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デーモンガール・ダムネーション  作者: 八村光起


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第一話 第三章 悪魔とデートと監視者

   第三章 悪魔とデートと監視者


    一


 翌日の教室のざわめきは、昨日に増して騒がしかった。

 当然だ。二日連続で、学校一の美少女が僕と一緒に登校してきたのだ。一度ならず二度までもとなれば、もはや偶然では済まされない。しかも今日の黝さんは、あろうことか「朔、移動教室ですわよ~」と僕の席まで迎えに来てベタベタとくっついてきた。もう言い訳のしようがない。教室の空気は沸騰したやかんのように色めき立っていた。

 休み時間になり、またもや僕の包囲網が出来上がる。僕はあまりに耐えかねて、黝さんにヘルプの視線を送る。それを受け取ったのか、黝さんはすっと立ち上がり、そして教室全体を、ゆっくりと見回した。

 彼女が小さく指を鳴らす――すると、ふっと教室の空気が緩んだ。

「なあ、そういえば次の移動って化学室だっけ?」

「てか昨日の課題やった?」

「やべ、忘れてた」

 僕を取り囲んでいたクラスメイトたちが、まるで何事もなかったかのように、三々五々、散っていった。誰も僕を見ない。誰も僕と黝さんの話をしない。ついさっきまでの沸騰が嘘みたいに、教室はごくごく普通の休み時間に戻っていた。

 僕は隣の席に涼しい顔で座る黝さんに、小声で詰め寄った。

「(……今、何しました?)」

「(軽い催眠ですわ。『あの二人のことは、まあ気にするほどでもないか』と思う程度の。ご安心を、記憶をいじったわけではありませんし、健康にも影響ありませんわ)」

「(そんな簡単に人を洗脳しちゃダメでしょ!?)」

「(あら。困っていたのは朔でしょうに)」

「(それはそうだけど! そうだけど!)」

「(これくらい、わたくしにとっては挨拶みたいなものですのよ。目くじら立てなさんな)」

 黝さんはひらひらと手を振った。倫理観が根本からずれている。困っていたのは事実なので強く言えないのが悔しい。

「(もしかして……今朝の母さんへの『お願い』っていうのも)」

「(あら、察しがいいですわね)」

 盛大にため息を吐いた。もう僕はあまり深く考えないことにした。

 ――と。

 ふと、視線を感じた。

 教室の反対側の隅。文庫本を開いた千々石さんが、本のページ越しに、じっとこちらを見ていた。

 目が合う――寸前で、彼女はすっと視線を本に落とした。

(……あれ?)

 ちょっとした違和感。

 教室中があれだけ綺麗に僕らへの興味を失ったのに、彼女だけが、まだこちらを見ていた。気のせいだろうか。

「朔~、次は移動教室ですわよ。一緒に行きましょう?」

「あ、うん。今行く――ってちょっと! 引っ張らなくていいから! 一人で歩けるから!」

 僕は彼女に引きずられるように教室を出る。その時の僕は気づいていなかった。

 千々石さんの視線が、ずっと僕の背中に向いていたことを。


    二


「朔。本日はこの後、空いていますこと?」

 放課後、帰り支度をしていると、黝さんが言った。

「え? 空いてますけど……なんですか、急に」

「デートですわ」

「…………はい?」

「デ・エ・ト。繁華街に参りますわよ。ほら、早くなさって」

 僕の返事を待たず、黝さんは僕の袖を引いて歩き出した。畏れ多くも学校一の美少女にデートに誘われたというのに、僕の頭に浮かんだのは「今度は一体何を企んでいるのか」という疑問だった。

 電車で二駅。夜見中市で一番大きい駅前の繁華街に、僕らは繰り出した。

 そして僕は知った。数千年生きた悪魔が現代日本の繁華街に放たれると、どうなるのかを。

「朔! あれですわ、あれ! くれえんげえむ!」

「クレーンゲームですね」

「存在は存じておりましたのよ。動画で拝見して。一度やってみたかったんですの!」

 ゲームセンターに吸い込まれた黝さんは、クレーンゲームの筐体に張り付いた。狙うは巨大な猫のぬいぐるみ。彼女は財布から百円玉を投入し、真剣そのものの顔でアームを操作し――一発で取った。

「取れましたわ! ふふん、見まして朔!? わたくし、天才では!?」

「え、すご……初めてなんですよね?」

「アームの動きと重心くらい、見れば分かりますもの」

 その後、彼女は次々と器用にぬいぐるみを獲得していき、六回目の景品の前に「お客様、その、お上手すぎて」とやんわり店員から出禁を宣告された。両腕にぬいぐるみを抱えた悪魔は「人間の街には、狩りすぎ禁止の掟がありますのね……」としょんぼりしながら妙な学びを得ていた。

 それから、プリントシール機で写真を撮ったたり(黝さんは「目がこれ以上大きくなりましたら化け物ですわ」と補正機能に真顔で驚いていた)、音ゲーで対戦したりと、思ったよりも僕らは普通にゲームセンターを満喫した。そして夕方、さすがに遊び疲れた僕はどこか休憩できる場所を探し、彼女と共にハンバーガーショップ「モック」に入った。

