第11話 最後の足掻き方
まず、ドン! と強い縦揺れ。「きゃあっ」とリエネとテミテミの悲鳴。大地を踏み締めているはずが足場が不安定になり、ありうべからざる浮遊感に全身がゾクリとする。次に地鳴り。この世の終わりだ——と、レゾンは思った。正しくは、この階層の、終わりの時であった。
「えっ——本当に……〈大浸食〉? また魔獣が起こした地震じゃ……」
リエネが口にした希望的観測は、次に始まった酷い横揺れによって否定された。この横揺れは山の脆い部分を崩落させながら、少し経っても終わらなかった。四人は各々、一番近い木にしがみついた。枝が大きく揺られて痛いほどざわめく。
「う、……立ってられない……!」
「レゾン、何で〈大浸食〉だって分かった!」
「……“海”が……、俺にそう言ったんだ。今から、この階層を、呑むと」
「はあっ? 意味分かんねーよっ、どうすりゃいい⁉︎」
「ギラムはもう駄目だ」レゾンの口調は冷めて淡々としていた。「冀石の貯蓄自体は足りているが、あの都市人が事態を把握してから最善の方法を決行するより先に、“海”がギラムを呑み込むだろう。いずれにせよ俺たちにできることはない」
「そんなっ……、ギラムには……ウリューたちがいるのに——」
そう叫んだのはテミテミだった。ウリュー……その名前は知っている。彼女の、亡き夫との間にできた十三歳の長女だ。その下に弟とさらに妹がいる。
「テミさん、」
「ウリュー……ユーゼ、カイちゃん……‼︎」
「無茶だ」
激しく揺れ続ける地面を這うようにして、錯乱したテミテミが坂を降り始める。レゾンは彼女を引き止めようと手を伸ばしたが、揺れのせいで狙いが定まらず、彼女はうまくそれを避けた。
「テミさんッ! 落ち着け、止まれ! 都市が惜しいのは分かるが、あんたまで死ぬことはない! 俺たちはせっかく山の上にいるんだ!」
「はっ、はっ……」
「俺たちは今、まだ納品してない冀石を持ってる、あれで二人ぶんくらいにはなる! 俺たちで〈昇梯〉するんだ……! 魔獣だって〈大浸食〉でパニックになって出てきて、見つけやすくなるだろう! 勝つんだ!」
「でもっ……でもっ、それじゃウリューたちはっ……」
「テミさん、冷静になれ、ここからギラムまでどれほど離れてると思ってるんだ! 未来を繋ぐためにどうすればいいか、分かるだろ!」
「でも——」
レゾンは思わぬ事態に焦っていた。テミテミは聡明で、レゾンを応援すると言ってくれた人だ。その彼女の姿はしかし、実際の〈大浸食〉を目前にした今、まるでレゾンが見ることを恐れた典型的な都市人の無様のように見えた。
テミテミはレゾンを睨むと、涙混じりに怒鳴った。
「でも、あの子たちを見捨ててウチが階層を昇ったって……それで何になるのよお——」
「テミさ、」
そして、彼女はなりふり構わず走り出す。揺れはいっそう大きくなってきていた。
「テミさん、違う、ギラム人の未来は——今、俺たちの手にあるんだ……俺たちが生き残らないと……」
「レゾン」
その愚かな選択に愕然としたレゾンの耳に、咎めるようなイグロスの声が届く。レゾンはいつになく棘のあるその声音に驚いて彼を見た。
「好きにさせてやれ」
「イグロス——本気か、あのままじゃテミさんは死ぬ」
「わり、あのテミテミはオレには止めらんねーわ。——つーわけで、オレとリエネとお前が生き延びる方法を考えようぜ」
「…………」
正気とは思えない。死にに行くテミテミを見殺しにするなんて。これはテミテミが娘たちを諦めることとはわけが違う、彼女はまだこれからのアクションによって助かる可能性があるからだ。もう手が届かない都市にいるウリューたちとは違う。だがリエネも何も言わない。
彼らの倫理では、間違っているのはレゾンだった。レゾンはじわじわと二人から突き刺さる非難の気配を察して、牢に放り込まれたあの日の絶望が瞼の裏に蘇り、声を荒らげた。
「……俺だって——生き残る気のない奴らに嫌気が差すことだってあるんだ、クソッ!」
テミテミに抱いた期待が反転して深い憎しみに変わりそうになるのを、理性で堪える。ただしその種類の憎しみは新しいものではなく、既にレゾンの心の底に溜まっているものだった。ムシャクシャして、ドン、と拳で木を叩く。眼下では、揺れに耐えきれず倒れる木や転がる岩も見え始める。
「イグロス——あんたは……ここで〈昇梯〉してくれるよな? あんたはそういう奴だ、自分が死んだら世界は終わりだと思ってるタイプだ」
「ああ、だが、このままじゃ冀石が足りねーぜ」
