第一話 第八章 煉獄
第八章 煉獄
一
白の中に、僕はいた。
いや――白ですら、なかったのかもしれない。
上も下もなかった。時間もなかった。「いた」という言い方すら、たぶん正確じゃない。僕という輪郭は虚無の中に薄く溶けて、考えは形になる前にほどけて、ほどけた端からまた集まって、集まってはほどけた。
虚無、という言葉の意味を、身体で理解した。
ここには何もない。痛みも、音も、匂いも。あるのは「無い」ということだけ。永遠に、ただよう。それだけの世界。
――そのはずだった。
でも、僕の胸の奥には、まだ、あの小さな温度があった。
弱々しく、今にも消えそうで、それでも確かに、そこにあった。黝さんだ。眠っている。僕の中で。僕は、溶けかけた意識のありったけで、その温度に縋りついた。凍える指で焚き火の残り火を囲うみたいに、必死に、囲い込んだ。
どれくらい、そうしていたのか。
一秒だったのかもしれないし、百年だったのかもしれない。
ふと――「それ」に、気づいた。
何もないはずの虚無の中に、ぽつんと、光がひとつ、浮かんでいた。
不思議な色の光だった。黒。ほとんど黒。なのに、目を凝らすと、その黒の奥に、僅かに青が混ざっている。夜明け前の一番暗い時間の、空の色。深い深い水の底の色。……どこかで見たことのある色だと、思った。
僕は、そこへ向かった。歩いたのか、漂ったのか、分からないけど、確かに近づいた。虚無の中で、その光だけが、「在る」ものだったから。
手を、伸ばした。
指先が、黒く青い光に、触れた。
――瞬間。
夢が、雪崩れ込んできた。
あの夢の、続きだった。
二
――御使いは、羊飼いの生涯を見届けたあと、幾人もの人間と契約を重ねた。
見ることが、知ることが、彼女の密かな悦びだった。だが時代が下るにつれ、彼女の中に、べつの想いが芽生え始めていた。
人の子らは、あまりにも、苦しみすぎる。
飢え。疫病。戦。人が人を襲い、奪い、殺す。彼女は数百年、それを傍らで見続けた。見続けて――思ってしまったのだ。
この苦しみを、終わらせることは、できないだろうか。
わたしの力なら、できるのではないだろうか。
そんな折に、彼女は、一人の男と出会った。
男は羊飼いでも農夫でもなかった。荒れ果てた戦乱の地に立ち、天を仰いで、こう祈った男だった。
――どうか、力を。奪い合う民をひとつに束ね、争いのない世界を作るための、力を。
彼女は、その祈りに応えた。
男は、彼女の力を得て、乱立する部族をひとつに束ねた。城壁を築き、法を刻み、暦を定め、灌漑を敷いた。人々は彼を英雄と呼び、やがて、王と呼んだ。
世界で最初の、人が作り上げた国家だった。
王のかたわらには、いつも彼女がいた。人の姿を借りて、助言者として、友として。王は約束した。この国から飢えをなくす。争いをなくす。すべての民が、壁の内で安らかに眠れるようにする、と。
実際、国は栄えた。市は賑わい、倉は穀物で満ち、戦は減った。彼女は幸福だった。数百年見続けてきた人の苦しみが、自分の力で、目に見えて減っていく。神が答えてくれなかった問いの答えを、自分の手で作れている気がした。
――狂いは、静かに始まった。
満ちた倉の前で、人々が痩せた隣人を嗤うのを、王は見た。安全な壁の内で、人々が退屈から賭博と諍いに耽るのを、王は見た。飢えをなくせば感謝は薄れ、安らぎを与えれば安らぎは当然になり、人々はより多くを、より多くをと求めた。
――なぜだ、と王は言った。
――余は民に、すべてを与えたはずだ。なぜ民は、まだ足りぬと言う。
王は、民を信じられなくなっていった。
諫言する臣を遠ざけ、密告を奨励し、法を増やし、罰を重くした。壁は民を守るためのものから、民を囲うためのものに変わった。
彼女は、王の様子がおかしいことに、気づいていた。
気づいていて――止める術を、知らなかった。
彼女は御使いだった。願いを聴き、叶えることしか、してこなかった。人を諫める言葉も、人を裁く物差しも、持っていなかった。だから彼女は、こう考えることにした。
――願いを叶え続ければ、きっと、最後にはすべてうまくいく。
