第一話 第四章 団地には蟲が棲む
第四章 団地には蟲が棲む
一
翌朝、教室に着くなり、僕の席の前に、すっと人影が立った。
千々石さんだった。
「おはようございます、伏見くん」
「お、おはよう、ございます……」
昨夜こめかみに銃を突きつけてきた人の「おはようございます」は、なかなかに心臓に悪かった。
千々石さんは、いつもの平坦な声のまま、教科書の音読みたいな調子で言った。
「本日より、私はあなたと、あなたの契約悪魔を監視下に置きます。校内、校外を問わず。そのつもりで」
「か、監視……」
「共闘には同意しますが、信用したわけではありません。それと」
彼女の目が、僕の隣――机に頬杖をついている黝さんに、ちらりと向いた。
「あなたが契約不履行でその悪魔に捕食されそうになった場合は、私が阻止します。命に代えても」
「え……」
それは、つまり、僕を守るということだろうか。監視宣言の中に不意打ちで混ぜ込まれた一言に、僕が反応に困っていると。
「――あら、あらあらあら」
黝さんが、実に嫌な感じの微笑みを浮かべて、頬杖のまま首を傾げた。
「阻止? このわたくしから? ふふ、ふふふ。教会の犬の仔が、ずいぶんと大きな口を利きますのねえ。よろしくて、お嬢さん。わたくしと朔の契約は、貴女が生まれる数千年前から続く秩序の一部。小娘風情が割って入れるなどと、調子に乗るものではなくてよ?」
「実行可能性の話はしていません。意志の話をしています」
「まあ、言いますこと」
二人の間に、ばちばちと不可視の火花が散った。朝の平和な教室で、早速僕の胃はキリキリと痛み始めていた。
「あ、あの、二人とも、その辺で……ね? みんな見て……ないな。うん、見てない」
黝さんの催眠のおかげで、クラスメイトたちは僕らのやり取りを綺麗にスルーしていた。学校一の美少女と図書委員が睨み合うという大事件が起きているのに、教室は今日も平和だった。この平和、限りなく偽物だけど。
千々石さんは、最後に僕をじっと見て、言った。
「昼休み。屋上前の踊り場に。今後の方針を共有します」
それだけ言うと、彼女は自分の席に戻り、何事もなかったように文庫本を開いた。
黝さんが、ふん、と鼻を鳴らした。
「……生意気な仔犬ですこと」
「仲良くしてくださいよ……? 共闘、するんですから……」
二
昼休み。屋上前の踊り場は、日当たりが悪くて埃っぽいせいか、人が寄りつかない場所だった。監視だの密談だのには、なるほどうってつけだ。
階段に腰掛けて、三人での奇妙な昼食が始まった。
僕のお昼は、自作のお弁当だった。卵焼き、ウインナー、ブロッコリー、昨夜の残りの生姜焼き、白ごはんに梅干し。我ながら平凡の見本みたいな弁当である。
黝さんのお昼は、購買で買い込んだ激辛チキンだった。それも山盛り。真っ赤を通り越して黒ずんだ衣のチキンを、彼女は幸せそうにばくばくと頬張っていた。「痛みと旨味は紙一重ですのよ」とのこと。悪魔の味覚は分からない。
そして千々石さんのお昼は――銀色のパッケージの栄養ブロックが二本と、紙パックの野菜ジュースだった。
「……千々石さん、お昼、それだけ?」
「完全栄養食です。一日に必要な栄養素の三分の一が摂取できます。咀嚼回数も少なく、時間効率にも優れています」
「じ、時間効率……」
「何か問題が?」
「いや、問題っていうか……」
美味しいのかな、それ。と思ったけど、聞かないでおいた。なんとなく、「美味しさは評価基準に含まれていません」と返ってくる気がしたからだ。
でも銀色のパッケージを黙々と齧る姿を見ていたら、なんというか、その、あんまりにもあんまりだったので。
「……あの、さ。千々石さん。もしよかったら、なんだけど」
気づいたら、口が動いていた。
「僕のお弁当……分けてあげようか? 手作りで、申し訳ないけど」
栄養ブロックを齧る口が、ぴたりと止まった。
千々石さんが、僕を見た。無表情は無表情なんだけど、まばたきの回数が、明らかに増えていた。
「いや、ほ、ほら、僕、毎日自分の弁当とか作ってるからさ。結構料理とかひそかにはまってて、でも僕と母さん以外の人に食べさせたことないから、まったく他人の味の評価とか気になるというか。それにいくら栄養食といっても、さすがにそれだけじゃ栄養も偏るだろうからどうかなって……えっと……」
早口で言い訳しながら、内心で冷や汗が出てきた。あれ、これ、勢い余って変な提案しちゃったかな。ほぼ初対面みたいな女子に「お弁当あげようか」って、冷静に考えたらだいぶ距離感のおかしいやつでは。しかも相手は昨日僕に銃口を向けてた人では。
千々石さんはしばらく僕を見つめて、それからゆっくりと視線を栄養ブロックに戻した。
「……意外です」
「え?」
「監視対象に、食事の提案をされるとは、想定していませんでした。……ですが、結構です。任務対象から利益供与を受けることは、規定に反するので」
「り、利益供与……お弁当が……?」
断られてしまった。まあそうだよな、と思う反面、ちょっとしょんぼりしていると――隣から、勢いよく手が挙がった。
「はいっ! はいはいはいっ! 朔! わたくし、利益供与されたいですわ!」
「黝さんは自分の分があるでしょ、そのチキンの山」
「手作りの話をしてますのよ! わたくしの分のお弁当は!? 同居人ですのに! 毎朝あんなにいい匂いをさせておいて、わたくしにはナシって、そんな殺生がありまして!?」
「黝さん、悪魔だし、何食べても栄養関係ないんでしょ……」
「栄養の話ではありませんの! 真心の話ですわ! ずるいですわずるいですわずるいですわー!」
「ちょ、袖引っ張らないで、卵焼き落ちる、落ちるから!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐ僕らのそばで。
ふ、と。
小さく息の抜ける音が、聞こえた。
見ると、千々石さんが、口元をわずかに緩めて――笑って、いた。ほんの一瞬、それこそまばたきしたら見逃すくらいの、小さな小さな笑みだったけど。
「……あ」
僕の視線に気づくと、彼女はすぐにいつもの無表情に戻って、栄養ブロックの続きを齧った。
「……なんでもありません。続けてください、漫才を」
「漫才じゃないんだよなあ……」
三者三様の食事がしばらく進んだところで、千々石さんが、野菜ジュースのストローから口を離し、本題を切り出した。
「まず、調査状況の共有を。……結論から言うと、仕切り直しです」
「仕切り直し?」
「私たちアナテマは数週間前から、この街に残された悪魔の痕跡を追跡していました。ですが、そこの悪魔が同時期にこの街で活動していたせいで、採取していた痕跡に、標的のものと、その悪魔のものが混在していたことが判明しました。要するに追跡データの大半が汚染されていて、使い物になりません」
「あら。それはそれは、お気の毒さまですこと」
黝さんがチキンを齧りながら、まったく気の毒じゃなさそうに言った。千々石さんのこめかみが、ぴくりと動いた気がした。
「……ただし、完全な無駄骨でもありません。標的がこの夜見中市に潜伏していること自体は確定しています。今後は汚染されていない新しい痕跡を採取し、潰していくのが基本方針になります。地道な作業ですが」
「そっか……。あの、千々石さん」
「なんですか」
「その、改めてなんですけど……協力してくれてありがとうございます。心強いです」
千々石さんは、僕を見た。数秒、無言だった。
「……仕事ですから」
それだけ言って、彼女は栄養ブロックの二本目の封を切った。
「それに、監視です。念のため繰り返しますが、そちらの悪魔は教会指定の最重要監視対象です。礼を言われる関係では――」
「はいはい、監視監視。仔犬は忠実で結構ですこと」
「……」
……険悪! 険悪だなあ!
僕は慌てて話題を探した。そしてふと、昨夜から考えていたことを口にした。
「あ、あのさ。思ったんですけど。痕跡を地道に探すより、黝さんの力でばーっと索敵? みたいなことできないんですか。ほら、昨日も臭いで現場を見つけたわけだし、街全体を、こう、どーんと」
「それは」
答えたのは、意外にも千々石さんだった。
「やめておいたほうがいい」
「え?」
「……説明の権利は、契約悪魔にあると思いますが」
千々石さんがちらりと見ると、黝さんはチキンの骨を紙袋に放り、指を舐めてから、居住まいを正した。
「そうですわね。よい機会ですし、きちんとお話ししておきましょうか。――朔。悪魔の力の燃料が何か、覚えていまして?」
「えっと……欲望。契約者の、魂のエネルギー」
「ええ。そしてわたくしが今、貴方の魂から引き出せる力は、『貴方の身の危険から守る』ことに関わる分だけ。なぜなら貴方がわたくしに望んだのは、今のところそれだけだから。――ここまでも、以前お話しした通り。それでね、朔。仮に、の話ですけれど」
黝さんの黄金の瞳が、僕を見据えた。
「貴方が今ここで、『黝さん、街全体を探ってください』と、新しく願いを更新したとしましょう。わたくしは喜んで応じますわ。ですけれど、その瞬間から、代償の桁が変わりますの」
「代償の、桁……」
「大きな力の行使には、大きな欲望の供出が要る。つまり、貴方の魂をより深く、より太く、わたくしに繋ぐことになる。……そうすると、まず、わたくしのお腹が空きますわね。今よりずっと早く。お支払いの期限が、前倒しになりますの」
「……えっ」
「それだけではありませんわ。魂を深く差し出した人間は、変質しますの。欲が肥え、箍が緩み、力の味を覚える。歴代の契約者たちが辿った道は、以前お話しした通り。――そして最後に、これが一番大事なところですけれど」
黝さんは、少しだけ声を落とした。
「力を大きく振るえば、結果がどう転ぶか、わたくしにも読み切れませんの。街全体を探るということは、街全体にわたくしの力の網を被せるということ。その網が、眠っている他の何かを起こすかもしれない。標的を逆に警戒させて、市外へ逃がすかもしれない。網に掛かった無関係の人間の心が、壊れるかもしれない。……悪魔の力とは、そういうものですのよ。願いを叶える代わりに、必ずどこかで、何かを毀す」
「悪魔の力は、諸刃の剣です」
千々石さんが、静かに引き取った。
「私たちの記録では、契約者の望みが『そのままの形で』幸福に叶った事例は、ほぼ存在しません。願えば願うほど、代償は膨らむ。だから――使わないで済むなら、使わないのが最善です。それが、悪魔と契約してしまった人間にできる、唯一の自衛です」
珍しく、悪魔と悪魔ハンターの意見が一致していた。
「だからこそ朔には、一朝一夕に考えた願いではなく、きちんと自分の願いを見つけてほしいのですわ。それが貴方の魂をより輝かせ、より味わい深いものにする、一番の近道ですので。無論、朔がどうしても索敵してほしいというなら、わたくしに断る権利はありませんが」
僕は膝の上の弁当箱を見つめて、頷いた。
「……分かりました。黝さんへの願いは……最後の切り札に取っておきます。本当にどうしようもなくなるまで使いません」
「ええ、それがよろしくてよ」
黝さんは満足げに頷いて、それから、ぱん、と手を打った。
「ああ、でも、ご安心を。昨夜の現場で、獲物の臭いはしっかり覚えましたの。新しい痕跡さえ見つかれば、そこから臭いを辿ることくらいなら、今の契約の範囲内――『朔を守るための警戒』の範囲内で、いくらでもご協力できましてよ。犬の鼻より利きますわよ、わたくし」
「自分で犬って言いましたね、今」
「あら」
千々石さんが、ほんのわずかに目を細めた。笑った……のか? いや、気のせいか。表情は一ミリも動いていなかった。
と、千々石さんは野菜ジュースのパックをきっちり畳みながら、事務的な口調のまま、ふと言った。
「ところで、伏見くん。念のために確認ですが――そちらの悪魔との魂契脈は、既に通っているのですか」
「…………こんけいみゃく?」
聞いたことのない単語だった。