「ポテトのLを二つ。それとテリヤキバーガーと、チキンを四つ、シェイクはストロベリーで」

「……食べすぎじゃない?」

「あら、魂と違って、人間の食べ物はいくら食べても太りませんのよ、わたくし」

「世の女子高生を敵に回す発言だ……」

 窓際の席で、黝さんは細い指でポテトをつまみ、実に幸せそうに頬張った。

「んー……。この、身体に悪そうな油と塩の味。文明の勝利ですわね。ジャンクフードは人類の発明の中で三本の指に入りますわ」

「ちなみに残り二本は」

「エアコンと、スマートフォンですわ」

「悪魔の褒める人類文明、庶民的すぎません?」

 自分の分であるSサイズのポテトを口にして、僕はそう突っ込んだ。

 しばらくお互い食事に集中する。周囲には学校帰りの女子学生の集団が楽しそうに会話していたり、スーツ姿の男性が一人パソコン作業していたりと、ごくごく普通の一般的なモックの風景が広がっていた。まさかこの中に、正真正銘の悪魔がいて、ポテトとハンバーガーを頬張っているなんて誰も想像していないことだろう。そう考えると何だか少し不思議な感覚がする。

 ポテトの山が半分ほど消えた頃、ふと、黝さんが言った。

「今日は、ありがとうございますわ」

「え?」

「デート。付き合ってくださって」

 彼女は窓の外の、夕暮れの雑踏を眺めていた。

「ゲームセンターも、こういうお店も。存在はずっと知っておりましたのよ。何十年も前から、街にはいつも人間の遊び場がありましたもの。ただ……誰かと一緒に行く機会は、ついぞございませんでしたから」

「……契約者の人と、行ったりは」

「しませんわね。契約者とわたくしは、あくまで取引相手ですもの。それに人間はすぐ、わたくしの正体を思い出して、こういう顔をしますの」

 彼女は、ひどく硬い、怯えと媚びの混ざった笑顔の真似をしてみせた。

「その顔をされると、興が削がれますのよね。だから遊びはいつも一人。映画も一人。観覧車も一人。カラオケも一人。……あら、カラオケは一人のほうが効率的でしたわね」

「一人カラオケは効率いいですよね……じゃなくて」

 彼女のどこか遠くを見つめる目。何千年も生きた悪魔は、一体どういう気持ちで人間の世界を眺めているのだろう。僕は、なんと言えばいいのか分からないまま、口を開いた。

「その……僕でよければ、また付き合いますよ。ゲーセンでも、映画でも、カラオケでも。……どうせ同居してるんだし、暇なとき、いつでも」

 言った後に、悪魔相手にこんなこと言うのは変なことだろうかと思った。黝さんは、目をぱちくりさせて僕を見た。

「まあ」

 それから、ふにゃりと笑った。営業用の完璧な微笑みでも、悪魔の笑みでもない、その時だけは、見た目相応の女の子みたいな、不格好な笑顔だった。

「では、遠慮なく。次は水族館がよろしいですわ。ペンギン、一度つついてみたかったんですの」

「つつくのはやめてあげてください」

 ――と、まあ。

 意外というかなんというか、始まる前はどうなることかと思ったが、こんな調子で黝さんとのデートは和やかに進んだ。

 その後僕らは店を出て、夕闇の降り始めた繁華街を歩き出した。

 ――そのときの僕は、まったく気づいていなかった。

 デートの間中ずっと、雑踏の中から、ビルの陰から、僕らを追い続ける一対の目があったことに。


    三


 異変に気づいたのは、そろそろ家に帰ろうかと駅に向かっていた、夜の八時前だった。

 先を歩いていた黝さんの足が、ぴたりと止まった。

「……朔」

 声のトーンで分かった。何か異変が起こったらしい。見ると黝さんの顔が、それまで緩く機嫌のよさそうな表情から、硬く引き締まったものに変わっていた。

「臭いますわ」

「臭うって……悪魔、ですか」

「ええ。血と……同族の残り香。近いですわね。歩いて十分というところ」

 黝さんの見つめる先は、繁華街の外れ、駅裏の方角だった。再開発から取り残された、古い雑居ビルの並ぶ一角。

「どうします……行くん、ですよね」

「当然。待ちに待った尻尾ですもの。――怖ければ、朔はここで」

「い、行きます。行きますよ。一人で残るほうが怖いし」

「ふふ。よろしい」

 僕らは夜の街を、駅裏へ向かった。飲み屋のネオンが減り、人通りが消え、シャッターの落ちた建物が増えていく。街灯の間隔がどんどん開いて、僕らの足音だけが、やけに大きく聞こえるようになった。

 やがて黝さんは、一棟の空きビルの前で立ち止まった。

 五階建ての、古い貸事務所ビルだった。「テナント募集」の色褪せた看板。割れた窓ガラス。入口のガラス扉には鎖が巻かれていたが、脇の通用口が、わずかに開いていた。

 開いていた、というより――こじ開けられていた。ドアノブの周りの金属が、内側から膨らむように歪んでいた。

「……二階ですわ」

 黝さんが先に立ち、僕が続いた。

 通用口をくぐると、外の生ぬるい夜気が嘘みたいに、空気が冷えた。非常階段は真っ暗で、スマホのライトを点けると、埃の積もった段の上に、点々と、何かを引きずったような跡が続いていた。錆びた段を踏むたび、ぎし、ぎし、と音が反響して、僕はそのたびに心臓が縮んだ。

