第一話 第九章 再契約
第九章 再契約
一
気がつくと、僕は、何もない場所に立っていた。
虚無の空間。上も下もない、色すらない、あの狭間の世界。でも、不思議と、もう僕の輪郭は溶けなかった。自分の手が見えるし、足も地面のようなものを踏んでいる。あの人が「帰り道」に、何かしてくれたのかもしれなかった。
そして、僕のすぐ隣に。
セーラー服の悪魔が、横たわっていた。
赤みがかった長い髪。見慣れた寝顔。胸が、静かに上下している。
「……黝さん」
僕が呼びかけると、長い睫毛が、ふるりと震えた。
黄金の瞳が、ゆっくりと開く。ヤギのように横長の瞳孔が、ぼんやりと宙を泳いで、それから、僕を捉えた。
「……さ、く……?」
「はい。僕です」
「…………朔!!」
次の瞬間、僕は突進を食らっていた。
がばりと跳ね起きた黝さんが、僕の胸に、頭から抱きついてきたのだ。そのまま二人して、虚無の床(?)に倒れ込む。
「よかった……よかったですわ……! 貴方、無事でしたのね! ああもう、心配で心配で……って、あら? わたくし、なんで寝て……ここ、どこですの……?」
「……どこまで、覚えてますか」
僕が聞くと、黝さんは僕に抱きついたまま、うーん、と唸った。
「……屋上、ですわね。あの仔犬の、ばかみたいな速さの銃弾。朔を庇って、それで……そこから先が、途切れ途切れですの。ぼんやりと、封印された、ような感覚だけ……。ここは……ああ、なるほど。虚無の狭間。あの葬送屋ども、本当にやりましたのね」
彼女は身を起こして、周囲を見回した。
「……何もない。見事に何もありませんわね。時間も、空間も、匂いすらない。……朔、貴方、よくこんな場所で自我を保てましたわね? 人間の精神なら、数刻で溶けてもおかしくありませんのに」
「……いろいろ、ありまして」
僕は、言葉を濁した。
夢のこと。黒く青い光のこと。業火の国のこと。そこで会った、あの人のこと。
言おうと思えば、言えた。
でも――言わなかった。
あの人は言った。「あの子は、わたしを知らない」と。生まれたときから悪魔として生きてきた黝さんに、あなたの根っこは数千年灼かれ続けている御使いです、なんて、どんな顔をして言えばいい? そもそも黝さんは彼女の存在を知らないし、言ったところで信じないだろう。
この重さは、当分、僕ひとりで持っておく。いつか――本当にあの人を救い出せる日が来たら、そのときに、全部話そう。
そう、決めた。
「……朔? なんですの、変な顔をして」
「な、なんでもないです。それより黝さん、大事な話が。――ここから、出ますよ」
「…………はい?」
黝さんは、目をぱちくりさせた。
「出る……出るって、この虚無からですの?」
「はい。二人で、元の世界に帰るんです」
「……朔。お気持ちは嬉しいのですけれど」
彼女は、めずらしく、もにょもにょと歯切れが悪かった。
「その、ですわね。……言いにくいのですけれど。今のわたくしには、ここを破って出るほどの力は、ありませんの。先の戦いでほとんど使い果たしましたし、それに、その……」
彼女は、しゅんと、肩を落とした。
「……契約も、もう、途切れてしまってますし……。貴方を守れなかった契約違反で、貴方との魂契脈は、破棄されましたの。今のわたくしは、貴方から欲望のエネルギーをいただくこともできない、ただの、腹ぺこの悪魔ですわ……」
しおしおと萎れていく大悪魔を前に、僕は、きっぱりと言った。
「じゃあ、もう一回、契約しましょう」
「……え?」
「再契約です。僕と黝さんで、もう一回。そうすれば、魂契脈も戻るんですよね?」
「そ、それは、そうですけれど……」
黝さんは、なおも自信なさげだった。
「よろしくて、朔? 冷静に考えてくださいまし。再契約したとして、引き出せる力は、貴方の欲望の分だけ。以前の貴方の欲望では……その、正直に申し上げて、せいぜい砂粒ですわ。砂粒では、虚無の壁は破れませんの。この檻を破るには、それこそ、桁違いの……」
「大丈夫です」
僕は、言った。
「今の僕には、叶えたい新しい大きな願いがあるので」
黝さんの動きが、ぴたりと止まった。
「……朔に、願い?」
黄金の瞳が、まんまるになった。
「あ、あの朔に、願い!? 『平和な日常』しか言わなかった、あの煩悩皆無の朔に!? 欲望が!? ほ、本当ですの!? 熱でもあります!?」
「そこまで言います?」
「だ、だって、貴方……! わたくしがあれだけ、手を替え品を替え、欲を引き出そうとしても、暖簾に腕押しでしたのに……! き、聞かせてくださいまし! それ、なんですの!? なにをお望みですの!?」
黝さんは、興味津々で、ずいっと身を乗り出してきた。
僕は、一瞬だけ迷って――でも、嘘は言いたくなかったから、言える範囲の、いちばん正直なところを言った。
「……黝さん、です」
「……………………は?」
「僕の願いは、黝さん自身です」
沈黙が、虚無に落ちた。
黝さんは、こてん、と首を傾げた。それから、うーんと考え込むように腕を組んで、僕の顔をじっと見て、もう一回首を傾げて――。
みるみるうちに、顔が真っ赤になった。
「〜〜〜〜〜っっ!?」
「え」
