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デーモンガール・ダムネーション  作者: 八村光起


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第一話 第七章 封印

   第七章 封印


    一


 目が覚めると、そこは石の部屋だった。

 最初に感じたのは、冷たさだった。背中に硬い石の感触。空気は乾いていて、かすかに、香の匂いと、古い石の匂いがした。

 僕は、石造りの台座のようなものの上に、寝かされていた。両手首と両足首に、ひんやりとした金属の枷。身をよじってみたけど、びくともしなかった。

 ……腰のあたりに、硬い感触があった。

 懐刀だ。取り上げ忘れ? まさか。すぐに、思い当たった。あの刀はもう、僕と黝さんの魔力に染まりきっている。千々石さんは言っていた――こうなった武具は、他人には馴染まない、と。馴染まないどころか、たぶん、僕から引き剥がすことすら、できなかったんだろう。

 もっとも、枷に繋がれたこの体勢じゃ、抜くこともできないんだけど。

 視線を上げる。天井が、高かった。

 見上げた先、石組みのドームの中心に、明かり取りの丸い穴があって、白い光がまっすぐに、僕のいる台座に落ちていた。周囲の壁沿いには、等間隔に燭台が並び、頼りない炎が揺れている。壁も床も、びっしりと、あの屋上で見たのと同じ幾何学紋様と文字列に覆われていた。祭壇、という言葉が、自然に浮かんだ。

 おそらくここは、彼ら教会の施設なのだろう。そう思わせる厳かな雰囲気が、建物の全体からひしひしと伝わってきた。

「……黝さん」

 僕は、小さく、呼んだ。

「黝さん。聞こえますか。黝さん」

 返事は、なかった。

 でも――胸の奥に、感じた。とても、とても微かだけど、確かにそこにある、小さな温度。蝋燭の火を両手で囲って守っているみたいな、頼りない、でも消えていない、繋がりの感触。

 いる。

 彼女は、僕の中にいる。

「――目が、覚めましたか」

 声がして、僕は首を巡らせた。

 燭台の並びの向こう、石の柱の陰から、千々石三輪が歩み出てきた。

 制服ではなかった。喪服みたいな、黒い詰襟の制式服。その上から、白い聖布のようなものを肩に掛けていた。

「三輪、さん」

 僕は、彼女の名前を呼んだ。

 不思議と、怒りは、湧いてこなかった。屋上で気を失う直前までは、あんなに頭の中がぐちゃぐちゃだったのに。長い夢を見たせいだろうか。それとも、怒っても何も変わらないところまで来てしまったと、身体のほうが先に理解していたんだろうか。

「……黝さんは、僕の中で眠ってる。そうですよね」

「……ええ」

 千々石さんは、台座から数歩の距離で足を止めた。

「先の戦闘と封印楔で、あの悪魔は消耗しています。今は契約者であるあなたの魂の内側、契約の座に退避して、休眠状態にある。……逃げも隠れもできない状態、とも言います」

「そっか。……よかった」

「……よかった?」

「消えてなかったから」

 千々石さんは、少し黙った。

「……あなたは、変わった人ですね。この期に及んで、悪魔の心配ですか」

「変わってるのは、お互い様だと思います」

 僕は、天井の丸い光を見つめたまま、言った。

「……ねえ、千々石さん。一個だけ、確認させてください。これから、僕と黝さんは、封印されるんですよね。生も死もない、虚無の場所に。……二人とも」

「……ええ。もうすぐ、儀式が始まります」

「そっか」

 僕は、息を吸った。

 言うべきことは、屋上で全部言った気もしたけど、それでも、言った。言わずにいられなかった。

「僕たちは、誰も傷つけません。それどころか、僕、決めたんです。悪魔に苦しめられてる人を、これから助けていくって。黝さんも、力を貸してくれるって言った。……それって、あなたたちの目的と、同じじゃないですか。敵じゃない。仲間になれるはずなんだ。監視でも何でも受け入れます。だから――」

「――やめて、ください」

 遮った声は、いつもの平坦な声、のはずだった。

 のはずだったのに、ほんの少しだけ、掠れていた。

 千々石さんは、目を伏せていた。長い睫毛が、燭台の炎で、微かに影を揺らしていた。その表情は、ほんの一瞬――ほんとうに一瞬だけ、申し訳なさそうに、歪んだように見えた。

