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第10話 おかえりの声

 握り返してくる手は、温かかった。


 エリオは、目を開けた。


 白い天井があった。薬草を煮た匂いがした。学校の保健室の匂いに似ていたが、もっと薄く、もっと清潔だった。窓から、朝の光が斜めに入っていた。


 寝台の横に、誰かが座っていた。


 薄茶の髪を、後ろで一つに結んでいた。十四の少女のものではない、大人の肩だった。目の下が少し腫れていて、エリオの手を両手で包んだまま、身を乗り出していた。


「……エリオ?」


 声だった。


 半年間、もう二度と聞けないと思っていた声だった。


「リーナ」


 名前を呼んだ。声はかすれていたが、ちゃんと出た。


 リーナの顔が、くしゃりと歪んだ。


「よかった……」


 それだけ言って、彼女はエリオの手に額を押しつけた。肩が震えていた。


 エリオは、動かせるほうの手を伸ばした。指先が、彼女の髪に触れた。結んだ髪の、少しほつれたところ。温かかった。本当に、そこにいた。


 涙が、勝手に出てきた。止めようとは思わなかった。


「ひと晩、目を覚まさなかったのよ」


 リーナが、顔を上げずに言った。


「ハンナさんが研究所から走ってきて、あなたが倒れたって。私、印刷所から、前掛けのまま来たの。先生は、呼びかけを続けてって。手を握っててって。だから、ずっと」


「……聞こえてた」


「本当?」


「聞こえたら手を握ってって、ハンナの声も」


 リーナが、ようやく顔を上げた。涙で濡れた目が、怒ったようにエリオを見た。


「危ないことはしないって、約束したでしょう」


「いつもの確認はした。予想してなかった」


「分かってる。ハンナさんも、そう言ってた。あなたのせいじゃないって」


 リーナは、エリオの手を握る指に、力をこめた。


「分かってるけど、怖かったの。ずっと、怖かった」


 エリオは、その手を握り返した。


「ごめん」


「謝らなくていい」


「心配させた。だから、ごめん」


 リーナは、何か言い返そうとして、やめた。それから、泣きながら、少しだけ笑った。


「……変わらないね、そういうところ」


 *


 戸口に、ハンナが立っていた。


 白い上着の袖をまくったまま、壁に寄りかかっている。目の下に、リーナと同じくらい濃い隈があった。


「やっと起きた」


「……ハンナ」


「遮断は効いてた。なのに、光が止まらなかった。何が起きたのか、まだ分からない。調べるのは、あなたが起きられるようになってから。今は寝てて」


 ハンナは、それだけ言って、療養所の先生を呼びに行った。


 先生は、エリオの目をのぞきこみ、脈をとり、いくつか質問をした。名前、生まれた町、今日の季節。それから、うなずいた。


「残響の事故のあとは、しばらく記憶が混ざることがあります。昔のことと、最近のことが入れ替わったりね。無理に思い出そうとしないで。分からないことは、身近な人に聞けばいい」


 先生が出ていくと、リーナが椅子を寄せ直した。


「記憶、混ざってる?」


「……少し」


 嘘ではなかった。


 覚えていることは、二つあった。一つは、この療養所とは別の、半年前の療養所の廊下。もう一つは、十四の春から一年間の教室と、橋と、窓。


 その二つのあいだにあるはずの、十四年分の、今の道のりを、エリオは知らなかった。


「聞いてもいい?」


「なに?」


「僕たちは、どうやって……また会ったんだっけ」


 リーナは、目を丸くした。


「そこから?」


「そこから」


 リーナは、呆れたような、泣き笑いのような顔をした。それから、エリオの手を握ったまま、ゆっくり話しはじめた。


「二年のとき、同じ組だったでしょう。あなた、窓が閉められなくて」


「覚えてる」


「三年で組が分かれたけど、お昼はときどき石段で一緒だった。ミラとダンも。卒業してからは、あなたは都の研究学校で、私は印刷所の見習い。手紙は、最初は書いてたけど、そのうちお互い忙しくなって」


「うん」


「それで、二十二のとき。あなたの研究所が、実験の手順書の図を印刷所に頼んで、それを描くのが私だった」


 エリオは、息を止めた。


 それは、知っていた。昔も、そうだった。研究所の手順書を描きに来た、印刷所の人。どこかで会ったことがある気がする、静かな人。


「初めての打ち合わせの日にね」


 リーナが、少し照れたように言った。


「私、絵をいっぱい持っていったの。頼まれた図じゃなくて、学校を出てから描いた、水の絵とか、説明の絵とか。鞄に入りきらなくて、紐で縛って」


「どうして」


「約束したじゃない。会えたら、全部見せるって」


 リーナは、まっすぐにエリオを見た。


「あなた、二年の終わりの春に、橋で言ったでしょう。しばらく会えないことがあっても、会いたいって。私、ずっと覚えてたの。だから、再会したら全部見せようって決めてた」


