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第9話 春を待つ教室

 二年の最後の週は、片づけばかりだった。


 教科書を学年ごとの棚へ返し、机の中を空にし、黒板の上の当番表をはがす。イネス先生は、窓に吊るしてあった冬の灯りを、一つずつ下ろしていった。光はとうに消えていて、枠だけになった灯りが、班ごとに教卓へ並べられた。


「持って帰りたい人は、班で相談して決めなさい。残ったのは、来年の二年生に見本として置いておきます」


 エリオの班の枠は、ダンが持って帰ることになった。


「兄貴に見せる。俺が右の角だけ光らせたって言ったら、絶対笑うけど」


「言わなきゃいいじゃない」


「言うよ。で、真ん中から流したら全部光ったって言う」


 ミラは、自分の机の中から、乾いた葉を何枚も出した。秋に弟のために拾って、渡しそびれていた分だという。


「弟、春から一年生なの。この学校の」


「じゃあ、ミラが案内するのか」


「するしかないでしょ。あの子、絶対迷うもん」


 ミラは葉を帳面に挟み直しながら言った。


「私、三年になったら、図書の係、ちゃんとやりたいんだ。今年は当番だけだったけど、係になったら本を選べるの。一年生向けの、絵の多い本とか」


「弟のため?」


「……半分くらいは」


 エリオは、雑巾を絞りながら、教室を見回した。


 春に目を覚ましたとき、この教室には二十四の背中しかなかった。今は、一つ一つに名前があり、用事があった。窓際の前のほうでは、いつも弁当を忘れていた男子が、隣の子にパンを半分もらっている。廊下側では、口数の少ない女子が、掲示物をはがしながら鼻歌を歌っている。十四の自分は、一年間、ここにいて、何ひとつ見ていなかった。


 今度は、見た。


「フェルくん」


 イネス先生が、窓際から呼んだ。


「後ろの窓、閉めておいてくれる? 古いほう」


「はい」


 エリオは窓に手をかけた。持ち上げてから閉める。それから回す。留め具が、かちりと鳴った。


 その音の奥で、低い音がした。


 鐘ではなかった。もっと長く、途切れない、うなるような音だった。研究室の計器が、動いているときの音に似ていた。耳を澄ますと、窓の外の川音に溶けて、分からなくなった。


 この冬のあいだに、何度も聞いた。前より、途切れるまでが長い。


 エリオは、留め具から手を離した。


 *


 その夜は、ガルドが夕飯に来た。


 母が、豆と根菜の煮こみを大鍋で作り、父とガルドは、卓の端で来月の仕事の割り振りを話していた。ほかの宿屋から、また灯りの注文が来ているのだという。


「春は客が増えるからな。今年は、二人とも眼鏡で組むか」


「お前もか」


「俺は前からだ。お前が遅いんだ」


 ガルドが笑い、父は返事をせずに眼鏡を押し上げた。母が、鍋を卓の真ん中に置いた。


「仕事の話は、食べてからにしてちょうだい」


「はいはい」


 四人で食べた。湯気の向こうで、父とガルドが昔の客の話をし、母がときどき口を挟んで、二人の記憶違いを直した。


 エリオは、匙を動かしながら、それを聞いていた。


 一年前の今ごろ、この卓には沈黙しかなかった、と思った。いや、一年前の自分には、そう聞こえていただけなのかもしれない。


 食べ終えて、母が皿を重ねはじめたとき、エリオは席を立った。


「拭くよ」


「頼むわ」


 母は、もう驚かなかった。布を一枚、こちらへ放った。


 流しの横で皿を拭きながら、エリオは言った。


「母さん。上着の袖、出してくれてありがとう。一年、ちょうどよかった」


 母の手が、一瞬止まった。


「なに、急に」


「言ってなかったから」


「……変な子」


 母はそう言って、また皿を洗いはじめた。けれど、横顔が少し笑っていた。


 卓のほうから、父の声がした。


「弁当箱の留め金は、まだもつか」


 聞こえていたらしい。


「もつ。一年、一度も外れなかった」


「そうか」


 父はそれだけ言って、ガルドとの話に戻った。


 エリオは皿を拭き続けた。言いたいことは、まだたくさんあった。けれど、それを全部言えば、まるで遠くへ行く人の挨拶のようになる。父も母も、そんな言葉を聞く理由を知らない。


 だから、今日言えることだけを言った。袖のこと。留め金のこと。それで十分だと思った。


 *


 二年の最後の日の翌日、エリオは橋へ行った。


 春の約束だった。三年になる前の春に、この橋で、絵を見せる。


 川は、雪解けの水で太くなっていた。流れが速く、橋脚のまわりで水が白く渦を巻いている。並木の枝の先に、まだ小さな、固い芽がついていた。


 リーナは、先に来ていた。欄干にもたれずに、橋の真ん中に立って、川を見ていた。脇に、厚い紙を何枚か挟んだ板を抱えている。


「待った?」


「少しだけ。水が速くて、見てたら時間がたってた」


 リーナは、板から一枚目の紙を取り出した。


「これ、印刷所の人に見せようと思ってるの。でも、約束だから、最初にエリオくんに」


 橋の下の川だった。


 春の水の線だった。秋の落ち葉も、夏の灯籠もない。ただ、太く速い流れが、橋脚にぶつかって割れ、渦になり、また一つに戻っていく。線の重なりが、前よりずっと迷いなく、それでいて、どこか追いかけるような勢いがあった。