――彼の願いは、争いのない世界。その願い自体は、今も清らかなままだもの。
王が離反者の村を焼く力を求めたとき、彼女は与えた。争いの芽を摘むためだと、王が言ったから。
王が民を監視する千の目を求めたとき、彼女は与えた。民を守るためだと、王が言ったから。
与えるたびに、胸の奥で何かが軋んだ。軋みに、彼女は蓋をした。大丈夫。大丈夫。最後には、すべてうまくいく――。
革命の火の手が上がったのは、ある年の春だった。
重税と粛清に耐えかねた民が、鍬と槌を手に蜂起した。時を同じくして、国境の外からは、かねて王国の富を狙っていた敵対の民が、雪崩を打って攻め込んできた。内と外、二つの火に挟まれて、世界最初の王国は――あっという間に燃え落ちて、滅んだ。
王は、玉座の間で死んだ。
最後まで側にいた彼女の目の前で、かつて彼が救い、束ね、守った民の手にかかって。
王は死の間際、彼女を見て、言った。
――なぜだ。
――余は、間違っていたのか。それとも……おまえが、余を間違わせたのか。
彼女は、答えられなかった。
答えを、持っていなかった。
民は、王の傍らに侍っていた「人ならざる助言者」の正体に気づいていた。神の使いを騙る悪魔が王を惑わせたのだと、生き残った祭司たちは叫んだ。皮肉なことに、それは半分、真実だった。彼女は追われた。燃える都を、石を投げられながら、彼女は逃げた。
逃げて、逃げて、荒野の果てで、彼女は膝をついた。
――どうして。
星も見えない煤けた空に向かって、彼女は、生まれて初めて、自分のための祈りを捧げた。
――わたしは、何を間違えたのですか。
――苦しみを減らしたかっただけなのです。願いを叶えたかっただけなのです。どこで、どこで間違えたのですか。教えてください。教えてください――。
答えの代わりに、光が降りた。
同輩だった。かつて彼女と同じ光の中にいた、名もなき御使いのひとつ。それは荒野に降り立ち、感情のない、澄み切った声で、審判を読み上げた。
――主の意志を騙った罪。
――御使いの身に、欲を宿した罪。
――汝より御使いの位を剥ぎ、その身を魔に堕とす。
――汝は生きながらにして、その精神を、終わりなき責め苦の国に閉じ込められる。汝は永遠に飢え、永遠に灼かれ、その苦しみに終わりの日は来ない。
彼女は、叫んだ。待って、と。せめて教えて、と。わたしの問いに、一度でいいから答えて、と。
光は、答えなかった。
最初から最後まで、ただの一度も。
そして、罰は下った。
……そこから先は、もう、光景ですらなかった。
ただ、灼けるような赤と、終わらない痛みの記憶が、圧縮されて層になっていた。百年。千年。焼かれ続ける。飢え続ける。眠りは訪れず、死は許されず、痛みに慣れることすらできないよう、感覚は永遠に鮮明なまま。
正気で、いられるはずがなかった。
やがて、彼女の心は――軋んで、撓んで、限界を超えて。
割れた。
割れた欠片から、「べつの誰か」が生まれた。
燃え続ける彼女とは、何の記憶も共有しない、まっさらな誰か。天も、王国も、罰も、何ひとつ知らない誰か。生まれた瞬間から闇の中にいて、それを当然と思い、ただ強烈な飢えと、契約の本能だけを持って産声を上げた――一体の、悪魔。
悪魔は、地上に這い出た。
自分がどこから来たのかも知らず、知ろうとも思わず。人の願いを聴き、契約を結び、対価に魂を喰らった。魂を喰らっているあいだだけ、なぜだか少しだけ、身体の奥の疼きが和らいだから。その疼きが何なのか、悪魔は知らない。考えたことも、なかった。
悪魔は、名を持たなかった。
やがて時代ごと、土地ごとに、仮初めの名を名乗るようになった。
古き夜。どこまでも深い青。原初の悪魔。その、いちばん新しい名が。
――黝・ラヴィニア・クローリィ。
僕の知っている、あの人だった。
そして、燃え続ける「彼女」は。
誰にも知られないまま、生まれた悪魔にすら知られないまま、今もずっと――。
三
目が、覚めた。
覚めた、という言い方が正しいのかは、分からない。ただ、僕の意識は再び形を取り戻していて、僕は「どこか」に立っていた。
