↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/11

第4話 夏の橋

 雨の季節が終わると、川の色が変わった。


 石段の昼食は続いていた。晴れた日は石段、雨の日は窓際の後ろ。ミラが来ない日もあり、ダンが別の輪に呼ばれていく日もあった。リーナはたいてい帳面を膝に置いていて、パンを食べ終えると水の線を描いた。


 三班の準備のあと、彼女は夕方の鐘で帰るようになった。班の子たちは、何も言わなかった。言う必要がなくなったのだと、エリオは思った。


 教室の灯りは、まだときどきまたたいていた。イネス先生が事務の人に伝えたらしいが、直しに来る人はいなかった。


 *


 その日は、昼から暑かった。


 エリオが学校から帰ると、母が台所の床に座りこんでいた。豆の袋を膝にのせ、莢をむいている。額に汗が光っていた。奥の作業部屋からは、いつもの金属の音がしない。


「父さんは?」


「裏で、伝票とにらめっこ」


 母は莢を割る手を止めずに言った。


「今日はね、宿屋さんから大きな注文が来たのよ。灯りを二十。夏の客が来る前に、全部」


「二十」


「嬉しい話なんだけどねえ」


 母はそれ以上言わなかった。言わなかったが、豆をむく手が少し速くなった。


 エリオは鞄を置いて、流しの前に立った。


「夕飯、僕が作る」


「あんたが?」


「豆と、玉ねぎと、ゆうべのパンがあるだろう。冷たい汁にする。暑いから」


 母は豆の袋を抱えたまま、息子を見上げた。


「どこで覚えたの、そんなの」


「……本で見た」


 実際は、二十代の半ばに覚えたのだった。夏の夕方、台所で、彼女に教わった。けれど、それは言えない。


 母はしばらく迷っていたが、やがて豆の袋をエリオに渡して、立ち上がった。前掛けで手を拭き、水差しに井戸の水を汲む。


「じゃあ、父さんに水を持っていくわ。焦がさないでね」


「焦がすものがない」


「口ばっかり」


 母は小さく笑って、裏口から出ていった。


 エリオは豆をゆで、玉ねぎを薄く切った。台所の窓から、裏の路地が見える。父と母は、裏口の石段に並んで腰を下ろしていた。夕方の日陰で、父の膝の上に紙の束がある。


 声は、ところどころしか聞こえなかった。


「……芯が足りない。仕入れが間に合わん」


「……一人で二十は無理よ」


「分かってる」


「ガルドさんに、聞いてみたら」


 父は黙った。長い沈黙だった。


 エリオは包丁を止めかけて、また動かした。ガルドという名前に、覚えがあった。父と同じ灯りの修理屋で、橋の向こうに店を持っている人だ。子どものころ、何度か店先で見た。いつからか、父の口からその名前を聞かなくなった。