「なんですか、それ」
僕は隣の黝さんを見た。
黝さんは、齧りかけの激辛チキンを持ったまま、固まっていた。
「……黝さん?」
「な、なんのことかしら。存じませんわね、そんな言葉は。ええ、まったく。ほほほ」
目が泳いでいた。あからさまに泳いでいた。数千年生きた悪魔が、素人目にも分かる狼狽ぶりだった。
「え、なに。なんですか。僕に関係あることなんですよね?」
「あーっと、ですから、その、それはですわね、あの」
黝さんが珍しく顔を赤くして言い淀んだ、まさにそのとき。
キーンコーン、と予鈴が鳴った。
「――あら残念時間切れですわね! さ、教室に戻りましょう朔! 午後の授業に遅れましてよ!」
黝さんは怒涛の勢いでゴミをまとめ、僕の腕を引っ掴んで階段を降り始めた。
「ちょ、黝さん!? 話! 話が途中!」
「なんのことでしたかしら! ほらほら急いで急いで!」
引きずられながら振り返ると、踊り場に残った千々石さんが、栄養ブロックの包装を畳みながら、僕らを見ていた。
その顔は相変わらずの無表情だったけれど――ほんの少しだけ、首を傾げていた。
三
その日の放課後、僕ら三人は、さっそく最初の調査に出た。
目標は、犯人の悪魔が街に仕掛けているという「罠」だ。
「今回の悪魔の罠は、蜘蛛の巣型です」
人気のない裏道を歩きながら、千々石さんが説明してくれた。
「常時展開しているのではなく、獲物――人間や動物が縄張りに踏み込んだ時点で発動し、異空間に引きずり込んで捕食する。発動するまでは気配を殺しているので、探知は困難です。ですが、巣の本体がある以上、糸の張り場所には必ず条件があります」
「条件?」
「ええ。まず、昨夜のビルで採取した悪魔の残滓を、こうして――」
千々石さんは、鞄から銀の小さな振り子を取り出した。鎖の先に、菱形の錘。錘の中には、黒っぽい染みのついた布片が封入されていた。あの血の海から採取したものらしい。
「触媒にして、同種の魔力に感応させます。距離が近づけば、振れが大きくなる。……原始的ですが、確実です」
「わたくしは鼻で追いますわ」
黝さんが、隣で自分の鼻先をつついた。
「昨夜、たっぷり嗅ぎましたもの。あのあまったるい腐った臭い、忘れようがありませんの」
「機械と犬の二段構えってことか……」
「誰が犬ですの」
「なんでもありません」
そして、もうひとつの条件が「立地」だった。千々石さん曰く、悪魔は、人気がなく、薄暗く、じめっとした場所を好む。日当たりのいい大通りや、人の目の多い駅前には、巣は張れない。
振り子の振れと、黝さんの鼻と、立地の条件。三つを重ねて絞り込んでいくと、僕らはやがて、一本のアーケードに行き着いた。
「……ここって、夜見中銀座商店街?」
駅から少し離れた、古いアーケード商店街だった。
昔は栄えていたらしいけど、駅前に大型スーパーができてからは、すっかり客足が減ったと母さんが言っていた。アーケードの屋根は薄汚れて、ところどころ天窓が割れたまま。シャッターの下りた店が半分近く、営業中の店も、どこか眠たげだった。夕方なのに、人通りはまばらで、湿った空気がアーケードの下に、よどんで溜まっていた。
「振れが、強い。この一帯のどこかに、糸が張られています」
「臭いますわねえ。……奥のほう、ですわ」
僕らは、アーケードをゆっくりと歩いた。
豆腐屋。閉まった呉服屋。閉まったレコード店。八百屋。閉まったパチンコ屋。たまにすれ違うのは、買い物袋を提げたお年寄りばかり。
と――ふいに、隣を歩いていた千々石さんの足が、止まった。
「? どうしたの、千々石さん。反応あった?」
「……いえ」
千々石さんは、すっと視線を戻して歩き出した。……ように見えたけど、その視線が、ちら、ちらと、同じ場所に戻っているのに、僕は気づいてしまった。
視線の先には、古い文房具屋があった。
店先のワゴンに、色褪せた「ご当地フェア」ののぼり。並んでいるのは、キーホルダーやらタオルやらの、いわゆるご当地グッズだった。そのどれにも、同じキャラクターがプリントされていた。
ぬめっとした灰色の身体に、つぶらすぎる離れ目。口はへの字で、頭に小さな水草が生えている。何かの……両生類? を模したらしい、微妙に不気味で、微妙に愛嬌のある、二頭身のキャラクター。
「……なにこれ」
「ふむ。『よみぬしさま』ですわね」
黝さんが、スマホを一瞬で検索して読み上げた。
「夜見中市非公認ご当地キャラ『よみぬしさま』。矢筈川に棲むといわれる主・オオサンショウウオがモチーフ。十年前のご当地キャラブームの折に商店街振興組合が作ったものの、その微妙な見た目から人気は出ず、現在に至る――ですって。ふふ、キモ可愛いですわね」
なるほど、ワゴンの中のグッズは、どれも埃を被って、在庫が余りまくっている感じだった。
その中に、一本のボールペンがあった。ペンのお尻に、小さな「よみぬしさま」のマスコットがついている、なんてことのないご当地ボールペン。
千々石さんは、それを、じっと見ていた。
「……欲しいの?」
「いりません」
即答だった。
「必要のないものです。筆記具は支給品で足りています。装飾のついたペンは、重心が偏って実用性に欠けます。それに」
「それに?」
「…………いえ。行きましょう。調査の途中です」
千々石さんは、くるりと背を向けた。
でも、僕は見てしまった。背を向ける直前の、最後の一瞬まで、彼女の視線がボールペンの上にあったのを。
僕は意を決して、ボールペンを掴むと、店の入り口の扉をガラガラと開ける。
「え、ちょっ、伏見くん?」
珍しく驚いたような千々石さんの声を背後に、さっと店の中に入る。店番のおばあちゃんとお金のやり取りを終えると、アーケードの下で待っていた千々石さんに、それを、ずいと差し出した。
「はい。これ」
「…………」
千々石さんは、ボールペンと僕を、交互に見た。
「どうぞ。千々石さんに」
「……いらないと、言いました」
「うん、聞いた。でも、欲しそうだったから」
「〜〜。……いくらでしたか。払います」
彼女は財布を取り出そうとした。僕は、首を振った。
「いいよ。ここのおばあちゃん、在庫処分だからっていって、びっくりするくらい安くしてくれたから。気にしないで」
「ですが」
「連絡役、これからよろしくねっていう、その、挨拶代わり。……あとはまあ、昨日握手してもらえなかったぶんというか、親睦の証というか」
我ながらせこい理由を付け足すと、千々石さんは、少しの間黙った。
それから両手でそっとボールペンを受け取ると、ペン尻の「よみぬしさま」をしばらくじっと見つめて。
「……ありがとう、ございます」
小さな声で、そう言った。
相変わらずの無表情だった。でも、ボールペンを胸ポケットに、妙に丁寧な手つきでしまうのを見たら、なんだかこっちまでちょっとあたたかい気持ちになった。ほんわかとした変な間が、僕らの間に流れた。
「――あーらあらあらあら?」
その間に、ずるりと割り込んでくる悪魔がいた。
「なんですのなんですの、この甘酸っぱい空気は。朔ったら、わたくしというものがありながら、他の女にプレゼント? ふーん? へーえ? それならわたくし、キーホルダーのほうの『よみぬしさま』が欲しいですわー?」
「黝さんは自分のお小遣いで買えるでしょ……って、そういえばいつもお金ってどうやって稼いでるんです?」
「ふふん。企業秘密ですわ」
「絶対ろくでもなさそうな話だ……」
「まあまあそれはそれとして、朔や。わたくしにもなにか貢ぎ物を――」
黝さんが、僕の肩に腕を回しかけた――その手が、ぴたりと、止まった。
同時に、千々石さんの振り子が――ぶんっ、と真横に跳ね上がった。
「……っ、来ますっ!」
世界が、暗転した。
夕方のアーケードから、色が抜けた。眠たげだった店々の明かりが消え、シャッターが黒い岩肌みたいに変わり、天窓から差していた西日が、どす黒い赤に染まった。まばらにいた買い物客の姿が、掻き消える。
嗅ぎ覚えのある、じっとりと重い空気。
――罠が、発動したのだ。僕らを、獲物として。
『ヂ……ヂヂ……』
アーケードの屋根の上から。シャッターの隙間から。側溝の中から。
湧いて出てきたそれは、人の背丈ほどもある大型の蟲たちだった。カマキリに似たもの。ムカデに似たもの。羽音を立てる、蠅の化け物みたいなもの。てらてらと湿った甲殻が、赤黒い光を照り返して、アーケードの通りを、あっという間に埋め尽くしていく。
「ひっ……」
「あら、ようこそですわ」
黝さんが、僕を背に庇って、前に出た。心底楽しそうに、指をわきわきと動かしながら。
「調査開始初日で、向こうから網にかけてくださるなんて。手間が省けて助かりますわ――そこ、動かないでくださいましね、朔」
最初のカマキリが、鎌を振り上げて飛びかかってきた。
黝さんが、指先を、ひらりと振る。黝さんの影が鋭く伸び、カマキリだったものが、空中で九つに分かれた。
そこからは、もう、一方的だった。彼女が手を振るたび、蟲の壁が消し飛んだ。触れてもいないのに影が動き、潰れ、裂け、黒い靄に還っていく。彼女の周りだけ、赤黒い空間そのものが怯えて歪んでいるみたいだった。
そして、もう一方では。
ぱん、ぱぱんっ、と乾いた銃声が連続していた。
千々石さんだった。二丁の銃を手に、シャッターを蹴り、ワゴンの上を跳んで、彼女は蟲の群れの間を、風みたいに駆け抜けていた。一発も、外さない。眉間。関節。羽の付け根。急所だけを正確に撃ち抜いて、一体、また一体と、蟲を沈めていく。
「す……すごい」
僕は、ぽかんと突っ立っていた。
昨日は銃を向けられる側だったから、まともに見る余裕なんてなかったけど――こうして味方として見ると、千々石さんの動きは、ほとんど演舞みたいだった。無駄がひとつもない。怖いくらいに。
圧倒的な悪魔と、精密機械みたいな悪魔ハンター。蟲の群れは、みるみる数を減らしていった。
そして、駆除が終わりかけた、最後の最後。
僕は、見た。
残った蟲が二体。一体は、銃の弾倉を交換する千々石さんの背後に、音もなく回り込んでいた。もう一体は、僕を庇う黝さんの背後の屋根の梁に、張り付いていた。
「あぶな――」
僕が叫ぶより、早かった。
黝さんの影が、千々石さんの背後の蟲を、消し飛ばした。
千々石さんの銃弾が、黝さんの背後の蟲を、撃ち抜いた。
二つの音が重なって、最後の蟲が黒い靄になって散って――世界に、色が戻った。
眠たげな店の明かり。西日。豆腐屋のラッパの音。何事もなかったかのように、夕方のアーケードが帰ってきた。行き交うお年寄りたちは、何も気づいていない。現実世界に、僕らは帰ってきた。
沈黙の中、黝さんと千々石さんは、互いに背を向けたまま、口を開いた。
「……あら、ごめんあそばせ。狙いが逸れましたわ。わたくし、貴女の後頭部を撃ち抜くつもりでしたのに、奥の蟲に当たってしまいましたの」
「……奇遇ですね。私も照準がずれました。あなたの脊椎を狙ったはずが、その後ろの蟲に」
「ふふふ」
「……」
「「次は外しませんわ(外しません)」」
「仲良くしてくれないかなあ!?」
僕の叫びは、夕方のアーケードに、むなしく響いた。
命を助け合っておいて、この言い草である。素直にありがとうと言えば済む話なのに、どうしてこうなるのか。悪魔と悪魔ハンターの間に横たわる溝は、僕が思うよりずっと深いものらしかった。
四
罠をひとつ潰したことで、その日の調査は終わりになった。
「巣の本体は、ここにはありませんでした。あの規模の罠は、いわば末端の狩り場。本体は別の場所です。ただし、触媒の反応もこれで少し精度が上がったはずなので、明日、続きを」
というのが、千々石さんの総括だった。
帰り道。夕焼けの住宅街を、三人で歩く。
といっても、会話が弾んだかというと、全然そんなことはなく。僕が一方的に千々石さんに話しかけ、千々石さんが必要最低限の答えを返し、その僕の腕に黝さんがべったりまとわりつく、という傍から見たらだいぶ奇妙な三人組だった。
