第6話 落ち葉の写生
石段に、落ち葉が積もるようになった。
昼休みに座る前に、ダンが足で葉を払う。払っても、川風がすぐに次の葉を運んでくる。ミラは弟に頼まれたと言って、形のいい葉だけを拾って帳面に挟んでいた。
リーナは、十日ほど石段に来なかった。来ない日は、窓際の後ろで、ミラと二人でパンを食べていた。保健室に寄る日もあった。エリオは、何も聞かなかった。聞きたいことはいくつもあったが、彼女が話すまで待つと決めていた。
その日、リーナは石段の、いつもの段に座った。
「先週ね、お母さんと、橋のそばの施療院に行ったの」
パンの包みを開きながら、自分から言った。
「保健の先生が、手紙を書いてくれて。魔法の具合を見てくれる先生がいるんだって。おじいちゃんの先生」
ミラが、葉を挟む手を止めた。ダンは黙ってパンをかじっていた。
「水盤みたいなのに手をかざして、何回か流して、そのたびに息とか、脈とか、測られたの。それで、分かったのはね」
リーナは言葉を探すように、川を見た。
「私、魔法を使ったあとに、戻るのが遅いんだって。ほかの人より。少しなら平気だけど、続けて使ったり、疲れてる日に使ったりすると、戻りきらないうちに次が来て、それで息が苦しくなるみたい」
「……うん」
エリオはそれだけ言った。
知っている、とは思わなかった。知らなかった。旧い記憶の中にあるのは、廊下で聞いた一言だけだ。彼女の体で何が起きていたのか、自分はいま、初めて彼女の口から聞いている。
「だから、使ったら休む。実習の日は、お店の夜の手伝いはしない。それと、これ」
リーナは鞄から、手のひらほどの小さな帳面を出した。表紙に日付が書いてある。
「毎日、書くの。実習があったか、お店に出たか、息がどうだったか。月に一回、先生に見せる」
「書くの、面倒くさくない?」
ミラが聞いた。
「面倒。でも、絵の帳面のついでに書けるから」
リーナは小さな帳面をめくってみせた。日付の横に、短い字と、ときどき小さな絵があった。息が楽だった日には丸い葉っぱ、苦しかった日には、しおれた葉っぱ。
「それ、自分で決めたの?」
エリオが聞くと、リーナはうなずいた。
「字だけだと、続かない気がしたから」
ダンが、のぞきこんで言った。
「しおれてるの、二つだけじゃん」
「うん。二つだけ」
リーナは、少し誇らしそうに帳面を閉じた。
「リーナはどう思った? 先生の話を聞いて」
エリオは、自分の声が落ち着いているのを確かめてから聞いた。秋の実習の日のような声には、もうしたくなかった。
リーナはしばらく考えた。
「ほっとした、かな。やめなさいって言われなかったから。実習も、少しならいいって。絵は、いくら描いてもいいって。先生、絵は魔法じゃないからねって笑ってた」
「よかった」
「うん」
それから、リーナは包みの布を指でたたんだ。
「お母さんがね、帰り道、ずっと黙ってたの」
エリオは、彼女の横顔を見た。
「家に着いてから、台所で、私に聞いたの。お店で、いつから、何時まで、何をしてるのって。私、お皿運んで、閉めたあと洗い物して、献立の板を描いて、って全部言ったの。そうしたら、お母さん、洗い物のことは知らなかったって」
「知らなかった?」
「お母さん、閉めたあとは帳場でお金を数えてるから。私が洗ってるの、手伝いのついでだと思ってたって。毎日だとは思ってなかったって」
リーナは、少し笑った。困ったような笑い方だった。
「お母さん、ちょっと泣いた。それで、洗い物は隣のおばあさんに頼むことにしたの。前から、手伝いたいって言ってくれてたんだって」
「献立の板は?」
エリオは、気づいたら聞いていた。
リーナが、こちらを見た。
「続けていいって。あれは、あんたの仕事だからって」
その言い方をまねするとき、リーナの声が少しだけ低くなった。たぶん、母親の声なのだろう。
*
次の週の図画の時間に、イネス先生が窓を開けて、教室を見回した。
「今日は外で描きます。川べりの並木まで。日が短いから、鐘一つ分で戻ってくること。遠くへ行かない、川に入らない、葉っぱを投げ合わない。ダン」
「なんで俺だけ」
「去年の秋、誰が何をしたか、先生は覚えています」
教室が笑った。
川べりの並木は、すっかり黄色かった。足もとの葉が、歩くたびに乾いた音を立てる。昼過ぎの日差しはもう夏のように強くなく、斜めに差して、葉の一枚一枚を薄く透かしていた。
生徒たちは、思い思いの場所に散った。ダンは木の根もとに寝転んで空を描くと言い、ミラは弟のために葉を拾いながら、ついでのように並木を描いた。
リーナは、川べりの低い石垣に腰を下ろした。エリオは、少し離れたところに座った。
描くつもりはあった。けれど、紙の上の並木は、どう描いても棒が並んでいるようにしか見えなかった。
「エリオくん、それ、柵?」
いつのまにか、リーナが横からのぞいていた。
「並木」
「柵だよ」
「……柵かもしれない」
リーナが、くすくす笑った。
「幹を全部同じ太さで描くからだよ。根もとは太くて、上は細いの。それと、全部を描かなくていいの。一本だけ、ちゃんと見て」
言われたとおりに一本だけ見ると、幹は少し傾いていて、根もとが地面をつかむように広がっていた。それを描くと、柵には見えなくなった。
「ほら」
