第12話 それは愛による
瞳孔が開き、脳に覚醒状態が染み渡る。レゾンは人差し指を曲げ、唇に添える。相手は飛竜を斃し“海”の意思を宿す危険な魔鳥——ここで奴をやらなければレゾンは“海”に呑まれて死ぬ。弓矢を操るイグロスの手を借りなければ全く太刀打ちできないだろう。しかしレゾンは逡巡した。冀石の既に足りている、女もいるイグロスを、こんな分の悪い戦いに付き合わせるのか?
自分がテミテミに言った言葉を思い出す。救えるものを最大限救うためだ。後悔はない。信念に狂いはない。覚悟はできている。二人のために、ひいては都市の血を継ぐ人類の未来のために、必要ならば自分を諦める覚悟は……。
「——な」
その一瞬の隙に、彼女は飛び立って、レゾンに向かって一直線に飛んできた。レゾンは反射的に剣を抜き、その首を刎ねようとする——しかし剣は魔法の力に軽く阻まれて空中で止まり、彼女は、その刃の上に優雅に趾を下ろした。戦慄する。
「っ……‼︎」
——なぜまだここにいる? なぜ冀石を手放した? 君は……生きなければならない——。
「は、っ」
そのまま、彼女は、レゾンに歩み寄る。剣を持つ腕が痺れるように感じる。終わりゆく階層の中で今、自分とこの魔鳥だけが静止している。視線が逸らせない。二つの頭についた四つの瞳孔、鋭い嘴、毛並みの一本一本が見える。
「……、何だよ……」
彼女はそして、二つの嘴を斜めに向かい合わせるようにして内向けた。
「!」
その嘴が、彼女自身の肉を突き刺す。血が流れる。レゾンは混乱して何もできなかった。彼女は続ける。嘴が中心から、上下へと、ゆっくりスライドされる。嘴が肉を切り裂く。血が流れる。内臓が見える。剣身が赤く濡れる。血溜まりができる。首を分つ又が広がるようにして体が真っ二つに裂けていく。
「…………」
しばらくするとついに彼女は力を失って、二つの首はでろりとくたびれて、体が溶けるように力を失う。彼女は剣の腹の上で死んだ。レゾンは剣身越しに、その体内で生まれる美しい宝石の感触を得た。それは脈拍と共にだんだんと大きさを増していく。
「……俺に、これで〈昇梯〉しろと言ってるのか」
レゾンは剣を下ろした。ぐしゃりと魔鳥の死体がこぼれ落ちる。レゾンは暫し呆然とした後、剣先でその死体を弄り、成長途中の冀石を抉り出した。この魔鳥の秘める魔力量を考えると、冀石は本来もっと大きくなるはずだったが、この時点で拳大よりも大きく、確実に〈昇梯〉に足りたからだ。
「……——」
目標を達成したので今から合流しよう、という合図を決めていなかったことにレゾンは気付いた。“海”がここに到達するまでまだ時間がある。レゾンは指笛を断続的に吹きながら移動し始めた。二度吹いて先に〈昇梯〉してしまわないのは、リエネが持っている冀石が二人ぶんに足りなかった場合が恐ろしいからだ。まだそう時間は経っていないから、近くにいるだろう。
しかし中間地点と思われる場所を過ぎても、二人が向かい側からやってくる気配はなかった。あるまじきことだが、異常な状況に集中して合図を聞き逃していたのか? それとも……。レゾンは心配になって足を早めた。
この頃、地面の揺れ方はまた変わって、昔川で乗った不安定な船を思わせるもったりとした大揺れになっていた。人によっては神経がイカれそうだ。
「イグロス、リエネさん……どこだ? もう青天井の上にいるのか?」
思わず呟いて、不意に孤独を感じた。レゾンは親を見失った雛鳥のように取り乱しそうだった。もしもう二人が第34階層にいるのなら、何の問題もない。そうであってくれ、そうでなければ今すぐに姿を見せてくれ。
非魔法生物である人間の気配を察知するのは困難だ。リエネは冀石を持っているが、冀石の魔力は閉じているため感知できない。
「イグロス——! 返事をしろ! ……うわっ」
突然、足場が崩れた。いや、元々、地面が突然途切れるのが草に覆い隠されて罠のようになっていたのだ。迂闊だった。姿勢を崩されて急斜面に追いやられ、レゾンはいかにうまく滑り降りるかに神経を使うしかなくなった。
