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第8話 雪解けの約束

 屋根の雪が、昼のあいだに少しずつ落ちるようになった。


 夕方、エリオが帰ると、台所の卓に母が帳面を広げていた。家の帳面だった。数字の列の横に、鉛筆で小さな印がいくつもついている。


 父が、作業部屋から眼鏡をかけたまま出てきて、母の向かいに座った。


「宿屋の二軒目、まだ払いがない」


「月末には払うって、昨日、おかみさんが言ってたわよ」


「なら、ガルドの分を先に払う。あいつのところは、芯の仕入れがある」


「うちの分は?」


「来月にまわせるか」


 母は帳面を見て、しばらく指で数字をなぞった。


「……まわせる。薪を少し減らせばね。でも、春になったら、もう減らさないわよ」


「分かってる」


 二人とも、声を荒げなかった。父が言い、母が数え、母が言い、父がうなずく。それだけのことだった。


 エリオは流しで手を洗いながら、その声を聞いていた。


 子どものころ、この卓で両親が話すのを聞いた覚えがなかった。夜遅く、自分が二階へ上がったあとで、話していたのかもしれない。それとも、話していなかったのかもしれない。どちらなのか、もう確かめようがなかった。


「エリオ」


 母が、帳面から顔を上げた。


「明日、学校の帰りに、ガルドさんのところへこれを届けてくれる?」


 小さな布袋だった。中で、銅貨が鳴った。口を縛った紐に、母の字で額を書いた紙が結んである。


「数えてあるから、渡すだけでいいわ。受けとりの札をもらってきてね」


「分かった」


 父が、眼鏡を押し上げた。


「落とすなよ」


「落とさない」


「橋の上で欄干にもたれるな。お前、最近よくやってる」


 エリオは、少し驚いて父を見た。父は帳面のほうへ目を戻していた。


 見られていたのだ、と思った。


 *


 次の日の昼は、久しぶりに石段だった。


 雪はもう段の上にはなく、ところどころが濡れて黒く光っていた。ダンが布を敷き、ミラが「お尻が冷たい」と文句を言いながら座った。


 リーナは、膝の上に小さな帳面を二冊のせていた。いつもの記録帳と、もう一冊、表紙の新しいものだった。


「昨日、施療院に行ってきたの。月に一回の日」


「どうだった?」


 ミラが聞いた。


「この冬は、しおれた葉っぱが三つだけ。先生が、上手に付き合ってるねって」


「治ったってこと?」


 ダンが聞くと、リーナは首を振った。


「治ったんじゃないって。上手に付き合ってる、なんだって。これからも、ずっと」


 それを言うリーナの声は、暗くなかった。


 新しい帳面を、リーナは開いた。中には、施療院の先生の字で、何行か書いてあった。いつからどんなことがあったか、どうすると楽だったか。その下に、空白の頁が続いている。


「これね、写しなの。今までの記録を、先生がまとめてくれたの。大人になって、別の町に行っても、別の仕事をしても、新しい先生に会ったら、最初にこれを見せなさいって」


「最初に?」


 エリオは聞いた。


「うん。初めての場所や仕事では、自分の具合を、最初に言いなさいって。あとで言うより、最初に言ったほうが、まわりの人も困らないからって」


 リーナは、空白の頁を指でなでた。


「ここからは、自分で書き足していくの。先生が書いた続きを」


 エリオは、その空白を見ていた。


 大人になったら。別の町に行っても。別の仕事をしても。


 知らない頁だった。昔の彼女が、この帳面を持っていたのかどうか、エリオは知らない。たぶん、持っていなかった。けれど、目の前のリーナは、それを膝の上にのせて、自分で書き足すと言っている。


「……いいね、それ」


 それしか言えなかった。


「うん。表紙、何か描こうと思って」


「葉っぱ?」


「まだ決めてない」


 ミラが、弟の分も帳面がほしいと言いだし、ダンが「お前の弟、字書けたっけ」と言い、ミラがダンの膝を叩いた。


 *


 放課後、廊下で、リーナに呼び止められた。


「エリオくん、今日、急いでる?」


「ガルドさんのところに届け物がある。橋の向こう」


「じゃあ、途中まで一緒に行っていい? 今日、お店が休みの日なの。川のほう、歩きたくて」


 エリオは、ポケットの中の布袋を確かめた。


「いいよ」


 *


 川沿いの道は、雪解けの水であちこちがぬかるんでいた。


 石畳の溝を、細い水が音を立てて流れている。並木の枝の先から、しずくが落ちる。日はまだ低かったが、冬のさなかより、少しだけ長く残るようになっていた。


 リーナは、ぬかるみをよけて歩きながら、溝の水を見ていた。


「この水、描きたいな。細くて、急いでて」


「描けば」


「今日は絵の帳面、家に置いてきちゃった」


 リーナは、残念そうに笑った。


 しばらく、二人で黙って歩いた。並木のあいだから、川面がちらちら見えた。氷はもう、岸の近くに少し残っているだけだった。


「ねえ、エリオくん」


「うん」


「三年になったら、組が変わるかもしれないんだって。ミラが言ってた」


「……そうなのか」


「先生が決めるから、分からないけど」


 リーナは、足もとの小石を、つま先で溝に落とした。小石は水に押されて、少しだけ転がった。


「私ね、三年が終わったら、町の印刷所で見習いがしたいの」


 エリオは、彼女の横顔を見た。


「印刷所?」


「本の絵とか、品書きとか、あと、道具の使い方の紙とか。ああいうのを描く人がいるんだって。冬の実習の配置の図を描いたとき、思ったの。絵って、きれいなだけじゃなくて、分かりやすくもできるんだって」


