第5話 窓を開ける秋
並木の葉が、川沿いから黄色くなりはじめた。
朝の教室はもう暑くなかった。窓の当番が窓を開けると、冷たい風が入ってきて、誰かが「閉めて」と言い、誰かが「開けといて」と言った。今週の当番はリーナで、彼女は毎朝、半分だけ開けた。
「エリオくん、寒い?」
昼休み、石段に座るなり、リーナが聞いた。
ミラが、パンをくわえたまま動きを止めた。
「……ちょっと待って。いつから名前で呼んでるの?」
「お祭りのあと」
リーナはあっさり答えた。
「フェルくんって、言いにくいんだもん。舌が引っかかるの」
「三か月も前から?」
「ミラ、気づくの遅いよ」
ダンが二段上で笑い、ミラがダンの膝を叩いた。エリオは何も言えずに弁当箱の留め金を外した。名前で呼ばれたのは、夏祭りの帰りからだった。最初の何回かは、そのたびに少し返事が遅れた。
リーナは帳面を開いて、エリオに見せた。紙いっぱいに、小さな丸い光が描いてある。川を下っていく灯籠だった。
「やっと描けたの。夏からずっと、思い出しながら描いてた」
「水は?」
「水も描いたよ。灯籠の下の、揺れてるところ。ほら」
細い線が、光の下でよじれていた。春に見た線より、少しだけ迷いがなかった。
「エリオくんのお父さんの灯り、あれからどうなった?」
「五つ組んで、宿屋に納めた。それで、残りの十五も、ガルドさんと半分ずつやることになった」
「よかったね」
「うん。ガルドさん、最近うちに夕飯を食べに来る」
「喧嘩してたのに?」
「喧嘩の理由、どっちも覚えてないんだって」
リーナが吹き出した。
帳面を閉じてから、彼女は膝を抱えて、川を見た。
「明日の実習、楽しみ」
「水盤の?」
「うん。夏のときは、ちょっと光っただけで消えちゃったから。明日は二人組で、ミラとなの。ちゃんと光らせて、ミラに勝つ」
「勝ち負けじゃないでしょ」
「勝ち負けだよ」
ミラとリーナが言い合うのを、エリオは黙って聞いていた。
*
翌日の実習は、午後の二時間を使った。
机を後ろへ寄せ、教室の真ん中に長い台を出す。台の上に水盤が並び、浅く水が張ってある。イネス先生が一つの水盤の前に立ち、みんなを見回した。
「手は水の上、触れなくていいわ。少しずつ、ほんの少しずつ流すこと。めまいがしたり、手が冷たくなったりしたら、すぐにやめて手を下ろす。言いに来なくていいから、まず手を下ろす。いいわね」
はい、と声がそろった。
エリオはダンと組んだ。水盤の内側に刻まれた線が、水の底でかすかに揺れている。手をかざすと、指先にぬるい手応えが返ってきた。研究所で毎日触れていた感触の、ずっと薄いものだった。
薄いのに、加減が分からなかった。二十八の体と十四の体では、流れる量がまるで違う。水盤は一度ぼんやり光って、すぐ消えた。
「お前、本当に下手だな」
「言っただろう」
隣の台で、小さな歓声が上がった。
リーナの前の水盤が、光っていた。水の底の線に沿って、細い光が網の目のように広がり、水面全体が淡く明るんでいる。ミラが「うそ」と言い、リーナが両手を水の上にかざしたまま、顔を上げた。
目が合った。
リーナは、笑った。声を出さずに、唇だけで「見た?」と言った。
エリオはうなずいた。
光は十数える間くらい続いて、リーナが手を下ろすと、ゆっくり消えた。イネス先生が近づいてきて、「上手ね」と言った。リーナは、ありがとうございます、と頭を下げた。
実習が終わり、片づけになった。
水盤の水を桶に空け、布で拭いて棚へ戻す。エリオが二つ目の水盤を運んでいたとき、後ろで、何かが床に当たる鈍い音がした。
振り向くと、リーナが床に膝をついていた。
