第一話 第五章 欲望のかたち
第五章 欲望のかたち
一
事件から、数日が経った。
夜見中市は、何事もなかったように回っていた。
矢筈川団地の一件は、ニュースにもならなかった。あの部屋の白骨死体は、葬送局の「事後処理班」とやらが引き取っていったらしい。あの事件が表に出ることは、たぶんこれからもない。あの契約者の女の子は、誰にも知られず、ただ教会の記録の中だけに残るだけだ。逆にそれが、魂を失ったものに対する唯一の慰めなのかもしれない。
僕は、日常に戻った。
朝起きて、朝ごはんを作って、学校に行って、授業を受けて、帰ってきて、夕飯を作って、寝る。僕が欲しいと言い続けてきた、平和な日常。黝さんはそばにいるけど。
なのに。
夜、ベッドに入って目を閉じると、あの四畳半が浮かんだ。
つぶれた学生鞄。壊れた卓袱台。ふつうのかぞくがほしかった、という羽音の声。ぱきん、という薄氷の音。掌に残った、冷たい泥の感触。
彼女は、平凡を願った。
僕が「僕の望みです」と言い続けてきた、まさにあれを。朝起きて、ご飯を食べて、家族と笑って過ごす、それだけの毎日を。命がけで願った。魂を売ってまで願った。
それでも、手に入らなかった。
じゃあ――僕が今、当たり前みたいに享受してるこれは、何なんだろう。
僕はそれを願う必要すらなく、生まれたときから持っていた。母さんがいて、父さんの遺してくれたものがあって、温かい家があって。彼女と僕の間に、いったい何の差があった? 努力か? 人格か? 違う。ただの、運だ。生まれた場所の、ただの運だ。
運で手に入れたものを「僕の望みは今の平和な日常です」って、僕はずっと言ってたのか。
もう持ってるものを望みって呼ぶのは、あの子に対して、何かこうものすごく――卑怯じゃないか。
欲望って何なんだ。悔いのない人生って、何なんだ。
父さん。僕、分かんなくなっちゃったよ。
――そんなことを、ぐるぐる、ぐるぐる、考える数日だった。
自分では、普段どおりに振る舞ってるつもりだった。でも。
「……朔。お醤油と間違えて、お酢をかけてますわよ、卵焼きに」
「え? ……あ」
「昨日は歯磨き粉と洗顔フォームをお間違えでしたわね。一昨日は、風呂を沸かして入らずに寝ましたわ」
「あー……うん、ごめんなさい……」
食卓の向かいで、黝さんが、じっ、と僕を見ていた。
いつものからかうような目じゃなかった。心配、という文字をそのまま顔に書いたような目だった。数千年生きた悪魔は、こういうとき意外なほど感情が顔に出るのが分かった。
「…………朔」
「はい」
「その……なんですの。は、腹が減っては戦ができぬと申しますし、今日の夕飯は、わたくしが何か、その、出前を」
「え、本当に? それじゃあちょっと特上寿司とか頼んじゃおうかな、あはは」
「茶化すんじゃありませんの」
黝さんは、むう、と唇を尖らせて、それから、ぽつりと言った。
「……食が細くなってますわよ、貴方。この数日で」
僕は、卵焼きを見た。酢のかかった卵焼きを。
「……ちょっと、考えごとしてるだけです。大丈夫。ほんとに」
大丈夫、という言葉ほど大丈夫じゃないものはないと、僕はこのとき知った。
二
学校でも、僕はたぶん、ぼんやりしていたんだと思う。
授業を三回当てられて三回とも聞き返し、移動教室を一度間違え、購買でパンを買ったのに食べるのを忘れて鞄の中で潰した。
そんな僕を、黝さんは隣の席から、ずっと見ていた。
そして昼休み。彼女は珍しく僕の席を離れて、教室の隅へ歩いていった。向かった先は――千々石さんの席だった。
「(……ちょっと、仔犬。相談がありますの)」
僕に聞こえないように話しているつもりのようだが、彼女の声はうっすらとだが耳に届いてきた。
「(……私に? 珍しいこともあるものですね。明日は槍が降りますか)」
