴が知りたい……。
「そうか。それならあまり心配はいらないな。冀石は足りそうなのか? なんとなく、幻鎧士——は魔力を帯びた存在だから、必要量が多そうだと思ったんだけど」
「——……」
そう訊ねると、彼はなぜか黙ってしまった。レゾンは怪訝に思って彼の言葉を待ったが、トウェンが戻ってきたことで、彼は一気に話を切り上げる方向に舵を切ってしまった。
「心配されるようなことは何もない。僕らが〈昇梯〉に必要な冀石を稼げないと思ってるのか? あんまり舐めるなよ」
「ごめん、そんなつもりじゃないんだ」
怒らせてしまったようだ。彼は引き留める間もなく歩みを速めて行ってしまった。入れ替わりにトウェンがやって来て、レゾンはすみません、という表情をする。みんなを怒らせない範囲で、と忠告されたそばからやってしまった。
「ふふ。彼はあれでかなり繊細でね」トウェンはこっそり言った。「みんなが心配で、君がどんな人間か知ろうとしたんだよ」
「だといいんですが。……っと、あんたも敬語じゃない方がいい?」
「きみの楽なように。それより、はい」
都市ギラムでは、水を携帯するには革の水袋か金属の水筒を使うことがほとんどだった。何かの胃袋で作ったらしい馴染みのない水袋を受け取りながら、レゾンは心から「ありがとう」とトウェンに伝えた。敬語の方が楽ではあったが。
水で舌を湿らせると、味覚を中心に世界に色が戻るような感覚がする。寝起きの頭痛がまだ続いていると思っていたのはただの脱水だったな、と苦笑した。