 エリオは、何も言えなかった。


「そうしたら、あなた、打ち合わせの時間を全部使って、本当に一枚ずつ見たのよ。手順書の話、何もしないで。ハンナさんに、あとで叱られてた」


「……覚えてない」


「覚えてなくていいよ。私が覚えてるから」


 リーナは、少しだけ首をかしげた。


「でもね、あの春の橋のこと。あなた、次の日、普通に石段に来て、何もなかったみたいな顔してた。しばらく会えないって何のことって聞いたら、そんなこと言ったっけ、って」


 エリオは、彼女の手を見た。


「あれ、何だったの?」


 答えられなかった。答えようとすれば、何もかも話さなければならなかった。半年前の廊下のことも。この一晩のあいだに、自分がどこにいたのかも。


「……いつか、話す」


 リーナは、しばらくエリオの顔を見ていた。それから、うなずいた。


「いつか、ね。待ってる。待つのは得意なの」


 *


 昼前に、リーナの母親が、鍋を抱えて来た。


 食堂の前掛けをつけたまま、髪に白いものが混じっていた。エリオの顔を見るなり、「生きてた」と言って、鍋を卓に置き、それから少しだけ泣いた。娘とよく似た泣き方だった。


「スープ。食べられるようになったら、温め直して」


「ありがとうございます、お義母さん」


 口から出た呼び方に、自分で驚いた。母親は気にしなかった。


 母親が帰ったあと、リーナがスープの鍋の蓋を開けて、匂いを嗅いだ。


「お義父さんとお義母さんは、昨日の夜に来たのよ。ガルドさんと一緒に。お義父さん、走ってきて、眼鏡がずり落ちてた」


「父さん、まだ眼鏡?」


「何言ってるの。もう十四年もかけてるじゃない」


 リーナは笑った。


「今も、橋のこっちと向こうで、ガルドさんと半分ずつ。去年、二人とも、見習いの子を一人ずつ取ったでしょう。お義母さんが、帳面が二倍になったって文句言ってた」


 知らなかった。


 知らないことを、リーナが一つずつ教えてくれる。それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。


「……今日、何か、ほかに聞いておいたほうがいいことはある?」


 リーナは、少し考えた。それから、自分の鞄から、手のひらほどの帳面を出した。


 古い帳面だった。表紙が何度も貼り直されていて、角が丸くなっている。表紙に、小さな葉っぱの絵があった。


「これ、覚えてる?」


「……施療院の」


「そう。あなた、それは覚えてるんだ」


 リーナは、帳面をめくった。最初の頁には、年配の先生の字。その先は、ずっとリーナの字だった。日付と、短い言葉と、丸い葉っぱ。ときどき、しおれた葉っぱ。


「今も書いてるの。月に一回、施療院の若い先生に見せて。あのおじいちゃん先生のお弟子さん」


「……うん」


「印刷所に入った日も、最初にこれを見せたの。主任さんに。光で版を焼く仕事は、少しずつ、休みながらって決めてもらった」


 エリオは、彼女の指の先を見ていた。


「半年前にね」


 リーナが、何気なく言った。


「大きな急ぎの仕事があって、みんなで夜通し版を焼くことになったの。私、この帳面見たら、その月はもうしおれた葉っぱが二つあったから、主任さんに言って、先に抜けたの。主任さんも、それでいいって。次の日、先生にも見せたら、正しい判断ねって」


 半年前。


 エリオは、目を閉じた。


 半年前の夜だった。昔、彼女が帰ってこなかったのは。印刷所から、知らせが来たのは。療養所の廊下で、白い服の人が、学校のころから兆しがあったかもしれない、と言ったのは。