「(黙って聞きなさいな。……その、ですわね。朔のことなのですけれど)」
聞こえないふりをしつつ、僕の耳は勝手にその会話にそばだてていた。
「(あの調子ですの、ずっと。飯は残す、夜は眠りが浅い、返事は上の空。……ああいうとき、人間には、何をしてやればよろしいの)」
「(……なぜ、私に聞くのですか)」
「(人間だからですわよ、貴女が。わたくしは数千年生きてますけれど、人間を「観察」してきただけで、「慰めた」ことは、ほとんどございませんの。……こういうときの手札が、なくてですわね)」
「(……。)」
千々石さんは、しばらく黙っていた。
「(……悪魔が、契約者の心配を、するのですか)」
「(悪くて?)」
「(いえ。……記録にない事例なので、処理に困っているだけです)」
千々石さんは、文庫本に視線を落としたまま、静かに言った。
「(……残念ながら、私も、その分野の手札は持っていません。本で読んだ知識しか、ありません。ただ……)」
千々石さんのページをめくる手が、止まった。
「(本には、こう書いてありました。悲しんでいる人間に必要なのは、答えではなく、時間と、隣に誰かがいることだと。……役に立つかは、知りません)」
黝さんは、しばらく千々石さんを見て、それから、ふ、と笑った。
「(……存外、良い本を読んでますのね、貴女)」
「(監視対象との私語は以上ですか。昼休みが終わります)」
そこで黝さんと千々石さんの会話は終わった。僕は最後まで聞こえないふりをし続け、何食わぬ顔で隣に座る黝さんを見る。
「? 朔、どうかしましたの?」
「い、いえ、別に何も」
とっさにごまかしてしまった。でも僕の胸の中には、彼女の気遣いに対する嬉しさと、申し訳なさのようなものが生まれていた。
(ごめんなさい黝さん……その、心配かけてしまって)
放課後になった。
帰り支度をしていると、黝さんが、ずいっと僕の前に立った。
「朔! デートに参りますわよ!」
彼女は、とびきりの、営業スマイル以上の笑顔で言った。
「ゲームセンターで大物を狩り、モックのポテトを山と積み、プリントシールで加工の限界に挑む! この間の続きですわ! ほら、善は急げと――」
「ごめんなさい」
僕は、言った。
「今日は、その……一人で帰りたい気分、なんです。ごめんなさい」
黝さんの笑顔が、ぴしり、と固まった。
「…………そ、そう、ですの」
「はい。……ほんとに、ごめんなさい」
「い、いえ、よろしくてよ? ぜんぜん、まったく、これっぽっちも、傷ついてなどおりませんもの、ええ。デートの誘いを断られたくらい。今まで生きてきて初めてですけど。初めてですけど!」
二回言った。
黝さんは、ぷい、と顔を背けて――次の瞬間その横顔が、見たこともないくらいしょんぼりしていた。長い髪の間から見える耳が、心なしか垂れているようにさえ見えた。犬か。
罪悪感が、どっと押し寄せてきた。でも、今日だけは、一人で歩いて考えたかった。
「……お先に、失礼しますわ」
黝さんは、小さくそう言って、教室を出ていった。僕も鞄と机の中を整理し終えると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
三
一人になった帰り道。
気がつくと、僕の足は家とは反対の方向に向かっていた。
川沿いの土手を歩いて、橋を渡って。夕陽が水面を橙色に染める、あの見覚えのある道を。
――矢筈川団地。
僕は、敷地の外の歩道から灰色の棟を見上げていた。
あの日と同じで、人気はなかった。でもあの日と違って、空気はもう重くなかった。ただの、取り壊しを待つだけの、古い団地がそこにあった。三号棟の三階、端の部屋。カーテンのない窓は、夕陽を反射して、何も見せてくれなかった。
なんで来ちゃったんだろう、と自分でも思った。
来たところで、何ができるわけでもないのに。
「――伏見くん」
