第一話 第一章 悪魔は放課後に微笑う
プロローグ 悪魔と教室
人間には、見てはいけないものがある。
たとえば、母さんが徹夜明けに化粧を落とした直後の顔。たとえば、テストの返却日に机の中へ隠したまま忘れていた前回の答案。たとえば、仲のいい友達のスマホの通知画面。
それらは見てしまっても、せいぜい気まずくなるだけで済む。謝ればいいし、忘れたふりをすればいい。世界は今日も続いていく。
でも、この世界には本当に、本当に見てはいけないものがある。
見てしまった瞬間、昨日までの日常が音を立てて崩れ、二度と戻れなくなるようなもの。
僕――伏見朔は、高校に進学した直後、五月のある放課後にそれを見た。
忘れ物をした。ただそれだけだった。数学の問題集を机の中に置き忘れて、昇降口まで行ってから気づいて、僕は誰もいないはずの校舎を引き返した。夕暮れの廊下はオレンジ色に染まっていて、遠くから吹奏楽部のチューニングの音が聞こえていた。どこにでもある、平和な放課後だった。
教室の引き戸に手をかけたとき、中から音がした。
ぐちゅ、と。
なにか湿ったものを、噛む音。
僕は――どうしてそうしたのか、いまだに分からないんだけど――戸を開ける代わりに、ほんの数センチだけ開いていた隙間から、中を覗いてしまった。
夕陽の差し込む教室の真ん中に、彼女がいた。
黝・ラヴィニア・クローリィ。
うちのクラスの、というより学年の一番の有名人。イギリス人と日本人のハーフの帰国子女で、わずかに赤みがかった長い髪と、作り物みたいに整った顔立ちの美少女。成績は学年トップ。教師にすら丁寧語で話しかけられている、住む世界の違う人。
その黝さんが、教室の真ん中で、人を食べていた。
比喩じゃない。
彼女の細い両手は、制服姿の男子の――同じクラスの久保寺の――肩を掴んでいて、彼女の口は、久保寺の胸のあたりに、深々と、埋まっていた。
ぐちゅ、ぐちゅ、と音がするたび、久保寺の身体が薄くなっていくように見えた。食べられているのに血が一滴も流れていなくて、それがかえっておかしかった。久保寺の身体は日なたに置いた氷みたいに輪郭を失っていって、彼の顔は――笑っていた。恍惚と、まるで世界一の幸福の中にいるみたいに、笑ったまま、薄れていった。
やがて彼女は、口を離した。
久保寺だったものは、もうどこにもなかった。制服も、鞄も、上履きも、何もかも。最初からそこに誰もいなかったみたいに、夕陽の中には黝さん一人だけが立っていた。
彼女は口元を、白い指先でそっと拭った。
そして、満足げに、言ったのだ。
「――ごちそうさまでした」
律儀に、両手を合わせて。
僕は声を出さなかった。出せなかった。心臓が喉までせり上がって、肺が呼吸の仕方を忘れていた。
そのとき、黝さんの首が、こちらを向いた。
黄金色の瞳。その中心で、ヤギみたいに横長の瞳孔が、すっと細まる。
目が、合った――と、思う。
次の瞬間、僕は駆けていた。忘れ物なんかすでにどうでもよく、必死に学校からの帰り道を全力で走った。気がつくと僕は自分の部屋のベッドの上にいて、学生服は汗でびしょ濡れで、心臓はまだ全力疾走を続けていた。
夢だ――僕は自分に言い聞かせた。
あれは夢だ。じゃなきゃ見間違いだ。たまたま夕焼けが落とす影の角度がああ見えただけだ。人間が人間を食べるわけがない。だいたい食べてたとして血の一滴も出ないなんて物理的におかしいじゃないか。おかしいってことはつまり現実じゃないってことで、現実じゃないなら僕は何も見ていない。証明終了。今日はもう寝よう。
