第7話 冬の灯り
朝、家を出るとき、作業部屋の父が顔を上げた。
鼻の上に、細い針金の眼鏡がのっている。先週から、父は作業台に向かうときだけそれをかけるようになった。まだ慣れないのか、ときどき指で押し上げている。
「行ってこい」
「行ってきます」
それだけの挨拶だった。けれど、父が顔を上げたのは、眼鏡のおかげで台の上を見つめ続けなくてよくなったからかもしれない、とエリオは思った。
外は、息が白かった。
*
冬の実習は、四人で一つの灯りを作る。
班は好きに組んでいい、とイネス先生が言った日、ダンが真っ先にエリオの机に来た。ミラがリーナの腕を引いて来た。それで決まった。
「いつもの石段の四人だね」
ミラが言うと、ダンが「寒いから石段はもう無理だけどな」と答えた。
リーナが先生に相談しに行った朝から、三日が経っていた。結果は、その日の昼に聞いた。
「流すのは、最後の仕上げに少しだけ。それまでは、配置の図を描くのと、光り方の記録。実習の前と後に、先生が私の帳面を見てくれるって」
そう話すリーナは、少しも残念そうではなかった。
「それとね、途中で疲れたら、自分で手を下ろして、言いに来ること。それも仕事のうちですって」
「先生らしい」
「うん」
*
実習の日は、午後の二時間だった。
冬の日は短い。昼を過ぎるともう光が傾いて、教室の床に長い窓の影が伸びる。机を寄せた教室の真ん中に、班ごとの台が並んだ。
台の上には、木の枠が一つずつ置かれている。手のひらを広げたくらいの四角い枠で、底に浅い溝が格子に刻んである。そこに灯り石をはめこみ、四人で少しずつ流して、枠全体を光らせる。うまくいけば、冬の夜に窓辺へ吊るせる灯りになる。
「石の並べ方で、光の広がり方が変わります」
イネス先生が、台のあいだを歩きながら言った。
「同じ数を並べても、偏ると暗いところができる。まず考えてから並べること。それから、流すのは一人ずつ。誰かが流しているときは、ほかの人は手を出さない」
リーナが、帳面を開いた。
配置の図は、三日のあいだに描いてきたものだった。格子の上に、小さな丸が散らばっている。ただ均等に並べたのではなく、真ん中が少し薄く、角のほうが少し濃い。
「なんで真ん中が少ないの?」
ミラが聞いた。
「秋の実習のとき、水盤の光を見てたの。光って、真ん中から広がるでしょう。水の線みたいに、真ん中から外へ流れていく。だから、真ん中にたくさん置くと、そこだけ明るすぎて、角まで届かないと思って」
「……そうなのか?」
ダンが、エリオを見た。
「たぶん」
エリオは答えた。研究所でなら、もっと正確に言えたかもしれない。けれど、それは十四の自分が知っているはずのないことだったし、何より、リーナの図はもう、言葉にしなくても筋が通っていた。
「やってみよう」
ミラが、灯り石の箱を開けた。石をはめこむのは、ミラの役だった。ミラは手先が器用で、溝の幅にぴたりと合わせて、迷いなく石を押しこんでいく。
「これ、ちょっと欠けてる。こっちに替えるね」
「よく見てるな」
「見てるよ。ダンと違って」
枠を台から持ち上げて、明るい窓際へ運ぶのはダンの役だった。それから、最初に流すのも。四人の中で、いちばん力が強いのがダンだった。
「いくぞ」
ダンが枠の上に両手をかざした。
灯り石が、ぽっと光った。
右の角の三つだけだった。
まぶしいほど明るく、そこだけ白く光って、ほかは真っ暗のままだった。
「……あれ?」
「ダン、流しすぎ」
ミラが言い、近くの班の何人かが吹き出した。ダンは頭をかいた。
「右から流したら、右に全部いった」
リーナが、その光り方を、帳面に素早く写していた。右の角に、三つの濃い丸。それから顔を上げた。
「真ん中に、手を置いてから流してみて。右からじゃなくて」
「真ん中?」
「水も、注いだところから広がるでしょう」
ダンが手の位置を変えた。今度は、真ん中の石からじわりと光りはじめ、外へ広がっていった。けれど、左上の角だけ、どうしても暗いままだった。
リーナが、首をかしげた。
「左上、石が一つ足りないかも。ミラ、私、図で一つ数え間違えてた」
「直すね」
ミラがすぐに石を一つ足した。
隣の班で、ぱちん、と小さな音がした。誰かの枠の灯り石が、一つだけはじけるように光って、すぐ消えたのだ。イネス先生が「大丈夫、熱くはならないから」と言いながら歩いていき、その班の子は真っ赤になっていた。教室がまた笑った。
二人目は、エリオだった。
両手をかざした。ぬるい手応えが返ってくる。けれど、秋の実習と同じだった。量が分からない。流そうとすると、一度にどっと出そうになり、止めようとすると、何も出ない。
石は、薄くまたたくばかりだった。
「エリオくん」
リーナが、横から小さな声で言った。
「流す前に、手に力が入りすぎてる。肩まで上がってるよ」
「肩?」
「うん。秋のときも、そうだった」
ダンが、反対側から言った。
「息、吐きながら流せよ。吐くのと一緒に、ちょっとずつ。俺は兄貴にそう教わった」
エリオは肩を下ろした。それから、息を吐いた。
吐くのと一緒に、指先から、細い糸のようなものがほどけていった。灯り石が、一つ、また一つと、さっきより落ち着いた光で灯りはじめた。
「おお」
ダンが言った。
「やればできるじゃん」
エリオは、手をかざしたまま、少しだけ笑った。
