第一話 第二章 同居人は契約悪魔
第二章 同居人は契約悪魔
一
翌日の教室は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
原因は僕だ。正確には、僕と黝さんだった。
「なあ伏見、おまえマジで何があったんだよ」
「なんであんたみたいなのが、彼女と一緒に登校してるのよ!」
「目撃情報出てんぞ。昨日、クローリィさんと二人で帰ったって本当か?」
「いや……なんというか……」
最悪だ。考えてみれば当然の騒ぎだった。学校一の高嶺の花である黝さんと、「クラスにいたっけ?」代表の伏見朔が、突然一緒に登校してきたのだ。僕らが同時に教室に入った時の空気が変わる瞬間を、僕は確かに感じ取った。
昨日の夜、黝さんに抱きかかえられて化け物どもから逃げた僕は、黝さんにそのまま自宅まで送り届けてもらった。黝さんは「残党狩りに行ってきますわ」と言い残し、夜の街に消えていった。僕は昨日あったことがあまりにもショックすぎて、いろいろ考えているうちにほとんど気を失うように眠りについた。
次の日、いつものように朝早く仕事に行く母さんを送り出し、自分も学校へ向かおうと玄関のドアを開けると、当然のように黝さんがそこにいた。ヤギのような黄金の瞳は、普段の深青色の瞳に戻り、僕らの高校の制服を着た彼女は、開口一番「一緒に学校へ行きますわ」と言った。こうして話は冒頭につながる。
休み時間になるたび、質問攻めの包囲網が僕の席に形成された。一時間目の後は同じクラスの男子。二時間目の後は廊下から他クラスの偵察部隊。三時間目の後にはなぜか上級生まで交じっていた。黝さんの方には少し近寄りがたいからか、彼女に話しかけるのはぽつぽつといるのみで、みんな僕の方ばかりに突撃しに来ていた。
「ちょっとお手洗いに……」
四時間目の後、僕は包囲網が完成する前に教室を脱出した。廊下を早足で進み、角を曲がり、階段を降りて、特別棟へ逃げ込む。このあたりまで来れば追手も――。
どんっ。
曲がり角で、大きな何かとぶつかった。
がらがらがら、ばさばさばさっ、と派手な音がして、僕の目の前で本の雪崩が起きた。誰かが押していたブックカートに、僕が突っ込んだのだ。
「わっ、ご、ごめんなさい!」
僕は慌てて頭を下げた。カートの向こうに、誰かが立っていた。見ると、それは見覚えのある女子生徒だった。
千々石三輪さん。同じクラスの、図書委員の子だった。
黒髪を肩の上で切り揃えた、地味――というと失礼だけど、控えめな雰囲気の子。教室では滅多に喋らず、休み時間はいつも文庫本を読んでいる。おそらく彼女の声を聞いたのは、片手で数えられるほどじゃないだろうか。実は勝手ながら、目立たないクラスメイト同士、ひそかに好感を一方的に抱いていたのは内緒だ。
千々石さんは、散らばった本と僕を交互に見て、小さく首を振った。
「……いえ。こちらこそ、廊下の真ん中にカートを」
「いやいや、完全に僕の前方不注意で……! 拾います、拾いますから」
僕はしゃがんで、床に散らばった本を集め始めた。ハードカバーの小説、文庫、図鑑。背表紙を揃えて、カートの上に積み直していく。千々石さんも黙ってしゃがみ、僕の手元を――本ではなく、なぜか僕の手そのものを、じっと見ていた。
「……伏見くん」
「は、はい」
「あなた、最近――」
千々石さんが何かを言いかけた、そのときだった。
「いたぞー! 伏見だ!」
廊下の向こうから、声がした。振り返ると、クラスメイトたちだった。
「ごめんなさい千々石さん、また!」
僕は最後の一冊をカートに載せると、脱兎のごとく駆け出した。背中に「あ、待て逃げるな伏見ー!」という声と足音の群れ。
角を曲がる寸前、ちらりと振り返ると、千々石さんはカートに手を置いたまま、じっとこちらを見ていた。
表情のない、静かな目だった。
なんだったんだろう、今の。
でもそのときの僕には、考えている余裕なんてなかった。なにせ好奇心全開のクラスメイトが五人、廊下を全力疾走で追ってきていたのだから。
二
放課後。
帰りのホームルームが終わった瞬間、僕は神速で教室を飛び出した。これで三日連続のダッシュである。今日のところは包囲網も黝さんも全部まとめて振り切って、一人になって頭を整理したかったのだ。
