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デーモンガール・ダムネーション  作者: 八村光起


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第一話 第六章 葬送局

   第六章 葬送局


    一


 翌朝の千々石さんは、いつもどおりだった。

 いつもどおりの時間に登校して、いつもどおりの席で、いつもどおりの文庫本を開いていた。

 だから僕は、何も疑わなかった。

 僕はといえば、昨夜の決意も新しく朝から少し張り切っていた。悪魔に苦しむ人を助ける。そのためにはまず知ることだ。悪魔のこと、教会のこと、この世界の裏側のこと。僕はあまりに何も知らない。

 教えてもらうなら、あの人しかいない。

 朝のホームルーム前、僕は千々石さんの席に向かった。

「千々石さん、おはよう。あの、ちょっといいですか」

「……おはようございます。何か」

「その、僕、決めたんです。これからも悪魔の事件があったら、ちゃんと関わっていこうって。それで、千々石さんに悪魔とか教会のこととか、基本から教えてもらえたらって……あ、もちろん、話せる範囲でいいので」

 千々石さんは、文庫本から顔を上げて僕を見た。

 ほんの一瞬――ほんとうに、瞬きひとつぶんだけ、彼女の目が揺れた気がした。

「……分かりました」

 彼女は、静かに言った。

「では、放課後に。込み入った話になるので、人のいない場所がいいでしょう。……屋上に来てください。あなたの悪魔と、一緒に」

「え、いいんですか? ありがとう! じゃあ、放課後に」

 僕は、単純に喜んだ。喜んで、自分の席に戻った。

 だから――気づかなかったのだと思う。

 僕が背を向けたあと、千々石さんが文庫本を閉じて、目を伏せて、そのまま長いこと、じっと動かなかったことに。

 その本が、上下逆さまだったことに。


    二


 放課後の屋上は、夕陽で橙色に染まっていた。

 フェンスの向こうに夜見中市の街並みが広がって、遠くで電車の音がしていた。屋上の真ん中に、千々石さんが一人、こちらに背を向けて立っていた。

「三輪さーん。来ましたよー」

「まったく……なんで仔犬との会話にわたくしまで……」

 僕は、軽い足取りでドアをくぐった。黝さんがぶつくさ言いながら、僕の半歩後ろをついてくる。

 ――その黝さんの足が、屋上に三歩入ったところで、ふと止まった。

「…………朔」

「はい?」

「この床、何かが――」

 彼女が言い終わるより、早く。

 世界が、白く発光した。

 足元の床一面に、光の線が走った。見たこともない複雑な幾何学紋様と、読めない文字の列が、屋上全体に、幾重もの同心円を描いて浮かび上がった。僕らを、中心にして。

「――封印陣ッ! 朔、下がっ……」

 黝さんの声は、最後まで聞こえなかった。

 音が、消えたからだ。

 代わりに、痛みが来た。

「……っ、ぁ、あ、ああああああっ!?」

 全身の骨の中に、熱した針金を通されたような激痛だった。立っていられなかった。膝から崩れて、僕は光る床に倒れ込んだ。身体の内側から、何かが引き千切られようとしていた。胸の奥の――魂の繋がった場所から。

 霞む視界の中で、黝さんが見えた。

 彼女は、僕よりずっとひどかった。光の鎖のようなものが、彼女の全身に、何重にも食い込んでいた。彼女の輪郭が明滅して、その足元から、彼女自身の影が、光の円陣に、ずぶずぶと縫い止められていく。

「が……っ、この、程度の……鎖でッ……!」

 黝さんが、吼えた。

 彼女の瞳が黄金に燃え上がり、全身の鎖が、びしりと軋んだ。一本、二本、鎖が弾け飛ぶ。陣の光が明滅する。彼女はそれでも、僕のほうへ、一歩、また一歩と、鎖を引き千切りながら進んで――。

 永遠にも思えた数十秒の後、ひときわ大きな破砕音とともに、光の陣が、粉々に砕け散った。

 音が、戻ってきた。

 痛みが、引いていく。僕は床に転がったまま、荒い呼吸を繰り返した。黝さんが、よろめきながら僕を抱き起こす。彼女の額に、玉の汗が浮いていた。あの黝さんが、汗をかいていた。

