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第2話 川風と弁当

「……なんだ、急に」


 父はそう言って、灯りの芯を台に置いた。


 エリオは戸口で言葉を探した。急に、と言われればそのとおりだった。十四の自分は、この部屋の前を素通りして二階へ上がっていたはずだ。


「その灯り、いつまでに直すの?」


 口から出たのは、研究所で納期を確かめるときと同じ言い方だった。


 父の眉が少し寄った。


「頼まれた分は、頼まれた日までに直す」


「代金は――」


「子どもが気にすることじゃない」


 短い声だった。怒鳴ったわけではない。それでも、そこで扉が閉まったのが分かった。


 エリオは台の上を見た。父の左手は、割れたほやを布で押さえたままだった。細い破片が、布の端から光っている。話しかけたせいで、その手を離せずにいたのだ。


「ごめん。仕事の途中だった」


 父は何も言わなかった。少しして、また工具を取った。


「飯のあとにしろ」


 それが、続きを聞いてもいいという意味なのか、もう来るなという意味なのか、エリオには分からなかった。


 *


 夕食は豆と玉ねぎの煮こみだった。


 父は先に食べ終えて作業部屋に戻り、母が皿を重ねはじめた。エリオは席を立ちかけて、やめた。


「母さん、何か手伝えることある?」


 母の手が止まった。


「……どうしたの、あんたまで」


「拭くくらいなら、できる」


 母はしばらく息子の顔を見ていたが、やがて棚から乾いた布を一枚取って、こちらへ放った。


「割らないでよ。数がないんだから」


 流しの横に並んで、母が洗い、エリオが拭いた。母の手は赤く、指の腹が荒れていた。湯を沸かす薪を、たぶん減らしているのだろう。ぬるい水だった。


 棚の端に、見覚えのある弁当箱があった。四角い木の箱で、ふたの留め金が新しい。


「それ、壊れてなかった?」


「先週ね。留め金が取れて、あんたがふたを紐で縛ってたでしょう」


 覚えていなかった。


「あの人が直したのよ。夜中に、灯りの部品の余りで」


 母はそれ以上言わず、皿を洗い続けた。


 エリオは留め金を指でなぞった。細い真鍮が、きちんと曲げてある。父が仕事のあとに、これを作っていた。十四の自分は、たぶん礼も言わずに紐をほどいて、そのまま使っていた。


「明日のお弁当、それに詰めるからね」


「うん」


 飯のあとにしろ、と父は言った。けれど、その夜、作業部屋の灯りは遅くまで消えなかった。エリオは戸口まで行って、背中を見て、声をかけずに二階へ上がった。今日はもう、一度邪魔をした。


 *


 朝、台所へ下りると、作業部屋の戸が開いていた。


 父はもう台に向かっていた。ゆうべの三つのうち、一つの灯りに新しいほやがはまっている。母は朝のパンを切りながら、弁当箱に煮こみを詰めていた。


 エリオは作業部屋の戸口に立った。今度は、仕事の手が空くのを待った。父が工具を置いて、指先の油を布で拭いたところで、口を開いた。


「父さん。弁当箱の留め金、ありがとう」


 父は布を持ったまま、こちらを見た。


「……ああ」


 それから、また灯りのほうへ顔を戻した。


「きつかったら言え。曲げ直す」


「うん」


 それだけだった。けれど、ゆうべの「子どもが気にすることじゃない」とは、少し違う声に聞こえた。


 母が、包んだ弁当箱を黙って卓に置いた。


 *


 昼休み、ダンに腕をつかまれた。


「フェル、外で食おうぜ。今日はあったかい」


 校舎の裏手に、川へ下りる石段がある。昼になると、何人かがそこで弁当を広げるのだという。エリオは覚えていなかったが、ダンの口ぶりでは、前からの習慣らしかった。


 石段には先客がいた。男子が三人、少し離れて女子が二人。その片方が、リーナだった。


 エリオは足を止めかけた。ダンはかまわず、女子たちの二段上に腰を下ろした。


「ここ、いい?」


「いいよ。どうせダンでしょ」


 リーナの隣の子が答えた。丸い眼鏡をかけた子で、名前はミラ。ダンとは家が近いらしく、遠慮のない口をきいた。


 エリオはダンの隣に座り、膝の上で弁当箱を開けた。留め金が、小さく鳴った。


 中身は黒パンと、ゆうべの煮こみの残りと、刻んだ青菜だった。


「お、留め金直ったのか」


「父さんが直してくれた」


 言ってから、自分で少し驚いた。そんなことを人に話したのは、たぶん初めてだった。


「いいなあ。うちの親父、壊れたら新しいの買えって言うだけだぞ」


「買えるならいいじゃない」


 ミラが言い、ダンが言い返し、男子たちが笑った。


 川風が石段を下から吹き上げてきた。水の匂いと、どこかの店で焼いている魚の匂いが混じっている。リーナは膝の上に小さな包みを広げていた。薄く切ったパンに、何かを挟んだだけのものだ。彼女はそれを片手で食べながら、もう片方の手に鉛筆を持っていた。