幸い少し手を擦った程度で済んだ。しかし不思議なことに血の匂いがして、レゾンは怪訝に思ってスンと鼻を鳴らす。手に持った冀石からではない、これは、もっと濃厚な……。
新鮮な死の匂い。
「は?」
——レゾンの脳は理解を拒否した。死臭のもとは少し離れた岩陰だった。
人間の腕が見えた。それはレゾンにとってよく見慣れた……天才肌の弓使いのものだった。なぜ? 重たい体を引きずるような気分で駆け寄ると、仰向けになったその逞しい男の上に折り重なるようにして倒れる女の長いブロンドの髪と細腕が見えた。なぜか。その両腕は祈るように胸元へと向いていて、そこから血が流れている。男は——イグロスは——眠るように目を閉じていた。鼾は聞こえない。息をしていないからだ。広がる血は女のものであり、彼のものでもあった。他に、特に外傷はない。襲われたのであれば、こんな同衾しているかのような大人しい死に様にはならまい。
無理心中、か。
「この——ッ」人前でなくとも口にしたことがないような暴言。
レゾンは怒りに身を任せてその真相を確かめようとして、しかし、イグロスの片手がリエネの背を抱いているのを見てすぐに声にならない絶叫を上げた。心のどこかで、イグロスは抵抗したはずだと信じていた。なのに、これではまるで——。
「…………」
レゾンは膝を折った。力が抜けると、この揺れる大地にはとても立っていられなかった。
結局……レゾンは誰も、救えなかった。もし、今都市からいくらかの人間が〈昇梯〉できていたとしても、それはレゾンの功績ではなかった。
「っ……、何で……」
怒涛の唸りが聞こえる……。ギラムはもう呑まれただろう。
ふと、父親のことを思い出した。ティタ族族長カニス・オベスムの弟、バヒラ・オベスム。小心で優柔不断な兄とは違って開き直っており、政治には分からないので関わらないと豪語していたが鷹揚という意味でカニスよりも立派な人間だった。それと妹の方に興味が移った母によって、手のかからないレゾンはほとんど放任された。レゾンは実親ではなく、夢で接触してくる“海”の与える恐怖に導かれて育った。
妹は愛されて育ち、レゾンに似て器用だったが少し飽きっぽ過ぎるところがあって、特に何になろうとするわけでもなく、結局他の女と変わらない生活をしていた。時折友人に兄たるレゾンの自慢話を有る事無い事勝手に語って、その辻褄合わせに付き合わされるので面倒だった。彼女の下に生まれた弟は彼女の下僕だった。気弱で流されやすい性格に育った彼はレゾンに対しては酷く緊張するようで、レゾンは当たり障りなく優しくするのみだったので、ほとんど他人と変わらない関係だった。
彼らも、補佐官時代以前に関わった大人たちも、きっともう波の中だ。
レゾンは決して彼らのことが好きだったわけではない。ただあの馬鹿みたいで意味のない日々こそが守るべき人類の平和なのだということを、理解していたのだった。
レゾンは手の中の冀石に視線を落とした。彼らを平気で呑み込む“海”が、ただ一人、レゾンに宛てた冀石。第34階層への片道切符。
レゾンはそれを放り捨てて、リエネのポシェットから冀石を取り出す。
「……さよならだ、第33階層の楽園、都市ギラム」
“海”がその少しばかりの意地を見ていたかどうかは分からない。レゾンは“海”に選ばれた存在としてではなく、都市人の生き残りとして〈昇梯〉することを選んだ。
第34階層での再会か、あるいは新たな出会いを願って。
「天空神よ——俺は〈昇梯〉する」
人間が使える唯一の魔法を、今、行使する。
冀石が赤く光り、濃い魔力がレゾンを包み込む。景色がフラッシュし、自分の存在を外側から証明するすべてのものを見失う。意識だけが……ある。漂って、逆さまになった世界で上へ上へと落ちていく。
*
——時間の断絶の後、レゾンは己の肌を撫ぜる埃っぽい風によって存在を自覚した。
見渡す限りの、砂海。第34階層。
第一章、都市ギラム沈没編、完結です。
第二章もこのまま始まりますのでぜひお付き合いください。よろしければ評価、感想、ブックマーク等いただけると励みになります。