最初に感じたのは、熱だった。
頬を炙る、乾いた熱。次に、赤。視界のすべてが、赤かった。
僕は、荒野に立っていた。
地平線まで続く、ひび割れた黒い大地。その裂け目という裂け目から、赤黒い火が噴き上がっていた。空には星も雲もなく、ただ煮えた鉄みたいな色の靄が渦を巻いていて、遠くで、山のような何かが燃え続けていた。風は熱く、灰の匂いがした。
虚無じゃ、なかった。
ここは、何かが「ある」場所だった。あってほしくないものばかりが。
――夢で見た。あの審判の光景を。
だったら、ここは。ここが、あの罰の。
考えるより先に、足が動いていた。遠くで燃え続ける、あの山のほうへ。夢の余韻が、羅針盤みたいに、そちらを指していた。
どれくらい歩いたのか、分からない。この世界には時間の物差しがなかった。ただ、近づくにつれて、熱は増し、大地の火は高くなり、そして――聞こえてきた。
声が。
最初は、風の音かと思った。違った。それは、押し殺した嗚咽だった。歯を食いしばって、それでも漏れてしまう、苦悶の声。長い長い時間をかけて掠れ切った、それでもまだ枯れることを許されない、誰かの声。
燃える山の麓に、それは、いた。
火の柱の中心に、鎖があった。光でできた、白い鎖。それが大地から何本も伸びて、宙に、ひとつの身体を磔にしていた。
背中に、翼の残骸があった。灼け焦げて、骨組みだけになった、大きな翼の残骸が二対。白かっただろう衣は焼け爛れて、長い髪が――どこか見覚えのある色の長い髪が、炎に煽られて揺れていた。
その身体は、燃えていた。
燃え尽きないまま、燃え続けていた。皮膚が灼かれ、灼かれた端から元に戻り、また灼かれる。それが、まばたきほどの間隔で、延々と繰り返されていた。
「――――」
僕は、立ち尽くした。
夢で見た。頭では、分かっていたはずだった。
でも、これは。
これを――数千年。
「……っ」
僕は、駆け出していた。
火の柱に向かって、磔の彼女に向かって、僕は走った。
火に、触れた。
瞬間、世界が白熱した。
「……っ、あ、ぁあああああっ!?」
熱い、なんてものじゃなかった。皮膚どころか、骨の髄どころか、僕という存在の芯を、直接炙られていた。この火は身体を焼く火じゃない。魂を焼く火だ。視界が明滅し、自分の輪郭が端から炭になっていくのが分かった。それでも僕は、腕で顔を庇いながら、もう一歩、火の中へ――。
「――だめ……!!」
誰かの腕が、僕を、後ろから抱きすくめた。
ぐん、と身体が引かれて、僕は火の外へ、引きずり出された。黒い大地の上を、誰かと一緒に転がる。僕を抱えたその誰かの腕が、じゅう、と音を立てて焼け焦げているのが、匂いで分かった。
「……無茶を、しないで。あの火は、あなたの魂を灼く。人の子が触れて、いいものじゃない」
静かな、声だった。
僕は、顔を上げて――固まった。
目の前に、黝さんが、いた。
……いや。
違う。
姿かたちは、黝さんだった。セーラー服の、赤みがかった長い髪の、見慣れたあの姿。でも、纏っている空気が、まるで違った。黄金の瞳に、ヤギの瞳孔はなくて、ただ静かな、湖みたいな目をしていた。声も、同じ声のはずなのに、あの芝居がかった調子が欠片もない。柔らかくて、どこか寂しい、囁くような話し方。
そして、僕を助けたその両腕は、肘の先まで、焼け爛れていた。爛れた端から、ゆっくりと再生しながら、また薄く煙を上げていた。
「あ、貴女は……黝、さん……? じゃ、ない……?」
「……この姿は、借り物」
彼女は、静かに首を振った。
「あなたの知っている『あの子』の形を、借りているだけ。そのほうが、あなたが怖がらないと、思ったから。……わたしは、あの火の中にいるものの、影。ほんの少しだけ自由に動ける、分身のようなもの」
彼女は、燃える火の柱を――磔の本体を、振り返った。
「わたしは……ええ。あなたが夢で見た通りの、ものです。かつて御使いで、いまは違う、なにか。……ようこそ、は言えません。ここは、ひとに見せられるような場所では、ないので」