「千々石さんって、いつからその、教会に?」
「幼少期からです」
「え、そんな小さい頃から!? あ、えと、じゃあ、訓練とかも」
「受けました」
「そ、そっか……。た、大変だったんだ……ね?」
「特には」
会話が、三球で終わる。剛速球のストレートを一方的に投げられている気分だった。
「(朔ぅ、無理して話しかけなくてもよろしくてよ)」
「(連絡役なんだから、仲良くなっておくに越したことはないでしょ)」
「(むー。わたくしとの会話のほうが楽しいですわよね? ね?)」
「(引っ張らないで引っ張らないで)」
そうこうしているうちに、うちの近所の交差点まで来た。
僕はふと、気になっていたことを聞いた。
「あ、そうだ。千々石さんの家って、どっちの方角なの? こっちは僕の家の方向だけど……送るよ、とかそういうのじゃなくて、単純に、明日の集合とかの参考に」
「同じです」
「え、同じ方向なんだ。奇遇だね」
「はい」
そのときは、それで納得していた。
……角を三つ曲がっても、千々石さんはいた。
うちの前の通りに入っても、千々石さんはいた。
そして僕と黝さんが「伏見」の表札の前で立ち止まると――千々石さんも、ぴたりと、立ち止まった。
「…………あの、千々石さん? うち、ここなんだけど」
「知っています」
「し、知って……えと、千々石さんの家は?」
千々石さんは、不思議そうに――彼女にしては珍しく、本当に不思議そうに、僕を見た。
「? ……言っていませんでしたか。私も今日から、ここでお世話になります」
「「…………はい?」」
僕と黝さんの声が、綺麗に重なった。
「聞いてない聞いてない聞いてない! え、なんで!?」
「反対ですわ! 断固反対ですわ!!」
黝さんが、僕と千々石さんの間に、ばっと割って入った。
「どこの世界に、監視対象の家に住み込む監視役がいますの!? 図々しいにも程がありましてよ!」
「ここに、います」
千々石さんは、まったく動じなかった。
「私の任務は、あなたたちの監視と連絡です。監視とは、対象の近くにいることです。二十四時間態勢が理想である以上、同居が最も合理的です。それに――そこの悪魔は、既に住み込んでいると聞きました。悪魔が良くて、私が駄目な理由を、論理的に説明してください」
「うぐ……そ、それは、わたくしは契約者と悪魔という切っても切れない仲で」
「規定上、私とあなたがたも、監視対象と監視役という切っても切れない仲です」
「屁理屈ですわ!」
「お互いさまです」
「あの、あのね、二人とも」
僕は、おそるおそる手を挙げた。
「その、千々石さん。気持ちは分かった、分かったけど、うちはもう黝さんがいて、部屋のキャパ的にも限界というか……それに、その、だね。年頃の、う、うら若い女の子が、男の家に泊まるっていうのは、世間的にその、駄目というか、良くないというか」
「あら」
黝さんが、じろりと僕を見た。
「わたくしのときは、そんなこと言いませんでしたわよね? なんですの、わたくしはうら若くないから良かったんですの?」
「うら若……黝さん、数千さ――」
「言いましたわね? 言いかけましたわね今!? 年齢の話、しましたわね!?」
「すみません! すみません!」
「ご心配なく」
千々石さんは、涼しい顔で言った。
「寝泊まりは、そこの悪魔と同室で構いません。そうすれば、風紀上の問題も、監視効率の問題も、同時に解決します」
「わたくしと同室!? 聞いてませんわよ!?」
押し問答は、それから三十分続いた。デジャブだ。
そして僕は学んだ。この手の押し問答で、僕が勝てた試しは一度もない。
「……分かりました、もう。分かりましたよ……」
僕は、白旗を上げた。
「ちょうど母さん、今日は出張で、明日まで帰ってこないから。……とりあえず明日まで。それが条件。母さんに女子二人同居なんて説明、僕にはできないので」
「合理的な妥協案です。受け入れます」
かくして、千々石三輪の泊まり込みが決まり、父さんの部屋には客用布団が二組並ぶことになった。
その夜の父さんの部屋からは、「そちらに寝返りを打たないでくださいまし」「あなたの髪が越境しています」「いびきをかいたら食い殺しますわよ」「かきません。あなたこそ寝言で食べ物の名前を言わないでください」などという、世界で一番物騒で低レベルな縄張り争いが、遅くまで聞こえていた。
五
翌朝。
僕がいつも通りの時間に起きて、一階の居間に降りていくと――先客がいた。
「…………ぁ」
千々石さんがソファの上に、ちょこんと座っていた。
きっちり着替えて、髪も整っている。のだけど。
「……おはよう、千々石さん」
「……ぉはよう、ございます……」
様子がおかしかった。
語尾がふにゃふにゃだった。目は半分しか開いていなくて、視線はどこか遠くの空を泳いでいて、身体がゆら……ゆら……と、微妙に前後に揺れている。座ったまま、寝てる? いや、起きてる。起きてるけど、限りなく寝てるに近い何かだった。
「……もしかして、朝弱い?」
「……よわく、ないです……。教会の朝課は、五時半から……でした、ので……訓練されて、います……」
「その割には、今にも沈没しそうだけど……」
「……ふね……?」
駄目だ。会話が溶けてる。
あの精密機械みたいな悪魔ハンターの、あまりに意外な姿だった。ぽわぽわと揺れる彼女は、なんというか、日なたに置かれた猫みたいで、思わず口元が緩んでしまう。
僕は台所に立って、やかんを火にかけた。それから少し考えて、母さんの棚からコーヒーの粉を出した。
「千々石さん、コーヒー飲める? インスタントだけど」
「……ぉ気遣いは、無用、です……」
「はいどうぞ」
「……いただきます……」
遠慮は三秒で陥落した。なんとなく彼女との付き合い方も少し分かってきた気がする。
千々石さんはマグカップを両手で包むように持って、ふー、ふー、と冷ましながら、こくり、こくりと飲み始めた。一口飲むごとに、目の開き具合が少しずつ戻っていく。
僕はその間に、朝食の支度を始めた。冷蔵庫の中身と相談して、ごはんを炊いて、豆腐とわかめの味噌汁、卵焼き、あとはほうれん草の煮浸し。いつもの、うちの朝ごはんだ。
ふと視線を感じて振り返ると、千々石さんがマグカップを持ったまま、じーっとこちらを見ていた。
「……な、なに?」
「……いえ。手際がいいなと」
「あー……母さん、朝早くて忙しいから。僕がやったほうが早くて。もう慣れ」
「そうですか」
それきり会話は途切れた。
でも嫌な沈黙じゃなかった。味噌汁の煮える音と、まな板の音と、コーヒーをすする小さな音だけの、静かな時間が流れる。窓の外で、雀がちゅんちゅんと鳴いているのが聞こえた。
できあがった朝食を、二人分、食卓に並べる。黝さんはまだ寝ている。悪魔のくせに――いや、悪魔だからなのか、彼女も朝にはとことん弱いのだ。
「どうぞ。お口に合うか分かんないけど」
「……いただき、ます」
千々石さんは、律儀に両手を合わせてから箸を取った。
味噌汁を一口飲んで、ぴた、と止まる。それから卵焼きをひと切れ食べてまた、ぴた、と止まる。
「……ど、どう?」
「………………完全栄養食ではない、ですが」
彼女は少し考えてから言った。
「……あたたかい、です」
「そう。よかった」
味の感想としては変化球だったけど、なんとなく、彼女なりの最上級な褒め方のような気がした。
誰かと差し向かいで朝ごはんを食べるのは、考えてみれば、ずいぶん久しぶりだった。母さんは朝が戦争だから、いつも立ったままトースト一枚で飛び出していくし、黝さんは朝食を基本食べない。
静かな食卓で、千々石さんが、ぽつりと口を開いた。
「本日の予定を、共有します。今日は休日なので、終日調査に充てられます。触媒の反応を頼りに、市内をしらみつぶしに。昼からは街外れの矢筈川沿いを重点的に」
「うん、分かった」
用件を言い終わると、食卓はまた沈黙に戻った。
みそ汁。ごはん。卵焼き。雀の声。その沈黙の底から、ふいに。
「……なぜ、伏見くんは」
千々石さんが、箸を置いて言った。
「あの悪魔と、契約したのですか」
僕は少し驚いて顔を上げた。
彼女はまっすぐに僕を見ていた。尋問の目つきじゃなかった。ただ純粋に、分からないものを見る目だった。
「……成り行き、かなあ」
僕は、正直に答えた。
それからぽつぽつと経緯を話した。忘れ物を取りに戻って、見てはいけないものを見てしまったこと。次の日、クラスメイトが最初からいなかったことになっていたこと。帰り道で異界の罠に迷い込んで、死にかけたこと。契約しなければ三日ももたないと言われたこと。怖くて怖くて、でも他に道がなくて、頷いたこと。
「……カッコいい理由なんて、何にもないんだ。生き延びるためにそれしかなかったから、契約した。ただそれだけ」
「……そう、ですか」
千々石さんは、静かに頷いた。責める色も、蔑む色も、そこにはなかった。
だから、つい、聞いてしまったんだと思う。
「……あのさ。逆に聞いていい?」
「どうぞ」
「千々石さんは、どうしてこの仕事をしてるの?」
彼女の箸が、止まった。
「僕らと同い年、だよね。普通なら学校行って、部活やって、テストの点で一喜一憂して……そういう年齢で、どうして、銃を持って悪魔と戦ってるの? 昨日の商店街でも思ったけど、あんなの、一朝一夕でできる動きじゃないよね。ずっと小さい頃から、その、そういう生活だったってこと……?」
言ってから、慌てて付け足した。
「あ、いや、ごめん。答えにくいことなら、全然、答えなくていいから。ただの好奇心なので……!」
千々石さんは、しばらく、黙っていた。
マグカップの中の、冷めかけたコーヒーを見つめて。
やがて、彼女は、言った。
「……私には、それしかないからです」
「…………え?」
「他の理由はありません」
それだけだった。
それしかない――その言葉の意味を、僕は測りかねた。使命感、というのとも違う。誇り、とも違う。もっとこう……乾いた、がらんとした響きだった。まるで他の何かがあった場所が、空っぽになっているみたいな。
聞き返していいのか分からなかった。僕が言葉を探しているうちに、千々石さんはすっと立ち上がった。
「……少々、失礼します」
彼女は居間を出ていき、二階に上がってすぐに戻ってきた。
その手には、細長い布包みがあった。
「伏見くん。これを」
差し出されて、僕は受け取った。ずしりと、見た目より重かった。布を開くと、中から出てきたのは――一振りの短刀だった。黒い鞘に飾り気のない柄。鯉口のところに小さな銀の聖印が嵌め込まれている。
「……えっ、か、刀!?」
「懐刀です。教会の聖別を受けた、魔を祓う守り刀。低級の魔程度なら、これで斬れます。高位の魔にも、多少の傷は通ります」
「い、いやいやいや、こんな大事なものもらえないよ! だいたい銃刀法……は、今更か……。で、でも、千々石さんの武器でしょ?」
「私の得物は基本的に銃です。それは予備の予備。私にはあまり必要のないものです」
千々石さんは、淡々と言った。
「あなたは今後も、悪魔の事件に関わるのでしょう。なのに、あなたには自衛の手段がひとつもない。あの悪魔がいくら強くても、その守りからこぼれる瞬間が、いつか必ず来ます。そのときの保険です。……いざという時の、護身用に持っていてください」
「でも……」
「それと」
彼女は、少しだけ、視線を斜めに逸らした。
「……朝食と、ボールペンの礼です。貰いっぱなしは、主義に反するので」
そう言われてしまったら、もう、突き返せなかった。
ボールペン一本と朝食で、律儀に守り刀を返してくる。彼女の中の等価交換、だいぶレートがおかしい。……でも、彼女なりの精一杯の「お返し」なんだということだけは、痛いくらい伝わってきた。親切心を無下にできない性分は、お互い様だった。
「……ありがとう。大事にする」
僕が懐刀を受け取ると、千々石さんは、こくりと頷いた。
――どたどたどたっ!