なにせ昨日の今日である。悪魔と契約してしまった。魂の抵当権付きの人生が始まってしまった。数ヶ月後の「支払い」のことも考えないといけない。考えることが多すぎる。とにかく一人の時間が必要だった。
全力の早歩きで十五分。今日は異界にも迷い込まず、無事に僕は家に着いた。
「ただいまー……」
誰もいないはずの家に、一応の挨拶をして玄関を開ける。その時だった。
「おかえり、朔!」
元気な声が返ってきて、僕は靴を履いたまま固まった。
廊下の奥から、スーツ姿の女の人がぱたぱたと出てくる。うちの母、伏見望月。商社勤めの、いわゆるサラリーマンだ。普段は仕事が忙しく、朝早く出て夜遅く帰ってくるので、平日のこの時間に家にいるのは珍しい。
「か、母さん。どうしたの、こんな時間に」
「ふふ、驚いた? 外回りで近くに来たから、忘れ物取りにいくついでに寄ったの。大事な書類、机に置きっぱなしで。もー、朝のわたしのばか」
母さんは自分の頭を軽くこつんと叩いてみせた。会社ではいわゆる「できる女」で通っているらしいのだが、家での母さんは大体こんな感じである。
「それより朔、ちょうどよかった。夕飯なんだけど、冷蔵庫に豚こまあるから――」
と、母さんの視線が、ふと僕の後ろに移った。
「――ところで」
母さんは、にこにこと、実ににこにこと笑った。
「そちらの可愛い方は、どなた?」
「え?」
僕は振り返った。
黝さんが、僕の真後ろに立っていた。
「うわああああっ!?」
僕は文字通り飛び上がった。玄関の三和土で靴が脱げて転がった。
「い、いっ、いつから!? いつからそこに!?」
「校門からずっとですわよ?」
黝さんは小首を傾げた。
「朔ったら、また約束を放り出して逃げるんですもの。仕方なくついてまいりました」
「気配! 気配を消さないでよ!」
「消してませんわ。朔が周りを見ていないだけです」
ぐうの音も出なかった。確かに学校から家までの道中、僕は周りなんて一切見ていなかった。
「あらあらあらあら」
母さんの目が、みるみる輝いていくのが分かった。まずい。この目は、まずい。
「初めまして。朔の母の、望月です。あなたは?」
「お初にお目にかかります、お母さま」
黝さんは、外面全開の、それはもう完璧なお嬢様の礼をした。
「黝・ラヴィニア・クローリィと申します。朔さんとは同じクラスで、その……仲良くさせていただいておりますわ」
「ま、ま、ま」
母さんは口元を両手で押さえた。
「朔に、こんな綺麗なお友達が……! え、待って、お友達? お友達でいいの? それとももしかして、か、かの――」
「友達! 友達です! クラスメイトです!」
僕は全力で遮った。「悪魔と契約者です」とは口が裂けても言えない。
「そうなの~?」
母さんは、めちゃくちゃにやにやしながら僕と黝さんを交互に見た。信じてない。絶対信じてない。
「ごめんなさいね、クローリィさん。わたし、これから会社に戻らなきゃいけなくて。ゆっくりしていってね。朔、お客様にお茶くらい出すのよ? あと冷蔵庫にケーキの残りが……はないか、昨日わたしが食べちゃったか。えーと、戸棚にお煎餅が」
「いいから! 母さん仕事! 遅刻する!」
「はいはい。じゃあクローリィさん、また来てね。今度はゆっくり、朔の小さい頃の話とか」
「それは楽しみですわ」
「しなくていいから!」
母さんはにこにこと手を振りながら、玄関を出ていった。ドアが閉まる直前、僕にだけ見えるように、ぐっ、と親指を立てていった。何のグッドだ。
嵐が去った玄関に、僕と悪魔が残された。
「素敵なお母さまですわね」
「……どうも」
僕はため息をついて、観念して黝さんを家に上げた。仮にも――仮にもというか正真正銘、命の恩人であり、契約相手だ。玄関先で追い返すわけにもいかない。
「じゃあ、その、お茶淹れるんで。適当に僕の部屋で待っててください。階段上がって右です」
「ええ、お邪魔しますわ」
僕は台所でやかんを火にかけながら、来客用の茶葉を探した。そういえば友達を家に上げるのなんて、中学以来かもしれない。その記念すべき復帰第一号が悪魔とは。人生、本当に何があるか分からない。
お茶を淹れて、盆に載せて、自分の部屋の襖を開けた僕は、絶句した。