 理由は知らない。


 知らないことを、知っているふりで口にしてはいけない。エリオは玉ねぎを水にさらし、豆の皮をむいた。


 裏口の石段で、父が紙の束を一枚めくった。


「……あいつは、まだ怒ってるだろう」


「十年も前のことよ」


「十二年だ」


 母が、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。


 その夜の汁は、少し塩が足りなかった。父は何も言わずに二杯食べた。


 *


 三日後、父に呼ばれた。


「明日、学校のあと、手は空いてるか」


「空いてる」


「ほやの箱を一つ、橋の向こうまで運ぶ。重い」


 それだけ言って、父は作業台に戻った。


 翌日の夕方、エリオは木箱を抱えて、父の後ろを歩いた。箱の中で、割れないよう藁に包んだガラスのほやが、ときどき触れ合って鳴った。


 ガルドの店は、橋を渡ってすぐの角にあった。父より少し年上の、背の低い人だった。店先で、父の顔を見るなり眉を上げた。


「……トマか」


「ああ」


「何の用だ」


 父は、すぐには答えなかった。エリオの手から木箱を取り、店先の台に置いた。それから、ゆっくり言った。


「宿屋の注文を受けた。二十だ。ほやはうちにある。芯が足りない。手も足りない」


 ガルドは箱を見て、父を見た。


「それで?」


「芯を回してくれないか。組みも半分頼みたい。代金は、半分ずつで」


 父の声は、いつもと同じように短かった。けれど、エリオには分かった。父は、この言葉を何日もかけて用意してきたのだ。


 ガルドは長いあいだ黙っていた。


「お前、坊主を連れてきたのは、俺に怒鳴らせないためか」


「箱が重かっただけだ」


 ガルドが、鼻を鳴らした。


「入れ。芯の在庫を見せる。坊主は外で待ってろ。大人の話だ」


 エリオは店の外の、川に面した手すりにもたれた。


 中から、ときどき声が聞こえた。数の話、日にちの話。一度、ガルドの声が大きくなって、それから笑い声に変わった。何がおかしかったのかは聞こえなかった。


 川の上を、夕方の風が渡っていた。


 研究所でなら、と思った。研究所でなら、自分が話をまとめることもできた。けれど、これは父の仕事で、父の昔のことだった。十四の息子が口を挟んでいい話ではない。そして、口を挟まなくても、父は自分で扉を叩いた。


 店から出てきた父は、何も持っていなかった。ほやの箱は置いてきたらしい。


「どうだった?」


「まず、五つ」


 父は橋のほうへ歩き出しながら言った。


「五つ組んでみて、具合を見る。残りはそれからだ」


 それから、少し間を置いて、付け足した。


「……喧嘩の理由は、あいつも覚えてなかった」


 エリオは、思わず父の横顔を見た。父は前を向いたままだった。けれど、口の端が、ほんの少しだけ緩んでいた。


 *


 夏の半ばに、川祭りがあった。


 前の日の昼、石段で、リーナが言った。


「明日のお祭り、フェルくんは行く?」


「たぶん。ダンが、店の手伝いをするって言ってたから」


「うちの屋台、焼きとうもろこし」


 ダンが二段上から得意げに言った。ミラは、弟を連れていかなきゃいけないの、とため息をついた。


 リーナは膝の帳面を閉じて、言った。


「私ね、夕方の鐘から、二つめの鐘まで行けるの。お母さんと決めたの。それまでは、お店で冷たいお茶を出す係」


 彼女は少し得意そうだった。自分で決めて、自分で取りつけた時間なのだと、その顔で分かった。


「じゃあ、ダンの屋台のところで」


「うん」


 *


 祭りの日、川沿いの通りは人でいっぱいだった。


 屋台の灯りが並び、焼いた魚と甘い蜜の匂いが混じっている。子どもたちが紙の灯籠を持って走っていく。ダンは額に布を巻いて、汗だくでとうもろこしを返していた。


「フェル、一本買え。友達価格だ」


「普通の値段だろう、それ」


「友達だから普通なんだよ」


 エリオが銅貨を出していると、人波の向こうから、リーナが来た。


 いつもの紺の上着ではなく、薄い水色の夏服だった。髪は同じように後ろで結んでいたが、首のあたりに汗が光っている。店から急いできたのだろう。


「間に合った」


「お疲れさま」


 言ってから、大人のような言い方だったと思った。リーナは気にしなかったらしく、ダンの屋台をのぞきこんだ。


「ダン、焦げてるよ、それ」


「焦げてるのがうまいんだよ」


 ミラが弟の手を引いて現れ、弟が灯籠を見たいと泣きだし、ミラはまたため息をついて人波の中へ消えた。ダンの父親が、ダンを呼んだ。


 屋台の前に、エリオとリーナが残った。


 リーナは、とうもろこしの最後のひと粒をかじり終えてから、川のほうを見た。


「ねえ。橋まで、歩かない?」


 エリオは一瞬、返事が遅れた。


「橋の上から、灯籠が流れるのが見えるの。毎年、見たいと思ってたんだけど、お店があって行けなかったから」


「……行こう」


 *


 橋の上は、下の通りよりもさらに人が多かった。


 欄干に沿って、子どもや年寄りが並んでいる。川面には、上流から流された紙の灯籠が、ゆっくりと下ってきていた。一つ、また一つ。水に映った光が揺れて、二つずつに見える。