「朔、ご無事……!?」

「な……なんとか……。い、今の、何……」

「対悪魔用の、封印陣ですわ。それも教会謹製の、最上位級の……」

 黝さんは、僕を庇うように抱えたまま、屋上の中央を、睨んだ。

 千々石さんが、こちらを向いて、立っていた。

 その手には、いつの間にか、二丁の銃が握られていた。

「……三輪、さん……?」

 僕は、掠れた声で呼んだ。

「なんで……どうして……」

 千々石さんは、答えなかった。代わりに、別の声が答えた。

「――やあ。三日ぶりかな、少年」

 給水塔の陰から、ゆっくりと、その人は歩み出てきた。

 仕立てのいい濃紺のスーツ。革手袋。ステッキ。人好きのする、穏やかな微笑み。

「マルコ、さん……」

「うん。まず言っておこう。三輪を責めないでやってくれたまえ。彼女は私の命令で君たちを呼び出した。責めるなら、私を責めてくれ」

 マルコさんは、いつもの世間話の調子のまま、言った。

「単刀直入に言おう。――我々は本日をもって、そちらの奥方を封印する。教皇庁の正式な裁可を受けた、聖務としてね」

「……は……?」

 封印。

 言葉の意味が、一瞬、頭に入ってこなかった。

「な、なんで……だって、僕ら、共闘って……一緒に、事件を解決したじゃないですか! 悪魔はもう倒したのに、なんで――」

「そう、事件は解決した。君たちのおかげでね。感謝しているよ、本当に」

 マルコさんは、微笑んだまま続けた。

「だからこそ、次の聖務に移れるんだ。……なあ、少年。君の隣にいるその方はね、我々の千五百年の記録の中で、ただの一度も、封印にも討伐にも成功したことのない悪魔なんだ。歴代の討伐隊は全滅。近づいた者は無間の地獄に堕ちるという。人類にとって、文字通り手の届かない災厄だった。――今までは、ね」

 彼のステッキの先が、こつ、と床を突いた。

「ところが今、その災厄は、契約に縛られている。契約者たる君の欲望の器の分しか、力を出せない。そして君の器は――失礼を承知で言うが――実につつましい。先日の団地の戦闘での彼女の出力、あれは本来の彼女からすれば、ありえないほどの低出力だ。今の魔法陣ひとつ破るのに、彼女は全力を要した。……分かるかね。今の彼女は、檻に入った獅子なんだよ。人類史上、最初で最後の好機なんだ」

「〜〜〜っ、薄汚い真似を……! 共闘も、事件の解決も、全部この瞬間のための布石でしたのね!」

 黝さんが、牙を剥いた。

「布石というか、まあ、観察期間だね。おかげで確信が持てた」

「僕は……!」

 僕は、黝さんの前に、よろめきながら立った。

「僕は、絶対に、黝さんに悪いことなんて頼みません! この人の力を、変なことには使わせません! 僕が契約者でいる限り、黝さんは誰も傷つけない! だから――」

「うん。知っているよ」

 マルコさんは、あっさりと頷いた。

「アルゴスの目は誤魔化せない。君の言葉は、真実だ。君は善良な子だよ、伏見朔くん。今この瞬間の君は、間違いなくね」

「だったら……!」

「――今この瞬間は、ね」

 その声は、穏やかなままだった。穏やかなまま、底冷えがした。

「人の心は、移ろうものだよ、少年。今日の善意は、明日の憎悪になる。十五歳の君は聖人でも、二十五歳の君は? 四十五歳の君は? 大切な人を理不尽に奪われた日の君は? 病に冒され、死の淵に立った日の君は? ……そのとき君の隣には、『なんでも願いを叶える』最強の悪魔がいるんだ。私はね、君を疑っているんじゃない。人間というものを、信じていないんだ。私自身も含めて」

 僕は――反論の言葉が出てこなかった。

 だって――思い出してしまったからだ。あの団地の部屋を。普通の家族が欲しかっただけの女の子が、絶望ひとつで、悪魔の巣になったことを。人は、変わる。変わってしまう。それを僕は、この目で見てしまっている。

「安心したまえ」

 マルコさんは一転して穏やかに、そう言った。

「君を殺すことは、絶対にない。なぜなら君を殺せば、彼女はその檻から解き放たれ、我々の封印も意味をなさないからね。だから――君には彼女と共に、眠ってもらう」

 マルコさんは、懐から、小さな黒い聖書のようなものを取り出した。

「第三葬位《封櫃》より借り受けた聖遺物がある。生も死もない、虚無の狭間。そこに君と彼女を、契約ごと隔離する。時間も、痛みも、何もない場所だ。それが我々にできる、最大限の慈悲だと思ってほしい」