 でも、次の瞬間には、いつもの無表情が戻っていた。

「……決定は、覆りません。私は一介の局員で、これは教皇庁の裁可を経た聖務です。あなたの提案を検討する権限は、誰にもありません」

「千々石さん」

「儀式は、まもなく始まります」

 彼女は、事務連絡のように言って、踵を返した。

「……最後の時間です。心を、整えておいてください」

「千々石さん!」

 僕は、枷の中で、精一杯、首を上げた。

「あなたは! あなた自身は、これでいいと思ってるんですか!」

 彼女の足が、一瞬、止まった。

 止まって――そのまま、歩き出した。

 振り向かないまま、彼女は柱の陰に消えた。

 残された僕の耳に、彼女の規則正しい足音だけが、長いこと、石の壁に反響して聞こえていた。


    二


 それからどれくらい経った頃だろう。

 こつ、こつ、と、別の足音がした。ざわざわと人の気配がした。その中にステッキの音が、混ざっていた。

「――やあ。気分はどうだね。……と聞くのも、無神経な話か」

 マルコ・ヴァレンティーニが、台座の傍らに立った。

 彼もまた、黒い制式の装束だった。ただ、その着こなしはどこか着崩されていて、この石の祭壇の中で、彼だけが妙に世俗の匂いをまとっていた。

「……マルコさん」

「まず、詫びよう。屋上での件、そして今日のこと。……すまなかった」

 彼は、ほんとうに、頭を下げた。深く、丁寧に。

「謝るくらいなら、やめてくれればいいのに」

「まったくだ。私も時々そう思うよ」

 彼は、微笑んだ。いつもの、穏やかな微笑みだった。

「だが、やめない。……なあ、少年。時間もないことだし、年寄りの昔話に、少しだけ付き合ってくれないか」

「なんですか。懺悔でもしようっていうんですか」

「それに近いというか、まあそんなところだ」

 彼は重い腰を下ろすように座り、ゆっくりと話し始めた。

「三輪の話だ。――あの子はね、孤児なんだよ。両親は、娘が物心つく前に、悪魔と契約した。よくある、ささやかな願いのためにね。対価に、彼らは娘の魂の一部を差し出した。まだ言葉も話せない娘の、心の一部をだ。それでも足りず、彼らは次々と対価を積み……最後は、二人とも喰われた。魂ごと。存在ごと」

 僕は、息を呑んだ。

「三輪は、両親の顔を覚えていない。写真も記録も、この世のどこにも残っていないからだ。あの子はね、自分の本当の苗字すら知らないんだ。『千々石』は、保護した教会が、書類の都合でつけた姓だよ。……両親の記憶ごと感情の一部を毟られて、名も無しに世界へ置き去りにされた五歳の子供が、どうやって生きていくと思うね? 教会が拾わなければ、あの子は」

「……それで、彼女は、悪魔を」

「憎んでいる。ああ見えて、腸が煮えるほどにね。……それでも、あの子はまだ『まし』なほうなんだ」

 マルコさんの声は、静かだった。

「君も見ただろう。あの団地の少女を。願いを踏み台にされ、巣にされ、誰にも知られず消えていった子を。ああいうことが、この瞬間も、世界のどこかで起きている。もっと大きな規模の話もできるよ。悪魔が蜜を注いだ独裁者の話。悪魔が火種を売った戦争の話。数字にすれば、人類史における悪魔の被害は、天文学的なものになる。……我々葬送局は、千五百年、その尻拭いをしてきた組織だ」

「……黝さんも、その中に入ってるんですか。その、天文学的な数字の中に」

「無論、筆頭としてね」

 マルコさんは、迷いなく言った。

「彼女自身が直接手を下した数となると、実は、記録上は驚くほど少ない。彼女は契約者の魂しか口にしない、奇妙に行儀のいい悪魔だ。だがね、少年。彼女が数千年、その傍らで『観察』してきた契約者たちが、彼女の力を使って何をしたか。その積み重ねは――もう、数字ですらないんだよ」

 僕は、目を閉じた。

 夢で見た、数千年ぶんの光景が、瞼の裏を流れていった。燃える都市。祈る人々。戦火。戦火。戦火。

「……分かってるんです、僕も」

 僕は、言った。

「あなたたちが、デタラメを言ってるわけじゃないことくらい。黝さんが、その、綺麗なだけの存在じゃないことも。……分かってる、けど」

「ああ。そして君も、悪魔の被害者だ。それも分かっている」

 マルコさんは、僕を見下ろした。

「君は正体を見てしまっただけの、ただの善良な子供だ。生き延びるために契約するしかなかった。そこに君の落ち度はひとつもない。……その君を、これから我々は犠牲にする」

 彼は、淡々と続けた。

「すまないとは、言わないよ。言えば楽になるのは、こちら側だけだからね。尊い犠牲だなどとも、言わない。君の犠牲は尊くなんかない。ただの、理不尽だ。……君は怒っていい。我々を恨んでいい。呪ってくれてもいい。それでも我々は、君の怒りとは無関係に、君を犠牲にする。――黝による犠牲者は、君で最後にする。そのために」

「…………」

「結局ね、少年」

 マルコさんは、少しだけ、疲れたように笑った。

「人間も、欲のぶつかり合いなんだよ。悪魔と、何も変わらない。我々には『悪魔のいない世界』という欲がある。君には『平和に生きる日常』という欲がある。ぶつかって――今回は、数と力で、我々が勝った。それだけの話だ。正義とか悪とかの話では、ないんだ。最初からね」

 それは、いつか黝さんが言った言葉と、ほとんど同じだった。

 この世界は、欲望のぶつかり合い。ぶつかった後、弱いほうが強いほうに呑み込まれる。ただそれだけの話――。

 僕は、何か言おうとした。

 何かあるはずだった。この人の理屈のどこかに、穴があるはずだった。何か、たった一言でいいから、彼に届く言葉が。

 でも。

 言葉は、出てこなかった。

 だって、彼は正しかったからだ。彼の理屈の内側では、どこまでも、完璧に、正しかったからだ。そして僕はまだ十五歳で、彼の理屈の外側にあるはずの何かを、言葉にできるほど、まだ何も知らなかった。