 二階の踊り場に、防火扉があった。

 灰色の、重い鉄の扉。その表面に、内側から何かがぶつかったような凹みが、いくつも浮いていた。

 黝さんが、取っ手に手をかけて、僕を見た。

「……朔。最後にもう一度だけ聞きますわ。ここから先は、戻れませんことよ。外で待っていても、よろしいのよ?」

 僕は、唾を飲み込んだ。喉が、からからだった。

 正直、回れ右して逃げ出したかった。でも、ここで待つのも、一人で夜道を帰るのも、同じくらい怖かった。何より――この扉の向こうで起きたことを、僕はもう「知らないふり」できない場所まで来てしまっていた。

「……行きます」

「よろしい」

 黝さんが、取っ手を引いた。

 重い蝶番が、ぎぃ、と鳴いて――臭いが、来た。

「――っ、ぐ……!」

 僕は咄嗟に口と鼻を押さえた。鉄錆と、生ゴミと、獣臭さを煮詰めたような臭気。目に染みるほど濃い。マスク越しでも防げそうにない、暴力的な臭い。

 中は、真っ暗だった。

 黝さんが指を鳴らすと、天井の切れかけた蛍光灯が、ぱちぱちと明滅しながら、点いた。

 白い光が、フロアを照らし出した。次の瞬間――見なければよかった、と思った。

 がらんとした事務所フロアの床一面が、どす黒く濡れていた。壁に、天井に、飛び散った染みが放射状に広がって、乾いた縁が幾重にも層を作っていた。床のあちこちに、それが何だったのか考えたくもない塊が、点々と落ちていた。片方だけのスニーカー。潰れた眼鏡。千切れた鞄の持ち手。ストラップのついた、画面の割れたスマホ。

 人がいた痕跡だけがあって、人の形をしたものは、どこにもなかった。

「ぁ、お……」

 胃の中身がせり上がってきて、僕は膝を折り、壁に手をついた。指先が、壁の染みに触れた。ひっ、と手を引っ込める。えずいた。何度もえずいた。さっき食べたハンバーガーの肉の味が、喉の奥に苦く蘇った。

 目を閉じても、駄目だった。瞼の裏に、床の光景が焼き付いていた。ふと視界に入った割れたスマホ。あのスマホの持ち主は、最後に誰に電話をかけようとしたんだろう。そんなことを考えてしまって、余計に吐き気がひどくなった。

「ずいぶん食い散らかしましたわね」

 黝さんだけが、平然と血の海の中を歩いていた。スカートの裾が汚れることも構わず、屈み込んで床の染みを検分し、指先で黒い液体に触れ、あろうことか、それを軽く舐めた。

「な、舐め……!?」

「捜査ですわ、捜査。……ふむ。人間が三……いえ、四人分。喰われたのは昨夜。喰い方が雑ですわね。骨まで啜って、要らないところだけ吐き出して。まったく……ケダモノのやることですわ」

 彼女はフロアの奥へ進み、倒れたスチール机の陰を覗き、天井の染みを見上げ、窓際で立ち止まった。検分は、長かった。僕は壁際にへばりついたまま、その間ずっと、自分の呼吸の音を聞いていた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。それだけのことが、こんなに難しいとは思わなかった。

「……この魔力の澱み」

 黝さんが、窓際で呟いた。

「下級も下級。ベルゼブブ系の……蟲、ですわね。それも群体の」

「むし……?」

「ええ。厄介な系統ですのよ、こういう類は。個々は弱いくせに、数だけは際限なく――」

 黝さんが、言葉を切った。

 彼女の耳が、ぴくりと動いた。

 その直後。

 ――ぱん、ぱんっ!

 乾いた破裂音が二つ、フロアに響いた。

 黝さんの頭が、がくんと跳ね、彼女の額から赤いものが散る。

 え、と思ったときには、黝さんの身体は、血の海の中に崩れ落ちていた。

「あ――」

 黝さん、と叫ぼうとした僕の口を、背後から伸びた手が塞いだ。もう片方の腕が僕の両腕ごと胴を締め上げ、氷みたいに冷たい、硬いもの――銃口が、こめかみに押し当てられた。

「――動かないで」

 耳元で、声がした。

 低く抑えられて、布か何かでくぐもった、性別も年齢も分からない声だった。

「伏見、朔。悪魔と契約せし者。教会の名のもとに、あなたの身柄を拘束します。抵抗すれば、撃ちます」

 振り向くことすらできなかった。視界の端に映るのは、深くフードを被った、黒ずくめの人影の腕だけ。

 黝さんは、倒れたまま、動かない。

 教会? 拘束? 誰だ。誰なんだ。頭が真っ白なまま、何の抵抗もできなかった。


    四


 ――と、そのときだった。

「そこまでにしてくださいまし」

 鈴を転がすような声が、フードの人影の、真後ろから聞こえた。

 僕を締め上げていた腕が、石みたいに固まった。

 血の海に倒れていたはずの黝さんの姿が、消えていた。代わりに、僕とフードの人影の背後――さっきまで誰もいなかった空間に、彼女は立っていた。額の傷は、もうどこにもない。そしてその白い手には、闇を薄く延ばしたような黒い刃が握られ、切っ先が、フードの人影の喉元に、ぴたりと突きつけられていた。