手から落ちた布が、水を吸って黒く広がっている。リーナは片手を台の脚に添えて、肩で息をしていた。短く、浅く。吸っても吸っても、足りないような息だった。
エリオは水盤を台に置いた。置いたのか、落としたのか、分からなかった。
「リーナ」
「……だいじょうぶ。ちょっと、疲れただけ」
疲れただけ。
その言葉を、どこかで聞いたことがあった。
半年前の――いや、十四年後の、療養所の廊下だった。白い服の人が、静かな声で言った。もしかすると、学校に通っていたころから、兆しはあったのかもしれません。ご本人も、疲れだと思っていたのでしょう。
あのとき、エリオは何も言えなかった。学校に通っていたころの彼女を、自分はほとんど知らなかったから。
「座って。動かないで」
自分の声が、ひどく速かった。
「どこが苦しい? 胸か? いつからだ? 前にもあったのか?」
リーナの肩が、びくりと震えた。
彼女の目が、エリオを見上げていた。息の苦しさとは別の何かが、その目の中にあった。怯えていた。具合が悪いことにではなく、エリオの顔に。
「先生!」
ダンが叫んでいた。エリオより先に。
イネス先生は、教室の端から駆けてきた。リーナの横に膝をつき、彼女の背中に手を当てる。
「リーナさん、ゆっくりでいいわ。吸わなくていいから、吐いて。そう、長く」
先生の声は、低くて落ち着いていた。
「ダン、保健室へ走って、先生を呼んできて。ミラは、リーナさんの上着を持ってきて。ほかの人は片づけを続けて。大丈夫だから」
生徒たちが動きだした。エリオだけが、動けなかった。
「フェルくん」
先生が、こちらを見ずに言った。
「少し下がって。リーナさんの前を空けてあげて」
エリオは、半歩下がった。それから、もう半歩。
リーナの息は、先生の手の下で、少しずつ長くなっていった。
*
保健室の前の廊下は、薬草を煮た匂いがした。春に、自分が寝かされた部屋だった。
エリオは、ミラから預かったリーナの鞄を膝に置いて、長椅子に座っていた。イネス先生が、鞄を届けるだけならと許してくれたのだ。ミラは図書の当番で、何度も振り返りながら行ってしまった。
戸の向こうで、保健の先生とリーナが話している声が、ときどき聞こえた。言葉までは聞こえなかった。
両手を見た。十四歳の、細い手だった。
自分は医者ではない。研究者だった。魔法の響きを戻す研究をしていた。彼女の体の中で何が起きているのか、本当は何ひとつ知らない。知っているのは、昔、誰かが廊下でそう言った、ということだけだ。
それなのに、さっきは、知っているような顔で問い詰めた。
戸が開いた。
保健の先生が顔を出し、エリオの膝の鞄を見た。
「リーナさんの? 入っていいわよ。少しだけね」
リーナは、寝台の端に腰かけていた。顔色は、さっきよりずっとよかった。手の中に、湯気の立つ椀を持っている。
エリオは鞄を、寝台の足もとに置いた。
「……さっき」
言いかけて、言葉を探した。
「怖い言い方をした。ごめん」
リーナは椀から顔を上げた。
「ちょっと、びっくりした」
「うん」
「エリオくん、すごい顔してた。先生に叱られるときの、ダンみたいな顔」
笑わせようとしているのではなかった。本当にそう見えたのだと、彼女の声で分かった。
「怖かったんだ」
エリオは言った。それ以上は、言えなかった。なぜ怖かったのかを話せば、話してはいけないことまで口にしてしまう。
リーナはしばらく、エリオの顔を見ていた。
「……私も、怖かった」
小さな声だった。
「春から、何回か、こうなったの。実習のあととか、お店がすごく混んだ日とか。でも、すぐ治るし、疲れてるだけだと思ってた。言ったら、本当に悪いことみたいで」