声をかけられて、僕は跳び上がった。
振り返ると、千々石さんが立っていた。制服姿で、手には書類ホルダーのようなものを提げている。
「み、千々石さん。なんで、ここに」
「事後処理の一環です。現場の魔力残滓の消毒と、封鎖手続きの確認。……教会の仕事は、戦闘よりも、こちらのほうが多いんです」
彼女は、僕の顔をじっと見た。
「あなたこそ、何をしに。ここには、もう何もいませんが」
「……えっと」
僕は、言葉を濁した。
「なんだろ。……色々、考えることがあって。気がついたら、来ちゃってた……って感じ、かな。自分でもよく分かんない」
「……そうですか」
千々石さんは、それ以上追及しなかった。
僕らはしばらく並んで、黙って団地を見上げていた。どこかでカラスが鳴く音が聞こえた。
「……あの部屋の人のこと」
僕は、ぽつりと言った。
「あの白骨化していた……あの人とかは、どうなるの。その、お葬式とか、お墓とか」
「教会が引き取りました。無縁者の区画に、埋葬されます。記録上は、失踪者として処理されます」
「……そっか」
「伏見くん」
千々石さんは、団地を見上げたまま、言った。
「あなたが気にすることは、何もありません。あなたは、やるべきことをやった。あれ以上の結果は、誰にも出せませんでした。……教会の精鋭が同じ現場に入っても、同じ結末にしかならなかった。それは、私が保証します」
淡々とした、いつもの声だった。
でも、それが彼女なりの慰めなんだということは分かった。
「……うん。ありがとう」
僕はその言葉を、否定はしないで受け止めた。
受け止めても――胸の中のもやが晴れたかというと、それはまた、別の話だったけど。
「あ……そうだ」
僕は、ふと思い出して、鞄から布包みを取り出した。
あの懐刀だった。
「これ、返さなきゃって思ってたんだ。はい。……その、すごく助かりました。ありがとう」
千々石さんは、差し出された懐刀を見て、首を横に振った。
「返却は、不要です」
「え? でも、教会の大事なものなんじゃ」
「見てください、鯉口の聖印を」
言われて、僕は鞘の銀の聖印を見た。……あれ。前は白っぽく光っていた気がする印が、今は、うっすらと金色と、それから黒に近い青の、二色の光を帯びていた。
「その刀は、あの日、あなたの魂とあなたの悪魔の魔力を通しました。聖別の上に、あなたたち二人の魔力の色が、深く染みついています。……こうなった武具は、もう、他人には馴染みません。私が使っても、ただのナイフです」
「そ、そうなの……? ごめん、大事なものを、僕たちの色に染めちゃって……」
「謝罪は不要です。想定の内です」
千々石さんは、こともなげに言った。
「それは、正式に、あなたに譲渡します。教会への武器の破棄申請も済ませました。……持っていてください。あなたはもう、丸腰でいていい場所には、立っていないので」
僕は、手の中の懐刀を見つめた。
ずしりとした重み。あの夜、核を刺した感触。彼女の脈を、断った感触。
この重みごと、僕のものになった。そういうこと、なんだろう。
「……千々石さんは、さ」
気がついたら、聞いていた。
「この仕事、続けてて……苦しいなって思うこと、ないの?」
千々石さんは、僕を見た。
「昨日みたいな……ああいう最期を、たぶん、いっぱい見てきたんだよね。それでそのたびに、こういう事後処理をして、書類にして。……僕は一回で、こんなにぐちゃぐちゃになってるのに。千々石さんは、平気なの?」
彼女は、少しの間黙っていた。
それから、いつもの平坦な声で言った。
「――誰かが、やらなければいけないことです。必要なことなので」
こともなげな、答えだった。
質問の答えになっているようで、なっていない気もした。「苦しいか」と聞いたのに、返ってきたのは「必要か」の答えだった。でも彼女の中では、たぶんそれで完結しているんだろう。……あるいは、そういうふうにしか答えられないのか。