その夜、僕は一睡もできなかった。天井の木目がぜんぶ横長の瞳孔に見えて仕方がなかった。
第一章 悪魔は放課後に微笑う
一
翌朝の教室は、拍子抜けするくらい普通だった。
日直が黒板に日付を書き、誰かが小テストの範囲を聞いて回り、窓際では男子が昨日のサッカーの試合の話をしている。カーテンが風で膨らんで、チョークの匂いがして、何もかもがいつも通りだった。
僕は自分の席に鞄を置くと、できるだけ自然な動作で教室を見回した。
黝さんの席は窓際の一番後ろ。まだ来ていない。
そして、久保寺の席は――。
……あれ。
久保寺の席って、どこだっけ。
僕は記憶を辿った。確か廊下側の前から三番目。昨日までそこに久保寺は座っていて、休み時間のたびに後ろの席の奴と携帯ゲームの話をしていて――でも今、そこには別の女子が座って、友達と昨日のドラマの話をしている。
僕は近くにいた中学からの顔見知りに、努めて軽い調子で聞いてみた。
「な、なあ。久保寺って今日休み?」
「くぼでら?」
彼はきょとんとした顔で僕を見た。
「誰それ。二組の奴?」
「いや、うちのクラスの……ほら、廊下側の前から三番目に座ってた」
「あそこは入学式からずっと佐伯さんの席だろ。おまえ寝ぼけてんの?」
彼は笑って、僕の肩を軽く叩いて、自分の席へ戻っていった。
背中を冷たいものが伝った。僕は動けなかった。
念のため、同じ質問を別の二人に聞いた。結果は同じだった。誰も久保寺を知らなかった。出席簿を廊下からこっそり覗き込むと、「く」の欄に久保寺の名前はなく、名簿の番号は一つも欠けることなく、綺麗に詰まっていた。
久保寺亮という人間は、この世界に最初からいなかったことになっていた。
覚えているのは、僕だけ。いや――もしかしら多分、もう一人。
「――おはようございます、伏見くん」
真後ろから声がして、僕は文字通り飛び上がった。膝が机の裏に激突して、派手な音が鳴り、クラスの何人のの視線が一瞬こちらに集まる。
振り返ると、黝・ラヴィニア・クローリィが立っていた。
朝の光の中で見る彼女は、ため息が出るほど綺麗だった。赤みがかった髪が窓からの風に揺れて、黄金色の瞳が僕をまっすぐに見ている。瞳孔は――普通だった。丸い、人間の瞳孔。
「あ……お、おはよう、ございます……黝さん」
声が完全に裏返った。冷ややかな汗が頬を伝う。
彼女はにっこりと微笑んだ。育ちの良さがにじみ出るような、上品で完璧な微笑みだった。
「昨日は忘れ物、見つかりましたか?」
心臓が飛び出すと思った。
やっぱり見られていた。あれは夢じゃない。見間違いでもない。ベッドの中で証明終了とか言ってた昨夜の僕を殴りたい。
「あ、いや、その……」
「放課後」
彼女は僕の言葉を柔らかく遮って、少しだけ声を落とした。
「少しお話ししたいことがあります。授業が終わったら、教室に残っていていただけますか」
断る、という選択肢が頭をよぎった。よぎったが、口から出たのは「は、はい」という蚊の鳴くような声だった。
「よかった。では、また後で」
黝さんは花のように微笑んで、自分の席へ歩いていった。すれ違いざま、彼女の髪からふわりと甘い匂いがした。お菓子みたいに甘く、でもどこか錆びた鉄のような匂いだった。
二
六限目の終わりを告げるチャイムが鳴ったとき、僕はすでに決めていた。
逃げよう。
考えてみてほしい。「お話ししたいことがあります」って、あの状況で言われる「お話」に、ろくな内容があるわけがない。口封じ。どう考えても口封じだ。教室に残る=食べられる、の一択だ。僕は昨日、久保寺が食べられる工程を間近で見ている。次は僕が彼女の主食になる番だ。冗談じゃない。