「銃をお下げなさいな。ゆっくりと。それからわたくしの契約者から、その汚い手をお離しなさい。――三つ数える間に」

 冷たい声だった。彼女はそのまま「三――」と口にする。

 人影は、二秒ほど静止した。それから、僕を拘束していた腕をすっと解いた。僕はたたらを踏んで、ゲホゲホとせき込む。人影は銃口を下に向けたまま、後ろへ跳んで、僕と黝さんから距離を取った。

 黝さんが、僕を背に庇う位置に、滑るように移動する。

「人の頭に鉛を二つも放り込んでくださって。ずいぶんなご挨拶ですこと」

 黝さんは、ぺっ、と潰れた銃弾を二つ吐き出した。からん、と床で乾いた音がした。

「ふん、姿をお見せなさいな。それとも、その辛気くさいフードごと、頭から削いで差し上げましょうか」

 人影は、しばらく動かなかった。

 やがて、空いた手が、ゆっくりとフードにかかった。

 布が、はらりと落ちて――その下から現れた顔に、僕は息が止まった。

 黒髪を肩の上で切り揃えた、見覚えのある顔。教室の隅でいつも文庫本を読んでいる、滅多に喋らない、クラスメイトで、図書委員の――。

「……ち、千々石、さん……?」

 千々石三輪、その人だった。

「なんで、千々石さんが……」

 同じクラスの女の子が、黒ずくめの戦闘装束で、二丁の銃を提げて、血の海のビルに立っている。目の前の光景が、うまく繋がらなかった。学校の千々石さんと、今ここにいる千々石さんが、頭の中で、どうしても重ならない。

 千々石さんは、僕の混乱を意に介するふうもなく、抑揚のない声で言った。

「伏見朔。あなたはそこにいる悪魔と契約した。相違ないですか」

「え――」

 彼女の口から、「悪魔」という言葉がはっきりと出てきたことに驚く。

 千々石さんは、黝さんのことを知っている? どうして? その疑問に答えたのは、彼女の本人ではなく黝さんだった。

「貴方――“教会”の犬ですわね? 先の魔力回路入りの銃弾。あれは教会がよく使う得物ですわ」

「教会……? 黝さん、教会って……」

「ふん、大した話ではありません。悪魔が人間を食い物にする以上、人間にも、古来から悪魔に対抗する組織が存在しますわ。その中で一番古く、一番大きな組織が、“教会”というわけですわ」

 初耳だった。まさかそんな組織がこの世にあるなんて――と思ったが、実際にこの世には悪魔が存在するわけで、今までの常識だけで物事を推しはかるのは、やめた方がいいと僕はすぐに思い直した。

「正確には、『教皇庁直属第十三聖務執行機関』――通称『葬送局アナテマ』。教会の存在すべてが、対悪魔のために存在しているわけではありません」

 千々石さんは、手元の拳銃を構えなおしながら、そう言った。学校での彼女では考えられないほど、とても流ちょうな口調で。

「あー、名前なんかどうでもいいですわ。それで? 教会の犬がわたくしたちに何の用ですの。そんな物騒な代物をぶらさげて、わたくしとわたくしの契約者に襲い掛かって」

 露骨に黝さんの機嫌が悪化していくのを感じる。彼女の周りの影が、千々石さんを威圧するようにじわじわと拡大していく。そんな黝さんの圧を無視するように、千々石さんは僕の方に向き直り、口を開いた。

「……先週から、この夜見中市に発生している悪魔事案を調査していました」

「え……」

「悪魔はこの街で罠をしかけ、人間を食い物にしていた。私は、それらの罠をつぶす過程で、そこにいる悪魔の存在を認知し、追跡していました。挙動を確認するに、市内で活動中の悪魔は当該個体と断定。よって契約者ともども拘束し――」

「ちょ、ちょっと待って! 誤解だ!」

 僕は叫んだ。

「その悪魔は僕らじゃない! 僕らも追ってるんです、夜見中で、人々を襲っている悪魔を! 今夜ここに来たのも、そのためで――」

「契約者の証言に、証拠能力はありません」

 千々石さんは、平坦に言い切った。

「悪魔憑きは、悪魔を庇うために嘘を吐く。例外は、ありません」

「嘘じゃない!」

「では、証明を」

「それは……っ」

 できるわけがなかった。僕が言い淀むと、千々石さんの銃口が、わずかに上がった。黝さんの纏う影に、殺気が乗るのがすぐに分かった。

「……あーもう、話が通じない! ひとまず、話し合いしましょう!? 黝さんも刃物下ろして! 千々石さんも銃を――」

「お断りしますわ。この娘、朔の頭に銃口を向けましたのよ。万死に値しますわ」

「教会の規定により、悪魔との交渉は禁止されています」

 一触即発。振り上げた拳を、誰も下ろせない。誰かが瞬きひとつ間違えたら終わる。そんな均衡が、じり、じりと軋んで――。

「――やれやれ。若い人は、みんな気が短くていけないねえ」

 場違いなほど暢気な声が、フロアの入口から響いた。

 僕らが入ってきた防火扉のところに、いつの間にか、一人の男の人が立っていた。

 仕立てのいい濃紺のスーツ。革の手袋。細身で背が高く、黒に近い焦げ茶の髪をきっちり後ろへ撫でつけた、四十代半ばくらいの、俳優みたいな顔立ちの男の人。左目にだけ片眼鏡をかけて、手には古風なステッキをついている。