「くつろぎすぎでは?」
黝さんが、僕のベッドに寝そべっていた。うつ伏せで、足をぱたぱたさせながら、僕の本棚の漫画を読んでいた。しかも枕元には、どこから持ち込んだのか、開封済みのポテトチップスの袋が鎮座していた。
「あら、おかえりなさいまし」
「ここ僕の家ですけどね? というかそのポテチどうしたの」
「そこの棚にあったものを開けましたわ。ありがたく頂戴してますわ」
「ちょっ、それ僕のなんですけど! なんで勝手に食べてるの!」
「おほほ、契約者のものはわたくしのもの。わたくしのものはわたくしのものですわ~」
「どこのガキ大将だ……はぁ……もういいや」
さっきから突っ込みしすぎて、何かもう悟りの境地に至りそうだった。
「はい、お茶。それと、ベッドから降りてください。ポテチの油がつくので」
「はぁい」
黝さんは不満そうに身を起こすと、座卓の前にぺたんと座った。学校での完璧なお嬢様はどこへやら、その辺の休日の高校生と変わらない、だらけきった座り方だった。
「……なんか、学校と違いません?」
「あら。ばれまして?」
彼女は湯呑みを両手で包んで、悪びれもせず言った。
「あちらは営業用ですわ。人間社会に紛れるための。こちらが素ですの。――ああ、それとも営業用のほうがお好みでして? 『まあ朔さんったら、うふふ』」
「やめてください素でいいです」
「ふふ、素直でよろしい」
黝さんはお茶をずずっと啜り、ポテトチップスを一枚かじり、それから、す、と居住まいを正した。そこで空気が変わった。
「――さて、朔。今日お邪魔したのは、他でもありません。契約について、改めてきちんとご説明するためですわ。昨日は緊急事態でしたから、端折った部分も多かったので」
「……お願いします」
僕も座り直し、膝の上で拳を握る。黝さんはそれを確認すると、まるで教師が教え子にものを教えるように語りだした。
「まず大前提。この契約は、貴方が死ぬまで続きます。解約条項はございません」
初っ端から重かった。
「貴方の義務は、わたくしの空腹を満たすこと。おおよそ数ヶ月に一度、わたくしは魂を必要とします。期限までに供せられなければ――昨日申し上げた通り、貴方の魂をいただきます。ここまでは復習ですわね」
「はい……」
「対して、わたくしの義務は二つ。ひとつ、貴方をあらゆる魔の者から守ること。ふたつ、貴方の願いを叶えること。この二つは契約に刻まれた絶対の約定です。わたくしの気分や好き嫌いで反故にすることはできません。……ここ、大事なところですわよ。悪魔は嘘を吐きますが、契約は破れませんの」
「悪魔は嘘を吐くんだ……」
「吐きますわよ、それは。悪魔ですもの」
黝さんは堂々と言った。妙な信頼感があった。
「次に、仕組みのお話。昨日、わたくしが貴方の血をいただいたことで、わたくしと貴方の魂は繋がりました。わたくしはこの繋がりを通して、貴方の魂からエネルギーを引き出し、力を行使します」
「エネルギー……」
「ええ。魂のエネルギーとは、すなわち――欲望ですわ」
黝さんの黄金の瞳が、すっと細まった。
「欲しい。したい。なりたい。許せない。愛したい。奪いたい。人の抱く限りない欲望こそが、悪魔を動かす燃料。人が強く望めば望むほど、悪魔は強大な力を振るえ、願いを叶えられる。逆に言えば――」
彼女は僕を、じっと見た。
「契約者が何も望まなければ、悪魔は大した力を出せませんの」
「……あの、それって」
僕はそこで手を挙げて、質問を出した。
「僕、昨日あなたに助けてもらったとき、その、『助けてください』しか望んでないんですけど。もしかして」
「ええ。ですから現状、わたくしが自由に使える力は、命の危機から貴方を守ることに関わる分だけ。ほんの、さわりの、さわりですわ」
黝さんは、ぱりん、とポテトチップスを一枚噛み砕いた。
「まあ、それでも昨日の有象無象程度なら鼻歌交じりですけれど。――それでね、朔。ここからが本題なのですけれど」
「は、はい」
「貴方、何かないんですの? 望み」
黝さんは、ずいっと身を乗り出した。
「富? 名声? 異性にもてたい? テストで学年一位? 気に食わない人間を懲らしめたい? なんでもよろしくてよ。ほら、遠慮なさらず。どーんと」
「望み……望みかぁ……」