「……そっか」
「はい」
「……じゃあ、僕、帰るね。事後処理、頑張って」
「はい。……伏見くん」
歩き出した僕の背中に、彼女の声が届いた。
「早く帰って、温かいものを食べて、寝てください。……悩むのは、それからでも、できるので」
振り返ると、彼女はすでに書類ホルダーに目を落としていた。
僕は、少しだけ笑って今度こそ家路についた。
四
日が暮れる頃に、家に帰った。
「ただいまー……」
「おっかえりー」
居間から、のんびりした声が返ってきた。
覗くと、母さんがいた。部屋着で、ソファに沈み込んで、缶チューハイ片手にテレビを見ていた。
「……母さん、今日、早いんだ」
「ふっふっふ。大型案件が今日で無事納品されまして。今夜のわたしは自由の女神です。あ、クローリィさんなら、だいぶ前に帰ってきてるわよ。二階のお部屋にいるみたい。……あんたたち、喧嘩でもした?」
「し、してないよ」
相変わらず、母さんがあっさり黝さんの存在を受け入れていることに違和感を覚える。どうやら母さんの中で黝さんは、古くからの友達ということになっているようだ。悪魔の洗脳の力というものは、本当に恐ろしい。
「ふーん? まあいいけど。それより夕飯、出前取っちゃおうと思ってるんだけど、朔、お寿司の気分? ピザの気分?」
「んー……どっちでも」
「……ふうん?」
母さんは、缶をテーブルに置いた。
「朔。ここ座りなさい」
「え」
「いいから。ほれほれ」
断れる圧ではなかった。僕はソファの隣に座った。母さんはテレビの音量を少しだけ下げた。
「――で。何を抱えてるの、我が息子は」
「……何も、抱えてないけど」
「お母さんはねえ、朔。あんたが熱を出す前の日は、顔を見れば分かるし、テストで失敗した日も分かるし、好きな子ができた日も分かるんですねえ。伊達に十五年、母親やってません」
母さんはにやりと笑って、それからふっと笑みを引っ込めた。
「ここ何日か、あんたちゃんと寝てないでしょ。ご飯も残してるし。クローリィさんと関係すること?」
「黝さんは、関係ない……こともないけど、違くて」
僕は、膝の上で手を組んだ。
何をどこまで話せるだろう、と考えた。悪魔のことは言えない。団地のことも、あの部屋のことも、僕がこの手でやったことも言えるわけがない。
でも――。
「……母さん。あのさ。……変なこと聞いていい?」
「どうぞ」
「もし……もしね。すごく、頑張って生きてた人がいて。贅沢も言わないで、ただ、普通に暮らしたい、家族と普通にご飯食べたい、それだけ願ってた人がいて。……でも、そういうのが全然叶わないまま、その、……報われないまま、終わっちゃったとして」
声が、少し掠れた。
「そういうのを、間近で……見ちゃったとして。それでさ、少し考えたんだ。願っても叶わない人がいるのに、僕はなんで、こんな普通に生きてるんだろうとかって。僕が欲しいって言ってた『平和な日常』って、その人が死ぬほど欲しかったものを、僕はタダで持ってただけじゃないかとか。そしたら、なんか自分の生き方ぜんぶが、変にずるく思えてきて。……欲って何なんだろうとか、悔いのない人生って何なんだろう、とか。……ぐるぐるして、分かんなくなっちゃって」
我ながら、要領を得ないし、変な話だと思う。
母さんは、途中で一度も口を挟まなかった。テレビのバラエティが、小さな音で笑い声を流していた。
やがて母さんは、缶チューハイを一口飲んで言った。
「――なるほどねえ。うちの息子は、いつの間にそんな難しいことを考えるようになったのか」
「茶化さないでよ」
「茶化してません。感心してるの」
母さんは、ソファに深く沈み直した。
「先に言っとくとね、朔。その質問に、決まった答えはないよ」
「……うん」