そのとき、階段から、盛大な足音が降ってきた。
「さぁーーーくぅーーー! いい匂いがしますわーー! 朝ごはん! わたくしの朝ごはんはどこですのーー!?」
寝癖を爆発させた黝さんが、居間に雪崩れ込んできた。そして食卓の光景――僕と千々石さんが差し向かいで朝食を食べていた形跡――を見るなり、目を三角にした。
「ちょっ、ずるいですわ!? なんですのこの、朝の爽やかな空気は!? わたくし抜きで!? 卵焼き! わたくしの卵焼きは!?」
「あるから。焼くから。座ってください」
「小娘! 貴女、昨日の夜『先に寝たほうが負け』と言っておきながら、自分だけ早起きして抜け駆けとは、どういう了見ですの!?」
「言っていません。捏造です。あと、いびき、かいていましたよ。あなた」
「かいてませんわ!!」
食卓は、一瞬で、いつもの騒がしさになった。
僕は卵焼きを追加で焼きながら、さっきの千々石さんの言葉を、頭の中で、もう一回だけ転がした。
――私には、それしかないからです。
その「それしか」の向こうに何があるのかを、僕はまだ、知らない。
聞ける日が来るのかどうかも、分からない。
ただ、ポケットの中の懐刀の重みだけが、彼女が確かに僕に何かを預けてくれたことを、静かに教えていた。
幕間2 ふつうの夢
夢が、あった。
わらわないでね。
わたしの夢はね、ふつうになることだった。
ふつうの家。ふつうのごはん。あったかいおふろ。やさしい人と、けっこんして。子どもがうまれて。ちいさくていいから、庭のあるおうちで。夕方になったら、カレーをつくるの。おかえりーって言うの。ばたばたって足音がして、テレビの音がして、笑い声がして。
こんどは、わたしが、壁のこっちがわになるの。
しあわせのにおいの、こっちがわに。
それだけ。それだけだったの。
アイドルになりたいとか、お金持ちになりたいとか、そんなのじゃなくて。みんなが「ふつう」って呼んで、あきれた顔でため息ついてるあれが、わたしは、ほしかった。
テストの裏に、将来の夢、って書く欄があって。
わたしはいつも「おかあさん」って書いた。
先生は、いいゆめだね、って言った。
わたしのお母さんとは、ぜんぜんちがう「おかあさん」のことだって、先生は気づかなかった。
それは――中学二年の冬だった。
お母さんが、わたしの部屋に来て、めずらしくやさしい声で言った。
――紗栄子、おしごと、してみない?
つれていかれたマンションに、しらない男の人がいた。金色の時計をした、わかい男の人。お母さんは封筒をうけとって、じゃあね、って帰っていった。
じゃあね、って。
そのあとのことは、あんまりおぼえていない。おぼえていないことにしている。ただひとつだけ、どうしてもわすれられないことがある。
男の人は、とちゅうで、コンビニの袋からからあげを出して、わたしに投げたの。
床に、ころがったからあげ。
――ほら、くえよ。犬みたいにさぁ。
男の人は、わらってた。げらげら、げらげら、わらってた。
床のからあげを見つめながら、わたしのなかで、なにかが、ぷつん、って切れた。
ながいながい間、いっしょうけんめい、気づかないふりをしてきたなにかが。声にださないようにしてきた「たすけて」が。こなごなに、こわれた。
ああ、そっか。
わたし、にんげんじゃなかったんだ。
だれもわたしを、にんげんだっておもってなかったんだ。
おなかのおくが、かっと熱くなって、あたまのなかが、まっしろになって。
そのとき。
ずっと聞こえないふりをしてきた、あの羽音が――はっきりとことばになった。
『――かわいそうに』
はねの音。たくさんの、たくさんの、ちいさなちいさな声のかさなり。
『おまえのねがい、きこえていたよ。ずっとずっと、きこえていたよ』
『ふえたいのだね。みたされたいのだね。かぞくが、ほしいのだね』
『われらとおなじだ。われらのねがいと、おなじだ』
『けいやくしよう。ちいさなおんなのこ』
『おまえのねがい、かなえてやろう』
それはたぶん、わるいものの声だった。
わかってた。ちゃんとわかってたの。だって、その声はカレーのにおいじゃなくて、もっとあまくて、くさった果物みたいなにおいがしたから。
でもね。
十四年間で、わたしのねがいをきいてくれたのは。
わたしに「かわいそうに」って言ってくれたのは。
かみさまでも、にんげんでもなくて。
そいつだけ、だったの。
――うん。
わたしは、こたえた。
――いいよ。あげる。ぜんぶあげる。
――だから、ちょうだい。
――わたしの、かぞく。
……それからのことは、ゆめのなかのできごとみたい。
金色の時計の男は、たべた。おいしくなかった。
お母さんは、たべた。なんのあじも、しなかった。
団地のひとたちも、すこしずつ、たべた。わたしのこと、ずっと見て見ぬふりしてきたひとたち。壁のむこうで、しあわせのにおいをさせてたひとたち。みんな、みんな、わたしの「かぞく」のごはんになる。
からだのなかで、羽音がする。ざわざわ、ざわざわ。あたたかい。わたしのなかに、いま、なんまんの子どもたちがいるの。わたし、もうひとりじゃないの。
ねえ、見て。
わたし、おかあさんに、なれたよ。
からだが、かるくなっていく。ゆびのさきが、とおくなっていく。目がよく見えなくなって、じぶんの名前も、ときどき、わからなくなる。でもいいの。それでいいの。どうせ、いらなかったものだから。
さいごにひとつだけ、おしえてあげる。
しあわせって、においがするんだよ。
いまのわたしは、なんのにおいも、しないの。
だからきっと、これで。
これでやっと、わたし――。
六
昼下がり。僕ら三人は、市の西の外れを流れる矢筈川の河川敷に来ていた。
午前中いっぱい、触媒の振り子を頼りに市内を歩き回った結果、反応がいちばん強かったのが、この川沿い一帯だったのだ。休日の河川敷はジョギングする人や犬の散歩の人がぽつぽついる程度で、平和そのものに見えた。
「……ここから下流二百メートルの範囲です。何かが、ここで喰われた」
千々石さんは、小さな銀のコンパスみたいな道具を手に、草むらを丹念に調べ始めた。魔力の残滓を測る道具らしい。僕も見よう見まねで、草の間を覗いて回った。何を探せばいいのかは、正直よく分かっていなかったけど。
で、その間我らが大悪魔閣下はというと。
「朔ーっ! 見てくださいまし! 大物ですわ!」
川に、いた。
靴と靴下を脱いで、スカートの裾を摘んで、じゃぶじゃぶと浅瀬に入り、石をひっくり返して沢ガニを捕まえていた。
「ほら! この鋏の立派なこと! これで五匹目ですわ!」
「なにやってるんですか!? 調査! 調査ですよ今!」
「調査は仔犬ちゃんが得意そうですもの。適材適所ですわ」
「屁理屈だ……」
千々石さんは、騒ぐ悪魔を完全に無視して黙々と計測を続けていた。プロだった。やがて彼女は立ち上がり、小さく首を振った。
「……だめですね。残り香がわずかにあるだけです。ほとんど霧散していて、方向も辿れない。検知が半日遅かった」
「そっか……。また振り出し……」
と、そのときだった。
ばりっ。ぼりっ。
嫌な音に振り返ると、川から上がってきた黝さんが、捕まえた沢ガニを、殻ごと生でぼりぼりと囓っていた。
「ちょっ、それ生……! お腹壊しますよ!」
「わたくし悪魔ですのよ? この程度のことでいちいち腹を壊したりしませんわ。ん、意外といけますわね、これ」
「どういう味覚しているんですか……」
以前から薄々感じてはいたのだけど、彼女の食い意地の張り方は並大抵のものじゃなかった。
「――あら?」
カニの甲羅をばりぼりと貪る最中――黝さんの動きがぴたりと止まった。
彼女は口の中のものをゆっくりと咀嚼し、目を閉じ、それから、ぺっ、と殻を吐き出した。
「――当たり、ですわ」
「え?」
「このカニ、喰ってますわね。『あれ』の食べ残しを」
黝さんの声から、遊びの色が消えていた。千々石さんが素早く近寄る。
「どういうことですか」
「この川で誰かが……おそらく野良犬か、あるいは人が、喰われましたの。連中の食事は例によって雑ですから、微細な残滓が川底に沈んで、それをこの子らが啄んでいた。カニの腹の中で、残滓はまだ生きて――ああ、ええ、この感じ。間違いありませんわ。昨夜のビルと同じ臭い。蟲どもの臭いですわ」
「まさか……そんなことで当たりを引くなんて」
「ふふん。わたくしがただカニを取って食べていただけと思いまして?」
いや、絶対に取って食べていただけですよね――そう思ったが、面倒なことになりたくないので僕は口にはしなかった。
「なんにしろ、お手柄です。それで、残滓の行方は分かりますか」
千々石さんが黝さんに質問する。黝さんは目を閉じたまま、ゆっくりと首を巡らせた。何かの糸を手繰るように、顎の先が、川の上流へ、それから対岸へと動いていく。
「澱みが、流れの上へ、上へ……糸のように、細く、細く……。――あちら」
彼女の目が、開いた。
白い指が、まっすぐに、対岸の一点を指していた。
