第1話 春の席替え
台所の卓には、椅子が二つある。
エリオは自分の椅子を引き、もう一つには触らなかった。半年前から、その背には彼女の薄い上着が掛かったままになっている。片づければいいのだと、何度か思った。思うだけで、手は伸びなかった。
鍋の残りを皿に移し、半分ほど食べた。窓の外で、川沿いの灯りがひとつずつ点いていく。
彼女はこの時間になると、窓を細く開けた。夕方の川の匂いが好きだと言った。寒いよと言っても、少しだけ、と笑って閉めなかった。
エリオは窓を見て、開けなかった。
皿を洗い、卓の端に明日の実験の手順書を広げる。確認の順番、計器の値、同僚と分けた役目。書き慣れた項目を一つずつ追っていると、ほかのことを考えずにすんだ。
最後の行を確かめて、ペンを置いた。
「リーナ」
呼んでから、自分の声に驚いた。返事を待つつもりはなかった。
灯りを落とし、彼女の椅子の横を通って寝室へ行った。
*
翌朝の研究棟は、いつもどおり静かだった。
実験室の床に描いた円は三重で、外側の線には昨日のうちに遮断の仕掛けを組みこんである。同僚のハンナが計器を読み上げ、エリオが手順書と照らし合わせた。
「外の円、安定。値は予定の範囲」
「遮断の手元は?」
「私が持ってる。合図ひとつで切るよ」
古い石に残った魔法の響きを、少し前の状態へ戻す。うまくいけば、壊れた灯りを作り直さずに直せるかもしれない。三年続けてきた研究だった。
エリオは円の縁に膝をつき、中心の石へ手をかざした。ぬるい水に触れたような手応えが返ってくる。いつもの感触だった。
「始める」
石の表面が淡く光った。値は上がり、予定の線で止まる――はずだった。
光が、止まらなかった。
「エリオ、下がって!」
ハンナの声と同時に、遮断の音が鳴った。外の円の線が消える。それでも中心の光は消えず、逆に彼のほうへ流れてきた。
手を引こうとした。腕が重い。冷たいとも熱いともつかないものが手首から胸へ上ってきて、耳の奥で、遠い鐘のような音がした。
ハンナが自分の名前を呼んでいる。返事をしようとして、声が出なかった。
*
チョークの音がした。
エリオは顔を上げた。机に頬をつけて眠っていたらしい。木の天板に、誰かが彫った小さな傷がある。
前の方で、背の高い女の人が黒板に字を書いていた。
窓が開いていて、春の風がカーテンを揺らしている。並んだ机に、同じ紺の上着の背中が二十いくつ。誰かが小さくあくびをした。
エリオは自分の手を見た。
細い。指の節が目立たず、手の甲にあるはずの古い火傷の痕がない。上着の袖が、手首の上で短く止まっていた。そういえばこの上着は、二年の春にはもう小さかった。母が袖を出すと言っていた――
そこまで思い出して、息が詰まった。
黒板の隅に、日付が書いてある。白い字で、十四年前の春の日付だった。
「――では、席替えは昼休みにします。日直はくじを作っておいてね」
黒板の前の人が振り返った。イネス先生だ。名前は考えるより先に浮かんだ。記憶の中より、ずっと若い。
胸の中で、何かが速く打ちはじめた。息を吸おうとすると、うまく入らない。机の端を握った。落ち着け、と思った。実験の前に何度も自分に言ってきた言葉だった。吸って、数えて、吐く。
窓際の列の、前から三つめ。
薄茶の髪を後ろで一つに結んだ少女が、窓の外を見ていた。頬杖をついて、鉛筆の端を唇に当てている。
リーナだった。
エリオは目を逸らせなかった。立ち上がりかけた足を、机の脚に押しつけて止めた。
生きている。
その言葉だけが頭の中にあって、ほかには何も入ってこなかった。
「フェルくん?」
イネス先生が教卓を離れて、こちらへ歩いてきた。
「顔が真っ青よ。気分が悪い?」
「……少し、めまいが」
嘘ではなかった。声が、自分の耳に高く聞こえた。
先生はエリオの額に手の甲を当て、首をかしげた。
「熱はないわね。保健室で横になっていなさい。ダン、連れて行ってあげて。途中でふらついたら支えるのよ」
「はい」
隣の席の大柄な少年が、椅子を鳴らして立った。教室の何人かがこちらを見た。窓際の少女も振り向いたかもしれない。エリオは見なかった。見たら、何か言ってしまいそうだった。
*
保健室の寝台は硬く、薬草を煮た匂いがした。
保健の先生は脈をとり、水を一杯くれて、昼休みが終わるまで寝ていなさいと言った。春先には、こういう子がときどきいるのだという。
エリオは天井の木目を見ていた。
十四歳。魔法学校の二年。ベルナの川沿いの家から通っていたころ。
覚えていることと、覚えていないことがあった。ダンの顔は分かったのに、どんな話をしていたかは思い出せない。教室の席も、時間割も、霧の向こうにある。十四年は長かった。
リーナとも、話した覚えはほとんどなかった。朝の挨拶くらいはしたはずだ。同じ教室にいた静かな子、というだけだった。彼女のほうもそうだったと、ずっとあとで、笑いながら言われた。
あなた、いつも難しい顔で本を読んでたもの。
エリオは目を閉じた。
あの教室にいるのは、その言葉を言った人ではない。まだ何も知らない十四歳の少女だ。自分のことを、同じ教室の無口な男子としか思っていない。
それでいい、と思った。そうでなければいけない。
昼休みの終わりの鐘が鳴るまで、彼はそのまま動かなかった。
*
教室に戻ると、机の並びが変わっていた。
くじはもう済んでいて、生徒たちは新しい席に荷物を移し終えていた。弁当の匂いがまだ残っている。エリオは入口で立ち止まった。自分の机がどこにあるのか分からない。