「……夢……そうだ、僕、見ました。全部……王様のことも、裁判のことも……。じゃあ、やっぱり、ここは」
「わたしの、罰の国」
彼女は、頷いた。
「神がわたしのために誂えた、専用の檻。……あなたたちを呑み込んだ虚無の狭間に、この場所だけが、呑まれずに残っていました。そして、あなたはあの子と魂の縁があったから……境目を、越えてきてしまった」
彼女は、僕の前に、そっと膝をついた。
そして、深く、深く、頭を垂れた。
「……ごめん、なさい」
声が、震えていた。
「あなたを、こんな場所に、道連れにして。あの子は、あなたを守れなかった。契約も、彼女の契約違反で破棄されてしまった。あなたはもう、守ってくれる存在もいないまま、こんな……こんな、地獄の底に……。ごめんなさい。ごめんなさい……」
彼女は、謝り続けた。
自分の腕が焼け爛れていることなんて、まるで目に入っていないみたいに。数千年、灼かれ続けてきた本人が、たかだか十五年しか生きていない僕に、ただ、ひたすらに。
「ま……待って、待ってください。頭を上げてください。……ええと、その、整理させてください」
僕は、混乱する頭を、必死に回した。
「黝さんは……悪魔の黝さんは、今、どこに」
「あなたの中で、眠っています」
彼女は、僕の胸を、そっと指さした。
「感じるでしょう。小さな、温度。……あの子は先の戦いで力を使い果たして、契約の座の名残に逃げ込んで、休眠している。もうしばらくすれば、目を覚ますはず」
「じゃ、じゃあ、聞きたいことが、あります。……貴女と、黝さんは……同じ人、なんですよね? 夢で見ました。貴女の心が割れて、それで」
「――いいえ」
彼女は、静かに、でもはっきりと、首を横に振った。
「あの子とわたしは、別のものです」
「べつ……」
「あの子は、わたしの欠片から生まれました。でも、わたしの記憶を、何ひとつ受け継いでいない。天のことも、王国のことも、この国のことも、あの子は何も知らない。あの子にとって、自分は『生まれたときから悪魔だった』。それが、あの子のすべて。……あの子は、わたしを知らないんです。数千年、一度も」
彼女は、燃える本体を見つめた。
「わたしは、ここから、あの子を見てきました。ずっと。あの子が人の中で生きるのを。契約を結ぶのを。魂を喰らうのを。……あなたと出会うのを。あの子の目に映るものだけが、わたしに残された、唯一の窓だったから」
僕は、言葉を失った。
つまり、この人は。
数千年、灼かれ続けながら――自分の欠片が地上で生きるのを、窓の外の景色みたいに、ただ見ていることしか、できなかったのか。
「……ここから、出る方法は」
僕は、聞いた。聞かずには、いられなかった。
「貴女も一緒に、ここから出る方法は、ないんですか」
彼女は、僕を見た。
静かな目が、ほんの少しだけ、揺れた。
「……あなたと、あの子なら、出られます」
「え……」
「あの子が目を覚ませば。そして、あなたと再び契約を結べば。あの子の力とあなたの願い次第で、虚無の狭間を破って、元の世界へ帰る可能性はあります。あの子は、そういうことができる強さを持っているから」
「そうじゃなくて」
僕は、遮った。
「貴女は。貴女はどうなるんですか。僕らだけ出て行ったら、貴女は」
彼女は、答えなかった。
ただ、静かに、首を横に振った。
一度だけ。
それが、答えだった。
燃える山の火が、ごう、と鳴った。磔の本体が、声を殺して悶えるのが見えた。目の前の彼女は、それに合わせて、ぴくりとも表情を変えなかった。変えないことに、慣れきっていた。
その慣れが――いちばん、こたえた。
四
僕は、燃える火の柱を、見つめた。
磔の彼女を。灼かれ続ける、本体の彼女を。
夢で見た光景が、頭の中を、ぐるぐると回っていた。答えをもらえなかった祈り。読み上げられただけの罪状。「永遠」の二文字。そして――誰にも知られないまま、生まれた悪魔にすら知られないまま、続いてきた数千年。
気がついたら、僕は、立ち上がっていた。
「……朔、さん?」
「鎖を、ほどきましょう」
「――え?」