僕は考えた。真剣に考えた。考えた結果、ある一つの望みが脳裏に浮かんだ。
「……平和な日常、とか?」
黝さんの動きが、ぴたりと止まった。
「へいわなにちじょう」
「はい。その、今まで通り、朝起きて、学校行って、帰ってきてご飯食べて寝る、みたいな。誰も傷つかなくて、何事もない毎日が続けばいいなって」
しばしの沈黙。
黝さんは湯呑みを置き、額に手を当て、天を仰いだ。
「はぁーーーーー……」
「え、なに、そのため息」
「あのですわね、朔」
彼女はじとりと僕を睨んだ。
「それは欲望ではありませんの。現状維持ですわ。ゼロですのよゼロ。分かりまして? わたくし、燃料が欲しいと申し上げているのに、貴方ときたら『ガソリンは結構です、車は車庫に置いて家にいるのが好きなので』と。そういうことを仰っているのですわよ」
「うぐ……で、でも、本当にそれくらいしか」
「嘘おっしゃい」
黝さんの声が、少しだけ低くなった。
「数千年、人間を見てきましたのよ、わたくし。欲のない人間なんて、ただの一人もおりませんでしたわ。聖人と呼ばれた者にも、赤子にも、死にかけの老人にも、欲はあった。貴方の中にもありますわ。まだ形になっていないだけ。もしくは、本人が見ないふりをしているだけ。……わたくしはね、朔」
彼女は、にい、と笑った。営業用でも素でもない、悪魔の笑みだった。
「貴方の中に住む悪魔が見たいのですわ」
一瞬、部屋の温度が二度くらい下がった気がした。彼女はすぐに「――と、いうわけですの。うふふ」といつもの調子に戻ったけれど、僕の背中の冷や汗は戻らなかった。
僕の中の、悪魔。
欲望。
そんなもの、本当にあるんだろうか。あるとしたら、それは、何なんだろうか。
三
「話は変わりますけれど」
お茶のお代わりを二杯飲み干した頃、黝さんが言った。
「この街に潜んでいる、もう一組の悪魔と契約者のこと。覚えていまして?」
「昨日の、罠を仕掛けてるっていう……」
「ええ。あれを、探しますわよ。わたくしと貴方で」
「…………」
目を背けていた話が突然来た。僕は湯呑みを持ったまま固まった。
「探して、どうするんですか」
「決まっていますでしょう。狩るんですのよ」
黝さんは、こともなげに言った。
「貴方の次のお支払い、どうなさるおつもり? 悪魔の契約者の魂が一番の上物と、申し上げましたわよね。ちょうどこの街に一人いますのよ。しかも、放っておけば人を喰らい続ける、危険な手合いが。昨日の貴方も、それを考慮して契約したはずですわ」
「で、でも、いきなり狩るとか、そんな心の準備が」
「では心の準備ができるまで、放置なさいます?」
黝さんの声は、静かだった。
「連中の罠は、既に街のあちこちに張られています。昨日貴方が迷い込んだような網が、今この瞬間にも罪なき人々を捕えているかもしれない。あそこに迷い込むのは、貴方のような『視えてしまった』人間だけではありませんのよ。魔力の素養がある者、心が弱った者、運が悪かった者――普通の人間も、掛かります。掛かった者がどうなるかは、ご覧になった通り。そして誰にも気づかれません。魂ごと消えるか、あるいは『家出』か『失踪』として処理されるだけ」
「……」
「悪魔は、餌場を見つけると際限なく肥え太りますの。最初はこっそり、一人、また一人。やがて隠す必要すら感じなくなって、十人、百人。歴史上、大勢の人間が一度に死んだ場所には、大抵わたくしどもの同類が絡んでいますわ。疫病、飢饉、虐殺、戦争。あの大戦の裏にも、いたと言われております。……今この街で起きていることは、その一番最初の、小さな小さな芽ですわ」
黝さんは、湯呑みの底を見つめる僕に、静かに問うた。
「摘まずにおいて、放置した先で大勢が喰われるのを、貴方は許せまして?」
――ずるい聞き方だと思った。
無論、昨日契約した時点で覚悟していた話だ。僕は彼女に守ってもらう代わりに、彼女に魂を提供しなくちゃならない。そのためにこの街に巣くう悪魔を退治する。それ自体はすでに納得がいっている話だ。とはいえ、覚悟を決めたからといって恐怖を感じなくなるわけじゃない。怖い。怖いに決まってる。僕を食らおうとした化け物の姿を思い出しただけで、今でも震えが止まらなくなる。
