第10話 ベルメト山再調査-③
それから一行は六つの大穴と三つの冀石のある死体を見つけたが、やはり危険は何も起こらなかった。
——この頃ようやく、ずっと引き締まらなかったメンバーの空気が微妙に張り詰めてきた。次の大穴へ直進しても何の問題もない。きっと次もそんなような気がする。
これは異常事態だと、経験が警鐘を鳴らしている。
飛竜の尾を踏む以外で何か起こって欲しい——それが全員の共通の思いだった。
「レゾン」
「うん、」
「結構登ったが……大丈夫なのか?」
イグロスの言葉でレゾンは我にかえって、振り返った。確かに随分登ってきたようだ。ベルメト山はクウァイ森林にかけての麓は緩やかで緑が深く、中腹から木が減り急峻になるのだが、一行はその地形の転換地点付近にまで到達していた。
「……状況を明らかにはしたいけど、さすがに飛竜にこれ以上近づきたくはないな」
「つっても、収穫がねーのも気持ちわりーな。放っておくとちとヤバそうだぜ」
「ああ……。他の魔物がどこに行ったのかを知るには、一旦降りてから周囲を調べた方がいいかもしれないな。——次の地点の魔力の気配はかなり強いんだ、そこを確認して他と変わりない穴だったら、そこでサンプルを採取してすぐ引き返すことにしないか」
「それ賛成」
リエネが、ようやく終わりが見えたことに安堵したようにそう言った。異議を唱える者はいなかった。
「テミテミ、レゾンに先行させて距離を取っとけ」
イグロスの指示でテミテミが離れ、レゾンは先頭に一人になる。背中はイグロスに預ける。
「…………」
いつもならその采配を、自信をもって最適な判断だと言えた。いや、今も自信がないわけではない。しかしレゾンは今、冷や汗が止まらなかった……そして武者震いがする。脳は妙に活発になっているが、理性が止まれと言っている。経験上、こういう時はまずい——命を意識するタイミング。すなわち危機だ。
後ろには大切な仲間が三人いる。これを感じ取れるのは自分しかいない。もう引き返そう、と、言うべきだった。
だが、レゾンは強敵に挑むのが好きだった。〈昇梯〉という生命の命題のためには魔獣を狩らなければならない。強敵と戦っている時、レゾンは都市ギラムの怠惰から脱却できた気分になる。そして——その感覚を、皆に理解して欲しいと思っている。
レゾンは岩肌の見える坂を見上げた。その上に気配の元はあった。足を滑らせないよう、慎重に岩に足をかけて登っていく。その途中、レゾンはプレッシャーに堪え切れずに剣を抜いた。
「レゾン?」
イグロスが怪訝に呟くので、レゾンは一度振り返って、立てた人差し指を唇に当てた。静かに。その冷静な仕草とは裏腹に、心臓が早鐘を打っている。
レゾンの第一の願望は都市の存続だが、もちろん自分の命を手放したくはない。敵わないと分かっている敵に挑み敗北することなど尚更だ。だから今レゾンはあくまで、「勝つ」気で歩みを進めているのだった。
耳元で誰かが囁いていて、それがレゾンに確信を与えているようだ——「進みなさい、君は大丈夫」。なぜ? あんたは誰だ? 己の深層心理の声か。そんなものを信用していいのか?