「ヴァレンティーニ卿……」

 千々石さんが、小さく言った。

「やあ、三輪。単独接敵は感心しないな。応援を待て、と言っておいたはずだが……まあ、いい。報告の三倍は面白い状況になっているじゃないか」

 男の人は、血の海のフロアを、まるで午後の公園でも散歩するような足取りで進んできた。堀の深い顔。色素の薄い瞳。彼は僕らの数歩手前で立ち止まると、芝居がかった仕草で胸に手を当て、優雅に一礼した。

「これは失礼、自己紹介がまだだった。――私はマルコ・ヴァレンティーニ。“教会”の人間だ。対悪魔専門の、まあ、公務員のようなものだ。そして、彼女の上司でもある。……うちの部下が、とんだご無礼を、『古き夜』の奥方」

「あら」

 黝さんが、影を展開したまま、目を細めた。

「古い名をご存じですのね」

「うちの書庫には、あなたのファイルだけで棚が一つ埋まっているのでね。十五世紀にはトスカーナ、十九世紀にはロンドン。我々が貴方と接触した回数はそこまで多くはないが、貴方の逸話は色々と聞き及んでいるよ」

「覚えていませんわね。返り討ちにした有象無象どものことなんて、ほとんど記憶に残りませんわ」

「はは。これは手厳しい」

 マルコと名乗った男の人は、まるで世間話みたいに受け流して、それから、ぽん、とステッキの先で床を突いた。

「さて――睨み合いはそのくらいにして、少し整理をしようじゃないか。まず、そこの少年。君たちは、この街で起きている連続捕食事件の犯人を追っている。今夜この現場に来たのも、その調査のため。……そう主張するんだね?」

「は、はい! 本当です!」

「なるほど。しかし、一体それは何のためだい? 別に犯人を捕まえたところで、君たちに特にメリットがあるとは思えないが」

「そ、それは……」

「契約者の魂を喰らうためですわ。もっといえば、契約のためですわ」

 僕が言いよどんでいると、すぐに黝さんが割り込んできた。マルコさんは、「ああなるほど」と納得したように頷く。

「確かに、悪魔にとって契約者の魂は美味と聞く。君たちはそれを狙っていたわけだ。これは筋が通る。しかし――」

 マルコさんは、千々石さんに歩み寄り、彼女の肩にポンと手を置く。

「うちの三輪は、それを信じない。悪魔憑きの証言に価値はなく、嘘をついているかもしれないから。……なるほど、どちらの言い分ももっともだ。では、こうしよう。――アルゴス」

 彼が、指を鳴らした。

 ぞ、と全身の産毛が逆立った。

 マルコさんの背後の空気が、陽炎みたいに揺らいで――そこに、「目」が開いた。

 ひとつじゃない。十、二十、百。揺らぎの中に、大小無数の瞳が、次々と開いていく。やがてそれらは寄り集まって、ひとつの輪郭を描いた。全身に目を散りばめた、透きとおった、大きな女の人の姿。

『……ふむ』

 声が、した。頭の中に直接響くような、深い、女の人の声だった。

『久しいな、古き夜よ。まだその趣味の悪い餌の獲り方を続けておるのか』

「…………あら」

 黝さんの眉が、ぴくりと動いた。

「あらあらあら。その悪趣味な目玉の群れ……アルゴスじゃありませんの。まだ生きてらしたの? というか、貴女、人間の犬なんてやってますのね。物好きにも程がありましてよ」

『貴様に言われたくはないわ。人間の小僧と仲良く連れ歩く古き夜など、太陽が西から昇るより珍しい。……時に、随分と可愛らしい姿になったな? 昔は星も呑む夜の色をしておったろうに』

「あら、これは流行ですのよ。貴女と違ってわたくし、時代に敏感ですの」

「……知り合い、なんですか?」

 僕が思わず聞くと、黝さんは実に嫌そうな顔をした。

「昔々、ほんの数百年ほど、縄張りが被っていただけの腐れ縁ですわ。……アルゴス。百の目の監視者。人間に飼われるような格ではないはずですけれど、落ちぶれたものですわね」

『飼われているのではない。契約しているのだ。……そこは貴様と同じであろうが』

「一緒にしないでくださいまし」

「ええと、旧交を温めてもらったところで」

 マルコさんが、こほんと咳払いをした。

「アルゴス。仕事を頼むよ。――その少年の言葉に、嘘があるかどうか」

『心得た』

 無数の瞳が、いっせいに、僕を向いた。

 裸にされるどころじゃなかった。皮膚の下も頭の中も思い出も、全部めくられて閲覧されているような感覚。呼吸の乱れ、脈、体温、それから、もっと奥の――たぶん、魂の色まで。数秒だったと思うのと同時に、永遠にも感じた。