太陽を背にして、川沿いの土手の向こうに、灰色の大きな建物の群れが立っている。同じ形の四角い棟が何棟も並ぶ、古い大きな団地だった。
「あの団地の、どれか。……なんとなく、ですけれど。あそこ、ですわ」
「なんとなく」
千々石さんが、じとりと聞き返した。
「あら。犬の鼻より利くと申し上げましたでしょ。それとも仔犬ちゃんの機械は、もっと詳しく教えてくださるのかしら?」
「……いえ。現状、唯一の手がかりです。行きましょう」
千々石さんはコンパスをしまい、僕を見た。
「伏見くんは、ここで帰宅しても構いませんが」
「い……行きます」
僕は言った。声が少し震えたのは、勘弁してほしい。
「僕も、行きます。連れてってください」
あの空きビルの光景が、頭をよぎっていた。片方だけのスニーカー。潰れた眼鏡。あれを増やさないために、僕はここにいるんだ。
橋を渡りながら見上げた団地は、逆光の中で、巨大な墓標の群れみたいに黒く沈んでいた。
七
「矢筈川団地」と、錆びた銘板にあった。
敷地に一歩入った瞬間、僕は思った。――静かすぎる。
夕方に差し掛かる4時半。休日の団地といえば、夕飯の匂いと、子どもの声と、自転車のベルと、そういうものの時間のはずだ。なのに、ここには何もなかった。人っ子一人歩いていない。物干し竿に洗濯物だけが、忘れられたようにぶら下がっている。どこかの部屋のテレビの音すらしない。
掲示板に、色褪せた貼り紙があった。
『矢筈川団地は再来年三月をもって閉鎖・解体となります。住民の皆様は期日までに転居の手続きを――』
「取り壊し予定、ですか」
千々石さんが呟いた。
「住民の退去が進んでいる。人が減り、目が減り、関心が減る。……悪魔が巣を作るには、理想的な環境です」
じっとりと、空気が重かった。湿度とは違う重さだった。息を吸うたびに、肺の底に汚泥が溜まっていくような――嫌な感じ。
「……ねえこれ、僕の気のせいですか。なんか空気が」
「気のせいではありません」
千々石さんは足を止めず、周囲の棟を見回した。
「敷地全体が、薄い瘴気で覆われています。住民の生気を長期間かけて、少しずつ啜っている。ここまで馴染んだ瘴気は、一朝一夕には作れません。……この巣は、できてから最低でも数ヶ月」
彼女はそこで、初めて足を止めた。
「――本命を、当てたかもしれません」
ひゅ、と僕の喉が鳴った。
「ほ、本命って、つまり、犯人の……大元の巣ってことですか。えと、じゃあ、その、一回引き返して、マルコさんとか、応援を呼んでから……」
「逃げられたら、元も子もありません」
千々石さんは即答した。そして、背負っていたスクールバッグを地面に下ろし、開けた。
中から出てきたのは、教科書でもお弁当でもなかった。黒光りする二丁の自動拳銃。予備の弾倉。小瓶に入った透明な液体。銀の小さな杭のようなもの。彼女はそれらを、慣れた手つきで、制服の下やスカートのホルスターに、次々と装着していった。
「巣の主が在宅なら、今日この場で仕留めます。私はそのための戦闘要員です。……そこの悪魔。標的の位置は分かりますか」
黝さんは、さっきから、ずっと黙っていた。
鼻先に皺を寄せ、眉をひそめて、まるで生ゴミの山でも前にしたような、露骨に不快そうな顔をしていた。
「……ええ、分かりますわよ、分かりますとも。ああ嫌ですわねえ、この臭い。本っ当に好きになれませんの。飢えと詰め込みすぎが同居した、虫けらの臭い。……あそこですわ」
彼女が指したのは、敷地の一番奥の棟だった。三号棟。他と同じ、灰色の五階建て。その三階の一番端の部屋。
「あの一室から、ひときわ濃い臭いが漏れておりますわ。巣の心臓部……大元の契約者は、おそらくあそこに」
僕らは三号棟に向かった。
外階段を一段ずつ上る。錆びた鉄骨が、ぎ、ぎ、と鳴った。三階の外廊下は、切れかけた蛍光灯がじじ、じじ、と明滅していて、並んだ鉄扉のほとんどに「転居済」の紙が貼られていた。
一番端の部屋。三〇五号室。
表札は、外されていた。ただ、長年貼られていたテープの跡だけが、四角く残っていた。ドアの隙間という隙間に、内側から黒いテープのようなものがびっしりと目張りされていた。よく見るとそれはテープではなく――何かの、樹脂のような、繭のような。
心臓が嫌な速さで打っていた。
千々石さんが僕らを目で制し、彼女が先頭に立った。千々石さんはドアノブへ手を――伸ばしかけた。
「――あらぁ、あんたたち」
背後から、突然、声をかけられた。
僕は飛び上がりそうになって振り返った。
外廊下の反対側、三〇三号室の前に、エプロン姿の、ふくよかなおばさんが立っていた。買い物袋を提げて、人の好さそうな笑顔で、こちらを見ていた。
「そこのお宅に、ご用? 永洞さんとこ、もうずーっと、誰も出てこないわよぉ」
「あ、えと、僕ら、その」
僕は反射的に、言い訳を探した。怪しまれてる。そりゃそうだ、こんな時間に高校生が三人、他人の家のドアの前にいたら。ちゃんと説明しないと。学校の……そう、課題の調べものとかで――。
僕がおばさんのほうへ一歩、踏み出しかけた――その瞬間。
ぐん、と首根っこを後ろに引かれた。黝さんの手が、僕の襟を鷲掴みにしていた。
「え、ちょ――」
ぱんっ、ぱんっ、ぱぱぱんっ!
銃声が、外廊下に轟いた。
千々石さんが、二丁の銃を構えていた。銃口の先で、おばさんの胸に、腹に、額に、次々と穴が開いた。
「な――」
僕は悲鳴を上げた。上げようとした。
「み、千々石さん!? なんてことを――」
言いかけた僕の声は、途中で干上がった。
穴の開いたおばさんが、倒れなかったからだ。
おばさんは、笑顔のまま立っていた。穴からは、血が一滴も流れていなかった。代わりに――もぞもぞと。穴の縁が、内側から蠢いていた。
「あらぁ」
おばさんの口から、声がした。でもそれは、もう人間の声じゃなかった。何百枚もの薄い羽根を擦り合わせたような、ざらざらした音の集合だった。
「ばれちゃったぁ」
おばさんの身体が服の下で、ぼこ、ぼこり、と膨み始める。風船みたいに、倍に、三倍に。エプロンの縫い目が弾け、皮膚だったものが乾いた紙のように裂けて――。
中から、溢れ出した。
蛆だった。人の腕ほどもある、乳白色の巨大な蛆虫の群れ。何十匹、何百匹。それが床に雪崩れ落ち、廊下の壁を、天井を伝って、いっせいにこちらへ殺到してきた。
「ひ……っ」
「――《恩寵の壁》!」
千々石さんが小瓶の液体――聖水を、廊下に振り撒いた。飛沫が触れた床に、淡い光の線が走り、僕らを囲む半円の壁になった。殺到した蛆の第一波が、光の壁に触れて、じゅっ、と音を立てて弾け飛ぶ。
「結界です! 中から出ないで!」
千々石さんが叫んだ。彼女が叫ぶのを、僕は初めて聞いた。
黝さんは、いつの間にか僕の真後ろに立っていた。僕を背中から抱え込むような位置で、周囲全体に、油断なく目を配っている。
「朔。動かないでくださいましね。――ああ、それにしても」
彼女は、心底うんざりした声で言った。
「だから嫌いですのよ、蟲は。品がなくて」
団地のあちこちで、窓ガラスの割れる音がした。
見れば、三号棟の窓という窓から、ドアの隙間から、換気口から、郵便受けから――白いもの、黒いもの、羽のあるもの、ないもの、大小無数の蟲たちが、泡のように噴き出していた。
夕暮れの団地に、羽音が満ちた。
空が――翳る。蟲の群れが、雲みたいに、頭上を覆っていた。その数は、以前アーケードで遭遇した蟲とは、到底比べ物にならないほどだった。
「……巣の主、ご在宅みたいですね」
千々石さんが、二丁の銃に新しい弾倉を叩き込みながら、平坦な声で言った。
「歓迎されています、私たち」
八
濁流が――来た。
波、としか言いようがなかった。廊下の両側から、天井から、外の空から。無数の蟲がひとつの生き物みたいにうねって、千々石さんの張った光の壁に、際限なく叩きつけられた。
じゅっ、じゅじゅっ、と蟲が弾ける音が続く。一匹弾けるたびに、十匹が押し寄せる。光の壁の輝きが、目に見えて薄くなっていくのが分かった。
「……っ、押されて、います」
千々石さんの額に、汗が滲んでいた。彼女は結界を維持しながら、壁の薄い箇所に銃弾を撃ち込んで穴を塞いでいたが、どう見てもじり貧だった。
「く、黝さん!」
僕は振り返って叫んだ。
「お願いします、力を貸してください! このままじゃ千々石さんが……三人とも、やられる!」
「お断りしますわ」
黝さんは、僕を背に庇ったまま、あっさりと言った。
「わたくしの契約は『朔を守ること』。そこの仔犬を助ける義理は、契約のどこにもございませんの。朔一人を抱えて離脱するだけなら、今すぐにでもできましてよ」
「そんな……!」
「私も、お断りします」
驚いたことに、千々石さんまでもが言った。結界を維持したまま、振り向きもせずに。
「悪魔の助力を受けるくらいなら、ここで死んだほうがましです」
「なんで!? こんなときに、二人ともなんでそうなの!?」
悪魔は契約至上主義で、悪魔ハンターは悪魔嫌い。理屈は分かる。分かるけど、今この瞬間に言うことか!?