「……どうして……俺は、そんなことが分かる? そこに敵がいること、それでも、大丈夫だと……」
理性の呟きは小さく、レゾン自身の耳にもはっきりとは届かなかった。
坂の終わりでレゾンは身を伏せて、草陰からそうっと奥を覗いた。いつも通りに風が吹いていることが不思議だった。鉛のように重い息を吸う。
そしてレゾンは、剣を持った手を下ろして呆然とそれを見つめた。
「——、……そんなことが」
そこには、飛竜がいた。[雷を下す飛竜]。
山肌が抉れて窪みができていて、彼はそこに眠っている。伏せた雄々しい翼を持つ巨躯。緑がかった硬くて分厚そうな鱗の肌。人間よりも太い二本のツノ、生々しい瞼の隆起、凶悪な牙の覗く口元。レゾンが感じた魔力の気配は大量の流血によるものだった。苦しんで死んでいる。
レゾンは周囲を見回して、潜んでいる気配がないことを確かめると立ち上がった。後ろの三人に「目下の危険はない」と声をかける。
飛竜の全身にいくつかできた潰れたような傷は、全て面積が広くじゅくじゅくとしていた。汚らしい虫が湧いていてグロテスク。どうして事前に分からなかったのかというほどの酷い死臭だ。近づいて見ると、裂けて内臓が見える胸元に心臓は——冀石はなかった。
「えっ……」
遅れて到着した三人も言葉を失う。四人が一度も絶対的王者であることを疑わなかった飛竜の、惨殺体だった。これは。
「まずい状況だ。冀石がない——。万が一非魔法生物が犯人なら冀石は〈昇梯〉に使われるだけだが、周囲の異変に鑑みると……影響はやっぱりその方面じゃない。ただ飛竜が打ち倒されただけなら、この一帯はむしろ魔獣が活発になっていないとおかしい」
「他の魔獣が、飛竜を倒して、飛竜を喰らった——」
テミテミがゆっくりと、おそらく正しい答えを口にする。
それは、王者の交代を……飛竜に勝利した新たな王者が、飛竜の力をも取り入れて君臨したことを意味していた。
「だとすると、次の王者は——暴君だ」
実感して、方向感覚を失ったかのような錯覚に襲われる。それは、新たに認識した脅威の居場所や正体がまったく分からないことへの混乱だった。
「傷の様子を見るに、犯人は飛竜をも打撃できる強力な魔法を使える。途中で見た雷以外の魔法の痕跡——あれは飛竜の相手の魔法だったんだ! 並の魔獣じゃない。鉢合わせればもちろん、俺たちに勝ち目はない」
「そ、そんなの……」
「話が変わってきやがったぜ。——レゾン、ギラムに生きて戻って報告するのが最優先だ。帰ってから穴を掘るなら手伝ってやる。分かったな」
悔しいが、ここでサンプルを採取している余裕はない。レゾンはリーダーではないし、イグロスの判断は正しい。
「……ああ」
「さっさと降るぞ。レゾン、いつも通りお前が先頭だ」
レゾンは頷いて、きっぱりと踵を返した。眼下には森林地帯が広がる。辿ってきた道のりをだいたい頭の中で描きながら早足で進んでいく。その間もレゾンは思考を回して、頭の隅で引っかかっている違和感を捉える。
——敗北するくらいだ、飛竜には戦闘中余裕がなかったはずだ。しかしその雷の痕跡は、テミテミが通常の「雷を下す」行為だと判断するほど広範で疎だった。
飛竜を殺した魔獣は……空を飛んでいたのではないか。
「————」
レゾンはぎくりと体を強張らせて、立ち止まって上を見上げた。
ハッと息を呑む。その瞬間、レゾンの視野は突然狭くなったかのようだった。
「…………」
一羽の鳥が……木の頂上からこちらを見ている。鷹、と言っていいのだろうか。おかしいのは、その白い毛の首が途中から二又に分かれて、頭が二つついていることだった。
レゾンと彼女は見つめ合っていた。しばらくすると、彼女は何かを伝えるように、二、三度鳴いた。
それだけだった。それで——彼女はただすれ違っただけかのようにあっさりと飛び立っていく……遠く、湖のある南西の麓の方へ……。
「レゾン!」
「っ」
「アレだな? あいつだな、飛竜を殺したのは。どっか行っちまったが……」
「イグロス——」
「レゾン? どうした? ……どこを見てる?」
駆け寄ってきたイグロスがレゾンの目を覗き込む。レゾンは、ここから見えるはずもない湖を見ていた。
「ああ……」
力の抜けた声が漏れた。イグロスは、らしくもなく固唾を飲んでレゾンの言葉を待っていた。イグロスは何だかんだレゾンの「直感」を一番信用してくれている。しかし今のレゾンにとっては、その信頼ももはや意味がなかった。
「……イグロス。都市に対する警告の必要はなくなった」
「はあ? あの鳥は危険じゃねーのか?」
「違う。……もう、手遅れなんだ」
その問いに答えるとすれば、確かに、あの鳥は攻撃してこないだろう。問題はそこではない。
レゾンは告げる。
「——今から、〈大浸食〉が来る」
と。