「フェル、こっち」
ダンが窓際の後ろを指さした。
「お前、いちばん後ろの窓際。いい席だぞ。寝ててもばれにくい」
「……誰が引いたんだ?」
「日直」
ダンが顎で示した先で、リーナが振り向いた。
彼女の新しい席は、エリオの席の斜め前だった。彼女は机の上から一枚の紙を取って、少し迷うようにしてから、立ち上がった。
「これ、フェルくんの?」
差し出されたのは、折り目のついた時間割だった。端に、見覚えのある下手な字で名前が書いてある。
「机を運んだときに、中から落ちたの。踏まれそうだったから」
「ありがとう」
受けとるとき、紙の端だけをつまんだ。指が触れないように。
リーナは手を引っこめて、それから小さく首をかしげた。
「あのね、くじ、私が代わりに引いたの。休んでる人の分は、日直が引く決まりだから」
「うん」
「恨まないでね」
「恨む?」
「窓際のいちばん後ろ、午後は日が当たって暑いんだって。去年そこだった子が言ってた」
彼女は真面目な顔で言い、それから口の端だけで笑った。
エリオはその顔を、知らなかった。
六年、一緒にいた。笑った顔なら、いくらでも見た。けれど、こんなふうに相手の返事を少しだけ待つような笑い方は、記憶のどこにもなかった。
「……暑かったら、窓を開ける」
「開けるのは窓の当番。今週は私」
「じゃあ、頼む」
言ってから、頼み方がおかしかったかと思った。リーナは一度まばたきをして、ふうん、という顔をした。
「もう平気なの? さっき、真っ青だった」
「寝たら、少しよくなった」
「そう」
それで話は終わるはずだった。リーナは自分の席に戻りかけて、足を止め、窓の外を見た。
「ここからだと、橋が見えるね」
エリオもつられて外を見た。
川沿いの並木の向こうに、石の橋がかかっている。荷車がゆっくり渡っていく。水の面が昼の光で白くちらちらしていた。
「前の席からは屋根しか見えなかったの。ちょっとうらやましい」
「……替わろうか?」
「だめ。くじだもの」
リーナはあっさり言って、自分の席に座った。それから、もう一度だけ窓の外を見た。
エリオは時間割を見下ろした。紙の角が、指の中で少し湿っていた。
替わろうか、などと言うつもりはなかった。口が先に動いた。妻にしていたように。
気をつけなければいけない、と思った。
自分は彼女を知っている。けれど、彼女は自分を知らない。そして、目の前の彼女のことを、自分も本当は知らないのだ。橋が見たいと思っていたことも、くじの結果で冗談を言う子だったことも。
午後の授業が始まった。窓から入る日差しは、たしかに少し暑かった。
斜め前で、リーナが立ち上がり、窓を半分だけ開けた。川の風が入ってきて、教室のあちこちで紙がめくれた。誰かが「あ」と言い、何人かが笑った。前の席の少女が、飛びかけた帳面を押さえて、隣の子と顔を見合わせている。
エリオは、その笑い声を初めて聞いたような気がした。この教室には二十四人がいて、それぞれが弁当を食べ、くじに文句を言い、窓の風に紙を押さえている。十四歳の自分は、それを何ひとつ見ていなかった。
*
帰り道は、覚えていた。
学校の坂を下り、並木の道を川に沿って歩く。橋のたもとで右へ折れると職人街で、鍛冶の音と、油と、焼いたパンの匂いが混じってくる。足が勝手に道を選んだ。
家の戸は、記憶より小さかった。
「おかえり」
台所から母の声がした。母は流しの前で、昼の皿を洗っていた。背中が細い。二十八のエリオが最後に会った母は、もっと丸い背中をしていた。
「ただいま」
声が少しかすれた。母は振り返らなかった。
「上着、そこに掛けといて。袖、今度出すから」
「……うん」
奥の作業部屋から、小さな金属の音がしていた。
戸口からのぞくと、父が作業台に向かっていた。台の上に、ほやの割れた魔法灯が三つ並んでいる。父は細い工具で灯りの芯をつまみ、光にかざしては、また台に置いた。
エリオに気づいても、父は顔を上げなかった。
「帰ったか」
「うん」
それだけだった。
子どものころ、この沈黙が嫌いだった。父はいつも機嫌が悪く、話しかけても短い返事しかしない。自分のことなど、どうでもいいのだと思っていた。だから、こちらも話さなかった。
いま、戸口に立って見ていると、父の手が見えた。
工具を持つ指が、ときどき止まる。止まって、目頭を押さえる。台の端には受けとりの札が何枚か重ねてあり、その上に、修理代の書きつけが載っていた。
台所で、母が皿を拭く手を止めた。作業部屋のほうを一度見て、また拭きはじめた。
この家で、自分が何を見ていなかったのか。エリオはまだ、それを知らなかった。知っているのは、この何年かのうちに父が店をたたみかけたことがある、ということだけだった。その理由を、大人になってからも、きちんと聞いたことはなかった。
聞けばよかった、と思ったことは何度もあった。
エリオは上着を掛け、作業部屋の戸口に戻った。
父の背中に、何から言えばいいのか分からなかった。研究所でなら、初めて会う相手にも頭を下げて話を聞くことができた。けれど、十四の息子が父にどう話しかけていたのか、思い出せない。
たぶん、話しかけていなかったのだ。
「父さん」
工具の音が止まった。
「今日の仕事、どうだった?」
父がゆっくりと顔を上げた。灯りの芯をつまんだまま、しばらく息子を見ていた。
「……なんだ、急に」