『――白だ』

 百目の悪魔は、あっさりと言った。

『嘘の流れが、ひとつもない。この小僧、事件の犯人ではないし、犯人を追っているというのも真。ついでに言えば、今は恐怖と混乱で膝が限界のようだ。教会を欺けるような玉とも思えん』

「だそうだ。三輪、銃を収めなさい」

 千々石さんは、少しの間静止した後、渋々といった感じで静かに二丁の銃を下ろした。

「……納得は、していません」

「していなくていいよ。命令だからね」

 僕はへたり込みそうになるのを堪えて、大きく息を吐いた。黝さんも、黒い影を煙みたいに消して、それでも警戒は解かずに、僕をかばうように半歩前に立ち続けていた。

「さて、疑いも晴れたところで――本題だ」

 マルコさんは、にこやかに言った。

「提案がある。共闘、しないかね。我々と、君たち」

「…………はい?」

 間の抜けた声を出したのは僕だった。千々石さんも、無言のまま、勢いよく上司を見た。

「率直に言おう。我々の目的は、この街で人を喰い続けている悪魔とその契約者の『排除』だ。君たちの目的とも一致する。そして――これも率直に言うが、我々は現時点で、そちらの奥方と事を構えたくない。理由は単純、余計な人死にを出したくないからだ。君と我々とでは、どちらが有利かは過去の戦績が雄弁に物語っている。なら、利害の一致するうちは手を組むのが合理的というものだろう? 情報は共有する。現場での動きは相談の上。悪くない話だと思うがね」

 僕は、すぐには答えられなかった。

 正直、怖かったというのもある。ついさっきこめかみに銃を突きつけられたばかりだ。この人たちは悪魔を狩るプロで、その「悪魔」には、黝さんも含まれている。共闘なんて言いながら、隙あらば僕らを――なんてことも、あり得るんじゃないか。こんな現場でにこにこ笑っているこのマルコさんという人の腹の底が、僕にはまったく読めなかった。

「お断りいたしますわ」

 黝さんが先に答える。その声には、はっきりと拒絶の意志が感じられた。

「悪魔のわたくしが、“教会”の犬どもと組む? まったくもって、ナンセンスですわね。この街の契約者をいただく前に、貴方がた全員食い殺してさしあげてもよろしいんですのよ?」

「おやおや、物騒だね。しかし『古き夜』、君がそれで良くても、君の主はどう考えるか――なあ少年、君はどう思う?」

 皆の視線が僕に向く。マルコさんとアルゴスという悪魔は、何かを見定めるようとする目。千々石さんは刃の切っ先のような鋭い目。そして黝さんは、(絶対反対!)とでも言いたげにじとっと僕を睨みつけてくる。

 僕はその中で、ちらりと千々石さんを見た。

 銃を下ろして、直立不動で立っている、同じクラスの女の子。この人たちは僕らと違って、事件の調査のプロだ。単独で僕らを追い詰めた腕もある。彼らの言葉を信じるか否かはともかく、敵に回すより味方でいてくれたほうが、ずっといいのは事実だ。それに――。

(……どうして、なんだろう)

 ふと、思ってしまった。

 千々石さんは、僕と同い年だ。十五か、十六。普通なら、テストの点とか、部活とか、そういうことで悩んでいる年頃のはずだ。それがどうして、銃なんか持って、血の海のビルに一人で踏み込んで、悪魔なんかを追っているんだろう。この子はいったい、どういう経緯で、こっち側の世界に立っているんだろう。

 聞けるわけもない疑問を、僕は飲み込んで、頭を下げた。

「……分かりました。よろしくお願いします」

「朔!」

「決まりだ」

 黝さんの悲鳴をよそに、マルコさんは僕に歩み寄ると、にっこり笑って手を差し出した。おずおずと握手に応じると、革手袋越しの手は、意外なほど強く、温かかった。

「くっ……契約者の決めたことは絶対……しかし、お待ちなさいな。一つだけこちらにも条件があります」

 黝さんが、つ、と進み出た。

「今回の獲物……悪魔憑きの魂は、わたくしたちがいただきますわ。これだけは譲れませんの。これが吞めなければ、やはりこの話はなかったこととさせていただきます」

 フロアの空気が、ひやりとした。

 悪魔憑き――つまり、犯人である契約者の魂を、食べる。その言葉を聞いた瞬間、千々石さんの眉が、ぴくりと動くのが見えた。

 マルコさんは、「うーん」と困ったように顎に手を当てて、少し考えた。

「立場上、『どうぞどうぞ』とは口が裂けても言えないな。教会の綱領には、魂の尊厳について、それはそれは長い章があるのでね」

「あら。では決裂かしら」

「――ただ、まあ」

 彼は、ふ、と目元を緩めた。

「現場というのは、綱領通りに動かないものだ。終わってみれば書類に書けることしか残らない、ということも、ままある。……その辺りは、うまくやっていこうじゃないか。お互いにね」