「どうして?」
「どうして、ってお前……一人を取り残すつもりか?」
「あんたとリエネさんで〈昇梯〉すればいい。冀石はリエネさんが持ってるだろ」
「お前は」
「あんたとリエネさんの〈昇梯〉が最優先だ、男と女がいれば存続する希望が持てる。俺は後から何とでもするさ。してみせる」
「……レゾン君……」
リエネが顔を顰める。レゾンには、彼女が何を不満に思っているのか理解することができなかった。無論レゾンにここで死ぬつもりはない、上手くいけば第34階層にて落ち合えるだろう。自分とイグロスがいれば狩りにも困らない。
「——レゾン。“海”がこの山を呑み込むまでどのくらいだ?」
「そんなことまでは分からないさ、だけど、たぶん二十分とかからないだろう」
「じゃあそれまで、〈昇梯〉はお預けだ。今すぐお前のぶんの冀石になる魔物を探すぞ」
「……ありがとう」
イグロスは、レゾンのことは諦めていないようだ。それは心強いが、不安なのは、果たして現在この周囲で、“海”が到達するまでに魔物を見つけることはできるのだろうかということだった。
「でも、二手に分かれよう。俺は南から行く。魔物を見つけたら指笛を一度鳴らす。もちろん途中で危険を感じたら先に〈昇梯〉してくれて構わない。その時は二度鳴らしてくれ。これでどうだ」
その時、鳴動。山脈のどこかで大規模ななだれが起こり山体が崩壊し始める。不変だと思われていたものたちが壊れていく。自分の頭を抱きしめるように丸まったリエネが恐怖で上擦った声を出す。
「も、もう嫌だ、イグロス、私——こんな世界——」
大地に亀裂が走って、その隙間から“海”が溢れてくる。いよいよ本格的に〈大浸食〉が始まったのだ。
「時間がない」
「チ……そうするしかないか。行くぜ、リエネ! オレの腕に掴まっとけ!」
「う、うう——」
「また後で、イグロス」
「ああ、兄弟。死ぬなよ」
ぶれる世界で二人は目を合わせて短く頷き、レゾンは宣言通り山の南側へ向かって進みだした。揺れる地面の上で動く感覚を掴んで、すぐに思い切って低い姿勢で走る。
実際走れているかは分からないが、進んでいれば問題ない。体は本能に突き動かされている。それにしてもいつもの夢の中のような現象を現実で体験したのは初めてだった。あの時確かに、双頭の鷹は夢の中の海魚と同じく“海”の代弁者だった。レゾンはその鳴き声から〈大浸食〉の予告を受け取った。
これで、レゾンが直感的に確信しつつも客観的な証拠にはできなかった“海”の囁きが、本物だと証明された。惜しむらくは、“海”の警告対象はレゾンだけであって、都市人ではなかったということ……レゾンはそのことを薄々分かってはいたが都市人を救うには間に合わなかったことだ。
彼女は一体どういうつもりなのだろう? 邪神と呼ばれる恐るべき海神は、なぜレゾンに警告するのだろう。昔から、その言葉は〈昇梯〉を急かし、レゾンにそれをさせない都市人を非難しているようだった。レゾンの思想は彼女の訴えと一致していたから、都合のいい幻覚だという疑念を拭いきれなかった。
「……“海”よ、俺のためと言うなら、ギラムを呑むのを待ってはくれないのか」
応えは、大地を割る低い唸り声。
レゾンは気持ちを切り替えて、魔力の気配を探った。“海”が階層に到達したことで起こった変化は、やはり地下の魔力濃度の上昇だった。水と共に浸透しているのだろう。その水に触れた植物が、吸水量の多い種から枯れ始めている。そうしてやがて大地は噛み砕かれ、植物と共に呑まれ消化され、ただ“海”の使者である[導灯の大樹]のみが立つことになるだろう……。
もう一つ悪いニュースがあった。魔獣も〈大浸食〉から逃れるために姿を現すだろう、というレゾンの予想は全くもって外れていた。動物の気配も魔力の気配も全くない。
「……もうこの山には魔獣はいないのか」
イグロスたちと別れてしばらくして、レゾンがぼやくと、“海”は答えた。
——かれらは——もう、胎へと戻った……。
「……!」
いつの間にか、あの双頭の鷹が舞い戻ってきてレゾンを見つめていた。レゾンは足を止めた。彼女の気配は強すぎて距離感が測れない。
胎へ戻ったということは、魔獣たちは〈大浸食〉から逃れようとするのではなく反対に“海”へと降っていったということか。……道理で山の上に魔獣がいないわけだ。レゾンは、途轍もない徒労感に襲われた。
「……じゃあ、あんた……あんたが、ここにいる最後の魔獣ってわけか……メッセンジャー、ご苦労様」




