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第3話 雨の日の当番

 朝から雨だった。


 家を出るとき、母が戸口の傘立てから大きな黒い傘を抜いて、エリオに持たせた。父の古い傘で、骨が太く、開くと頭の上がすっかり暗くなる。


「あんたの、まだ穴が開いたままでしょう」


 覚えていなかったが、たぶんそうなのだろう。


 学校の坂は、流れてくる雨水で細い川のようになっていた。教室に着くと、窓という窓が白く曇っていて、川も橋も見えなかった。濡れた上着の匂いが、部屋じゅうにこもっている。


 一時間目が終わったところで、斜め前の席のリーナが振り返った。


「今日、石段は無理だね」


 昨日の約束のことだった。エリオは窓を見た。ガラスの外を、雨が筋になって流れている。


「下りたら、滑って川まで行く」


「それは困る」


 リーナは真面目にうなずいてから、少し考えた。


「どこで食べる? 廊下は寒いし、ミラは教室でいいって」


「ここは? 窓際の、後ろ」


「フェルくんの席の?」


「晴れたら、ここから橋が見える。雨だと何も見えないけど」


「じゃあ、そこ」


 リーナはそれだけ言って前を向いた。


 場所を一つ決めただけだった。それなのに、エリオはしばらく窓の曇りを見ていた。約束が雨で流れずに、ちゃんと形を変えて残った。そのことが、思っていたより嬉しかった。


 *


 昼休み、ミラが椅子を引きずってきて、エリオの机の横に据えた。リーナは自分の椅子を後ろ向きにして、エリオの机の端に包みを置いた。ダンは隣の机に腰かけて、勝手に会話に加わった。


