第4話 夏の橋
雨の季節が終わると、川の色が変わった。
石段の昼食は続いていた。晴れた日は石段、雨の日は窓際の後ろ。ミラが来ない日もあり、ダンが別の輪に呼ばれていく日もあった。リーナはたいてい帳面を膝に置いていて、パンを食べ終えると水の線を描いた。
三班の準備のあと、彼女は夕方の鐘で帰るようになった。班の子たちは、何も言わなかった。言う必要がなくなったのだと、エリオは思った。
教室の灯りは、まだときどきまたたいていた。イネス先生が事務の人に伝えたらしいが、直しに来る人はいなかった。
*
その日は、昼から暑かった。
エリオが学校から帰ると、母が台所の床に座りこんでいた。豆の袋を膝にのせ、莢をむいている。額に汗が光っていた。奥の作業部屋からは、いつもの金属の音がしない。
「父さんは?」
「裏で、伝票とにらめっこ」
母は莢を割る手を止めずに言った。
「今日はね、宿屋さんから大きな注文が来たのよ。灯りを二十。夏の客が来る前に、全部」
「二十」
「嬉しい話なんだけどねえ」
母はそれ以上言わなかった。言わなかったが、豆をむく手が少し速くなった。
エリオは鞄を置いて、流しの前に立った。
「夕飯、僕が作る」
「あんたが?」
「豆と、玉ねぎと、ゆうべのパンがあるだろう。冷たい汁にする。暑いから」
母は豆の袋を抱えたまま、息子を見上げた。
「どこで覚えたの、そんなの」
「……本で見た」
実際は、二十代の半ばに覚えたのだった。夏の夕方、台所で、彼女に教わった。けれど、それは言えない。
母はしばらく迷っていたが、やがて豆の袋をエリオに渡して、立ち上がった。前掛けで手を拭き、水差しに井戸の水を汲む。
「じゃあ、父さんに水を持っていくわ。焦がさないでね」
「焦がすものがない」
「口ばっかり」
母は小さく笑って、裏口から出ていった。
エリオは豆をゆで、玉ねぎを薄く切った。台所の窓から、裏の路地が見える。父と母は、裏口の石段に並んで腰を下ろしていた。夕方の日陰で、父の膝の上に紙の束がある。
声は、ところどころしか聞こえなかった。
「……芯が足りない。仕入れが間に合わん」
「……一人で二十は無理よ」
「分かってる」
「ガルドさんに、聞いてみたら」
父は黙った。長い沈黙だった。
エリオは包丁を止めかけて、また動かした。ガルドという名前に、覚えがあった。父と同じ灯りの修理屋で、橋の向こうに店を持っている人だ。子どものころ、何度か店先で見た。いつからか、父の口からその名前を聞かなくなった。
理由は知らない。
知らないことを、知っているふりで口にしてはいけない。エリオは玉ねぎを水にさらし、豆の皮をむいた。
裏口の石段で、父が紙の束を一枚めくった。
「……あいつは、まだ怒ってるだろう」
「十年も前のことよ」
「十二年だ」
母が、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。
その夜の汁は、少し塩が足りなかった。父は何も言わずに二杯食べた。
*
三日後、父に呼ばれた。
「明日、学校のあと、手は空いてるか」
「空いてる」
「ほやの箱を一つ、橋の向こうまで運ぶ。重い」
それだけ言って、父は作業台に戻った。
翌日の夕方、エリオは木箱を抱えて、父の後ろを歩いた。箱の中で、割れないよう藁に包んだガラスのほやが、ときどき触れ合って鳴った。
ガルドの店は、橋を渡ってすぐの角にあった。父より少し年上の、背の低い人だった。店先で、父の顔を見るなり眉を上げた。
「……トマか」
「ああ」
「何の用だ」
父は、すぐには答えなかった。エリオの手から木箱を取り、店先の台に置いた。それから、ゆっくり言った。