「そんなの……そんなの、慈悲って言わない……!」

「そうだね。言わないだろうね」

 マルコさんは、静かに認めた。

「でも――君の意志はもう関係ないんだ」

 そして、片手を、上げた。

「三輪。二人を、捕らえなさい」

 僕は、千々石さんを見た。

 彼女は、ずっと、黙って立っていた。

「……千々石さん!」

 僕は、必死に呼びかけた。

「話そう! ね、話し合おうよ! 僕ら、一緒に戦ったじゃないか! 商店街でも、団地でも! 朝ごはんだって一緒に食べた! 僕が悪いことに黝さんを使うような人間かどうか、千々石さんが一番、近くで見てたはずだろ!? ねえ、千々石さん! 千々石さんっ!!」

 彼女の指が、銃の上で、ほんのわずかに、震えた――ように、見えた。

 でも。

 返事は、なかった。

 夕陽を背にした彼女の顔から――すっ、と、表情が消えた。

 瞳のハイライトが消える。淡い銀灰色。瞳孔の周りに、魔術回路の輪が、一重、二重と浮かび上がる。あの団地で見たときよりも、深く。

「《感情遮断コールド・ラザロ》――第二段階」

 彼女の声には、もう、何もなかった。

「執行、します」


    三


 最初の銃声を、僕は認識できなかった。

 気づいたときには、黝さんが僕を横抱きに抱えて、数メートル横に跳んでいた。さっきまで僕らのいた床に、火花が散っていた。

「舌を噛まないでくださいまし……!」

 黝さんが、走った。

 屋上を、フェンス際を、給水塔の陰を。千々石さんの銃弾が、それを追った。二丁の銃は交互に、息継ぎもなく吠え続けた。魔力回路入りの銃弾が、掠めるたびに空気を灼いた。

 黝さんは、防戦一方だった。

 僕を抱えているから、というだけじゃない。彼女の身体は、さっきの封印陣で、明らかに削られていた。動きの端々が、僕でも分かるほど、鈍い。

「く……っ」

 黝さんの指先から、黒い刃が飛んだ。千々石さんは、最小限の動きでそれを躱した。躱しながら、撃った。速い。あの団地のときの比じゃない。人間の動きじゃない。感情と痛覚を切り捨てた彼女は、本当に、精密機械そのものだった。

 そして、機械は、布石を打っていた。

 千々石さんの撃った銃弾のいくつかが、床や壁で炸裂せずに、突き刺さったまま、淡く光っていた。それが、いつの間にか、屋上のあちこちに――僕らの逃げ場を、囲むように。

「……っ、しまっ――」

 黝さんが気づいたときには、遅かった。

 光の銃弾たちが、互いに光の線で結ばれ、小型の封印陣が、僕らの足元で開いた。

 鎖が、黝さんの足に、腕に、絡みつく。

「ぐ……ぅ……!」

「黝さん!」

 僕は彼女の腕の中で叫んだ。彼女は僕を抱えたまま、鎖を引き千切ろうともがいた。一本、千切る。二本目を千切る。その間にも、千々石さんは、歩いて、距離を詰めてくる。銃口を、まっすぐこちらに向けたまま。

「朔」

 ふいに、黝さんが、僕の耳元で言った。

 静かな声だった。

「……申し訳、ありませんわね。この身体、思ったより、言うことを聞きませんの」

「な、なに言って……」

「次の一瞬で、鎖を全部千切って、貴方をフェンスの外へ投げますわ。受け身は、わたくしの力が最後まで守りますから。そのまま、お逃げなさい。どこまでも。……大丈夫。わたくしはしぶといので。あとから必ず、追いつきますわ」