光の壁が、悲鳴みたいな音を立てて軋んだ。ひび割れた箇所から、羽虫が数匹、中に入り込んでくる。千々石さんが舌打ちして撃ち落とす。もう保って一分、いや、三十秒――。
考えろ。
僕は、必死で頭を回した。ビビってる場合じゃない。逃げ場は。突破口は。何か、何かないか。
――見ろ。よく見ろ、僕。
蟲の濁流。一見、四方八方から無尽蔵に湧いているように見える。でも。
(……違う)
湧き出している場所は、決まっていた。部屋、だ。窓、ドア、換気口。蟲はぜんぶ「部屋」から出てきている。廊下と、階段と――そして棟と棟の間の、吹き抜けの中庭。あそこには部屋がない。あそこだけ、蟲の密度が薄い。
そして、僕らがいるのは三階の外廊下。目の前の手すりの向こうは、その中庭だ。
高さ、三階。約八メートル。飛び降りたら、普通は無事じゃ済まない。
――でも、僕には。
「……ごめん、千々石さん!」
「え――」
僕は、結界を維持している千々石さんの胴を、後ろから両腕で抱えた。
そして、そのまま、手すりを越えて。
中庭の空中へ、身を投げた。
結界が消える。羽音が爆発する。夕暮れの空と、迫り上がってくる地面。千々石さんの目が、初めて大きく見開かれるのがスローモーションで見えた。
「――――さぁぁぁくぅぅぅ!?!?」
背後で、黝さんの絶叫が聞こえた。
次の瞬間、黒い影が流星みたいに落ちてきて、僕と千々石さんの身体を、ふわり、と抱き留めた。落下の衝撃は、来なかった。気づけば僕らは中庭の芝生の上に、三人まとめて、もつれるように着地していた。
「〜〜〜〜このっ、大馬鹿者ぉっ!!」
着地するなり、黝さんが僕の胸ぐらを掴みグラグラと揺さぶった。彼女の顔は、怒りで真っ赤だった。……いや、よく見たらもう半分は青ざめていた。
「なにを考えてますの!? 死ぬところでしたのよ!? 貴方、自分が羽根の生えた生き物とでも思って――」
「お、思ってないです! でも、確信はあったから!」
「確信!?」
「黝さんは、僕を守らなきゃいけない! 契約で、絶対に! だから――僕が千々石さんを抱えて落ちれば、黝さんは僕ごと千々石さんを助けるしかない!」
黝さんの動きが止まった。
「千々石さんを助ける義理はなくても、僕を助ける義務はある! だったら、まとめてひとつの荷物になっちゃえばいいって……そ、そう思って……」
言いながら、だんだん声が小さくなった。黝さんの目が、据わっていくのが分かったからだ。
「……ほほう。つまり朔は、この数千年生きた大悪魔の契約を、逆手に取ったと。利用したと。そう仰るのね?」
「す、すみません……でも、他に思いつかなくて……」
「…………ふ」
黝さんは、俯いた。肩が震えていた。怒りの震えかと思って身構えたら――違った。
「ふ、ふふ、あーっはっはっはっは!」
彼女は、堪えきれずに噴き出していた。
「悪魔の契約の穴を突いて悪魔を顎で使う人間! あーはっはっは! いい! いいですわよ朔、そういうの、大好きですわ! ああもう、ほんっとうに、貴方って子は!」
「わ、笑うとこですか、そこ」
「笑うところですわよ! この百年で一番笑いましたわ!」
その隣で、千々石さんがもそりと身を起こした。彼女は自分の身体と、僕と、三階の廊下を順に見て、それからぽつりと言った。
「……非合理の塊のような作戦です。私の同僚が同じことをしたら始末書ものです」
「で、ですよね……すみません……」
「ですが」
千々石さんは、既に新しい聖水の小瓶を取り出しながら、言った。
「結果として、盤面は改善されました。……礼を、言います」
え、と僕が聞き返す前に、彼女は立ち上がり、周囲に聖水を撒いた。さっきより濃く、二重に。淡い光のドームが、中庭の一角に僕ら三人を包み込んだ。
直後、蟲の濁流が、中庭に流れ込んできた。
でも――さっきまでとは、明らかに勢いが違った。部屋から遠い中庭では、蟲の補充が追いつかないのだ。光のドームは、降り注ぐ蟲を弾きながら、今度はびくともしなかった。
「もって、五分――いえ、この密度なら十分は稼げます。その間に、決めます」
千々石さんは、銃を構え直しながら、早口で言った。
「いいですか。この手の群体型の悪魔には、必ず『核』がいます。群れ全体を制御する、中枢の個体。それを潰せば、残りはただの烏合の衆――制御を失って、瓦解します」
「か、核……でも、この何万匹の中から、どうやって」
「探すのは、あなたです。伏見くん」
「……はい?」
僕は、自分の顔を指さした。
「僕? 僕ですか!? いやいやいや、無理ですよ! 僕、視力だって普通だし、魔力とか探知とか、そういうの何にも――」
「いえ、可能です」
千々石さんは、銃に弾倉を叩き込みながら、早口で続けた。
「核は群れの中に紛れ、常に位置を変えて擬態しています。私の目でも、触媒でも、追い切れない。ですが、魂契脈の通った契約者なら、視えるはずです。悪魔の力の流れ、その結び目が。契約者はそういうことが出来ると、以前教わったことがあります」
「こ、魂契脈……? あ!」
こんけいみゃく。
昨日の昼休み――千々石さんに問われて、黝さんがはぐらかしたあの単語だった。
僕は、勢いよく黝さんに振り返った。
「黝さん! あれ! 結局なんなんですか、こんけいみゃくって!」
「〜〜〜〜っ」
黝さんは、目に見えて狼狽した。あの黝さんが、蟲の大群を前にしたときより、よっぽど追い詰められた顔をしていた。
「そ、その話は、また今度ゆっくり」
「今度なんてないかもしれないでしょ、この状況! 教えてください!」
「あの、ですわね、それは、その……い、言いづらいことも、世の中には」
「黝さん!」
僕が強く言うと、黝さんは、うぐ、と喉を詰まらせ、観念したように、ぼそぼそと説明を始めた。
「……以前、説明しましたでしょう。契約した悪魔と契約者は、魂が繋がっていると。その繋がりを通して、貴方の欲望のエネルギーが、わたくしに流れ込むと」
「はい」
「あれは……実は、半分ですの」
「半分?」
「本来の契約の繋がりは、双方向ですのよ。契約者から悪魔へ、欲望が流れ。悪魔から契約者へ――悪魔の力の一部が、流れますの。契約者は悪魔の目で視て、悪魔の脚で走り、悪魔の力の欠片を、己の身で振るえるようになる。それが完全に開通した状態を、魂契脈と呼びますの。……ちなみに契約者本人が力を使う分には、契約の更新も代償の上乗せも要りませんわ。元から契約に含まれている、いわば標準装備ですもの」
「なにそれ聞いてない!? めちゃくちゃ大事なことじゃないですか! なんで黙って……」
「だってぇ!」
黝さんは、真っ赤な顔で叫んだ。
「開通には、け、契約者と悪魔の……キスが、必要なんですのよ!!」
「…………は?」
「ですから! く、口づけですわよ! チューですわチュー! 魂の経路は口を通じて繋がりますの! 太古からの決まりですの! わたくしが決めたのではありませんわよ!? 文句なら契約の理を作った神にでも仰い!」
沈黙が、落ちた。
光のドームに、蟲がぼたぼたと当たって弾ける音だけが、響いていた。
「……き、キス……」
「そうですわよ……」
「僕と、黝さんが……」
「そうですわよ……!」
黝さんは、耳まで真っ赤にして、そっぽを向いた。数千年生きた悪魔が、膝を抱えるようにしゃがみ込んで、ぐずぐずと拗ねていた。
「……昼間、仔犬に聞かれて誤魔化したのも、それが理由ですの。だ、だって、しょうがないでしょう!? いまさら『力を使うにはキスが必要です』なんて、真顔で言えまして!?」
「いやいやいや、だって黝さん、僕に裸を見せつけてきたり、煽ってきたりしてたじゃないですか! キスごときで何言ってるんですか!」
「それとこれとでは完全に話は別ですわ! 魂契脈のキスは、ただ唇を重ね合わせるだけの話ではありませんのよ⁉ 魂と魂の相互的な交わり――互いの底の部分までさらけ出しあう行為ですわ!」
「ええ……」
「無論わたくしとてこちとら数千年、契約者とは何度か魂契脈の契りを交わすこともございました。ただしそれはあくまで事務的な関係! それがなんですの、朔ときたら、家に上げてくれて、ご飯を作ってくれて、デートに付き合ってくれて、庇ってくれて……い、いまさら、そんな……は、恥ずかしいに、決まってるでしょう……!」
「……黝さんの基準が分からない」
つまりそれはあれか。女優がドラマとかで濡れ場を演じるのは大丈夫でも、実際に恋愛関係でそういう場面になると恥ずかしいとかそういうことなんだろうか。悪魔の感覚は僕にはつかめない。
「議論の途中で恐縮ですが」
千々石さんの、地を這うような声がした。
見れば、光のドームの表面に、細かいひびが走り始めていた。ドームの外は、もう空も見えないほどの蟲、蟲、蟲だった。
「結界の残り時間、およそ四分です。手段があるなら、実行してください。今すぐ」
「〜〜〜っ、ですから、心の準備というものが」
「三分五十秒。三分四十九秒」
「秒読みしないでくださいまし!?」
僕は――覚悟を、決めた。
しゃがみ込んでいる黝さんの前に膝をつき、彼女の両肩に、手を置いた。
「黝さん」
「ひゃいっ!?」
「僕も、その、こういうの、は、初めてで、緊張してます、けど」
心臓が、蟲の羽音より、うるさかった。
「今は、三人で生きて帰るのが、先だから。……いい、ですか」
黝さんは、涙目で僕を見上げた。黄金の瞳が、ゆらゆら揺れて、横長の瞳孔が、きゅうっと細くなっていた。
やがて彼女は、消え入りそうな声で、言った。
「……優しくして、くださいましね」
僕はええいままよと心の中で呟き、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
柔らかい、と思ったのは、最初の一瞬だけだった。
どんっ――と。
世界が、爆発した。
唇の触れた場所から、何かが――途方もない何かが、堰を切って流れ込んできた。
熱かった。冷たかった。甘かった。苦かった。光だった。闇だった。
映像が、洪水になって、僕の頭の中に雪崩れ込んでくる。見たこともない砂漠の星空。石造りの神殿。燃える都市。祈る人々。冠を戴く王の後ろ姿。折り重なった死体の山。蒸気機関の煙。ロンドンの霧。戦火。戦火。戦火。数え切れない人間の顔、顔、顔――誰かの願う声。誰かの泣く声。誰かの呪う声。そのすべてを、傍らでじっと見つめてきた、黄金色の視界。
数千年ぶんの記憶の重みが、たった十五年ぶんしかない僕の「自分」を、押し流そうとした。
自分の名前が、分からなくなる。
僕は、だれだ。ぼくは。ぼく、は――。
「――くん! 伏見くん!!」
ぱん、と頬を張られた音で、僕は戻ってきた。
目の前に、千々石さんの顔があった。彼女の手が僕の襟を掴んで、揺さぶっていた。
「しっかりしてください。自分が分かりますか?」
「……っ、は、はい……」
僕は、荒い息のまま、頷いた。すぐ横で、黝さんが顔を両手で覆って、湯気が出そうなほど真っ赤になって、うずくまっていた。
「〜〜〜〜、し、しましたわ……してしまいましたわ……きゅう……」
まるで茹でられてぐにゃぐにゃになったタコみたいな黝さん。今はそっとしておこう。僕だって少し恥ずかしい。
そのとき、ふと僕は気づいた。
