第13話 主よ御許に近づかん
レゾンは雨が嫌いだった。日差しがなくては、日中にも頭に悪夢の気配がこびりついて取れないからだ。
しかしそれは、今や贅沢な悩みだった……乾ききった熱砂の上を進むレゾンの足取りは重く、能動的に歩いているのではなく倒れないように規則的に足を前に出しているといった有様だった。第33階層のギラム人の行動圏内に砂漠地帯はなかった。靴に砂が入り込んでいる気がする。気持ちが悪い。しかし脱ぐわけにはいかない。
レゾンにとって初めての〈昇梯〉は、それ自体はつつがなく済んだ。
階層ごとで、[導灯の大樹]の位置と時間の流れ……つまり束陽の周期……は変わらないとされている。拡散し始める夕方の束陽の進行方向と位置から、レゾンは己の階層上での座標が第33階層におけるベルメト山の座標と一致していることを確信した。つまり階層の中央から見て南東方面である。
己の生命にとって喫緊の課題はオアシスを見つけること、あるいは砂漠を抜けることであり、全く助けを望めない以上とにかく移動しなければならなかった。[導灯の大樹]に近い方が水が豊富にあるという考え方もあるが、信憑性はない。結局は運だ。レゾンはそう思って、ベルメト山から見て都市ギラムの方角である北北東へ進路をとっていた。もし都市ギラムから〈昇梯〉することができた人間がこの第34階層にいるのなら、そこに昇ってきているはずだった。
今、世界の見え方は、なめらかな砂が描く丘たちと快晴の空という二色だったが、燃えるようだった夕焼けの空がだんだんと温度を失っていき、砂漠もまたそれに染まっていくので間もなく一色になりそうだった。一定の速度で歩くことは正しい判断だと思いつつも、このまま遮蔽も補給もままならない場所で夜を迎えることは恐ろしく、どうしても気持ちが逸った。何より孤独だった。
ふとした時にレゾンはイグロスの気配を探して振り返ったし、テミテミの言葉を思い出してため息を吐いた。ろくに心を許さなかった親族の最期の顔を想像し、慌てふためく元老院や執政官たちを想像した。ただただ虚しかった。だが、だからといって自ら命を絶とうなどということは、信念が、燃え滓に成り果てたとしても絶対に許さなかった。
訪れつつある夜の暗黒に、視界の端に見た黒い波を想起した。邪神の咀嚼を受けた第33階層の暮れとは打って変わって、砂漠では“海”の気配がほとんど感じられない……。レゾンにとってこの大地は、天空神の膝元、天国、のような気さえしたが、それは紛れもなく錯覚でしかない。
階層世界に月や星にあたるものはない。神々が不必要と判断したのだろう。故に階層世界の夜は[導灯の大樹]が内包する魔力の発光によって僅かに照らされるのみだ。それからも距離があれば、夜目が効かない動物にとっては全くの暗闇である。
束陽の光が西の空から消えた頃、進路の先に砂の丘の影がなくなり、足裏に伝わる感触が硬いものに変わった。サラサラとしたのではなく岩っぽい地面になったことが僅かな陰影のつき方の差でよく分かった。ようやくレゾンは〈昇梯〉に巻き込んだ貴重な物資に手をつけた。携帯食は水で戻すことを想定した乾パンしかなく、咥え続けてなんとか飲み下した。しかし脱水になれば唾液が減り、この手も使えなくなるだろう。水は温存しつつ、早く水場を探さなくては。
遠くには動物の群れも見えて、彼らは何かを食んでいるようだった。それを見て視線を落とすと、この地帯には背丈の低い草がところどころ生えているのが分かった。
余裕がある今のうちにとそのまま食べてみると、言わずもがな不味かったし、気分が悪くなったのですぐにやめてしまった。しかし、採集という行為を取り戻して少し余裕が出たのかもしれない。時たま見かけるネズミなどにいちいち神経を擦り減らされつつではあるが、レゾンはひとまず岩に凭れて眠った。
……レゾンはやはり“海”の夢を見た。だが今日は、昨日と変わらない小魚の姿をした彼女は群れと一緒にレゾンの周りをぐるぐると泳ぐだけで、目の前には来なかった。クスクスと嬉しそうに笑っているような気はする。