 人に押されて、リーナが半歩よろけた。


 エリオは手を出しかけて、止めた。それから、出した。


「はぐれると困るから」


 リーナは、差し出された手を見た。少し考えるような顔をした。それから、手ではなく、エリオの上着の袖を、指先でつまんだ。


「これでいい?」


「うん」


 袖を引かれる感触だけで、胸がおかしな打ち方をした。二十八の自分なら笑うだろうと思った。笑えなかった。


 欄干の空いたところに、二人で並んだ。


「フェルくんは、大人になったら何になるの?」


 リーナが灯籠を見ながら聞いた。


「お父さんみたいに、灯りの修理屋さん?」


「……少し違う」


 エリオは言葉を選んだ。


「古くなった魔法を、少し前の状態に戻す研究、みたいなこと。できるか分からないけど」


「難しそう」


「難しい」


「でも、壊れたものを直すのは、お父さんと同じだね」


 エリオは、川面を見た。そんなふうに考えたことは、一度もなかった。


「リーナは?」


「私?」


「学校でも、そのあとでも。何がしたい?」


 リーナはしばらく黙っていた。灯籠が一つ、橋の下へ消えた。


「……描いたものを、誰かに使ってもらいたいな。飾るだけじゃなくて」


「使う?」


「看板とか、本の絵とか。うちのお店の、献立の板ね。あれ、去年から私が描いてるの」


「知らなかった」


 本当に知らなかった。


「字が下手だから、絵で描いてるの。魚の日は魚、豆の日は豆。お客さんがね、今日は豆か、って笑うの。それが、ちょっと嬉しい」


 リーナは照れたように欄干を指でなぞった。


「学校では、来週の実習、ちゃんとやりたい。水盤を光らせるの、まだ一回もうまくいってないから」


「僕も」


「フェルくんも?」


「たぶん、いちばん下手だと思う」


 リーナが笑った。声を出して笑ったのを、エリオは初めて聞いた気がした。


 そのとき、鐘が鳴った。


 川向こうの塔の、二つめの鐘だった。リーナが顔を上げた。


 エリオの耳には、その音が二重に聞こえた。


 塔の鐘のすぐ後ろに、もう一つ、ずっと遠くで鳴る音が重なっていた。冷たい石の部屋で聞いた、あの音に似ていた。誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。


 欄干を握った。指の下で、木がざらりとした。


「フェルくん?」


 袖が、くいと引かれた。


 音は、もう一つしかなかった。塔の鐘の余韻が、川の上を渡っていくだけだった。


「……大丈夫。人が多くて、ちょっと」


「顔、白いよ」


「平気」


 リーナはエリオの顔をじっと見て、それから、袖をつまんだまま言った。


「二つめの鐘だから、帰らなきゃ」


「うん。約束だから」


「うん」


 彼女はすぐには歩き出さなかった。灯籠が、また一つ流れてきた。


「……もうちょっと、いたかったな」


 小さな声だった。エリオに言ったのか、川に言ったのか、分からなかった。


「僕も」


 リーナが、こちらを見た。それから、袖から指を離した。


「来年は、最初から来られるようにする。お母さんに、今から頼んでおく」


「来年」


「うん。来年も、橋から見よう」


 エリオは、すぐには答えられなかった。


 来年の夏、自分がここにいるのかどうか、分からなかった。さっきの音が何だったのかも。


「……うん」


 それでも、そう答えた。


 橋のたもとで、リーナは手を振って、川沿いの通りを走っていった。屋台の灯りの中に、水色の背中が見えなくなるまで、今度はエリオも見送った。


 家に帰ると、作業部屋の灯りがついていた。父が、新しい芯を五本、台の上に並べていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。