「……追いついてる」


 エリオは言った。


「え?」


「春に、水は追いつけないって言ってた。でも、これは追いついてる気がする」


 リーナは、少し黙った。それから、紙を胸に抱えるようにして、小さく笑った。


「覚えてたんだ、それ」


「覚えてる」


「まだ追いついてないよ。でも、前より近くなった」


 リーナは、二枚目の紙を出した。


「こっちは、見せるだけじゃなくて、エリオくんにあげようと思って描いたの」


 窓の絵だった。


 古い窓が、四つの小さな絵に分けて描いてある。一つ目は、窓枠に手をかけたところ。二つ目は、枠を少し持ち上げたところ。三つ目は、閉めたところ。四つ目は、留め具を回したところ。それぞれの下に、短い字が添えてあった。持ち上げる。閉める。回す。かちり。


「冬の実習の図を描いたとき、思ったって言ったでしょう。誰が見ても分かる絵。最初に描いてみたのが、これ」


 リーナは、少し照れたように言った。


「二年になって、エリオくんがあの窓を閉められなかったの、覚えてて。あれが最初だったから」


 エリオは、紙を受けとった。


 指が、紙の端に触れた。春に時間割を受けとったときのように、端だけをつまもうとして、やめた。紙ごと、両手で受けとった。


「ありがとう」


 声が、うまく出なかった。


「大事にする」


「うん」


 二人で、しばらく川を見ていた。


 風が、まだ少し冷たかった。けれど、冬の風ではなかった。並木のどこかで、鳥が一羽鳴いた。


「ねえ、エリオくん」


 リーナが、川を見たまま言った。


「三年になって、組が分かれても。三年が終わって、私が印刷所に行っても。私、エリオくんに会いたいと思う」


 エリオは、彼女の横顔を見た。


「それと、印刷所には、行くよ。エリオくんがどこの学校に行っても、行く。それは、私が決めたことだから」


「うん」


「だから、会いたいのは、それとは別。行く道は別でも、会いたい」


 リーナは、そこで言葉を切った。言い終えたというより、それ以上を言うと何かが崩れそうな顔をしていた。


 エリオは、自分の手の中の窓の絵を見た。


 約束はできなかった。この先、自分がどこにいるのか分からない。もしかすると、明日にはもう、ここにいないのかもしれない。その理由を、彼女に話すこともできない。


 それでも、今の気持ちなら言えた。


「僕も、会いたい」


 リーナが、こちらを向いた。


「どこにいても。もし、しばらく会えないことがあっても。僕は、リーナに会いたいと思ってる。それは、ずっと変わらない」


「……しばらく?」


「分からない。何があるか、分からないから。ただ、言っておきたかった」


 リーナは、エリオの顔をじっと見ていた。何かを聞きたそうだった。けれど、聞かなかった。


「じゃあ、私も言っておく」


 リーナは、まっすぐに言った。


「会えなかったら、会えるまで、絵を描いてる。会えたら、見せる。いっぱい溜まってるかもしれないけど、全部見てね」


「全部見る」


「約束ね」


「約束」


 リーナは、少しだけ手を伸ばした。それから、迷うように止めた。


 エリオも、迷った。それから、自分の手を、そっと差し出した。


 リーナは、夏の橋の上でしたように、袖をつまむかと思った。けれど、今度は違った。彼女の指が、エリオの指先に、ほんの少しだけ触れた。冷たくて、それから、すぐに温かくなった。


 ほんの短いあいだだった。リーナは手を引いて、板を抱え直した。


「帰らなきゃ。お店の、昼の手伝い」


「うん」


「今日の帳面には、丸い葉っぱ描く」


 リーナは、川沿いの通りへ走っていった。分かれ道で一度だけ振り向いて、手を振った。


 エリオは、手を振り返した。


 *


 一人で、橋の真ん中に立っていた。


 手の中に、窓の絵があった。指先に、まだ、触れたところの温かさが残っていた。


 鐘が鳴った。


 塔の鐘ではなかった。冷たい石の部屋の鐘だった。一度、二度、三度。それから、止まらなくなった。音と音のあいだが、どんどん縮まって、やがて一つの長い響きになった。


 低いうなりが、その下で鳴っていた。窓を閉めたときに聞いた、計器の音。


 ――エリオ。


 ハンナの声だった。今までで、いちばん近かった。


 ――聞こえたら、手を握って。


 橋の向こうの灯りが、二重に見えた。職人街の屋根と、白い研究棟の窓。今度は、まばたきをしても消えなかった。川の音が遠くなり、代わりに、誰かが息をする音が、すぐそばで聞こえた。


 あの日、遮断の音が鳴ったあとも、光は自分のほうへ流れ続けた。あの光が、まだ自分をどこかへつないでいたのかもしれない。それが今、ほどけようとしているのかもしれない。


 推測だった。確かめる方法は、最後までなかった。


 エリオは、欄干にもたれなかった。橋の真ん中で、両足で立っていた。


 父さん。母さん。ダン、ミラ、イネス先生。


 リーナ。


 名前を呼んだつもりだった。声になったのかどうか、分からなかった。


 手の中の紙を、握りしめた。窓の絵の、四つの小さな四角。持ち上げる。閉める。回す。かちり。


 紙の感触が、少しずつ、別のものに変わっていった。


 乾いた紙ではなかった。温かくて、少し湿っていて、指を握り返してくる。


 誰かの、手だった。


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