「エリオ?」


「……なんでもない」


 目を開けると、リーナが心配そうにのぞきこんでいた。生きている顔だった。半年前を、ふつうの思い出として話せる顔だった。


「正しい判断だったと思う」


「でしょう?」


 リーナは、少し得意そうに帳面を閉じた。


「治ったわけじゃないのよ。先生は、今も、上手に付き合ってるって言うの。だから、これからも書くの」


「うん。書いて」


「言われなくても書くよ」


 *


 夕方、療養所の先生が、明日の朝には帰っていいと言った。


 ハンナが、研究の記録を抱えてもう一度顔を出し、事故のことは来週から一緒に調べる、と言った。


「あなたが起きるまで、誰もあの石に触ってない。だから焦らなくていい」


「ありがとう」


「お礼は、元気になってから」


 ハンナが帰ると、部屋には二人だけになった。


 窓の外が、薄い橙色に染まっていた。リーナが立ち上がって、窓のところへ行った。


 留め具に手をかけて、少しだけ持ち上げてから、細く開けた。


 夕方の風が入ってきた。遠くで、川の音がした。


「寒い?」


「少しだけ」


「じゃあ、少しだけね」


 リーナは、窓を閉めなかった。


 エリオは、寝台の上からその背中を見ていた。


 何度も、こうして窓を開ける背中を見た。台所で、夕方に。寒いよと言っても、少しだけ、と笑って閉めなかった。それなのに、一度も聞いたことがなかった。


「リーナ」


「なに?」


「どうして、窓を開けるの?」


 リーナが、振り向いた。不思議そうな顔をしていた。


「今さら?」


「今、聞きたい」


 リーナは、少し考えた。それから、窓の外を見た。


「川の音がするから」


「川の音」


「水って、同じ形にならないでしょう。音も同じ。毎日、少しずつ違うの。それを聞いてると、ああ、今日は今日なんだって思えるの。昨日とも、明日とも違う、今日」


 リーナは、窓枠に手を置いた。


「病気のことがあるから、かな。明日のことばっかり考えると、怖くなるでしょう。だから、今日の音を聞くの。今日はこういう音だった、って。帳面に書くのと、少し似てる」


 エリオは、何も言わずに聞いていた。


 六年、一緒にいた。四年、夫婦だった。その間、一度も聞かなかった答えだった。


「……ありがとう。教えてくれて」


「変な人」


 リーナは笑って、寝台のそばへ戻ってきた。椅子に座り、また、エリオの手を取った。


「ねえ、エリオ。私、いま描きたいものがあるの」


「何?」


「子ども向けの本。説明の絵だけの。窓の閉め方とか、水盤の洗い方とか、灯りの組み方とか。印刷所の主任さんに話したら、案を出してみろって」


「描ける」


「最初のページは、もう決めてるの」


「窓?」


「窓」


 リーナは、楽しそうに言った。


「家の台所に貼ってあるでしょう。あれを、ちゃんと描き直すの」


 エリオは、何のことか分からなかった。分からなかったが、聞かなかった。明日、帰れば分かる。


 *


 次の朝、二人で、家へ帰った。


 川沿いの道の並木に、小さな芽が出ていた。風はまだ冷たかったが、冬の風ではなかった。リーナは、エリオの腕に自分の腕を通して、ゆっくり歩いた。


 家の戸は、記憶と同じ大きさだった。


 リーナが鍵を開けて、先に入った。台所に、卓と、椅子が二つあった。片方の椅子の背に、リーナの薄い上着が掛かっていた。


 台所の壁に、色の褪せた紙が一枚、留めてあった。


 四つの小さな絵だった。窓枠に手をかけたところ。少し持ち上げたところ。閉めたところ。留め具を回したところ。その下に、子どもの字。持ち上げる。閉める。回す。かちり。


 紙の端が、少し波打っていた。何度も、誰かの手で握られたように。


 エリオは、その前に立ったまま、動けなかった。


「あなた、それ、どこに引っ越しても、一番に貼るのよね」


 リーナが、後ろから言った。


「新婚のとき、ほかに貼るものあるでしょうって言ったら、これがいいって。覚えてる?」


「……覚えてない」


「覚えてなくていいよ」


 リーナは、エリオの前に回りこんだ。


 それから、両手で、エリオの手を取った。療養所で握っていたのと同じ手だった。温かくて、少し荒れていて、指先に、鉛筆の黒いあとがついていた。


「エリオ」


「うん」


「おかえり」


 その声を、エリオは、ずっと聞きたかった。


 半年前から。いや、もっと前から。十四の春に、教室で目を覚ました日から。


「ただいま」


 声が震えた。リーナが、笑った。泣きそうな顔で、笑った。


 エリオは、彼女を抱きしめた。腕の中に、ちゃんと重さがあった。温かさがあった。髪から、薄く、絵の具の匂いがした。


 リーナの腕が、エリオの背中に回った。


「本当に、怖かったんだから」


「うん」


「もう、ひと晩も待たせないで」


「待たせない」


 窓の外で、川の音がした。


 リーナが、エリオの肩に額をつけたまま言った。


「窓、開けてもいい?」


「少しだけ」


「少しだけね」


 リーナは、腕をほどいて、窓のところへ行った。留め具を回し、少し持ち上げてから、細く開けた。


 春の川風が、台所に入ってきた。壁の古い紙が、ほんの少しだけ揺れた。


 エリオは、自分の椅子を引いた。


 それから、もう一つの椅子も引いた。


「座って。今日は、僕が何か作る」


「冷たい汁? まだ寒いよ」


「じゃあ、温かいの」


「塩、足りなくしないでね」


「……それも、覚えてるのか」


「お義父さんが、二杯食べたって話。何回聞いたと思ってるの」


 リーナが笑った。


 エリオも、笑った。


 台所に、川の音と、二人の笑い声が、少しずつ違う形で、重なっていった。


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