 膝の上の帳面に、何か描いている。


「また描いてる」


 ミラがのぞきこんだ。


「見ないで。まだ線だけだから」


「線だけでも見せてよ。ねえフェル、リーナってね、昼休みのたびにこれなの」


 急に名前を呼ばれて、エリオは顔を上げた。


 リーナは困った顔で帳面を閉じかけ、それから、ミラがあきらめそうにないのを見て、ため息をついた。


「……本当に、線だけだよ」


 帳面が少しだけ傾けられた。


 描いてあったのは、石段の下の川だった。正確には、川の水面だけだった。岸も橋もない。細い線が何本も重なって、流れがよじれ、ほどけ、また重なっている。


 エリオは、それを知っていた。


 妻は休みの日に、よく川へ行った。帰ってくると、紙が何枚も水の線で埋まっていた。きれいだね、と言ったことがある。ありがとう、と彼女は言った。それだけだった。何を描いているのか、なぜ水なのか、聞いたことはなかった。


「どうして、水だけなんだ?」


 気づいたら、聞いていた。


 リーナが目を上げた。からかわれるのを待つような顔をしていたが、エリオが何も付け足さないのを見ると、少し考えた。


「……同じ形にならないから、かな」


「同じ形?」


「橋とか家は、明日来ても同じでしょう。だから、いつでも描ける。でも水は、いま見てるのは、いまだけなの。描いてるあいだにもう違うの。それが、ちょっと悔しくて」


「悔しい?」


「追いつけないから」


 彼女はそう言って、自分で照れたように帳面を閉じた。


「変でしょう」


「変じゃない」


 すぐに答えすぎたかもしれない。ミラが、ふうん、とエリオとリーナを見比べた。


「フェルってそういうこと言う人だったんだ」


「どういうことだよ」


「知らない。いつも本読んでるから」


 ダンが吹き出した。エリオも、少し遅れて笑った。


「そういえば」


 リーナが、たたみかけた帳面の上で鉛筆を回した。


「フェルくんは、いつも何を読んでるの?」


「……灯りの本。古い、修理のやり方の」


 十四の自分が何を読んでいたのか、本当はよく覚えていなかった。けれど、父の作業部屋の棚にあった本を、勝手に持ち出していたことは覚えている。


「修理? 魔法の?」


「半分くらい。家が、灯りの修理屋だから」


「そうなんだ」


 リーナは少し目を丸くした。


「じゃあ、教室の灯りがちらちらするの、直せる?」


「たぶん無理。読んでるだけだから」


「なあんだ」


 彼女はがっかりした顔をして見せて、それから笑った。ミラも笑った。からかわれたのだと、エリオは少し遅れて気づいた。


 笑いながら、胸の奥がしんとしていた。


 追いつけないから。


 大人になってからも、彼女はそれを続けていたのだ。自分は隣にいて、紙の束を見て、きれいだねとしか言わなかった。


 リーナはもうパンを食べ終えて、包みの布をたたんでいた。予鈴にはまだ間がある。それなのに、彼女は少し急いでいるように見えた。


 *


 放課後の掃除は、窓際の列の当番だった。


 エリオは机を運び、床を掃き、ほうきを片づけた。体は覚えていなくても、ダンの真似をすればだいたい足りた。


 最後に残ったのは、窓だった。


 リーナが前から順に閉めていき、エリオは後ろの窓に手をかけた。自分の席の横の窓だ。引けば閉まると思った。窓は途中で止まり、留め具がかちりとも言わなかった。


 押した。引いた。動かない。


「それ、持ち上げるの」


 振り向くと、リーナが二つ前の窓のところから見ていた。


「枠ごと?」


「少しだけ。ここが古いから、下がってるの。持ち上げてから閉めて、それから回す」


 言われたとおりにすると、窓は嘘のように素直に閉まった。留め具を回すと、今度はちゃんと音がした。


「……知らなかった」


「昨日、私もやったよ。開けるときも同じ」


 リーナは小さく笑った。教室の後ろから、見ていたのかもしれない。昨日、窓を半分開けたとき。


「フェルくん、二年になってから、ずっと前の席だったもんね」


 助けられた、とエリオは思った。窓ひとつのことだ。それでも、十四年ぶりの教室で、誰かに何かを教えてもらったのは、これが初めてだった。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 リーナは自分の鞄を取りに戻った。帳面が、鞄の口から少しのぞいていた。


 エリオは、もう少し話したいと思った。石段の続きを。水の線のことを。それが十四歳の自分の気持ちなのか、二十八の自分の気持ちなのか、分からなかった。分からないまま、口を開いた。


「このあと、川のほうに行く?」


 リーナが振り向いた。


「描くなら、あの石段のあたりかと思って。邪魔はしないけど」


 言いながら、言い方が下手だと思った。リーナは鞄の紐を握ったまま、少し困った顔をした。


「ごめん。今日はだめなの。お店、手伝う日だから」


「お店?」


「お母さんの。夕方から混むから」


 それ以上は言わなかった。言わなくていい、という顔をしていた。


 エリオは、その店を知っていた。けれど、それは目の前の彼女から聞いたことではない。


「そうか。じゃあ、また」


「うん」


 リーナは扉のほうへ歩きかけた。ほかの当番の子たちは、もう廊下に出ていた。


 エリオはその背中に、もう一度だけ声をかけた。


「なあ」


 彼女が足を止めた。


「いつなら、話せる?」


 リーナはしばらく黙っていた。窓の外で、川風が並木を揺らしている。


「……お昼なら」


 それから、少し考えて、付け足した。


「また、石段で。ミラもいるけど」


「いいよ」


 リーナは小さくうなずいて、廊下へ出ていった。足音が、階段のほうへ急いで遠ざかっていく。


 エリオは閉めたばかりの窓を見た。持ち上げてから、閉めて、回す。


 覚えておこう、と思った。


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