「リーナは、何を描いてる?」
リーナは自分の紙を見せた。
川だった。いつもの水の線の上に、落ち葉が何枚も浮かんでいる。葉は流れに乗って、くるりと回り、重なり、また離れていた。
「水だけじゃないんだ」
「秋だけ。葉っぱが浮いてると、水がどう動いてるか、よく分かるの。葉っぱが、水の道案内してくれるみたい」
エリオは、紙の上の葉と、川の上の葉を見比べた。本当に、葉は水の流れの通りに動いていた。
しばらく、二人とも黙って描いた。
鉛筆の音と、落ち葉の音と、遠くでダンが何か叫ぶ声がした。
「エリオくんの家は、お父さん、まだガルドさんと一緒にやってるの?」
リーナが、紙から目を上げずに聞いた。
「うん。宿屋の灯りが終わったら、ほかの宿屋からも頼まれて。今は二人で、橋のこっちと向こうで分けてる」
「すごいね」
「すごいけど」
エリオは、鉛筆を止めた。
「父さん、夜遅くまで仕事してる。目をこすってることが多い。灯りの芯は細いから、目が疲れるんだと思う」
「うん」
「何か手伝いたいって言ったら、学校のことをやれって言われた」
「そっか」
「眼鏡屋に行ってほしいと思ってる。でも、言い方が分からない。行ったほうがいいって言うと、なんだか、父さんに指図してるみたいで」
言ってから、自分でも驚いた。
こんなことを、人に話したことはなかった。二十八の自分でも。父のことは、ずっと、自分ひとりで考えるものだと思っていた。
リーナは鉛筆を置いて、少し考えた。
「私ならね、お願いにするかな」
「お願い?」
「行ったほうがいいって言うんじゃなくて、心配だって言うの。お父さんの目が心配だから、見てもらってほしいって。直して、じゃなくて、心配、って」
リーナは、紙の上の落ち葉を指でなぞった。
「お母さんがね、施療院の帰りに、ずっと黙ってたって言ったでしょう。あれ、あとで聞いたら、どう言えばいいか分からなかったんだって。私に、あれしなさい、これしなさいって言ったら、私が嫌がると思ったって。でも結局、心配だったって言われて、それがいちばん嬉しかった」
エリオは、何も言えなかった。
「エリオくん、いつも答えを持っていこうとするでしょう。秋の実習のときも。ちゃんとした答えを持っていかなきゃって顔してる」
「……そんな顔?」
「夏からずっと、その顔」
リーナは、また鉛筆を取った。
「答えはね、お父さんが考えればいいんだよ。エリオくんは、心配だって言えばいいの」
川の上を、落ち葉が一枚、くるりと回って流れていった。
エリオは、膝の上の紙を見た。柵ではなくなった一本の木が、少し傾いて立っていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
リーナはそう言ってから、少しだけ照れたように付け足した。
「春に、窓の閉め方を教えたときと同じ顔してる」
*
鐘が鳴る前に、イネス先生が手を叩いた。
「戻りますよ。日が落ちる前に」
日はもう、並木の向こうに低くなっていた。葉の影が長く伸びて、石垣の上まで届いている。リーナは描きかけの紙を、ためらわずに閉じた。
「まだ途中だろう」
「うん。でも、今日はここまで」
リーナは小さな帳面を出して、何か書いた。のぞくつもりはなかったが、丸い葉っぱの絵が一つ、見えた。
学校へ戻る坂の途中で、リーナが言った。
「冬の実習、班で灯りを作るんでしょう。先生が、この前言ってた」
「うん。四人で一つ」
「私ね、流すのは少しにして、ほかのことで役に立ちたいの。手順を数えるとか、光り方を記録するとか。そういうのも、班には要るでしょう」
「要る。たぶん、いちばん要る」
「明日、先生に相談してみる」
リーナは前を向いたまま言った。
「今度は、一人で行く。自分で言いたいから」
エリオは、すぐにはうなずけなかった。それから、うなずいた。
「うん」
「でも、終わったら聞いてね。どうだったか」
「聞く」
*
その夜、作業部屋の灯りは、いつものように遅くまでついていた。
エリオは戸口に立った。父が芯を一本、光にかざして、目を細めている。仕事の手が止まるのを待った。父が芯を台に置いて、目頭を指で押さえたところで、口を開いた。
「父さん」
「なんだ」
「父さんの目が、心配だ」
父の手が、目頭から離れた。
「……眼鏡屋に、見てもらってほしい。直してって言うんじゃなくて。心配だから」
父は、しばらく何も言わなかった。
それから、台の上の芯に目を落としたまま、言った。
「……母さんにも、先週同じことを言われた」
「そうなんだ」
「二人に言われたら、行くしかないだろう」
父の口の端が、ほんの少しだけ緩んでいた。夏の橋の帰りに見たのと、同じ緩み方だった。
*
翌朝、窓の当番が窓を開けると、冷たい風が入ってきた。
始業の前、リーナが席を立った。手に、小さな帳面と、描きかけの落ち葉の紙を持っている。教卓のイネス先生のところへ、まっすぐ歩いていった。
エリオは、自分の席に座ったまま、それを見ていた。
立ち上がりそうになる足を、机の脚に押しつけて止めた。春にもこうしたな、と思った。あのときは、駆け寄らないために。今は、彼女が自分で行くのを、邪魔しないために。
リーナが先生に何か話し、先生が帳面をのぞきこんでうなずくのが、窓際の後ろから見えた。