 嘘だ、と分かった。

 魂契脈が繋がっているからだろうか。彼女の言葉の裏の、覚悟の色が、流れ込んできた。僕を逃がして、自分は残る気だ。この状態の彼女が残って、どうなるかなんて――。

「だめだ……! 黝さん、それはだめだ……!」

「契約ですのよ、朔。わたくしは、貴方を守る。それが、わたくしの――」

 彼女が、鎖を千切った。

 僕の身体が、ふわりと浮いた。

 その、瞬間だった。

 千々石さんの姿が、掻き消えた。

 違う。速すぎて、消えたように見えたんだ。彼女は僕らの死角、投げようとした軌道の先に、既に回り込んでいた。全部、読まれていた。

 銃口が、二つ。

 至近距離で、僕を抱えた黝さんの、がら空きの背中に。

 ――ぱん、ぱんっ、と。

 乾いた音が、連続した。

 黝さんの身体が、跳ねた。

 彼女は、僕を、離さなかった。

 銃弾は、魔力の楔となって、彼女の背に突き立った。楔から光の鎖が奔り、彼女の全身を、雁字搦めに縛り上げた。それでも彼女は、崩れ落ちる最後の最後まで、僕を胸に抱え込んで、自分の身体を下敷きにして、僕を守った。

 どさり、と。

 僕らは、屋上の床に、倒れ込んだ。

「黝さん……! 黝さんっ……!」

 僕の呼び声に、彼女は、うっすらと目を開けた。

 黄金の瞳が、僕を見た。

 彼女の唇が、動いた。声にならない声で、何かを――たぶん、「ごめんなさい」を、かたちづくった。

 それきり、瞼が、落ちた。

 彼女の輪郭が、淡い光の粒子になって、ほどけ始めた。粒子は、僕の胸へと吸い込まれていく。魂の繋がった場所へ。彼女の帰る場所が、もう、そこしか残されていないかのように。

「あ……あぁ……」

 僕の視界の端に、影が落ちた。

 見上げると、千々石さんが立っていた。

 銀灰色の瞳が、無表情に僕を見下ろしていた。

 その向こうで、マルコさんが、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。相変わらず、穏やかに微笑んだままで。

「……よくやった。ご苦労だったね、三輪」

 僕の意識は、そこで、途切れた。

 最後に見えたのは、夕陽の色だった。

 あの日――黝さんに初めて会った日の、路地の夕陽と、同じ色だった。



   幕間 名もなき御使いの夢


 ――僕は、夢を見ている。

 それが夢だと、僕は分かっている。自分のものではない記憶の中を、流されるように漂っているのだと。

 最初は、あの口づけの夜に流れ込んできた、黝さんの数千年の記憶の一部かと思った。

 けれど、違う。

 この光景は、あの記憶の洪水の、どこにもなかった。もっと底だ。あの川の川底の、そのさらに下。黝さん自身すら知らないはずの、誰のものとも知れない深い場所から、その光景は、静かに湧き上がってくる。混沌とした光の流れが、次第に過去のとある一転に収束していき、僕はただ身をゆだねるようにその流れに惹かれていった。


 はじめに、光があった。

 それは、光の中に生まれた。

 名は、なかった。必要がなかったのだ。それは大いなる主の御許に仕える、数多の御使いのひとつだった。御使いに個の名はいらない。役割だけがあればいい。

 それの役割は、「聴くこと」だった。

 地に満ちた人の子らの、祈りを聴くこと。願いを聴き、それを主の御許に運び、主の意志のままに、ときおり、ほんのときおり、奇跡を地上に降ろすこと。

 それは、聴いた。

 来る日も、来る日も、聴き続けた。

 ――雨を。作物が、枯れてしまう。

 ――子を。跡継ぎを。どうか、子を。

 ――病を癒やしたまえ。母を、連れて行かないでください。

 ――戦に勝利を。隣の民を、滅ぼしたまえ。

 ――あの人の心を、私に。

 ――金を。パンを。土地を。力を。永遠を。

 祈りは、川だった。昼も夜も涸れることのない、途方もない濁流だった。そして、その川の水は――澄んではいなかった。

 雨を願う農夫の祈りの底には、隣の畑への嫉妬が沈んでいた。子を願う部族の祈りの底には、兄弟の権力への渇望が沈んでいた。病の癒しを願う祈りの隣で、同じ口が、仇の病を願っていた。

 欲、である。

 人の子らの祈りとは、その大半が、飾り立てられた欲だった。

 それは、疑問に思わなかった。最初のうちは。御使いは疑問を持たない。役割だけがあればいい。

 だが、それの役割は「聴くこと」だった。

 誰よりも、何よりも、深く、深く、人の声を聴き続けること。

 ――ある時代、それは奇跡を降ろした。飢えた村に、願われたとおりの豊穣を。すると村は富み、富は隣村の羨望を呼び、羨望は刃に変わり、村は焼けた。豊穣を願ったあの農夫は、焼けた畑で、なぜだと天を呪って死んだ。