「あの鎖です。あれを外せば、貴女は、あそこから降りられる。そうでしょう? 分身の貴女が動けるなら、本体だって、あの火の外に出られない理由はないはずだ」
僕は、火の柱に向かって、歩き出した。
「ま、待って。待ってください。無理です、あの鎖は神の――」
「やってみないと分かりません!」
二度目の火は、一度目より、ほんの少しだけ耐えられた。……気がしただけかもしれない。魂の芯を炙られる激痛の中、僕は歯を食いしばって、火の中心へ進んだ。分身の彼女の制止の声が、炎の轟音の向こうで聞こえた。構わなかった。伸ばされた彼女の手を、僕は、振り払った。
磔の本体が、目の前にあった。
間近で見るそれは、直視するのも苦しいものだった。灼かれ、再生し、また灼かれる身体。掠れた嗚咽。それでも僕は、目を逸らさなかった。目をつぶるな。いつかの誰かの教えが、僕を支えていた。
僕は、彼女を縛る光の鎖を、掴んだ。
「ぐ……ぅ……!!」
掴んだ掌が、じゅう、と焼けた。構わず、引いた。全体重をかけて、引いた。
鎖は――びくとも、しなかった。
ミリ単位のたわみすら、なかった。人間の力でどうにかなるものじゃない。分かってた。分かってたけど。
「なら……っ、これでっ……!」
僕は、腰の懐刀を抜いた。
聖別の白い燐光を纏った刃。低級の魔を斬り、魂契脈すら断ったこの刃なら――。
僕は、渾身の力で、鎖に刃を叩きつけた。
――ぎんっ!!
甲高い音と、同時に。
どんっ、と見えない何かに殴られたみたいな衝撃が、僕自身の身体を貫いた。
「があ……っ!?」
僕は、吹っ飛んだ。火の中を転がって、大地に叩きつけられる。口の中に血の味が広がった。刃を、受け付けない。それどころか、刃を入れた分だけ、そっくりそのまま、こっちに返ってくる。神の裁きに傷をつけようとする者への、当てつけみたいな仕組みだった。
それでも僕は、起き上がった。
もう一度、懐刀を構えて、鎖に向かって――。
「――やめてっ!!」
分身の彼女が、火の中に飛び込んできた。
自分の身体が焼けるのも構わず、彼女は僕を羽交い締めにして、火の外へ、引きずり出した。二人して、黒い大地に倒れ込む。彼女の腕も、僕の掌も、ひどい有様だった。
「なんで……なんで、そこまでするんですか……! あなたが壊れてしまう……! これはわたしの罰で、あなたには、何の関係も……!」
「関係なら、あります!」
僕は、叫んだ。
叫んでから、自分でも驚いた。声の底に渦巻いていたのは、悲しみじゃなくて――怒りだった。
この人を襲った理不尽への? 違う。答えなかった神への? それも、違う。
――何も、できない。
鎖ひとつ、ほどけない。刃も通らない。数千年灼かれてきた人を前にして、僕にできたことは、火の中で転がって、掌を焼いただけ。
自分の、無力さへの怒りだった。
「……っ、くそ……」
僕は、焼けた拳で、大地を殴った。
「くそ……! なんだよ、これ……なんなんだよ……! 目の前で、こんな……こんなの、あんまりじゃないか……! なのに僕は、なんにも……なんにも、できな……っ」
喉が詰まって、言葉にならなかった。
分身の彼女は、そんな僕を、静かに見ていた。
やがて、彼女は、囁くように言った。
「……朔さん。ひとつだけ、聞いてください」
静かな、諭すような声だった。
「人ひとりに、できることなんて――たかが、知れているんです」
「……っ」
「それは、恥ずかしいことじゃない。あなたは十五年しか生きていない、ただの、人の子です。神の裁きを覆せなくて、当たり前。数千年の罰をほどけなくて、当たり前なんです。……ねえ、朔さん。お願いだから、わたしのことは、忘れてください」
「な……」
「あの子と契約して、元の世界に帰りたいと願い、そして今度こそ悪魔とは無縁の、平和な、普通の人生を歩いてください。学校に行って、お母さまとご飯を食べて、友達と笑って。……今ならまだ、その生活を取り戻せます。あなたには、その資格がある。あなたの人生は、こちら側に付き合わせていいものじゃ、ないんです」
僕は、うつむいた。
彼女の言うことは、正しかった。