 悔しかった。

 自分の無力さが、たまらなく、悔しかった。

 沈黙の中で、遠くから、鐘の音が響いた。

 低く、重い、聞いたこともない音色の鐘だった。

「……時間だ」

 マルコさんは、懐中時計を確認して、蓋を閉じた。


    三


 祭壇に、人が入ってきた。

 黒装束に白い聖布の局員たちが、十数人。彼らは無言で、壁際の紋様に沿って等間隔に立ち、低い声で、聖歌のような詠唱を始めた。

 詠唱が重なり合うにつれ、床の紋様が、淡い金色に灯り始めた。

 台座の正面に、それは、運ばれてきた。

 四人がかりで担がれた、黒い、石の櫃だった。棺よりひとまわり小さい、装飾のいっさいない直方体。なのに、見た瞬間、僕の肌は粟立った。あれの中には「何もない」と、見ただけで分かった。物がない、という意味じゃない。存在という概念のほうが、あの中では間違いになる。そういう「何もなさ」が、蓋の隙間から、冷気みたいに漏れ出していた。

 教会の聖遺物。虚無の櫃。

「本来なら」

 台座の脇で、マルコさんが、誰にともなく言った。

「あれをもってしても、彼女のような存在は、櫃の底を突き破って出てくる。だが、今の彼女は君という小さな器に繋がれて、身動きが取れない。……今なら、届く」

 詠唱が、一段、高くなった。

 床の金色の光が、蔓のように伸びて、僕の乗った台座を取り巻いた。光は台座を這い上がり、僕の腕に、脚に、胸に、触れた。

 熱くも、冷たくも、なかった。

 ただ――「薄く」なった。

 光が触れた場所から、僕という存在の輪郭が、少しずつ、少しずつ、削がれていくのが分かった。痛みじゃない。痛みのほうが、まだ、ましだった。指先の感覚が消える。石の冷たさが消える。香の匂いが消える。世界と僕を繋いでいた糸が、一本、また一本と、静かに、鋏で切られていく。

 ……ああ。

 これが、封印か。

 胸の奥の、小さな温度が、必死に揺れているのを感じた。眠っているはずの彼女が、繋がりの向こうで、もがいているのが分かった。僕を守ろうとして。力の残っていない身体で、それでも、契約を果たそうとして。

(……いいよ、黝さん。もう、いいよ)

 僕は、胸の中で、話しかけた。

(無理しないで。……ごめん。僕の器が、もっと大きかったらよかったのに。僕にもっと、欲望があれば、あなたはこんなところで捕まる悪魔じゃなかったのに)

 小さな温度が、ふるえた。

 怒っているみたいに。泣いているみたいに。

(……でもさ。僕、不思議と、そんなに怖くないんだ。なんでだろうね。……たぶん、一人じゃないからだと思う)

 視界が、白く、霞み始めた。

 燭台の炎が遠くなる。詠唱が遠くなる。マルコさんの輪郭が、千々石さんの黒い制服が、白の中に溶けていく。

 意識が、細切れになっていく。

 母さんの顔が、浮かんだ。

 ……ごめん、母さん。夕飯、作れなくなっちゃった。冷蔵庫の豚こま、今日までに使わないと、駄目になっちゃうんだけどな。……母さんは、僕のこと、覚えていられるのかな。それとも、久保寺のときみたいに、忘れちゃうのかな。忘れたほうが、悲しくなくて、いいのかな。……でも、できれば。できれば、覚えててほしいな。わがままかな。

 父さんの顔が、浮かんだ。

 ……父さん。僕、悔いのない人生って、結局分かんなかったよ。でもさ、最後の最後に、やっと道が見つかったんだ。遅すぎだよね。笑ってよ。……ああ、でも、そうか。今なら分かるかも。悔いって、こういうことか。やりたいことを見つけたのに、やれないまま終わること。……うん。悔しいや。僕、今、すごく悔しいよ、父さん。

 だから――。

 白に呑まれていく意識の、いちばん最後の欠片で。

 僕は、願った。

 祈りじゃない。誓いでもない。

 それは、生まれて初めての、剥き出しの、欲望だった。

(……終わりたく、ない)

(僕は、まだ、生きたい。帰りたい。母さんにただいまって言いたい。千々石さんと、もう一回、昼ごはんを食べたい。誰かを助けたい。あの人と――黝さんと、もう一回、くだらない漫才で笑いたい)

(だから――)

 胸の奥で。

 凍えた小さな温度が、その欲望を、確かに、受け取った気がした。

 握り返された、気がした。

 ――遠く、遠くで。

 誰かの声が、聞こえた。

 石の祭壇の、白い光の中。もう誰のものかも分からなくなった僕の耳に、その声は、不思議なくらい、はっきりと届いた。

「――君のことは、私が忘れないよ」

 それが、最後だった。

 白が、すべてを、包んだ。

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