研究所で何年も扱ってきた力だった。それなのに、十四の体での流し方は、級友に教わらなければ分からなかった。それが、少しも悔しくなかった。
三人目のミラが流し終えたころ、リーナが帳面を閉じた。
「先生」
手を挙げて、それから、自分で先生のところへ歩いていった。
「少し、疲れました。座って、記録を続けてもいいですか」
先生はリーナの顔を見て、帳面をのぞき、うなずいた。
「いいわ。窓際の椅子にどうぞ。仕上げは、もう少し休んでから決めましょう」
リーナは窓際の椅子に座って、膝の上で記録を続けた。ミラが、湯冷ましの水を一杯持っていった。誰も、大げさなことは言わなかった。
エリオも、言わなかった。駆け寄りたい気持ちはあった。けれど、彼女は自分で休むと決め、自分で言いに行ったのだ。それは、彼女の仕事だった。
しばらくして、先生がリーナのところへ行き、何か話した。リーナが帳面を見せ、先生が額に手の甲を当て、また帳面を見た。
「仕上げ、少しだけならいいって」
戻ってきたリーナが言った。
「ほんの少し。最後の、暗いところを埋めるくらい」
枠の灯りは、ほとんど全体が光っていた。ただ、左上の角だけが、ほかよりわずかに暗い。
リーナは、その角の上にだけ、片手をかざした。
ほんの短いあいだだった。左上の石が、ふっと明るみ、ほかの石と同じ色になった。
枠の全体が、ひとつの灯りになった。
白ではなかった。冬の夕方の窓辺によく似た、蜂蜜のような色だった。格子の溝に沿って、光がやわらかく溶け合っている。
ミラが、小さく手を叩いた。ダンが「よし」と言った。
リーナは手を下ろして、灯りを見ていた。それから、帳面を開いて、最後の光り方を写した。今度は、どこにも濃い丸がなかった。
*
実習が終わるころには、窓の外はもう薄暗かった。
イネス先生は、できあがった灯りを、班ごとに教室の窓へ吊るしていった。白っぽいもの、少し青いもの、半分だけ明るいもの。ぱちんと鳴った班の灯りは、光がところどころ途切れていたが、先生は真ん中の窓に吊るした。
エリオの班の灯りは、窓際の後ろ、エリオの席の横の窓に吊るされた。
片づけは、班ごとだった。ダンとミラが台を拭き、余った石を箱に戻しに行った。リーナは窓際の椅子で、帳面に最後の書きこみをしていた。
エリオは、彼女の隣の机に、拭いた布をたたんで置いた。
「疲れてない?」
「少し。でも、平気。帳面には、丸い葉っぱを描いた」
リーナは、吊るされた灯りを見上げた。
「ねえ、役に立てたよね。流したのは、ほんのちょっとだったけど」
「図がなかったら、ダンはまだ右の角だけ光らせてた」
「そうだよね」
リーナは笑った。それから、少し声を落とした。
「秋に、ああなったときね。もう、こういうのには入れないのかなって思ったの。みんなが光らせてるのを、見てるだけになるのかなって」
エリオは、何も言わずに聞いた。
「でも、見てるのも、仕事だった」
「うん」
「エリオくんの肩が上がってるのも、見てたし」
「それは、見なくていい」
リーナが、声を出して笑った。
エリオは、吊るされた灯りを見た。自分の班の灯りだった。四人で作った。自分は、いちばん下手だった。
「……一緒にやれて、嬉しかった」
言ってから、顔が熱くなった。
リーナが、こちらを見た。それから、少しだけ目を逸らした。窓の灯りが、彼女の頬に蜂蜜色の光を落としていた。
「私も」
小さな声だった。
リーナは帳面を開き、記録の紙の端を、ていねいに折って、ちぎった。
「これ、あげる。記録の余白に、描いちゃったの。先生には内緒ね」
受けとった紙の切れ端に、小さな絵があった。
台を囲む四人の背中だった。ダンの大きな背中、ミラの丸い眼鏡の横顔、それから、肩の上がった細い背中。その横に、帳面を持った髪を結んだ小さな人影。
絵の中の自分の肩は、たしかに上がっていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
*
学校を出ると、雪が降りはじめていた。
細かい、乾いた雪だった。並木の枝の先に、少しずつ白いものがたまっていく。リーナは川沿いの通りの分かれ道で手を振り、ミラと一緒に帰っていった。ダンは家の手伝いがあると言って、先に走っていった。
エリオは、一人で橋を渡った。
橋の上から、学校の窓が見えた。並んだ窓に、班ごとの灯りがともっている。白、青、蜂蜜色。遠くからでも、窓際の後ろの灯りが分かった。
そのとき、また鐘が聞こえた。
塔の鐘ではなかった。塔は黙っていた。それなのに、どこか遠くで、冷たい石の部屋の鐘が鳴っていた。夏のときよりも、はっきりと。
鐘の音の後ろに、声があった。
エリオ、聞こえる?
ハンナの声だった。
欄干をつかんだ。雪が手の甲に落ちて、溶けた。
町の灯りが、一瞬、二重に見えた。橋の向こうの職人街の灯りと、その上に重なる、白い研究棟の灯り。
まばたきをすると、重なりは消えた。職人街の灯りだけが、雪の中に並んでいた。鐘も、声も、もう聞こえなかった。
エリオは、外套のポケットに手を入れた。
紙の切れ端が、指に触れた。肩の上がった、細い背中の絵。
戻るのだろうか。
いつ、どうやって。何も分からなかった。分かるのは、夏よりも音が近くなっている、ということだけだった。
あの窓の灯りを、いつまで見ていられるのだろう。
エリオは、紙の切れ端を指で包んだまま、橋を渡りきった。家の作業部屋には、灯りがついていた。眼鏡をかけた父の背中が、窓越しに見えた。