僕、伏見朔、十五歳。特技は目立たないこと。趣味は平和な日常。座右の銘は「頑張って悔いのない人生を送ること」。こんな僕にできる唯一のことは、全力で逃げることだけだ。
帰りのホームルームが終わった瞬間、僕は席を立った。教科書もノートも机に突っ込んだまま、鞄だけ引っ掴んで、脇目も振らず教室を出た。背中に視線を感じた気がしたけど、振り返らなかった。
昇降口で靴を履き替える時間すらもどかしかった。校門を出て住宅街を抜ける通学路を、僕はとにかく走った。昨日に続いて、二日連続の全力疾走だった。
五分ほど走って、ふと様子がおかしいことに気づいた。
家に――着かない。
僕の家は学校から歩いて十五分。勝手知ったる地元の道だ。目をつぶってもたどり着ける自信がある。二本目の角を右、酒屋の前を左、公園を突っ切って橋を渡れば、すぐにうちの屋根が見えるはずだ。
その公園が、ない。
二本目の角を右に曲がって、酒屋の前を左に曲がったはずなのに、目の前にあるのはさっき通ったはずの二本目の角だった。
「……は?」
僕は立ち止まった。周囲を見回すと、そこは見慣れた住宅街に、見慣れた電柱、見慣れたブロック塀。なのにどこかがおかしい。
まず人がいない。夕方の住宅街なのに、買い物帰りの主婦も、下校中の小学生も、犬の散歩のおじいさんも、誰もいない。
次に、音がない。車の音も、どこかの家のテレビの音も、鳥の声すらしない。聞こえるのは僕自身の足音と呼吸だけ。
そして、極めつけは空の色。
夕焼けにしては、赤すぎた。
まるで空全体が生肉の断面みたいな、湿った赤。太陽はどこにも見当たらないのに、影だけが地面に長く、長く伸びている。しかもその影は、どこか僕の動きと微妙にずれて動いている気がした。
スマホを出す。圏外。時計は17時23分で止まっている。秒数の針だけが、ひたすら5秒と6秒の間で痙攣していた。
「落ち着け……落ち着け僕……」
とりあえず来た道を戻ろう。パニックで様子がおかしく思えているだけだ。そう思って振り返った僕は、そこにいた「人」と目が合った。
買い物袋を提げた、エプロン姿のおばさん。一瞬ほっとしかけたその時、あることに気が付いた。
顔の位置に、顔がなかった。
のっぺりとした肌色の面に、口だけが、あった。耳から耳まで裂けた口が、面の下半分いっぱいに、ずらりと並んだ細かい歯を見せて笑っている。
「ひっ――」
おばさんだったものが、一歩、こちらに踏み出す。関節を無視した動きで、がくん、がくんと。
僕は走り出した。全力で、足がもつれるのも構わず走った。
角を曲がる。裂けた口の郵便配達員が立っていた。逆方向へ走る。路地の奥から、黒い靄のようなものがごぼごぼと沸き出して、その中から犬とも蜘蛛ともつかない形のものが這い出してくる。ブロック塀の上を、逆さまに歩く6本の腕を持った子供が僕と並走してくる。
「なんだよ……なんなんだよこれ……!」
走っても走っても、景色は同じ場所をループした。二本目の角。酒屋。二本目の角。酒屋。まるで世界がそこしか残っていないみたいに。そして一周するごとに、路地から溢れる異形の数は増えていった。
やがて僕は、行き止まりに追い込まれた。
来た道を振り返ると、道幅いっぱいに、それらがひしめいていた。裂けた口。無数の目。濡れた体表。折れ曲がった手足。数十の異形が、僕を半円状に取り囲んで、じり、じりと距離を詰めてくる。
腰が抜けた。文字通り、すとんと尻餅をついた。
ああ、これ、死ぬやつだ。
変に冷静な部分がそう告げた。食べられるんだ、僕。久保寺みたいに綺麗に消えるんじゃなくて、もっとぐちゃぐちゃに食い散らかす感じに。