「狭い」


「文句言うならダンは自分の席で食べて」


「俺の席、ここから三つ先だぞ」


「三つくらい歩きなさいよ」


 ミラとダンが言い合っているあいだに、リーナは包みを開いた。今日も薄いパンに何かを挟んだものだった。それと、小さな林檎が一つ。


「ミラ、今日は図書の当番でしょう。早めに行かないと」


「分かってる。食べたら行く」


 ミラは口いっぱいにパンを詰めながら言った。


 エリオは弁当箱の留め金を外した。昨日より、少し開けやすくなっている。今朝、父に「少し固い」と言ったら、黙って一度曲げ直してくれたのだ。


 窓に当たる雨の音が、ときどき強くなった。


「雨の日は、描かないの?」


 エリオが聞くと、リーナは林檎を手のひらで転がした。


「描こうとしたこと、あるよ。でも、雨の日の川って、ざらざらしてるの。どこを見ても、細かい輪ばっかり」


「輪?」


「雨粒が落ちたところ。一つ描いてるうちに、百くらい増えてる」


「追いつけない」


「そう、それ」


 リーナが、少し驚いた顔をした。昨日、自分が言った言葉だと気づいたらしい。それから、くすりと笑った。


「覚えてたんだ」


「昨日のことだから」


 答えながら、エリオは自分の声が少し固いのに気づいた。


 ダンが「何の話?」と聞き、ミラが「あんたには分からない話」と答えた。


「そういえば、フェルくん」


 リーナが林檎を一口かじってから、天井を見上げた。教室の灯りが、雨の日の薄暗さの中で、ときどきまたたいている。


「あれ、やっぱり直せない?」


「父さんに聞いた」


「え、本当に聞いたの?」


「ほやじゃなくて、芯のほうだろうって。古くなると、ああなるらしい」


 ゆうべ、夕食のときに聞いたのだった。学校の灯りがちらちらする、と話すと、父は箸を止めて、それだけ答えた。それから、また黙って食べた。それでも、答えてくれた。


「すごい。お父さん、見なくても分かるんだ」


「見たら、もっと分かると思う」


「先生に言ったら、呼んでもらえるかな」


「……どうだろう」


 父が学校の仕事を受けられるのかどうか、エリオには分からなかった。分からないことを、分かったふりで言いたくなかった。


 ミラが最後のパンを飲みこんで立ち上がった。


「行ってくる。リーナ、林檎の芯、私の机に置かないでよ」


「置かないよ」


 ミラが行ってしまうと、ダンもほかの男子に呼ばれて席を離れた。机の端に、リーナとエリオの包みだけが残った。


 雨の音が、急に大きく聞こえた。


 *


 午後の終わりに、イネス先生が黒板の端に表を書いた。


「来週の実習の準備を、今日から班ごとにお願いします。水盤を洗って、灯り石を数えて、足りない分を書き出しておくこと。今日と明日が三班、明後日が四班」


 教室のあちこちで、小さな不満の声が上がった。


 エリオは表を見た。三班の欄に、リーナの名前がある。自分は四班だった。


 前の席で、リーナが鉛筆を止めていた。


 放課後になっても、彼女はすぐには立たなかった。三班のほかの子たちが道具棚のほうへ行くのを見送って、それから黒板の表を、もう一度見た。


 エリオは声をかけるかどうか迷った。困っているのかどうかも、本当は分からない。勝手に決めて近づけば、それは昨日、川へ誘ったときと同じになる。


「……準備、何時までかかるのかな」


 リーナのほうが先に言った。独り言のようでもあり、エリオに聞いているようでもあった。


「分からない。でも、たぶん、鐘二つ分くらい」


「そうだよね」


 リーナは鞄の紐を指に巻いた。


「今日と明日、お店の日なの。雨の日は、お客さんがみんな中で食べるから、いつもより混むし。夕方の鐘が鳴ったら帰るって、お母さんと約束してて」


「うん」


「手伝うのは、嫌じゃないんだよ。お皿運ぶの、けっこう得意だし。でも、準備も当番だから、抜けたら班の子に悪いし」


 どっちも約束なの、とリーナは言った。


 替わろうか、という言葉が、喉まで出かかった。


 四班の自分が三班の準備を代われば、今日の問題は片づくかもしれない。けれど、それは彼女の当番を取り上げることだった。班の子たちは、なぜフェルが、と思うだろう。明日はどうする。来週は。


 エリオは言葉を飲みこんで、別のことを言った。


「先生に、時間のことを相談してみたら?」


 リーナが顔を上げた。


「先生に?」


「鐘が鳴るまではやる。そのあとは帰らなきゃいけない。それを先に言っておけば、班の中で分けられるかもしれない」


「……わがままって思われないかな」


「黙って抜けるより、いいと思う」


 リーナはしばらく黙っていた。


「一緒に行こうか」


 エリオは言ってから、急いで付け足した。


「僕も、準備のやり方を聞きたいんだ。明後日、四班だから。水盤の洗い方、全然覚えてない」


 嘘ではなかった。十四年前の実習の準備など、何ひとつ覚えていない。


 リーナは少し笑った。


「全然?」


「全然」


「……じゃあ、一緒に来て」


 *


 イネス先生は、教卓で出席簿をつけていた。


 リーナが話すのを、エリオは半歩うしろで聞いた。口を挟まないようにした。彼女は最初、少しつかえたが、途中からはっきり言った。夕方の鐘までは準備をする。そのあとは店に戻らなければならない。明日も同じ。


 先生はペンを置いて、最後まで聞いた。


「言ってくれてよかった」


 最初にそう言った。


「準備は班の仕事だから、一人で全部やらなくていいのよ。三班の子たちには、先生から分け方を話しておきます。リーナさんは、水盤を洗うところまでにしましょう。数えて書き出すのは、残る子でできるから」