――視える。
世界が変わっていた。いや、世界は同じだ。僕の目が変わったんだ。
光のドームに群がる蟲、その一匹一匹の中に、細い細い光の糸のようなものが透けて視えた。糸は蟲から伸びて隣へ、さらにその隣へと繋がり、束になりより合わさり、大きな流れになっていた。それら糸が、すべてドクン、ドクン、と小さく脈動している。まるで血管みたいな、赤い光の脈。それが、蟲の大群全体に網の目みたいに張り巡らされている。
「……なんですか、これ。糸……脈、みたいなのが、視える……」
「それこそが、魂契脈の視界ですわ」
黝さんが、まだ赤い顔のまま、それでも真剣な声で言った。
「貴方が視ているのは、魔力の流れ。悪魔が力を行使するとき、その配下に必ず通う、命令と供給の脈ですの。……さあ、朔。よく視て。その脈は、どこから流れてきていまして?」
僕は、目を凝らした。
無数の光の糸。その流れを上流へと辿っていく。糸は束になり、太くなり、やがて――一箇所に、収束していた。
蟲の大群の、後方。三号棟の三階、あの三〇五号室の窓の奥。
いや、違う。よく視ろ。部屋そのものじゃない。部屋から出て、群れの中に、ひとつだけ。
他の何百倍も太い脈を引きずった、ひときわ大きな「何か」が、蟲の雲の中心に、静かに浮かんでいた。周りの蟲とまったく同じ羽音に紛れて、まったく同じ動きで飛びながら――そいつだけが、すべての糸の結び目だった。
「……いた」
僕は、指をさした。
「あれだ。群れの真ん中、少し上。ひとまわり大きい甲虫みたいなやつ……糸が、脈が、ぜんぶあいつに繋がってる。たぶん、あれが核です!」
「十分です」
千々石さんが、立ち上がった。
彼女は二丁の銃を、静かに、交差させるように構えた。
「段取りを言います。結界を解いた瞬間、私が突っ込んで、核までの道を開きます。あなたたちは、その後ろに。道が開いたら――伏見くんも続いてください。そこの悪魔の力を借りて。おそらく私の道は、あの核にあと一歩届かない。最後の間合いは、あなたと、その懐刀だけが頼りです」
「つ、続くって、僕が!?」
「あなたは、そこの悪魔に守られている。最悪結界なしであの蟲の大群の中に取り残されても、生き残ることは可能でしょう――そうですよね? 悪魔」
千々石さんの問いかけに応えるように、黝さんが僕の背中に、とん、と手を当てた。
「ええ、その通りですわ。ご安心を、朔。貴方はわたくしが、文字通り命を賭けてお守りいたしますわ。それが契約の義務であり、わたくしの責務ですもの。あんな蟲ごときに、触覚の一本でも触れさせませんわ」
「で、でも僕まだ一度も悪魔を切ったことすらないんだけど……そんなとどめ役を僕がやるなんて……」
「お願いします」
千々石さんは、迷いのない目で僕をじっと見据え、そう言った。
「あなたはただ、核から目を離さないこと。それから――刺すときに、目をつぶらないこと。それだけです」
「か、簡単に言ってくれる……!」
「できますわよ。だって貴方、わたくしの契約者ですもの。貴方がやるというのなら、わたくしもエスコートしますわ」
黝さんが背中を押してくれる。僕は一つ大きくため息を吐くと、気合を入れなおすために、軽く頬を叩いた。
「――やります。僕が、あの核を倒します」
「了解」
千々石さん一言短くそういうと、深く、深く息を吸った。
「“Ashes to ashes, dust to dust”(灰は灰に、塵は塵に)」
彼女は祝詞を唱える巫女のように、厳かに、言葉を紡ぎ始める。
「“…and soul to the soul's domain.”(魂は魂の座する場所に)――《感情遮断》、第一段階」
ぞく、と。
千々石さんの纏う空気が、変わった。
表情が、消えた。もともと乏しかった表情が、ゼロになった。瞳からハイライトが消えて、淡い銀灰色に染まり、その瞳孔の周りに、時計の文字盤みたいな、淡く光る紋様の輪が、す、と浮かび上がった。
彼女の周りだけ、音が死んだ気がした。
「――結界解除、三秒前。二。一」
光のドームが、消えた。次の瞬間、蟲の濁流が雪崩れ込む。
その真っ只中へ――千々石さんが、突っ込んだ。
二丁の銃が、交互に、息継ぎもなく吠えた。眉間。羽の付け根。関節。一発一殺。彼女の駆けた軌跡の上だけ、蟲の濁流が真一文字に割れて、闇の中に一本の道ができていく。以前アーケードで見たときよりさらに速い。
「――朔! 道が開きますわ!」
「は、はいっ……!」
「歯ぁ食いしばって――行きますわよ!!」
黝さんの手が、僕の背中を、どんっ、と押した。
僕は――駆けた。
ただひたすら千々石さんの背中を見つめ、彼女の速度に追いすがる。千々石さんの開けた道の上を、低く、まっすぐに。例の蟲がいる三階に向かうため、外階段をどんどん登る。
「しっ――」
横あいから次々に鎌が、顎が、羽が伸びてくる。そのすべてを、並走する黒い閃光――黝さんの刃が、触れる先から薙ぎ払っていく。僕を守るといった、約束通りの一閃。
三階が近づく。視界の先、蟲の雲の中心で、ひときわ大きな甲虫が、身をよじった。
逃げる。入れ替わる。囮が、二匹、三匹、同じ形のやつが視界を横切る――でも。
視えてるんだ、僕には。
どれだけ紛れても、あの黒く太い脈の結び目は、ひとつしかない。
「くっ――」
千々石さんが離脱する。しかしもう関係ない。彼女は僕に任せるといった。例の、核はすぐ目の前にいる。僕は懐刀を抜き、立ちふさがる蟲を一匹、二匹と斬り伏せる。刃は鋭く銀色に光り、僕と核の蟲までの道筋をすっと照らしてくれた。
「そこだあああああっ!!」
最後の瞬間、僕は跳んだ。そして懐刀を思い切り両手で突き出した。
聖別の白い燐光を纏った刃が――核の、どてっ腹に、根元まで突き立った。
ギ、と。
世界中の黒板を、いっせいに爪で引っ掻いたような音がした。
刃を伝って、どろりと嫌な感触が手袋越しに届いて、僕はそれでも、目をつぶらなかった。目をつぶるなと、言われていたから。核だったものが痙攣して、膨らんで、そして――弾けるように、黒い靄に還った。
直後。
空を覆っていた蟲の雲が、ぐらり、と崩れた。
脈が、視えた。あの赤い光の網の目が、結び目を失って、端からぷつぷつと千切れていくのが。制御を失った蟲たちは、互いにぶつかり墜落し、地面に落ちる前にどろりと黒い液体に溶け始めた。雨みたいに黒い滴が降る。地面に落ちた滴はじゅわじゅわと泡立って、蒸発するように消えていった。
僕自身は落下の手前で、黝さんにふわりと抱き留められていた。
一分後。
夕闇の中庭には、羽音のひとつも、残っていなかった。
ただ、静かな団地の廃墟だけが、僕らを囲んで立っていた。
「……終わっ、た……?」
「さくぅぅぅぅ~~!!」
黝さんが抱き着いてきた。どことは言わないが、彼女の柔らかな部位が頬に当たって、一瞬なんだかいい匂いがした。
「頑張りましたわねぇ~~! とっっっってもかっこよかったですわ! んふ~、それでこそわたくしの契約者! やはり貴方はわたくしが見込んだだけのことはありますわ~!」
「あ、ありがとう黝さん。え、えっと、その、離してくれる?」
――千々石さん。
僕は、はっとして、蟲の道の消えたあたりへ、駆け出した。
「千々石さん! 千々石さんっ!!」
「……ここに、います」
声のしたほうを見ると、崩れた花壇の縁に、彼女はいた。
全身、蟲の体液まみれだった。制服も、髪も、頬も、黒い飛沫でべったりと汚れて、肩で息をしていた。それでも、二丁の銃はしっかりと両手に握られたままで、瞳にはハイライトが戻っていた。
「無事……!? 怪我は!?」
「……擦過傷が、いくつか。戦闘続行に、支障はありません」
「支障とかじゃなくて! ……ああもう、心臓に悪いよ……あんな突っ込み方して……」
「ちっ、生きていらしたのね、小娘。まあ、あの程度でくたばるはずはないと思ってましたが」
黝さんが悪態をつく。千々石さんは見事にそれをスルーし、僕の差し出した腕を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「……作戦通り、です」
千々石さんは、汚れた前髪を掻き上げて、短く息を吐いた。それから、僕の手の中の懐刀に、ちらりと目をやった。
「……見事でした。初陣で、あの一刺し。……刀を渡した甲斐がありました」
「え……あ、ありがとう……?」
褒められた。たぶん、褒められたんだと思う。頬の体液を拭いもせずに言うものだから、迫力がすごかったけど。
「いえ」
彼女は立ち上がり、三号棟の、あの部屋を見上げた。
「群れは潰しました。ですが大元が――悪魔本体と、契約者がまだです」
九
三〇五号室のドアは、鍵が掛かっていなかった。
千々石さんが先頭で、銃を構えたままゆっくりとドアを引き開けた。目張りの繭が、めりめりと嫌な音を立てて千切れた。
中から溢れてきた空気に、僕は思わず口を押さえた。
甘い匂いだった。腐った果物と、カビと、埃の混ざったような粘つく甘さ。
狭い玄関。物のない廊下。突き当たりの、磨りガラスの引き戸から、夕暮れの最後の光が、ぼんやりと透けていた。
僕らは奥の部屋に入った。入った瞬間驚いた。おそらくそこは六畳の和室――だったんだと思う。
壁も、天井も、畳も、乳白色の繭のような樹脂に覆われていた。天井からいくつも垂れ下がった繭の柱。潰れた卓袱台。倒れた小さな仏壇。隅に積まれた、つぶれた学生鞄。
そして、部屋の隅に。
白骨化した死体が、ひとつ、繭に半分埋もれて、座っていた。
「ひっ、し、死体!?」
僕はとっさに後ずさる。千々石さんは僕をわき目に、その死体に歩み寄り、検分を始める。派手な柄のカーディガンだけが、骨の上に、まだ引っ掛かっていた。
「……成人女性。死後、少なくとも数ヶ月」
千々石さんが、抑えた声で言った。
「おそらく、この部屋に住んでいた住民かと。契約者ではありません。状況からして、もう一人いるはずです」
「じゃあ、そいつが……」
契約者。
さらに隣の部屋に進む。四畳半の小さな小部屋。ここにも繭はあったが、ほかの部屋とは違って物が整理されており、どことなく生活感の漂う雰囲気があった。
そして――部屋の中央に、それはあった。
最初、僕にはそれが人だと分からなかった。
繭の柱に半ば取り込まれるようにして、白い蟲たちにびっしりと覆われた、細い細い、人の形をしたものが、横たわっていた。かろうじて見える顔の半分は、蝋みたいに白くて、目は閉じられていて、痩せこけた頬に、セーラー服の襟が張り付いていた。
「もしかして……この娘が」
「はい。今回の事件を引き起こしていた悪魔――その契約者とみて、間違いないでしょう」
おそるおそる繭に近づき、じっと様子を伺う。すると胸がかすかに、上下しているのが見えた。
「――生きて、る……?」
「生きています。……生かされている、と言うべきですが」
千々石さんの声は、平坦だった。平坦であろうと、努めているように聞こえた。
「悪魔の苗床です。契約者の身体と魂を巣の中枢に据えて、そこから欲望のエネルギーを吸い上げ続けている。……蟲どもにとって、彼女はもう餌であり保存食であり――女王の座を据えるための、土台です」