ぐうの音も出ないくらい、正しかった。
僕が彼女を救うなんて、どう考えたって、おこがましい。神様が作った檻を、その辺の高校生がどうにかできるわけがない。そもそも、僕には彼女を救う義理すらない。彼女がこうなったのは僕のせいじゃないし、僕の責任でもない。関係ない話なんだ、本当は。僕がここで頷いて、黝さんと契約して、元の世界に帰って、平和に一生を終えたとして――誰も、僕を責めたりしない。彼女自身が、そうしろと言ってるんだから。
それで、いいはずなんだ。
それで――。
「……できません」
気がついたら、言っていた。
「知らなかったら、それでよかった。でも……知っちゃったんです、僕。見ちゃったんです、貴女を。……知ってしまったら、もう、戻れないんですよ」
僕は、顔を上げた。
「以前、黝さんに言われました。街に潜んだ悪魔を放っておけば、いずれ大勢が喰われる。――それを知っていて、貴方は見て見ぬ振りができるのか、って。……できませんでした。だから僕は、こんな世界に足を突っ込んだんです。だったら」
僕は、まっすぐに、彼女を見た。
「貴女が今この瞬間も灼かれてるって知ってて、はいさよなら、僕は平和に暮らします、なんて――できるわけ、ないじゃないですか」
彼女は、困ったように、眉を下げた。
「……それでも」
静かな声のまま、彼女は言った。
「あなたに、できることは、何も、ありません」
突き放す言葉じゃなかった。事実を、ただ事実として告げる、諦めきった言葉だった。数千年ぶんの諦めが染み込んだ、完璧に乾いた言葉。
この言葉に、理屈で勝てる気はしなかった。
だって、本当に、その通りだから。鎖はほどけない。刃は通らない。神は答えない。できることは、何もない。
……何も?
本当に?
僕は――ゆっくりと、立ち上がった。
服の埃を払って、焼けた掌をぐっと握って、それから、彼女の正面に立った。
「……朔、さん?」
彼女が、不思議そうに僕を見上げる。
僕は、大きく息を吸って。
「――どうもー。伏見朔でーす」
一人漫才を、始めた。
「いやー、地獄って初めて来ましたけど、暑いですね! うちの学校も冬になったらこれくらい暖房効かせてほしいですよ。……って、効きすぎだわ!」
手刀で、自分の頭を、ぺしんと叩いた。
彼女は、ぽかんと、口を半開きにしていた。
「えー、地獄あるある、いきまーす。……鬼、いない。閻魔様、いない。いるのは綺麗なお姉さん一名のみ。……もしかして、ここは天国では?」
「……え、あ、あの……?」
「あとこれは個人的な感想ですけど、こちらの業火、火力が強すぎると思うんですよね。肉も焼けないし芋も焼けない、魂しか焼けない。バーベキューには全然向いてない。星一つです」
「さ、朔さん……? あの、どうして、しまったの……? 頭を打った……?」
本気で心配され始めた。心が折れそうだった。それでも僕は、続けた。
「まだまだいきますよ! えー、業火川柳! 『燃えている けど寒がりな 僕の心』……字余り!」
ぺしん。
「はい、次! こちらの地獄のいいところを三つ発表します! 一つ、静か! 二つ、広い! 三つ……えー……三つ……。……すみません、二つしかありませんでした!」
ぺしんっ。
……沈黙が、流れた。
業火の燃える音だけが、ごうごうと響いていた。
滑った。大滑りだ。当たり前だ。素人のくだらない即興が、面白いわけがない。顔から火が出そうだった。物理的にはもう出てる場所にいるけど。
でも。
「…………ふ」
小さな、小さな音がした。
見ると、彼女が、口元を押さえていた。
「ふ……ふふ……。……なに、それ……なんですか、それ……」
肩が、震えていた。堪えようとして、堪えきれていなかった。数千年、嗚咽しか刻んでこなかったはずの喉から、それは、ぽろぽろと、こぼれ出た。
「へた……へたくそ……。ふふ、あはは……。じ、地獄のいいところ、二つしかないって……なんですか、それ……あはは……」
彼女は、笑った。
焼け爛れた腕で目元を拭いながら、声を上げて、不器用に、笑った。
僕は、それを見届けてから、静かに言った。