「宿屋の注文を受けた。二十だ。ほやはうちにある。芯が足りない。手も足りない」
ガルドは箱を見て、父を見た。
「それで?」
「芯を回してくれないか。組みも半分頼みたい。代金は、半分ずつで」
父の声は、いつもと同じように短かった。けれど、エリオには分かった。父は、この言葉を何日もかけて用意してきたのだ。
ガルドは長いあいだ黙っていた。
「お前、坊主を連れてきたのは、俺に怒鳴らせないためか」
「箱が重かっただけだ」
ガルドが、鼻を鳴らした。
「入れ。芯の在庫を見せる。坊主は外で待ってろ。大人の話だ」
エリオは店の外の、川に面した手すりにもたれた。
中から、ときどき声が聞こえた。数の話、日にちの話。一度、ガルドの声が大きくなって、それから笑い声に変わった。何がおかしかったのかは聞こえなかった。
川の上を、夕方の風が渡っていた。
研究所でなら、と思った。研究所でなら、自分が話をまとめることもできた。けれど、これは父の仕事で、父の昔のことだった。十四の息子が口を挟んでいい話ではない。そして、口を挟まなくても、父は自分で扉を叩いた。
店から出てきた父は、何も持っていなかった。ほやの箱は置いてきたらしい。
「どうだった?」
「まず、五つ」
父は橋のほうへ歩き出しながら言った。
「五つ組んでみて、具合を見る。残りはそれからだ」
それから、少し間を置いて、付け足した。
「……喧嘩の理由は、あいつも覚えてなかった」
エリオは、思わず父の横顔を見た。父は前を向いたままだった。けれど、口の端が、ほんの少しだけ緩んでいた。
*
夏の半ばに、川祭りがあった。
前の日の昼、石段で、リーナが言った。
「明日のお祭り、フェルくんは行く?」
「たぶん。ダンが、店の手伝いをするって言ってたから」
「うちの屋台、焼きとうもろこし」
ダンが二段上から得意げに言った。ミラは、弟を連れていかなきゃいけないの、とため息をついた。
リーナは膝の帳面を閉じて、言った。
「私ね、夕方の鐘から、二つめの鐘まで行けるの。お母さんと決めたの。それまでは、お店で冷たいお茶を出す係」
彼女は少し得意そうだった。自分で決めて、自分で取りつけた時間なのだと、その顔で分かった。
「じゃあ、ダンの屋台のところで」
「うん」
*
祭りの日、川沿いの通りは人でいっぱいだった。
屋台の灯りが並び、焼いた魚と甘い蜜の匂いが混じっている。子どもたちが紙の灯籠を持って走っていく。ダンは額に布を巻いて、汗だくでとうもろこしを返していた。
「フェル、一本買え。友達価格だ」
「普通の値段だろう、それ」
「友達だから普通なんだよ」
エリオが銅貨を出していると、人波の向こうから、リーナが来た。
いつもの紺の上着ではなく、薄い水色の夏服だった。髪は同じように後ろで結んでいたが、首のあたりに汗が光っている。店から急いできたのだろう。
「間に合った」
「お疲れさま」
言ってから、大人のような言い方だったと思った。リーナは気にしなかったらしく、ダンの屋台をのぞきこんだ。
「ダン、焦げてるよ、それ」
「焦げてるのがうまいんだよ」
ミラが弟の手を引いて現れ、弟が灯籠を見たいと泣きだし、ミラはまたため息をついて人波の中へ消えた。ダンの父親が、ダンを呼んだ。
屋台の前に、エリオとリーナが残った。
リーナは、とうもろこしの最後のひと粒をかじり終えてから、川のほうを見た。
「ねえ。橋まで、歩かない?」
エリオは一瞬、返事が遅れた。
「橋の上から、灯籠が流れるのが見えるの。毎年、見たいと思ってたんだけど、お店があって行けなかったから」
「……行こう」
*
橋の上は、下の通りよりもさらに人が多かった。
欄干に沿って、子どもや年寄りが並んでいる。川面には、上流から流された紙の灯籠が、ゆっくりと下ってきていた。一つ、また一つ。水に映った光が揺れて、二つずつに見える。