「……ふうん?」

 黝さんは、値踏みするようにマルコさんを眺めて、それから、くすりと笑った。

「言質は取りましたわよ、人間?」

「おお怖い」

 マルコさんは、大げさに肩をすくめてみせた。それから、ぽんと手を打った。

「では、実務の話をしよう。共闘となれば、連絡役が要る。幸い、うちの三輪は君たちと同じ学校、同じクラスだ。以後、彼女を専属の連絡役として付ける。情報共有も、現場での連携も、彼女を通してくれたまえ」

「――卿」

 千々石さんが、久しぶりに自分から口を開いた。

「異議を、申し立てます。私は……悪魔と、悪魔に与する者と、必要以上に関わることを望みません。連絡役は他の局員でも」

「他の局員は君の学校の生徒手帳を持っていないのでね。人材を送り込むにも時間がかかる。適材適所というやつだよ」

「ですが」

「三輪」

 マルコさんの声は、穏やかなままだった。穏やかなまま、有無を言わせなかった。

「命令だ」

「…………了解、しました」

 千々石さんは、感情のない声で応じて、口を閉じた。

 黝さんが、これ見よがしに、はーっとため息を吐いた。

「わたくしとしても不満ですわねえ。朔の頭に銃を向けた小娘と行動を共にしろと? 冗談がきついですわ。……まあ、よろしくてよ。ただし忠告しておきますわ、お嬢さん。わたくしの目の黒いうちは、朔に指一本、触れさせませんの。妙な気を起こしたら――分かってますわね?」

 千々石さんは、返事をしなかった。ただ、真っ向から黝さんを見返した。目をそらさなかったのは、たぶん、彼女なりの返事だった。

 ……前途多難すぎる。

 僕は、せめてもと思って、千々石さんに歩み寄り、手を差し出した。

「あの、千々石さん。その、色々あったけど……これから、よろしくお願いします」

 千々石さんは、僕の手を、じっと見た。

 三秒。五秒。

 それから、何も言わずに、くるりと踵を返し、フロアの出口へ歩いていった。

「…………」

 差し出した手が、行き場をなくして、夜の空気に取り残され、ガーンという効果音が、自分の背中にのしかかった気がした。

「ふ、ふふ。あっはっは! 振られましたわね、朔!」

「わ、笑わないでくださいよ……」

「さて、良い感じにオチもついたことだし、この場はここまでにしておこうか。よい取引が出来たこと、心より感謝するよ。アルゴス、引き上げようか」

 マルコさんは踵を返し、先に出ていった千々石さんの後に続き、出口の方へ向かう。アルゴスという悪魔も、彼のすぐ後ろに張り付くように移動していった。

「――ああ、少年。最後にひとつだけ」

 扉に手をかけ、今にも出ていこうとしていたその時、マルコさんは肩越しに僕の方に振り向き、こう言った。

「忠告しておこう。君の隣にいるその方はね、我々の分類では『特災甲種・筆頭』。観測史上、最古にして最悪の悪魔だ。分かりやすく言えば――誰にも制御できない、核爆弾だよ。君はそれと手を繋いで歩いている。そのことは、忘れないほうがいい」

「え――」

 核爆弾。

 その言葉を、僕は、すぐには打ち返せなかった。

 だって、思い当たってしまったからだ。彼女が異形の群れを鼻歌交じりに消し飛ばすところを、僕は見た。人間ひとりを、跡形もなく消すところも見た。彼女自身が「悪魔は嘘を吐く」と言い、僕の魂を「いつか食べる」と、笑顔で言った。マルコさんの言うことは、たぶん、何ひとつ間違っていない。彼女には確かにそういう恐ろしい側面がある。

 それを全部飲み込んだ上で――それでも、僕の胸の奥に、小さな引っかかりが残った。

「……あの、僕、黝さんとちゃんと喋って、まだほんの数日なんです」

「うん?」

 何か返事が返ってくるとはあまり思っていなかったのだろう。マルコさんは少し意外な表情で、僕の目を見つめる。

「だから、正直、彼女のことを全然知りません。あなたの言う通りの、恐ろしい何かなのかもしれない。……でも、それを言うなら、『核爆弾』かどうかも、僕はまだ、自分の目で確かめてません」

 僕は言葉を選びながら、慎重に続けた。僕の意志を、間違って伝えないために。

「この数日で僕が見た黝さんは、約束を守って、フェアであることに拘って、僕の命を二回助けてくれました。一緒にゲームセンターに行って、楽しんだりもしました。もちろん、それが全部だとは思いません。でも、それも確かに彼女だと思うんです。……よく知りもしないうちから、『危険物』だって札を貼って決めつけるのは、その……黝さんに、失礼だと思うから。僕は、自分で確かめてから決めます」

 マルコさんは、目を、少し見開いた。

 それから、僕の顔を、まじまじと見た。片眼鏡の奥の灰色の瞳が、初めて、値踏みとは違う色で僕を映した気がした。

「あ、す、すみません! つい偉そうなこと言っちゃって……助言は、その、ありがたくいただいていきます」

「……ふむ。契約して数日の少年が、あの『古き夜』を相手に、『まだ知らないから決めつけない』と来たか」

 彼は、ふ、と笑った。

「怖いもの知らずと言うべきか、大物と言うべきか。……いや、失敬。馬鹿にしたのではないよ。感心したんだ。長くこの仕事をしているとね、人間は二種類しか見なくなる。悪魔に怯える者と、悪魔に縋る者だ。君はそのどちらでもない。――伏見朔くん、だったね。覚えておこう。君個人に、少々興味が湧いた」