でも――でも、昨日のあの路地に、もし僕じゃなくて、別の誰かが迷い込んでいたら……それを僕は見て見ぬふりをできるのだろうか。何も知らなかった以前の僕のように、関係ない非日常の世界として。
「……分かってますよ」
ほんの少しの沈黙のあと、僕は消え入りそうな声で言った。
「やるしかないってことくらい。それに、無関係な人が襲われて知らんぷりできるほど、僕は図太くはないんです。やる――やりますよ」
「二回言いましたわね」
「自分に言い聞かせてるんです」
「ふふ。結構ですわ」
黝さんは満足そうに頷いた。
「とはいえ、闇雲に探し回っても仕方ありませんの。夜見中市は広うございますし、向こうも巣の場所は巧妙に隠しておりますわ。罠の残滓から辿るにも、昨日の網はもう畳まれてしまいましたし。――当面は、連中が次に動くのを待つしかありませんわね」
「待つって、それまでは……?」
「普段通りですわ。学校に行って、お勉強して、お家に帰る。事件が起きたら、動く。それだけですの」
「な、なんだ……じゃあ、それまではいつもの日常――」
「ああ、それと」
黝さんは、実にさらりと付け加えた。
「今日からわたくし、この家に住みますので」
「――はい?」
時が止まった。
「今、なんて」
「ですから、今日からこの家に住みますの。朔のお隣で寝起きしますわ」
「なんで!?」
僕は叫んだ。叫ぶしかなかった。
「悪魔と契約者は一心同体。切っても切れぬ魂の仲ですのよ? それにわたくし、契約により貴方を守る義務がございますの。魔の者が、律儀に学校の外や登下校の時間を避けて襲ってくれるとでも? 昨日の今日で、よくそんな暢気なことを」
「そ、それはそうかもだけど! でも住むのは違うでしょ!? プライベート! プライベートってものがあるでしょ!」
「契約のほうが大事ですわ」
「僕の生活は!?」
「契約のほうが大事ですわ」
「同じ台詞繰り返さないでよ!」
それから三十分、僕と黝さんは押し問答を繰り広げた。僕は「近所に部屋を借りればいい」「通いでいい」「せめて外泊」等々あらゆる対案を出し、黝さんはそのすべてを「契約」「義務」の言葉で叩き落とした。数千年生きている悪魔は、議論においても数千年分しぶとかった。
そして僕は学んだ。この悪魔は、一度こうと決めたら絶対に折れない。
「……分かりましたよ、もう」
僕は白旗を上げた。
「……父さんの部屋なら、空いてるから。そこでよければ」
「あら。お父さまのお部屋?」
「うち、父さんはもういないんです。五年前に、病気で。……部屋はそのままにしてあるんですけど、物はあらかた整理してあるし、布団を入れれば寝られるはずなので」
黝さんは、一瞬だけ、何か言いたそうに僕を見た。でも結局何も言わず、「では、拝見しますわ」とだけ言った。
僕は黝さんを、廊下の突き当たりの部屋に案内した。
襖を開けると、少し埃っぽい、静かな空気が流れ出た。六畳の和室。空っぽの本棚と、古い文机。そして棚の上に、写真立てがひとつ。
黝さんは部屋に入ると、まっすぐ写真立ての前に立った。
「……こちらが、お父さま?」
「はい。伏見誠一郎。学者だったんです。宗教文化の研究してて、世界中の神様とか悪魔とかの伝承を集めてて……あ」
言ってから気づいた。
「悪魔の研究してた人の部屋に、本物の悪魔が住むのか……」
「あら、素敵な巡り合わせじゃありませんの」
黝さんはくすりと笑って、写真の中の父さんを見つめた。穏やかに微笑む、痩せた男の人。僕が十歳のときの、最後の家族旅行の写真だ。
「優しそうな方ですわね」
「……優しかったですよ。身体は弱かったけど。ずっと入退院繰り返してて、僕が十歳のときに」
僕は写真の横の埃を、指でそっと拭った。
「亡くなる少し前に、僕、言われたんです。遺言っていうか……『何者にもなれなくてもいい。ただ、悔いのない人生を送ってほしい』って」
「……ほう」
「変な遺言でしょ。普通、逆じゃないですか。立派になれとか、夢を持てとか。でも父さんは、何者にもなれなくていい、って。……僕、その言葉だけ守って生きてきたんです。だから僕、平和な日常が好きなんですよ。無理して何かになろうとしなくても、悔いなく生きられるなら、それでいいって」
黝さんは、しばらく写真を見つめていた。