「『悔いのない人生とは何か』なんて、お母さん、四十過ぎた今でも分かんないもの。仕事でしくじって悔いだらけの日もあるし、あんたのお父さんに、もっとああしてあげれば良かったって、今でも思う夜もある。たぶん死ぬまで分かんないんじゃないかな。それでいいんだと思うよ」
「いいの? それで」
「いいのいいの。……あのね、朔。お父さんの遺言、覚えてるでしょ」
「……うん。何者にもなれなくてもいい。ただ悔いのない人生を送ってほしい、って」
「あれね、実はあの人、続きを言おうとしてたのよ」
「……え?」
初耳だった。
母さんは、少し遠い目をして、笑った。
「病室でね。あんたが帰ったあと。『悔いのない人生って何ですか、って朔に聞かれたら、どうしよう』って、あの人、真っ青になってたの。『しまった、僕にも分からないのに、言ってしまった』って。学者のくせに、詰めが甘いのよねえ、あの人」
「……ええ……」
「でね、二人でうんうん唸って、ひとつだけ答えが出たの。――『分からないから、朔が自分で悩んでくれたら、それでいい』って」
母さんは、僕を見た。
「悔いのない人生ってのはね、朔。悩まないで済む人生のことじゃないと思うよ。あんたみたいに、ずるいかな、とか、これでいいのかな、とか、ぐるぐる悩んで、悩んで、悩んだ末に、自分の心が『こっちだ』って言うほうに、えいやって進む。間違えたら、また悩んで、進み直す。……それの繰り返しのことじゃないかな。少なくとも、お母さんとお父さんの出した答えは、それ」
心に従えばいい、と母さんは言った。
「誰かの分まで背負って動けなくなるのはね、優しさじゃなくて、ただの共倒れ。あんたが今持ってる『普通』がずるく思えるなら――捨てることないの。それを大事に噛みしめて生きること自体が、持てなかった誰かへの、いちばんの筋の通し方だと、お母さんは思うけどね。ついでに言えば、そこで『何かしたい』って思っちゃったなら、それはもう思っちゃったもん勝ちよ。それがたぶん、あんたの欲望ってやつだから」
僕は、まばたきした。
「欲望……?」
「そ。人のために何かしたい、ってのも立派な欲望よ? 欲望っていうと、みんな、お金とかモテたいとか、そういうのばっかり思い浮かべるけどね。放っておけない、が欲望のかたちの人も、世の中にはいるの。……ほら、お父さんがそうだったじゃない。身体弱いくせに、教え子のことになると病院抜け出そうとして」
「……してたね、そういえば……」
「あんたのそういうまじめなところ、ほんとにあの人にそっくりなのよ」
母さんは、くしゃっと笑って、僕の頭をぽんぽんと撫でた。
子ども扱いすんなよ、と思ったけど振り払わなかった。
胸の中のぐるぐるは、消えたわけじゃなかった。あの四畳半のことは、たぶんこの先もずっと消えない。
でも、ぐるぐるの真ん中に、細い一本の芯みたいなものが通った気がした。
悩んでいい。分からなくていい。分からないまま、心の指すほうに進めばいい。
「……ありがと、母さん」
「ん。よろしい。――さ、この話はおしまい! お寿司かピザか決めなさい! お母さんもう限界、お腹ぺっこぺこ」
「じゃあ、お寿司。……あ、黝さんの分も頼んでいい? あの人、サーモン一人で一皿……じゃなくて一桶いくから、多めで」
「あらあら、それはそれは」
母さんは、にっまーっと笑った。
「仲直りのお土産ってわけね? 青春だねえ、息子よ」
「だから、そういうんじゃないってば」
五
夕飯のあと、僕は自分の部屋に戻った。
襖を開けて、電気をつけて――固まった。
部屋の真ん中に、黝さんが、正座していた。
真顔で。何故か、片手に百円ショップのハリセンを持って。
「……な、なにしてるんですか、僕の部屋で」
「お黙りなさい。そこにお座りなさいまし」
有無を言わさぬ圧に、僕はベッドの縁に座った。