痛いのかな。痛いんだろうな。嫌だな。怖いな。母さん、ごめん。親父に続いて、先立つ不孝をお許しください。
一番近くの異形が、大きく口を開けた。喉の奥まで歯が生えていた。
そして、それは僕に――届かなかった。
「――はい、そこまで」
鈴を転がすような声がした。
異形の巨体が、爆ぜた。まるでパンパンに膨らんだ風船に、針を刺したみたいに。そのまま異形は黒い靄になって消えた。
僕と異形の群れの間に、いつの間にか、一人の少女が立っていた。
夕焼けよりも赤い髪が、風もないのにゆらりと揺れる。うちの学校の制服。細い背中。振り向いた横顔で、黄金の瞳が笑っていた。
瞳孔は――横長だった。
「黝……さん……」
「随分と俊足ですのね、伏見くん」
黝・ラヴィニア・クローリィは、教室で聞くのと同じ、上品で完璧な声で言った。
「教室で待っていてくださいと、お願いしましたのに。おかげで探しましたわ」
「あ、あの、それは、その」
「まあ、いいでしょう。積もる話は後にして――」
彼女は僕に背を向けたまま、群がる異形たちへ、ひらりと手を振った。まるで野良猫でも追い払うような、軽い仕草だった。
「散りなさい、有象無象ども。これはわたくしの獲物ですわよ」
異形たちが、一斉に黝さんへ殺到した。
何が起きたのか、僕にはよく見えなかった。
黝さんの輪郭が一瞬だけ滲んで、影が膨らんで、次の瞬間には、殺到した異形の前列がまとめて消し飛んでいた。彼女の白い手が異形の一体を無造作に掴むと、それは悲鳴のような音を立てて黒い靄に還り、彼女はその靄を、ずずっ、と啜った。
「んー……薄い。出涸らしですわね。餌のくせに生意気な」
文句を言いながら、彼女は歩く。一歩進むごとに、異形が一体、形を失う。触れてもいないのに潰れ、裂け、解けていく。彼女の周りだけ赤い空が歪んで、まるで世界のほうが彼女を怖がって道を空けているみたいだった。
圧倒的、という言葉の意味を、僕はこのとき生まれて初めて本当に理解した。
三十秒もかからなかったと思う。気づけば路地はしんと静まり返り、真っ赤だった空は元の夕焼けに戻り、電柱の上でカラスが鳴いていた。腕時計の針が17時24分を刻み、遠くから豆腐屋のラッパの音が聞こえた。
世界が、戻ってきた。
腰を抜かしたままの僕の前に、黝さんがしゃがみ込む。目線を合わせて、彼女はにっこりと微笑んだ。
「さて、伏見くん」
夕陽を背にした彼女の笑顔は、天使みたいに綺麗で、それでいて――。
「わたくし、悪魔ですの」
悪魔のように、蠱惑的だった。
三
「あ、悪魔」
「ええ、悪魔」
「悪魔って、あの、悪魔? 角が生えてて、尻尾があって、魂がどうとかいう」
「あら、よくご存じで。角と尻尾は必要なら生やせますけれど、普段はしまっておりますの。かさばりますし、制服に穴が開きますから」
黝さんはとんでもない話を、まるでちょっとした生活の知恵みたいなトーンで語る。
僕は路地の隅の、ひっくり返ったポリバケツの横で、膝を抱えるようにして座っていた。立とうとしたのだが、膝が生まれたての子鹿になっていて言うことを聞かなかったのだ。黝さんはそんな僕の前に、お行儀よく膝を揃えてしゃがんでいる。
「昨日、貴方はわたくしの食事の場面をご覧になった。そうですわね?」
「……はい」
もう誤魔化しようがなかった。僕は観念して正直に答えた。
「あれ、は……久保寺、だったんですよね。久保寺は、その、死んだ……?」
「食べました」
彼女はあっさりと言った。まるで昨日のランチに何を食べたか話すかのような気軽さ。そこには罪悪感も、言い淀みも、何もなかった。