椀の湯気が、彼女の顔の前でゆれた。
「保健の先生にね、全部話したの。いつから、どんなふうにって」
「うん」
「そうしたら、一回で決めつけないで、何回か見せに来てって。ちゃんと分かる先生にも、聞いてみるって。お母さんにも、先生から知らせてくれるって」
リーナは椀を両手で包んだ。
「最初はね、実習はやめなさいって言われると思ったの。それが、いちばん嫌だった。今日、初めてちゃんと光ったのに」
「見てた」
「うん。見てたの、知ってる」
リーナは、少しだけ笑った。
「お店も、続けたい。絵も。実習も。だから、ちゃんと見てもらうことにした。それって、変じゃないよね?」
「変じゃない」
春に、石段で同じことを言ったのを、エリオは思い出した。今度は、すぐに答えすぎたとは思わなかった。
「保健の先生も、やめなくていいって。やり方を考えようって」
「よかった」
本当に、そう思った。声が少し震えた。
リーナが、首をかしげた。
「エリオくんのほうが、具合悪そう」
「……平気」
「平気じゃない顔だよ。夏にも、橋の上でそういう顔してた」
エリオは答えられなかった。
保健の先生が戸口から顔を出して、そろそろね、と言った。
*
放課後の教室は、もう誰もいなかった。
机は元の場所に戻され、長い台も片づけられていた。床に一か所だけ、水を拭いたあとの濡れた筋が残っている。
保健の先生から、リーナの母親が迎えに来ると聞いていた。それまで教室で待つと、リーナが自分で言ったのだった。窓を閉めていないから、と。
保健の先生は少し考えてから、うなずいた。座って待ち、窓は誰かに頼むこと。教室の窓から校門が見えるから、お母さんが見えたら、保健室に声をかけてから下りてきなさい、と。
「今週は、私が当番だから」
リーナは窓際に立った。後ろの、古い窓の前だった。
それから、少し迷って、エリオを振り返った。
「……閉めてくれる? 今日は、持ち上げるの、ちょっとしんどい」
エリオは窓に手をかけた。
「持ち上げてから閉める」
「それから回す」
窓が、かちりと鳴った。
夕方の光が、閉めたガラス越しに斜めに入ってきて、机の上に細長い四角を作っていた。リーナはその光の中に指を置いた。
「ねえ、エリオくんの家は、晩ごはん、誰が作るの?」
「母さん。ときどき、僕」
「エリオくんが?」
「夏から、ときどき。冷たい汁とか」
「今度、教えて。うちのお店で出せるかも」
「塩が足りないって、父さんに言われた」
「言われたの?」
「言われてない。黙って二杯食べてた」
リーナが、声を出して笑った。それから、ふっと窓の外を見た。
校門のところに、前掛けをつけたままの女の人が立っていた。走ってきたのか、肩が上下している。
「……お母さん」
リーナは鞄を取った。エリオが持とうとすると、首を振った。
「自分で持てる。それくらいは」
戸口で、彼女は振り返った。
「明日も、お昼、石段で。寒かったら窓のとこ」
「うん」
「エリオくんも、ちゃんと来てね。今日みたいな顔で来たら、ミラに笑われるよ」
リーナは廊下へ出ていった。足音は、いつもより少しだけゆっくりだった。
エリオは窓から校門を見た。
リーナの母親が、娘の肩に両手を置き、顔をのぞきこんでいた。何か聞いて、リーナが首を振って、何か答えた。母親は娘の鞄を取ろうとして、リーナはまた首を振った。結局、二人で鞄の紐を片方ずつ持って、歩きだした。
昔、この日に、こうして誰かが彼女を迎えに来たのだろうか。
エリオは知らなかった。知らないまま、窓の前に立っていた。閉めたガラスの向こうで、並木の黄色い葉が、一枚だけ落ちた。