「……今の僕に、できること。……せいぜい、これくらいです」
「……朔、さん……」
「鎖はほどけないし、刃も通らない。神様に文句を言いに行くことも、できない。……貴女の言う通り、人ひとりにできることなんて、たかが知れてます。悔しいけど。……でもね、これくらいのことなら、できるんですよ。これはね、貴女を知らない誰かさんが、僕に教えてくれたことなんですけど――」
僕は、彼女の隣に、腰を下ろした。
「どうにもならない問題のど真ん中でも、人は、笑えるんです。笑ったからって、何も解決しません。でも、笑えたら……その日を、生き延びられる。明日のことを、考えられる。生きる活力が生まれてくる。……馬鹿みたいだけど、本当なんです。僕が、そうだったので」
彼女は、濡れた目で、僕を見ていた。
「それでね。……僕、今、決めました」
僕は、言った。
「新しい欲望が、できました」
「……よく、ぼう……?」
「はい。――貴女を、この地獄から救い出すこと。貴女と黝さんを、本当の意味で、自由にすること。……それが、僕の新しい夢です」
彼女の目が、大きく見開かれた。
「な……にを……。で、できるかどうかも、分からないのに……いいえ、おそらく、不可能です。神の裁きを覆すなんて、そんなこと、誰にも……」
「できるかどうかは、関係ありません」
僕は、遮った。我ながら、無茶苦茶を言っている自覚はあった。でも、これだけは、譲れなかった。
「あのですね。願いっていうのは、叶うから持つものじゃないんですよ。……夢を糧にして、今日を生きて、明日を生きて。近づいてるのか遠ざかってるのかも分からないまま、それでも歩き続ける。……そういう生き方そのものが、たぶん、大事なんです。少なくとも僕は、そう思うことにしました。それが僕なりの――悔いのない生き方、なので」
それに、と僕は付け足した。
「欲望って、悪魔にとっては、生きる糧なんでしょう? ……だったら僕は、とびっきりでっかいのを抱えておかないと。うちの悪魔、燃費が悪そうなので」
彼女は、しばらく、何も言わなかった。
ただ、僕の顔を、じっと見ていた。まるで、初めて見る生き物を見るみたいに。数千年の観察でも見たことのなかった何かを、見つけたみたいに。
やがて――彼女は、笑った。
さっきの、こぼれるような笑いじゃなかった。静かで、柔らかくて、泣き笑いみたいな、綺麗な笑顔だった。その目から、涙がひとすじ、火照った頬を伝って、落ちる前に蒸発した。
「……変な、ひと」
「よく言われます。最近、特に」
「ふふ……。……そう。それが、あなたの、夢……」
彼女は、目を閉じて、その言葉を、噛みしめるように繰り返した。
「……なら、わたしは……ここから、見ています」
目を開けた彼女は、まっすぐに僕を見た。
「あなたが、その夢に、成功しようと……しまいと。あなたの人生を、この地獄から、ずっと、見続けています。あの子の目を通して。……あなたが今日をどう生きて、明日をどう生きるのか。最後まで、ぜんぶ。……それを楽しみに、わたしは、この火の中にいられます。だから――」
彼女は、そこで、ふと顔を上げた。
遠くを聴くような仕草。それから、少し寂しそうに、微笑んだ。
「……あの子が、目を覚まします。そろそろ、お別れの時間」
「……っ、もう……?」
「ええ。……あなたは虚無の側へ、戻らないと。あの子が心細がるから」
「ぼ、僕、どうやって戻れば……その、来るときは、気がついたらここに」
「ふふ。簡単です」
彼女は、立ち上がって、僕の前に立った。
「この国に閉じ込められているのは、罰を受けている、わたしだけ。あなたは咎人じゃない。……ただの、迷い込んだ旅人です。旅人は、帰れます。いつでも」
「そ、そういうものなんですか」
「そういうものです。……では、朔さん。少しの間、目を閉じて」
僕は、言われた通り、目を閉じた。
熱風の音が、遠のいていく。
ふ、と。耳元に、吐息のような気配が寄って。
「――ありがとう」
囁き声が、聞こえた。
数千年ぶんの重みを乗せた、たった一言だった。
次の瞬間、熱が、消えた。