何が面白い! と、レゾンは叫ぶつもりで口から泡を吐いた。すると彼女は笑うのをやめた。群れの泳ぎが興奮したように速くなった。
それだけだった。
咳き込んで起きる。周りに人がいないので気を遣う必要がない。いつもより症状は軽いが肺は乾いて軋むようだった。明け方だ。束陽はまだ東の空で収束を始めたところだ。
レゾンは頭痛が治まるのを待たず、凍えた体に鞭を打ち再び歩き始めた。ぼんやりとした陽光によってできたぼんやりとした影が付き纏う。
そのようにしてもう一夜をも過ごした。三日目。
魔物に出くわさないのが幸いだった。それに砂漠の性質はすっかり砂砂漠から礫砂漠へと移ろったようで、歩くのは昨日までよりも楽だった。だが確かなのは、これほど歩いても都市ギラムの気配は欠片も見つけられなかったということだった。
そこからの道中、特に変わり映えはしない。
レゾンの頭の中では、喋る時の吃りがちな様子からは想像がつかない透き通った立派な声で歌う弟の讃美歌が呪いのようにループしていた……。それをぶち切ると、「セノは歌が上手いんだな。知らなかった」と記憶の中のレゾンが弟に微笑んだ。二人は昼下がりの静かな街外れにいた。姉に泣かされた弟を連れ戻す役を買って出たのだった。歌い終えた弟は途端に居た堪れなさそうに背を丸めて俯いて、「そ、そんなことないよ……」と言う。「謙遜して何になる」「でも……」「でも?」「……ううん、えっと……兄さんに、聞いてもらえて……その、嬉しかった」「そうか。聖歌隊ではどうだ。上手くやれてるか」「うん。オベスムって言ったら、兄さんと姉さんのことを知っていたみたいで……その……」「俺たちより上手いと褒められたか」「ど、どうして分かるの?」「それが事実だからだよ」「…………」セノ、そもそも俺は……天空神に祈りを捧げるのはあまり性に合わないんだ。天空神は既に〈昇梯〉という祝福を与えてくれているのに、歌を歌ったってどうにもならないのさ、だがどうして今俺の頭からは死んだお前の歌がこびりついて離れないんだ?
ズドーン——と現実の耳に突然大音響が届く。レゾンの進行方向から少し北に逸れているくらいの方角だった。だいぶ遠い。地面が揺れるほどではなかったが、第33階層の最後を思い出して体が緊張する。砂埃が立っているのが遠くに見える。いつの間にか束陽はすっかりその名の通りになり、綺麗な円形になっている。様子が確認できる距離まで近づいていく。
「……地竜……ではないか」
地竜は、魔獣のヒエラルキーの頂点だ。飛竜は他の地竜に対抗するために魔力量を落とす代わりに翼を得た種族ではないかとされている(魔力が多いと“海”からかかる引力が大きくなるので重量が増えるという法則がある)。例えばベルメト山の飛竜があまり飛ばないのは、魔物にとって飛行が大きな代償を伴う行為であることを物語っていた。
もし地竜がいて、戦っているとしたら、レゾンの体にはもっと魔力による圧がかかっていなくてはおかしかった。やはり地竜ではなさそうだ、と肉眼で判断できたのはもう少し近づいてから。砂煙の向こうに大きなシルエットが見える。……さすがにこの短剣で戦えはしないか。
改めて見るとずんぐりとした図体をしていて毛深いのが分かる。[雷を下す飛竜]の半分にも到底満たないが、大型であることに変わりはない。その下に何かが群がっている。魔力の気配がレゾンにも感じ取れる。魔法が炸裂しているようだ。
「群れ対個か……どうなるやら」
あの大型魔獣が勝てば、群れの一部は冀石となって放置されるかもしれない。レゾンは野次馬心で観察を続ける。大型魔獣の動きは大振りで、低い咆哮がこちらまで聞こえてくる。空気が陽炎どころではなく強く揺らめく。魔法で熱気が狂っているらしい。
迂回しようとして——しかし直後、信じられないものが見えて、レゾンは目を瞠った。
「……え?」
群れの方で誰かが腕を上げたようだ。彼らは人間の群れだった。