黝さんは、こほんと咳払いをして、すっくと立ち上がった。
そして、言った。
「どうもー。黝・ラヴィニア・クローリィですわー」
「…………はい?」
「数百年ぶりに日本に参りましたらね、驚きましたの。ハンバーガー屋のポテトの、Lサイズの多いこと多いこと。あんな塩と油の塊、悪魔の所業ですわ。悪魔のわたくしが言うのだから間違いありませんの」
「…………」
「ちなみにわたくしの故郷は中東の辺りなのですけれど、あちらの古代名物といえば粘土板ですわね。以前食べようとしたことありましたけど、おやつにもなりませんでしたわ。硬いので」
「…………」
「……ちょっと。朔。そこは笑うところですのよ」
「え!? 今のボケだったんですか!?」
「一人漫才ですわよ! 見れば分かるでしょう!?」
黝さんは、ハリセンで自分の頭を、ぺしんと叩いた。どうやらツッコミも自分でやるスタイルらしかった。
「ネットで調べましたの! 人間を元気づけるには笑いが一番と書いてありましたわ! ワラーには免疫力を高める効果もあるそうですわよ! ですから、ほら、笑いなさいな! ほら! ほらほら!」
「わ、笑いの強要……あと、ワラーって何……?」
「まだまだございますわよ! えー、悪魔あるある! 召喚陣、たまに誤字ってて別の悪魔が来がち!」
「あるあるの範囲が狭い!」
「魂の等価交換、レシート出ないから経費で落ちなーい!」
「悪魔に経費の概念が!?」
「あとこれは同業者の愚痴ですけれど、最近の若い悪魔、なんでもかんでも契約を簡略化しがち。今なんて、ネットやメールを通じて気軽にほいほい現れると聞きますわ。味気ないですわよねえ、やっぱり契約は血で――あら、朔? どうしまして? 肩が震えて」
だめだった。
こらえきれなかった。
「ふ、くく……あはは、あははははっ!」
僕は、腹を抱えて笑った。
面白かったからじゃない。ネタは全然、まったく、これっぽっちも面白くなかった。粘土板って何だ。ワラーって何だ。
でも――数千年生きた大悪魔が、僕を笑わせるためだけに、漫才をを考えて、百均でハリセンを買ってきて、真顔で「悪魔あるある」をやっている。
その全部が、ばかばかしくてあったかくて、どうしようもなくおかしかった。
「あっはっは……っ、く、苦しい……久しぶりに笑った……」
「……ふふん。どうですの。ワラーの力は」
黝さんは、ハリセンを腰に当てて、それはもう得意げに胸を反らした。
「見事、朔の憂いを笑いに変えましたわ。このネタを考えるのに、今日は三時間も――」
「三時間であれなんだ……」
「なにか言いまして?」
「いえ何も」
ひとしきり笑って、涙を拭いて、僕は、息を整えた。それから、居住まいを正して、黝さんに向き直った。
「――黝さん。あのね。僕、決めました」
「……ええ」
黝さんも、ハリセンを置いて、その場に座り直した。ちゃんと、聞く姿勢だった。
「あの団地の人のこと、僕、たぶん一生忘れません。忘れちゃいけないと思う。……それで、ずっと考えてて。僕の欲望って何だろうって。やっとひとつだけ、見つかったんです」
僕は、言った。
「悪魔のせいで、あの人みたいに苦しんでる人がいるなら――僕は助けたい。もう僕は知ってしまったし、助けられるものなら、放っておきたくない。……これって、綺麗ごとかもしれないし、僕なんかに何ができるんだって話だし、それに、その、黝さんの同族と戦うってことになっちゃうかもしれないけど」
僕は、頭を下げた。
「……力を、貸してくれますか。これからも」
少しの間、返事はなかった。
顔を上げると、黝さんは――笑っていた。
営業用の微笑みでも、からかいの笑みでもなくて。ほんの少しだけ呆れて、ほんの少しだけ誇らしげな、不思議な笑い方だった。
「――言うまでもないことですわ」
彼女は、すっと右手を差し出した。