「わっ、わわわ、わたくし自身!? わたくしが欲しいということですの!? そ、そういう……そういうこと!? た、たしかに、人間と悪魔の禁断の恋というものは、歴史上、実例がないわけではありませんけれど! ロマンス文学の定番でもありますけれど! で、ですけれど、そんな、こんな場所で、突然、直球で迫られましても、わたくしにも心の準備というものが……! じゅ、順序! 順序というものがありますでしょう!? まずはお付き合いから、とか……! あっでも悪魔にお付き合いの作法なんてあるのかしら、どうしましょう、ネットで調べようにも圏外ですし……!」
「…………」
違う。全然違う。僕の願いは「貴女とあの人を、本当の意味で自由にすること」であって、そういう意味の「黝さんが欲しい」ではない。
のだけど。
あたふたと百面相する黝さんを見ていたら、訂正するのが、なんだか無性に恥ずかしくなった。それに、詳しく訂正しようとすれば、あの人のことに触れないわけにはいかなくなる。
……まあ、誤解されたままで、いいか。当分。
「〜〜っ、さ、朔! 聞いてますの!? この、朴念仁のくせに、いきなり大胆な……!」
「はいはい。それで、契約は? してくれるんですか、くれないんですか」
「〜〜〜っ、す、するに決まってますでしょう!!」
黝さんは、真っ赤な顔のまま、やけくそ気味に叫んだ。
「悪魔が! 契約を! 拒むことは! ありませんわ!! 古今東西、いかなる時も! それが悪魔というものですの!!」
そして彼女は、こほん、こほんと二度咳払いをして、居住まいを正した。
真っ赤な顔のまま、それでも背筋だけはぴんと伸ばして、数千年契約を司ってきた悪魔の顔で、彼女は宣言した。
「……では、契約の刻ですわ。伏見朔。願いの、正式な口上を」
僕は、彼女の正面に、膝を揃えて座った。
「僕、伏見朔は、願います。――黝・ラヴィニア・クローリィとともに、この檻を破って、元の世界に帰ること。帰ったその後も、貴女がずっと、僕の隣にいること。そして……僕の夢の果てまで、貴女が付き合ってくれること。対価は、僕の魂。前と同じ条件で」
「ゆ、夢の果てまで……っ」
黝さんの顔が、もう一段階赤くなった。プロポーズか何かと誤解されている気配が濃厚だったけど、これも、訂正しないでおいた。嘘は、ひとつも言ってないので。
「た……確かに、承りましたわ。対して、わたくし、黝・ラヴィニア・クローリィは、契約者・伏見朔を守り、その願いを叶えることを、ここに誓約いたしますの。……同意の証は、血と誓い。――朔、手を」
僕は、右手を差し出した。
黝さんは、僕の人差し指を取ると、あの日と同じように、ぱくりと咥えて、小さく歯を立てた。
ぷつり、と皮膚の破れる感触。
血が一滴、彼女の中に流れ込む。
その、瞬間だった。
――どうっ!! と。
僕の胸の奥から、何かが、堰を切って溢れ出した。
欲望の火。あの業火の国で生まれた、僕の新しい夢。彼女を救う。あの人を救う。できるかどうかなんて知らない、それでも絶対に諦めない――そういう、燃料としては上等すぎるくらいの、剥き出しの意志。それが魂契脈を通って、滝みたいに、彼女の中へ流れ込んでいく。
「んん……っ!?」
黝さんが、目を白黒させて、僕の指から口を離した。
「な……なんですの、これ……。え、ちょっ、多っ……多いですわ!? 量! 量がおかしいですわよ!? 以前の貴方の何百倍……いえ、桁がもう二つくらい……! さ、朔、貴方、この短期間に、いったい何がありましたの!? どこでこんな、業火みたいな欲望を……!」
「さあ。……いろいろ、ありまして」
「いろいろで済む規模ではありませんわよ!?」
黝さんは、自分の両手を開いたり閉じたりして、流れ込む力を確かめていた。その顔から、みるみる不安の色が消えていく。代わりに浮かんできたのは、僕のよく知っている、あの、自信満々の不敵な笑みだった。
「……ふ。ふふ。ふふふふ」
彼女は、立ち上がった。
虚無の中で、彼女の輪郭が、光を纏い始める。黒――ほとんど黒で、その奥に僅かに青の混ざった、夜そのものみたいな色の光。長い髪が、風もないのに、ゆらりと逆巻いた。
「ええ、ええ、感じますわ。滾ってますわ。この火力なら――虚無の壁だろうと、聖遺物の櫃だろうと、纏めて食い破って差し上げられましてよ!」
「じゃあ……!」
「ええ! お帰りの時間ですわ、朔! 元の世界に! ……ああ、それと、あちらに戻れば、当然、歓迎がお待ちかねでしょうけれど――」
「分かってます。……あの、黝さん。一個だけ、お願いが」
「あの男も、仔犬も、殺すな。でしょう?」
先回りされた。彼女は、やれやれと肩をすくめた。
「まったく、わたくしの契約者は、敵の心配ばかり。……ようございますわ。誰も殺さず、堂々と正面から帰る。そのほうが、ふふ、格好いいですものね」
彼女は、僕に手を差し出した。
僕は、その手を、握った。ひんやりと冷たくて、でも、確かにそこにある手だった。
黝さんが、虚無の「上」を見据えた。夜色の光が、僕ら二人を包み込んで、渦を巻く。
「しっかり掴まってらして。舌を噛まないでくださいましね。――それでは」
彼女は、大きく息を吸って。
心の底から愉しそうに、叫んだ。
「――いきますわよっ!!」
行きます、と。
生きます、と。
ふたつの意味が、その一言には、確かに重なって聞こえた。
夜色の光が、爆ぜた。