人に押されて、リーナが半歩よろけた。
エリオは手を出しかけて、止めた。それから、出した。
「はぐれると困るから」
リーナは、差し出された手を見た。少し考えるような顔をした。それから、手ではなく、エリオの上着の袖を、指先でつまんだ。
「これでいい?」
「うん」
袖を引かれる感触だけで、胸がおかしな打ち方をした。二十八の自分なら笑うだろうと思った。笑えなかった。
欄干の空いたところに、二人で並んだ。
「フェルくんは、大人になったら何になるの?」
リーナが灯籠を見ながら聞いた。
「お父さんみたいに、灯りの修理屋さん?」
「……少し違う」
エリオは言葉を選んだ。
「古くなった魔法を、少し前の状態に戻す研究、みたいなこと。できるか分からないけど」
「難しそう」
「難しい」
「でも、壊れたものを直すのは、お父さんと同じだね」
エリオは、川面を見た。そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「リーナは?」
「私?」
「学校でも、そのあとでも。何がしたい?」
リーナはしばらく黙っていた。灯籠が一つ、橋の下へ消えた。
「……描いたものを、誰かに使ってもらいたいな。飾るだけじゃなくて」
「使う?」
「看板とか、本の絵とか。うちのお店の、献立の板ね。あれ、去年から私が描いてるの」
「知らなかった」
本当に知らなかった。
「字が下手だから、絵で描いてるの。魚の日は魚、豆の日は豆。お客さんがね、今日は豆か、って笑うの。それが、ちょっと嬉しい」
リーナは照れたように欄干を指でなぞった。
「学校では、来週の実習、ちゃんとやりたい。水盤を光らせるの、まだ一回もうまくいってないから」
「僕も」
「フェルくんも?」
「たぶん、いちばん下手だと思う」
リーナが笑った。声を出して笑ったのを、エリオは初めて聞いた気がした。
そのとき、鐘が鳴った。
川向こうの塔の、二つめの鐘だった。リーナが顔を上げた。
エリオの耳には、その音が二重に聞こえた。
塔の鐘のすぐ後ろに、もう一つ、ずっと遠くで鳴る音が重なっていた。冷たい石の部屋で聞いた、あの音に似ていた。誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。
欄干を握った。指の下で、木がざらりとした。
「フェルくん?」
袖が、くいと引かれた。
音は、もう一つしかなかった。塔の鐘の余韻が、川の上を渡っていくだけだった。
「……大丈夫。人が多くて、ちょっと」
「顔、白いよ」
「平気」
リーナはエリオの顔をじっと見て、それから、袖をつまんだまま言った。
「二つめの鐘だから、帰らなきゃ」
「うん。約束だから」
「うん」
彼女はすぐには歩き出さなかった。灯籠が、また一つ流れてきた。
「……もうちょっと、いたかったな」
小さな声だった。エリオに言ったのか、川に言ったのか、分からなかった。
「僕も」
リーナが、こちらを見た。それから、袖から指を離した。
「来年は、最初から来られるようにする。お母さんに、今から頼んでおく」
「来年」
「うん。来年も、橋から見よう」
エリオは、すぐには答えられなかった。
来年の夏、自分がここにいるのかどうか、分からなかった。さっきの音が何だったのかも。
「……うん」
それでも、そう答えた。
橋のたもとで、リーナは手を振って、川沿いの通りを走っていった。屋台の灯りの中に、水色の背中が見えなくなるまで、今度はエリオも見送った。
家に帰ると、作業部屋の灯りがついていた。父が、新しい芯を五本、台の上に並べていた。