「契約に基づき、わたくしは貴方のもの。貴方の望みが定まったのなら、悪魔はそれに応えるのみ。……ようやくですわね。ようやく貴方の欲望が、産声を上げましたのよ、朔。ふふ、あの夜の見立て、間違っておりませんでしたわ。――ああ、それと」
黄金の瞳が、悪戯っぽく細まった。
「同族への義理立てなど、ご無用。わたくし、悪魔に同族意識なんてものは持ち合わせておりませんの。あるのは食欲だけですわ」
「……頼もしいような、怖いような」
僕は、差し出された手を、握った。
ひんやりと冷たくて、でも確かにそこにある手だった。
契約とか、義務とか、支払いとか。僕らの間にあるものの名前は、たぶん、それのままなんだろう。でもこの夜、握手をしたこの瞬間だけは、そういう名前じゃない何かが、確かに僕らの間にあった。
……あった、と思いたい。相手は悪魔だけど。
「さて! では朔の欲望開店祝いに、二本目のネタといきますわよ! 題して『悪魔川柳』!」
「二本目はいいです」
「あら、遠慮なさらず」
「遠慮じゃないです」
その夜伏見家からは、遅くまで、ぺちぺちというハリセンの音と、僕の突っ込む声が漏れていたという。母さんに怒られたのはいうまでもない。
六
同じ夜。
夜見中市の外れ、閉店したビジネスホテルの一室に、その男はいた。
マルコ・ヴァレンティーニは、窓際の椅子に腰掛け、街の夜景を眺めていた。テーブルの上には、冷めたエスプレッソと、開いたままの、分厚い革装のファイル。
ファイルの見出しには、古い書体でこう記されていた。
【特災甲種・筆頭 通称「名もなき古き夜」――推定活動期間:紀元前より現在】
ページの端は、何世代もの局員の手垢で黒ずんでいた。
ノックの音がした。
「開いているよ」
入ってきたのは、千々石三輪だった。制服のままの彼女は、部屋の中央で立ち止まり、直立した。
「――呼び出しに応じ、出頭しました」
「ああ、夜分にすまないね。座りたまえ。ココアでも淹れようか」
「結構です。……ご用件を」
マルコは微笑んだまま、しばらく部下の顔を眺めた。
それからファイルを、とん、と指で叩いた。
「ローマから、正式な裁可が下りた」
三輪の肩が、ぴくりと動いた。
「〈筆頭〉の件ですか」
「そうだ。……あの悪魔が契約に縛られ、力の底が塞がれている今この時は、教会の千五百年の歴史における、おそらく最初で最後の好機である――というのが、本庁の見解だ。私の見解でもある」
「ですが、卿。あの悪魔は今回の事件で、こちらに敵対する意思を見せていません。契約者の少年も――」
「三輪」
マルコの声は、穏やかなままだった。穏やかなまま、一切の反論を受け付けない響きがあった。
「君の報告書は読んだよ。実によく書けていた。少年の善良さも、悪魔の例外的な行動様式も、あますところなくね。その上での、裁可だ」
彼は立ち上がり、窓の外の、灯りの海を見た。
「……準備を始めてくれ。詳細は追って指示する。第三葬位から『聖櫃』も借り受けることになった」
「……聖櫃、まで」
「ああ。本気ということだよ、教会は」
三輪は、しばらく動かなかった。
やがて彼女は、直立のまま静かに問うた。
「――質問を、許可いただけますか」
「どうぞ」
「伏見、朔は」
感情のない、平坦な声だった。
「あの少年は、どうなるのですか」
マルコは、振り返らなかった。
夜景に映る彼の顔は、いつもと同じ穏やかな微笑のままだった。
「……全ての手順が終わったら、休暇を取りたまえ、三輪。ずいぶん働きづめだったろう」
答えはなかった――ゆえに、それが答えだった。
「――了解、しました」
千々石三輪は、一礼して部屋を出る。
廊下を歩く彼女の足音は、いつもとまったく同じ、規則正しいリズムを刻んでいた。
ただ、ポケットの中で。
彼女の指が、以前貰ったよみぬしさまのボールペンを、握り潰していたことは――誰も、知らない。