「正確には、彼の魂を、ですけれど。魂を食べられた人間は、存在ごとこの世界から消えます。記録からも、記憶からも。だから今朝、誰も彼を覚えていなかったでしょう? 覚えているのは、彼の魂を食べたわたくしと――魂を食べる場面を直接見てしまった、貴方だけ」
「な……」
喉の奥が干上がっていた。それでも聞かずにはいられなかった。
「なんで……なんで、久保寺を。あいつが、何をしたって言うんですか」
「契約ですもの」
黝さんは小首を傾げた。本当に、心の底から不思議そうに。
「わたくしは悪魔。人の魂を食らうもの。彼はたまたまわたくしとご縁があり、契約し、そして対価を支払えなかった。だから約定に基づいて、その魂をいただいた――それだけのことですわ」
「それだけって……人ひとり、消えたんですよ」
「ええ。契約とはそういうものです」
彼女の声には、一片の揺らぎもなかった。責めても、怒っても、この人には――この悪魔には、届かない。そう直感した。人間が蟻を踏んで罪悪感を覚えないのと同じ場所に、彼女は立っていた。
「話を少し変えましょう。伏見くん、貴方、先ほど死にかけましたわね」
「……はい。あれは、いったい」
「魔の領域。俗に言う『神隠し』の内側ですわ。この夜見中市には今、わたくしの他にもう一組、悪魔とその契約者が潜んでいます。連中は街のあちこちに、ああした捕食用の罠を仕掛けている。迷い込んだ人間や動物を、こっそり食らうための罠を」
「じゃあ、さっきのは、僕を狙って……?」
「いいえ、あれはただの無差別の網ですわ。ただ――貴方は昨日、わたくしの正体を見た。あちら側を、視てしまった。一度でも魔を視た人間は魔に近づき、逆に魔から『視える』ようになる。言うなれば、暗闇で光る名札をぶら下げて歩いているようなもの。罠のほうから貴方を吸い寄せたのでしょう」
黝さんは、僕の目をまっすぐに覗き込んだ。
「そして残念なお知らせですけれど。名札は、外れませんの。貴方はこれからも、ああいうモノたちに気づかれ続けます。今日のような夜が、明日も、明後日も、ずっと続く。……普通の人間が、あれをひとりで生き延びられると思いまして?」
無理だ。考えるまでもなかった。さっきの僕は、走って、囲まれて、腰を抜かした。それだけだ。彼女が来なければ、今ごろ僕は、あの喉の奥まで歯の生えた化け物の腹の中だった。
真っ暗になった僕の顔を眺めて、黝さんは、す、と姿勢を正した。
「そこで、ご提案ですわ。伏見朔くん――わたくしと、契約なさいませんこと?」
「…………契約」
「ええ。わたくしと契約すれば、貴方をあらゆる魔の者からお守りしましょう。それだけではありませんわ。貴方の望みを、わたくしにできうる限り、なんでも叶えて差し上げます。富。名声。力。愛。復讐。不老。なんなりと。悪魔の契約とは本来、そういうものですもの」
甘い声だった。蝶を誘う甘い蜜のような声。でも僕は昨日、この声の持ち主が人間を食べるところを見ている。
「……対価は」
声が震えた。それでも聞いた。ここを聞かずに頷くほど、僕は馬鹿じゃない。
黝さんは、うっとりするほど綺麗に微笑んだ。
「よい質問です。ええ、そう、それを先に聞ける子は好きですわよ。――対価は、わたくしの空腹を満たすこと」
「空腹……」
「わたくしは、人間の魂を食べて生きております。中でも極上なのは、悪魔に魂を売った人間の魂。一度食べれば数ヶ月はもちますの。逆に言えば――数ヶ月に一度、わたくしのお腹は限界を迎える。契約者は、その時までに、わたくしの腹を満たさなければなりません」