「はい」


「それから、来週の実習の日。あれは少し遅くまでかかるから、お店のほうの予定を、お母さんに確かめておいてくれる? 先生からも連絡帳に一言書いておくわね」


 リーナはうなずいた。肩から、少し力が抜けたように見えた。


 先生はエリオのほうを見た。


「フェルくんは?」


「四班なので、やり方を見ておきたくて」


「感心ね。じゃあ、今日は見学。手は出しすぎないこと」


 先生は、少しだけ笑ってそう言った。


 *


 水盤は、思ったより重かった。


 浅い陶の鉢で、内側に細い線が刻んである。リーナは袖をまくり、流しで一つずつ洗った。線のあいだに残った汚れを、小さなはけでかき出していく。


「線の中が詰まってると、水がうまく光らないんだって」


「そうなのか」


「先生が去年、そう言ってた。フェルくん、聞いてなかったでしょう」


「……たぶん」


 三班のほかの子たちは、棚の前で灯り石を数えていた。ときどき数を間違えて、最初からやり直している。


 リーナは洗い終えた水盤を布の上に伏せながら、そちらをちらりと見た。


「十ずつ、箱の蓋に並べればいいのに」


「並べる?」


「お店でね、お皿を数えるとき、そうするの。一枚ずつ数えると、途中で話しかけられたら分からなくなるから」


 彼女がそう言うと、棚の前の子が振り向いた。


「リーナ、それどうやるの?」


 リーナは手を拭いて、棚のほうへ行った。箱の蓋に石を並べて見せる。十ずつ、五列。数え間違えていた子が、ああ、と声を上げた。


 エリオは流しの前で、伏せられた水盤を見ていた。


 知らなかった。皿を数えるのが得意なことも、それを人に教えるときの、少し得意そうな顔も。


 夕方の鐘が鳴った。


 リーナは袖を下ろし、班の子たちに「あとお願い」と頭を下げた。「分かった、また明日」と返事があった。誰も、不満そうな顔はしていなかった。


 *


 雨は弱くなっていたが、まだ止んでいなかった。


 昇降口で、リーナが自分の傘を開いた。薄い緑の布の傘で、左側の骨が一本、曲がっていた。開くと、そこだけ布がたわんで、しずくが落ちる。


「それ、濡れない?」


「左の肩だけ。慣れてる」


 エリオは父の黒い傘を開いた。


「途中まで、同じ道だろう。橋のところまで」


「……うん」


 並んで歩きだしてから、エリオは自分が彼女の左側に立っていることに気づいた。黒い傘を少しだけ傾けると、曲がった骨の下に落ちるしずくが、黒い布に当たって逸れた。


 坂を下りるあいだ、二人とも黙っていた。並木の葉から、大粒の水が落ちてくる。足もとの石畳が、灯りを映して光りはじめていた。


「フェルくん」


 橋の手前で、リーナが言った。


「左の肩、濡れてる」


 見ると、上着の左肩が黒く湿っていた。傘を傾けた分だけ、自分のほうに雨が入っていたのだ。


「大きい傘だから、平気だと思った」


「平気じゃないよ」


 リーナは自分の傘の柄を握り直した。


「今日、先生のところに一緒に来てくれたの、助かった。一人だったら、たぶん言えなかった」


「言ったのは、リーナだよ」


「うん。でもね」


 彼女は少し言いよどんだ。


「フェルくん、なんだか、全部自分でどうにかしようとしてる顔、してる。昨日から」


 エリオは足を止めかけた。


「そんな顔?」


「難しい本を読んでるときの顔と、ちょっと似てる」


 リーナはそう言って、少し笑った。からかっているのではなかった。


「困ったら、フェルくんも言ってね。私だって、水盤の洗い方くらいは教えられるから」


 橋の上を、雨を含んだ川風が渡っていった。


 頼る、ということを、エリオは研究所で何度もしてきた。分からない計算を同僚に聞き、手に余る実験を人に任せた。けれど、それはいつも仕事だった。十四歳の同級生に、こんなふうに言われたことはなかった。


「じゃあ」


 エリオは言った。


「明後日、四班の準備で分からなかったら、聞いてもいい?」


「いいよ。石の数え方も教えてあげる」


「十ずつ、五列」


「よく見てたね」


 橋を渡り終えたところで、道が二つに分かれた。右は職人街、左は川沿いの通りで、その先に、雨の中でも灯りのついた店が並んでいる。


 リーナは左の道の前で立ち止まった。


「明日、晴れたら石段ね」


「雨なら?」


「また窓のとこ。ミラも、ダンもいるけど」


「いいよ」


 リーナは緑の傘を少し上げて、手を振った。曲がった骨の下から、しずくがひとつ落ちた。


 エリオは、彼女が通りの灯りの中へ入っていくのを、見送らずに背を向けた。見送ったら、たぶん店のほうまで目で追ってしまう。


 職人街の坂を上りながら、濡れた左肩が冷たかった。家に着いたら、母に何か言われるだろう。


 それでもいい、と思った。


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