 リーナは、少し照れたように続けた。


「灯りの組み方とか、水盤の洗い方とか。見たら、誰でも分かる絵。そういうのが描けたら、いいなって」


「……描けると思う」


 本当に、そう思った。


 知らなかった。昔の彼女が、十四のころに何になりたかったのか、エリオは一度も聞いたことがなかった。大人になった彼女の仕事のことは知っていた。けれど、それがいつ、どんな気持ちから始まったのかは、知らなかった。


 目の前のリーナが話しているのは、昔の誰かの話ではなく、この冬、四人で作った灯りの話だった。


「エリオくんは? 夏に、古くなった魔法を戻す研究って言ってたでしょう」


「うん」


 エリオは、少し考えた。


 夏の橋の上では、そう答えた。それは、二十八の自分がしていた研究の名前だった。けれど、今、同じことを聞かれて、同じ言葉で答えたくはなかった。


「……前は、失くしたものを、元に戻したいと思ってた」


「前?」


「もっと小さいころ」


 嘘ではなかった。


「でも、今は少し違う。戻すんじゃなくて、まだ使えるものを、長く使えるようにしたい。父さんの灯りみたいに。直しながら、ずっと使えるように」


 リーナは、しばらくエリオの顔を見ていた。


「それ、いいね」


「そうかな」


「うん。そっちのほうが、エリオくんらしい」


 エリオらしい、と言われて、胸の奥が少し痛んだ。自分らしさなど、この一年で何度も分からなくなった。それを、彼女のほうが知っているような気がした。


 橋が見えてきた。


 リーナは、橋のたもとで足を止めた。


「ねえ」


 少し、言いにくそうだった。


「組が分かれても、話せるかな」


「話せる」


「三年が終わって、私が印刷所に行って、エリオくんが別の学校に行っても?」


 エリオは、すぐには答えられなかった。


 春が来たとき、自分がここにいるかどうか、分からない。その先の約束など、なおさらできなかった。それでも、彼女が聞いているのは、遠い先の話ではなかった。今、会いたいかどうかだった。


「……話したい」


 それだけ言った。


「話せる、じゃなくて?」


「話したい。今も、それから先も。リーナが、話したいと思ってくれるなら」


 リーナは、少し驚いた顔をした。それから、目を伏せて、小さく笑った。


「思ってるよ。だから、聞いたんだよ」


 川の上を、冷たいけれど、冬ほど刺すようではない風が渡っていった。


「じゃあ、約束ね」


 リーナが言った。


「春になったら、この橋で、絵を見せる。印刷所の人に見せる前に、エリオくんに」


「春」


「うん。三年になる前の春」


 エリオは、うなずいた。


「見せて」


 *


 リーナは、川沿いの通りの分かれ道で手を振った。エリオは、一人で橋を渡った。


 ガルドの店で布袋を渡すと、ガルドは紐の紙をちらりと見ただけで、中身を数えもせずに、受けとりの札を書いた。


「トマの字より、おかみさんの字のほうが読みやすいな」


 そう言って、札をエリオの手に押しこんだ。


「親父に言っとけ。眼鏡、似合ってないってな」


「言わない」


「言わなくても、本人が一番知ってる」


 ガルドは笑って、店の奥へ戻っていった。


 店を出ると、日が傾いていた。


 橋の中ほどまで来たとき、また、聞こえた。


 鐘だった。冷たい石の部屋の鐘。今度は、一度では終わらなかった。二度、三度と、遠くで鳴り続けている。その音の合間に、声があった。


 ――まだ、反応がある。


 ――脈は落ち着いてる。呼びかけを続けて。


 ハンナの声と、知らない誰かの声だった。


 欄干に手を伸ばしかけて、父の言葉を思い出した。もたれるな。エリオは手を引っこめ、橋の真ん中で、足を止めた。


 足もとの石畳を、雪解けの水が流れていた。そのしずくの音が、一瞬、研究室の計器が刻む音と重なった。


 橋の向こうの灯りが、二重に見えた。今度は、まばたきをしても、すぐには消えなかった。息を三つ数えるあいだ、職人街の灯りの上に、白い研究棟の窓が重なっていた。


 四つめの息で、消えた。


 エリオは、受けとりの札を握りしめていた。


 あの日、遮断の音が鳴ったあとも、光は流れ続けた。止まらなかった。もしかすると、あの実験は、まだどこかでつながっているのかもしれない。呼びかけを続けて、と誰かが言っていた。


 推測だった。確かめる方法はない。確かめるための道具も、ここにはない。


 分かるのは、冬のはじめより、音が近いということだけだった。


 春になったら、この橋で。


 リーナの声が、耳の奥に残っていた。


 エリオは、ぬかるんだ道を家へ向かって歩いた。溝の水が、急いで、細く、川のほうへ流れていく。追いつけない、と彼女は言った。水は、描いているあいだにもう違う、と。


 それでも、描くのだ。彼女は。


 家に着くと、母が卓で帳面をつけていた。エリオは、受けとりの札を、その横に置いた。


「ちゃんと、もらってきた」


「ありがとう」


 母は札を見て、帳面に小さな印をつけた。それから、顔を上げた。


「あんた、また橋で欄干にもたれてたんじゃないでしょうね」


「もたれてない」


 今日は、と心の中で付け足した。


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