「そんな……だって、契約者って、願いを叶えてもらう側じゃ……」
「叶えてもらう対価が、これです」
千々石さんは、彼女に一歩近づいた。
その、ときだった。
『――どうしてぇ』
声が、した。
繭に埋もれた少女の唇が、動いていた。でも出てくる声は、あの羽根を擦り合わせたようなざらざらの音だった。何百、何千の小さな声が重なった、悪魔の声。
『どうして、じゃまを、する』
「アカル・ムスカ」
黝さんが、静かに言った。それが、悪魔の名前らしかった。
「蠅の王が眷属、蝕尽のアカル・ムスカ。……ずいぶんとまあ、みすぼらしい巣ですこと」
『ふるきもの。おおきなもの。くろいもの』
悪魔の声に、怯えの色が、混ざった。
『なぜ、われらのいとなみを、こわす。われらは、ただ、ふえたいだけ。いきものの、さだめのままに。くって、うんで、ふえる。それだけ。それだけなのに』
「増えるために、この街の人間を喰らったこと。それがわたくしの縄張りと重なっていたことが、貴様の運の尽きですわ」
『くった。くったとも。それが、なんだ』
声が、開き直ったように、ざわざわと膨らんだ。
『おまえも、くうだろう。にんげんの、たましいを。おまえのほうが、われらより、ながく、ずっとたくさん、くってきただろうに』
黝さんは、否定しなかった。
『それに、われらは、ちゃんと、ねがいを、きいてやった』
悪魔は、続けた。
『このおんなの、ねがいを。だれもきいてやらなかった、ねがいを。われらだけが、きいてやった。このおんなもな、われらと、おなじ、ねがいだった。だから、けいやくは、せいりつした。われらは、なにも、まちがっていない』
「……同じ、願い?」
気づいたら、僕は口を開いていた。
「この人は……何を願ったんですか」
『さっきも、いった』
悪魔は、こともなげに答えた。
『ふえたかったのだ、このおんなも。――このおんなの、ことばで、いうなら』
ざわ、と羽音が鳴った。
『ふつうの、かぞくが、ほしかった、そうだ。それだけだ』
部屋が、しんと静まった。
「……え?」
普通の、家族。
僕は部屋を見回した。
白骨の母親。潰れた卓袱台。つぶれた学生鞄。物のない、繭だらけの、六畳間。
普通の家族が、欲しかった。
それだけ。
それだけの願いが、どうして、これになるんだ。
「耳を貸してはいけません」
千々石さんが、鋭く言った。
「悪魔は、往々にして契約者の願いの『言葉』だけを叶えます。願いの『心』は叶えません。家族が欲しいと願った少女に、こいつらが与えたのは――産めよ増やせよの、蟲の巣です。悪魔の語る『願い』とは、そういうものです。同情を誘って、隙を作る。彼らの常套手段です」
「ですけれど、嘘でもありませんのよ」
黝さんが、静かに言った。
「朔。この世界はね、欲望のぶつかり合いですの。この娘には願いがあった。願いを踏みつけた人間どもがいた。そこに、願いに応える蟲がいた。ぶつかって、絡まって、弱いものから順に、強いものに呑まれていった。……それだけの、ありふれた話。同情に値するかどうかとは関係なく、世界はただ、そういうふうに、できていますの」
「ありふれた……って」
僕は、黝さんを見た。
「こんなのが、ありふれてるって言うんですか」
「ええ」
黝さんは、目を逸らさなかった。
「数千年、飽きるほど見てきましたわ。よくある話、ですのよ。これは」
よくある話。その言葉が、氷の錐みたいに、胸に刺さった。その時、僕は以前黝さんが言った言葉を思い出した。
契約者には、深入りなさいますな――まさかその言葉の意味を、ここに来て理解するなんて。
「……助ける方法は」
僕は、言った。
「この人を悪魔から解放して、助ける方法はないんですか」
千々石さんが、気まずそうに視線を逸らす。黝さんがゆっくりと、首を横に振った。
「ありませんわ」
「なんで! だって、まだ生きて――」
「朔。よく視なさいな。貴方には今、視えるはずですわ」
言われて僕は、視た。魂契脈の視界で、彼女を。
そして――視なければよかったと思った。
彼女の胸の奥に、魂と呼ぶべき光があった。あるには、あった。でもそれは、穴だらけだった。虫食いの葉っぱみたいに、光のあちこちが齧り取られ、欠けて透けていた。残った部分にも無数の細い糸が食い込んで、今この瞬間も光を少しずつしゃりしゃりと啜り続けていた。
「身体だけでは、ありませんの。魂そのものが、もう喰われておりますのよ。人格を保つことも、目覚めることも、二度とありませんわ。仮に蟲だけを引き剥がせたとしても、残るのは、空っぽの器だけ。そして放っておけば、この娘の魂を土台に、残った卵から蟲が孵る。孵った蟲はまた卵を産み、卵は近隣の人間に植え付けられ――被害は、桁が変わりますわ」
「じゃあ……じゃあ、どうするんですか」
「魂契脈を、断ちますの」
黝さんは、言った。
「悪魔と娘を繋ぐ、契約の脈を。断てば、アカル・ムスカは力の源を失って、消滅しますわ。巣も、蟲も、すべて。……そして」
「……そして?」
「宿り木を失ったこの娘の魂も、保ちませんわ。数分と経たず、燃え尽きて、散りますの」
死ぬ、ということだった。
いや、違う。死ぬだけじゃない。魂ごと消えるんだ。それは彼女がこの世界にいたという痕跡がなくなるという話で、彼女の願いも、境遇も、すべてなかったことになるというわけだった。
「そんな、の」
僕の声は、震えていた。
「そんなの……この人、僕とそんなに年も変わらなそうで。ただ、普通の家族が欲しかっただけで。何も悪いこと、願ってなくて。なのに勝手に喰われて、勝手に巣にされて、最後は、僕らに――」
言葉が、続かなかった。
「だったらせめて、魂だけでも、救いは……。く、黝さんが、食べれば……いや、違う、食べたら消滅するんだ、だめだ、それじゃ……ええと、教会なら、魂を、天国とか、そういうところに――」
「もう手遅れですわ、朔」
黝さんの声が変わった。いつもの芝居がかった口調ではなく、わが子を諭す母親のように、低く、冷静に言い聞かせるように。
「虫食いの魂は、どこにも行けない。天国にも、地獄にも、輪廻の輪にも戻れない。生まれ変わることも、もうない。……わたくしたちにできるのは、これ以上喰われる前に、終わらせてやることだけ」
僕は、呆然と、立ち尽くした。
「……この人のことを、僕はよく知らない」
誰にともなく、言葉がこぼれた。
「きっと、大変な目にあったんだろう。普通の家族が欲しいなんて願うくらいだ。この人はおそらく何かの被害者で、純粋にただ願っただけで……なんでそれが、こんな……こんなことにならなきゃいけないんだよ……!」
叫んだ声は、繭だらけの部屋に吸い込まれて消えた。
誰も答えなかった。悪魔も悪魔ハンターも、答えを持っていなかった。
長い沈黙のあと、千々石さんが、静かに一歩前に出た。
「――介錯は、私がします」
彼女は、銃を構えようとした。
「これは、私たち教会――いえ、葬送局の任務です。手を汚すのは、私の仕事です。あなたたちは、下がって」
「お待ちなさいな。小娘がでしゃばるものではなくてよ。獲物の魂はわたくしのものと、最初に宣言したはずで――」
「――僕が、やります」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
二人が、僕を見た。
「朔……?」
「……彼女の魂は、この後黝さんが食べるんですよね。それが、僕の『支払い』になるんですよね」
僕は、拳を握った。爪が、掌に食い込んだ。
「だったら……僕がやらなきゃ、だめだ。僕が生き延びるために、この人の魂を使うんだ。千々石さんや黝さんに手を汚させて、自分は後ろで目をつぶってるなんて、そんなの……そんなのは、絶対にだめだ」
だって、それをやったら。
僕はもう二度と、自分の人生を「悔いがない」なんて言えなくなる。
黝さんは、長いこと僕の目を見ていた。やがて彼女は、ふ、と息を吐いて、僕の隣に立った。
「……手順を、教えますわ。魂契脈の視界で、娘と悪魔を繋ぐ脈を視なさい。ひときわ黒く、太い脈ですわ。その刀を――清められた刃を、そこに当てて、断ち切るイメージを。刃が、貴方の意志を通してくれますわ。……大丈夫。貴方には、できますわ」
僕は頷いて、懐刀を鞘から抜いた。
白い燐光を纏った刃が、繭の消えた薄暗い部屋で静かに光った。さっき核を刺したときの感触が、まだ手の中に残っていた。同じ刃で、今度は――人を殺す。
僕は、彼女に――悪魔の契約者に近づいた。
『……ま、て』
悪魔の声が、上ずった。
『まて。やめろ。なにを、する。やめろ。ちかよるな。われらの、すだ。われらのははだ。うばうな。うばうな、うばうな、うばうなうばうなうばうな』
声は、もう威厳も何もなく、ただの喚き声になっていた。
『たすけて。たすけて。しにたくない。きえたくない。われらはただ、ふえたかっただけ――』
僕は、視た。
彼女の胸から伸びる、どす黒い太い脈を。
そこに、刃をあてがった。
切っ先が触れた瞬間、柄を握る手に、冷たい泥みたいな感触が伝わってきた。脈の中を、彼女から吸い上げられていく光が、どくんどくんと流れているのが分かった。
僕は、一瞬だけ目を閉じて――祈った。
誰に祈ればいいのかも、分からなかったけど。
ごめんなさい。
そして……おやすみなさい。
目を、開ける。
目をつぶるな。刺すときに、目をつぶるな。彼女の最期から、目を逸らすな。
「――断てッ!」
僕は刃を――引き切った。
ぱきん、と。
冬の朝の、薄氷を踏み抜いたようなあっけない音が、鳴り響いた。
絶叫が、部屋を満たした。何万の羽音の断末魔が、渦を巻いて、天井へ、壁へ、繭へと駆け抜けて――そして、蝋燭の火を吹き消すみたいに、ぷっつりと途絶えた。
繭が端からさらさらと崩れ始めた。黒い液体になることもなく、ただの乾いた砂みたいになって、崩れて消えていく。壁が、天井が、卓袱台の上が、元の、古ぼけた六畳間に戻っていく。
彼女の身体を包んでいた繭が、ゆっくりとほどけていった。
蟲は、もう、一匹もいなかった。そこには痩せこけた、小さな女の子が、ひとり静かに眠っているだけだった。
その胸の奥で、虫食いだらけの光が、最後に小さく瞬く。
――気のせいだったかもしれない。
でも僕には、その光がほんの一瞬だけ、柔らかくほどけたように視えた。
まるで長い長い間こわばっていた誰かが、やっと力を抜いたみたいに。
光は静かに小さくなって、小さくなって。
そして――消えた。
黝さんが、進み出た。
彼女は畳に膝をつき、もう魂のない彼女の亡骸の前で、両手を、そっと合わせた。
そして僕が教室で見たあの日と同じ言葉を――でも、あの日とはまったく違う響きで、言った。
「――いただきます」
淡い光の粒が亡骸から立ちのぼって、黝さんの中へ、雪が溶けるみたいに吸い込まれていった。
それで終わりだった。
団地に巣くった悪魔、アカル・ムスカの事件は、これで終わりだった。
帰り際、玄関を出る前に僕は一度だけ振り返った。
夕闇の中に、ただの空っぽの部屋があった。
誰かが確かに生まれて、育って、願って、そして誰にも知られずに消えていった、六畳の部屋が。
僕は、深く、頭を下げた。
それから、後ろ手に、静かにドアを閉めた。