 ――ある時代、それは奇跡を降ろした。祈り続けた部族の長に、願われたとおりの世継ぎを。生まれた御子は美しく育ち、長じて父を弑して、一族を血で染めた。

 ――ある時代、それは何も降ろさなかった。ただ祈りだけを運んだ。祈りは届かず、疫病は民を薙ぎ払った。人々は、それでも祈りながら死んでいった。奇跡を降ろしても、降ろさなくても、人の子らは苦しんだ。

 それは、考え始めた。

 考えることは、役割ではなかったのに。

 ――なぜ、だろう。

 ――なぜ人の子らは、願うのだろう。願いが、しばしば彼ら自身を滅ぼすのに。

 ――なぜ主は、産めよ、増えよ、地に満ちよと仰せられたのだろう。増えた人の子らが、満ちた地の上で、奪い合い、滅ぼし合うことを――全能なる御方が、ご存じなかったはずはないのに。

 ――なぜ、欲を持つものとして、人を象られたのだろう。

 ――この営みに、意味は、あるのだろうか。

 それは、答えを求めた。

 だが、主は答えなかった。

 当然である。それは主と相対したことなど、一度もなかったのだから。御使いとは、意志を伝達する管にすぎない。管は、水源を知らない。光の奥から降りてくる意志を、ただ地上へ流すだけ。問いを上流へ遡らせることは、管には許されていなかった。

 問いは、行き場を失い、それの内側に、澱のように溜まっていった。

 そして、いつからだろう。

 それは、気づいてしまった。

 濁流のような祈りを聴きながら――欲に塗れ、矛盾に満ち、同じ過ちを千年ごとに繰り返す人の子らを眺めながら――自分がそれを、厭うどころか。

 面白い、と思っていることに。

 滅びると分かって、それでも願う。奪われると知って、それでも積み上げる。明日死ぬ身で、百年先を夢見る。祈りながら疑い、疑いながら祈る。天の御使いたちの、完全で静止した、一片の矛盾もない世界には――ないものだった。何ひとつ、ないものだった。

 知りたい――と、それは思った。

 これが後に「好奇心」と、もっと後に「渇き」と呼ばれる欲であることを、そのときのそれは、まだ知らない。天の御使いが欲を持つなど、あってはならないことだったから。定義そのものが、存在しなかったから。

 ――もっと、近くで。

 ――管としてではなく。伝達者としてではなく。

 ――この、愛おしくも愚かな矛盾の群れを、すぐ傍らで、見てみたい。

 ある夜。

 それは、地上に降りた。

 星の見える丘で、ひとりの人間が祈っていた。癒えぬ病を抱えた、若い羊飼いだった。彼の祈りは、もう何年も、誰にも聴き届けられていなかった。

 それは、羊飼いの前に、姿を現した。

 そして、生まれて初めて、主の意志を運ぶのではない言葉を、口にした。

『――我は、主の使いである』

 嘘だった。

 正確には、半分だけ嘘だった。主の使いであることは、真実。だが、その夜そこにいたのは、主の意志ではなく――それ自身の、意志だった。

『そなたの祈りを、聴き届けよう。そなたの病を、癒やそう。……代わりに』

 それは、告げた。生まれて初めての、契約の言葉を。

『我を、そなたの傍らに置け。そなたの生を、その終わりの日まで、我に見せよ』

 羊飼いは、涙を流して頷いた。

 病は癒えた。それは、羊飼いの傍らで暮らした。羊飼いが水を飲むのを見た。パンを焼くのを見た。恋をするのを見た。妻を娶り、子をあやし、老いて、病とは別の理由で穏やかに死ぬのを、最初から最後まで、見届けた。

 彼の生涯は、天の尺度で言えば、瞬きにも満たなかった。

 だがそれは、天で過ごした永遠よりも濃かった。

 ――ああ。

 と、それは思った。

 ――もっと。

 その「もっと」が、後にどんな夢を呼び、どんな代償を招くことになるのか。

 このときのそれは、まだ、何も知らない。

 それは羊飼いの墓に、野の花をひとつ供えると、ふたたび人の群れの中へと歩き出した。願いを聴くために。契約を結ぶために。人間という、愚かで愛おしい矛盾のかたまりを、もっと近くで見るために。

 群衆に紛れていく、その後ろ姿。

 その足取りは、まるで初めて遠足に出かける子供みたいに、弾んで、軽かった。

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