「満たせなかったら……?」
「貴方を、食べます」
彼女は言った。にっこりと。
「魂を食べられた人間は消滅します。死とは違いますのよ。天国も地獄も輪廻もない。存在の完全な抹消。誰の記憶にも残らず、二度と生まれ変わることもない。……昨日の彼のように」
夕暮れの路地が、しんと冷えた。ごくりと喉をならし、僕は唾を飲み込んだ。
「せ、誠実なんですね……そういう不利なこと、隠さず言うんだ……」
「あら。契約は対等で公正であってこそですわ」
黝さんは、少しだけ胸を張った。
「わたくし、古いタイプの悪魔ですの。騙して結んだ契約に価値はありません。不利な条項も、抜け道のなさも、すべて開示した上で、それでも人が『はい』と言う。その瞬間の顔が、たまらなく――こほん。とにかく、フェアがモットーですのよ」
今、なにか本音が漏れかけたような。
「もちろん、契約なさらない自由もございますわ」
彼女は続けた。あくまで穏やかに。
「その場合、わたくしは貴方に指一本触れません。昨日の久保寺さんのことも、今日の話も、どなたかにお話しになっても構いませんのよ? まあ、誰も信じないでしょうけれど。ただし――魔の者への対処は、ご自分でなさることになります。今日のような罠に、明日もお一人で。……もって三日、といったところかしら」
三日。
僕は、さっきの光景を思い出していた。裂けた口。無数の目。喉の奥の歯。あの瞬間の、内臓が氷になるような恐怖。あれが明日も来る。明後日も来る。そして黝さんは、来ない。
「……あの」
「なにかしら」
「契約したら、その、僕は……いつか、食べられるんですよね。数ヶ月ごとの支払いが、できなくなったら」
「ええ」
「支払いって、具体的には、どうすれば」
「一番手っ取り早いのは、他の悪魔の契約者の魂を、わたくしに供することですわね。ちょうどこの街に、一組いるでしょう? ふふ。あとはまあ、魔の者の残滓――さっきわたくしが啜っていたようなものでも、おやつ程度にはなります。完全に飢えを凌げるわけではありませんけれど」
「つまり、僕は……生き延びるために、誰かの魂を、あなたに差し出し続けるってことですか」
「そういうことになりますわね」
――最悪だ。
どこからどう見ても、文字通り悪魔の契約だった。生き延びる代わりに、片道切符の自転車操業に乗る。降りたら喰われる。走り続けても、いつか必ず息切れする日が来る。そうしたら喰われる。
でも。
でも、契約しなかったら、三日。
僕は目を閉じた。父さんの顔が浮かんだ。病室のベッドで、僕の頭に手を置いて、笑っていた父さん。――何者にもなれなくてもいい。ただ、悔いのない人生を送ってほしい。そう言い残して、旅だった父さん。この場合、後悔しない選択とは一体何だろう。
「……一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「さっきの、罠を仕掛けていた別の悪魔……あれは、人を襲うんですよね?」
「ええ。わたくしは契約者以外の魂は食しませんが、あれはどうも違うようですわね。悪食の類ですわ」
「あの悪魔に食われた人は……」
「当然、悪魔に食われた魂は消滅――つまり、この世界から忘れられる運命ですわね。先ほども申し上げた通り、二度と生まれ変わることもないでしょう」
その言葉を聞いて、少しだけ覚悟が決まった。いや、結局僕は何か言い訳が欲しかっただけなのかもしれない。
自分が生き残るために、誰かを犠牲にする――その言い訳が。膝はまだ少し震えていたけれど、頭の芯は不思議と冷えていた。