それから、ぽつりと言った。
「――悔いのない人生、ですか」
「はい?」
「いいえ。……数千年生きて、いろんな人間の死に際を見てきましたけれど。悔いなく死んだ人間なんて、数えるほどしか見たことがないものですから」
彼女の声には、いつもの芝居がかった調子がなかった。
「お父さまは、ご自分がそれを痛いほど分かっていたから、貴方にそう遺したのかもしれませんわね」
僕は、何も言えなかった。
黝さんは、ふ、と表情を緩めると、写真立てに向かって、丁寧に頭を下げた。
「お父さま。しばらくの間、お部屋をお借りいたします。息子さんの魂は――」
そこで彼女は、ちらりと僕を見て、悪戯っぽく笑った。
「今のところ、いただく予定はございませんので、ご安心を」
「『今のところ』が怖いんですよ……」
そこまで言って、僕はふとあることを思いだした。
「ところで、母さんにはなんて説明するのさ」
「ああ、心配ご無用ですわ。こちらで何とかいたしますわ」
「何とかって……変なことはしないでよ?」
「心配ご無用ですわ。おほほほほ」
高笑いをする黝さんを見て、胃がキリキリと痛むのを感じた。
四
その夜。
夕飯(豚こま生姜焼き・僕作)を黝さんは三人前平らげ、今日は泊まり仕事の母さんへは「友達が泊まるから」と連絡し(電話口の母さんの浮かれ声がひどかった)、押し入れから客用布団を引っ張り出し、なんやかんやで同居初日の夜は更けた。
僕は自分の部屋で、ベッドに転がって天井を見ていた。
(……なんか、すごいことになったなあ)
三日前の僕に教えてやりたい。おまえは三日後、悪魔と契約して、悪魔と同居している。信じないだろうな。僕だって信じてない。
魂の支払い。悪魔狩り。僕の中の欲望。考えるべきことは山ほどあったけど、不思議と、あの絶望的な恐怖はもうなかった。隣の部屋に、あの規格外の悪魔がいる。それが恐ろしいことのはずなのに、どこか――ほんの少しだけ、心強いと感じている自分がいた。
我ながら、現金なものだ。
(まあ、なるようになるか……父さん、見ててよ。僕、なんとか悔いなくやってみるから……)
うとうとと、意識が溶けかけた、そのときだった。
がらり。
部屋の襖が、ノックもなしに開いた。
「朔ー。タオルはどこですの?」
「ふぇ? タオル? 脱衣所の棚の上から二段目に……」
寝ぼけ眼で身体を起こした僕は、そのまま石化した。
黝さんが、一糸まとわぬ生まれたままの姿で、戸口に立っていた。
湯上がり――ではなく、これから浴びるところらしい。赤みがかった長い髪が素肌の肩に流れて、廊下の明かりを背にした輪郭が、その、なんというか、あの。
「〜〜〜〜っっ!?」
僕は無言で枕元のタオルケットを頭から被った。
「棚っ! 脱衣所の棚! 上から二段目! あります! あるから!」
「あら、先ほど見ましたけれど、ありませんでしたわよ?」
「じゃあ洗面所の下! ストックが! というか服! 服を着て!」
「これから脱ぐのに着る意味がありまして?」
「常識の話をしてるんです!」
タオルケットの隙間から、くすくすと笑う声が聞こえた。完全に面白がっている。
「初心ですわね~。ほらほら、見たいならじっくり見て構いませんことよ?」
「見せないでください!」
「おほほほ、では、洗面所の下、拝借いたしますわ」
襖が閉まって、鼻歌交じりの足音が浴室のほうへ遠ざかっていく。
僕はタオルケットを被ったまま、ベッドに沈み込んだ。心臓がばくばくいっていた。悪魔への恐怖とはまったく別の理由で。
(……これから、どうなっちゃうんだろう、僕の生活……)
廊下の向こうから、シャワーの音と、ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。
僕は、今日何度目か分からない、深い深いため息を吐いた。
こうして、僕と悪魔の同居生活が始まった。
なお、翌朝。朝食の席で黝さんが当然のように隣に座っているのを見た母さんは、何事もなく彼女を受け入れていた。なんでも僕が目覚める以前、朝帰りの母さんに色々と「お願い」をしたらしい。こうして彼女は正式に我が家の居候として、住まうことになった。僕の胃に大変な負担がかかったことを、記録として残しておく。