「は、はあ……どうも……?」

「褒めているんだよ。では、良い夜を。連絡は三輪から」

 マルコさんは、ひらりと手を振って、千々石さんの消えた夜の闇へと歩き去っていった。ステッキの音が、こつ、こつ、と遠ざかって、聞こえなくなった。


    六


 帰り道。終電間際の、がらがらの電車の中。

「……朔ぅ」

 隣の席の黝さんが、僕の肩に、ぐりぐりと頭を押し付けてきた。

「ちょ、な、なんですか急に」

 彼女は僕の腕に、そのまま、むぎゅっと抱きついた。柔らかい。いや違うそうじゃない。車内に他の乗客がいないのが唯一の救いだった。

「『よく知りもしないで決めつけるのは黝さんに失礼』。ふふ、ふふふ。数千年生きてきて、人間にあんなふうに言われたのは、初めてでしたわ」

「あ、あれは、思ったことを言っただけで」

「ええ、ですから嬉しいんですの。……ん-、決めましたわ。朔の魂、食べるのは当分先に延期して、我慢して差し上げます」

「延期じゃなくて中止にしてくれません?」

「ふふふ。それは貴方の頑張り次第ですわねえ」

 黝さんはご機嫌に僕の腕をぷらぷらと揺らしていたが、やがて、ふっと真顔に戻った。

「――それはそれとして、朔。ふたつ、忠告ですわ」

「忠告?」

「ひとつ。アナテマの連中を、信用しすぎないこと」

 窓の外を、夜の住宅街の明かりが流れていった。

「共闘は結構。ですけれど、あれは『そういう組織』ですのよ。目的のためなら、手段も犠牲も選ばない。あの若いお嬢さんも、あのにやけ面の男も、ね。……特にあのマルコとかいう男。ああいう、にこにこ笑って腹の底を見せない人間が、一番厄介ですの。悪魔のわたくしが言うのだから、間違いありませんわ」

「……覚えておきます。それで、ふたつ目は?」

「今回の獲物――蟲の悪魔についてですわ」

 黝さんは、僕の目をまっすぐに見た。

「悪魔そのものは、雑魚ですわ。断言してもよろしくてよ。わたくしが本気を出すまでもない、路傍の羽虫。ですけれど……その契約者には、深入りなさいますな」

「契約者に? 悪魔じゃなくて?」

「ええ」

「……どういう意味ですか、それ」

 黝さんは、少しの間、黙っていた。電車の走行音だけが、規則正しく響いていた。

「――そのうち、分かりますわ」

 結局、彼女はそれしか言わなかった。

 窓の外、遠ざかっていく駅裏のビル群の上に、細い月が出ていた。あの血の海のビルも、あの月の下のどこかにある。そして犯人も――悪魔と、その契約者も、同じ月の下の、どこかにいる。

 このときの僕は、その契約者のことを、まだ「敵」としか思っていなかった。

 顔も知らない、名前も知らない、人喰い悪魔の共犯者。

 その人が、どんな場所で生まれて、何を願って、どんなふうに悪魔と出会ったのか。

 僕はまだ、何ひとつ知らなかった。



   幕間1 しあわせのにおい


 ――ねえ、しってる?

 しあわせって、においがするんだよ。

 わたし、ちいさいころから、しってた。

 団地の三階の、角の部屋。夕方になると、隣の家から、カレーのにおいがした。おかえりーって声がして、ばたばたって足音がして、テレビの音がして、笑い声がして。壁一枚むこうの、しあわせのにおい。

 わたしの部屋はいつも、たばこと、お酒と、しらない男の人の整髪料のにおいがした。

 お母さんは、夜のお仕事をしていた。お父さんはいない。顔もしらない。写真もない。お母さんは機嫌がいいとコンビニのプリンを買ってきてくれて、機嫌がわるいとわたしを殴った。機嫌がいい日は、月に二回くらいだった。

 ごはんは、あったりなかったりした。おなかがすくとわたしは水を飲んで、はやく寝るようにした。寝ると、おなかがすいたのを忘れられるから。学校の給食が、わたしの命綱だった。おかわりすると男子に笑われるから、パンをこっそりポケットに入れて持ってかえった。

 そのころから、声が聞こえていた。

 みみのおくで、ざわざわ、ざわざわって。羽音みたいな、たくさんのちいさい声。なにをいってるかはわからない。でもさみしい夜ほど、その声はやさしく大きく聞こえた。

 病院の先生は、ストレスからくる幻聴でしょうって言った。お母さんは、気味わるい子、って言った。

 だからわたしは、聞こえないふりをおぼえた。いろんなことに、気づかないふりをおぼえた。

 冷蔵庫の中に何もないこと。参観日にだれも来ないこと。となりの子の筆箱があたらしいこと。先生がわたしの服のにおいに気づいて、ちょっとだけ眉をよせたこと。ぜんぶ、ぜんぶ、気づかないふり。

 だってわたし、しってたから。

 声にだして「たすけて」って言ったら、なにかが、こなごなにこわれちゃうって。

 こわれたら、もう、なおせないって。


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