「……分かりました」
僕は言った。
「契約、します。よろしくお願いします」
「ええ、ええ。確かに、承りました」
黝さんは、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、新しいおもちゃを買い与えられた子供か、もしくはご馳走を目の前にした飢えた美食家か。彼女やんわりと僕に近づくと、僕の右手を取った。
「では、伏見朔。同意の証に――少々、痛みますわよ」
「え、痛っ……!?」
彼女は僕の左の薬指の先を、ぱくりと咥え、小さく歯を立てた。ぷつりと皮膚が破れる感触。彼女の唇の中で、僕の血が、吸われていく。
ぞくり、と背骨を何かが駆け上がった。痛みだけじゃない。熱いような、冷たいような、身体の内側を誰かに触られているような感覚。指先から入り込んだ「何か」が、血管を遡って、心臓を一周して、胸の奥のもっと深いところ――たぶん、魂とかいう場所に、するりと絡みついた。
黝さんが、指を離す。
彼女の唇の端に、僕の血が一滴、赤く光っていた。彼女はそれを舌先で舐めとって、目を細めた。
「……ん。素直で、臆病で、それでいて芯のところに、まだ本人も気づいていない何かがある。――ふふ。まあ及第点といったところかしら」
「その評価は喜んだ方がいいのか悲しんだ方がいいのか……まあ不味くないならいいです」
黝さんは、きょとんと目を丸くした。それから、堪えきれないという風に、くすくすと笑い出した。
「ふ、ふふっ……自分の魂の味を心配する子、初めて見ましたわ」
「わ、笑わなくてもいいじゃないですか」
黝さんは、ぺろりと唇を舐めた。コロコロと笑うこの瞬間だけ、彼女は見た目相応の普通の女の子のように見えた。
「はい、これにて契約完了。今この時から、貴方はわたくしの契約者。わたくしは貴方の悪魔ですわ」
黝さんは立ち上がり、スカートの埃を払うと、僕に手を差し伸べた。
「立てまして? 朔」
いきなり呼び捨てになった。
その手を取ろうとした、まさにそのとき。
ずるり、と。
路地の影という影から、黒い靄が滲み出した。
「あら」
黝さんが、つまらなそうに眉を上げる。
「お代わりの時間ですって。……罠の主、わたくしたちが網を破ったことに気づきましたわね。残党をけしかけてきましたわ」
「え、ちょ、まだいるんですか!?」
「いますわよ。悪魔は執念深く、しつこいものですわ。――さ、朔」
彼女は僕の手を掴んで引き起こすと、悪戯っぽく笑った。
「契約初日ですし、サービスといきましょう。舌を噛まないでくださいまし」
「へ?」
次の瞬間、僕の身体はふわりと浮いていた。黝さんが僕を軽々と横抱きに――いわゆるお姫様抱っこに――抱え上げたのだ。
「ちょ、まっ、逆! 逆じゃないですかこれ!?」
「あら、わたくしが抱えられて逃げられるとでも?」
「そういう問題じゃなくて!」
僕の抗議は、風の音にかき消された。
黝さんが地面を蹴った。一歩で民家の屋根に届き、二歩で電柱のてっぺんを越えた。夜見中市の街並みが眼下でぐるんと回って、僕は情けない悲鳴を上げた。背後で、影の群れが屋根伝いに追ってくるのが見えた。
「しっかり掴まっていらして。振り落とされますわよ」
「言われなくても!」
夜の始まりの街を、僕らは飛んだ。屋根から屋根へ。街灯の海の上を。追いすがる影を、黝さんは時折振り向きざまに指先ひとつで弾き飛ばし、そのたびに「小骨ですわね」だの「味が薄い」だの食レポを挟んだ。
僕はといえば、悲鳴を上げ、目を回し、途中からは悲鳴を上げる元気もなくなって、ただ彼女の肩にしがみついていた。
最後の一体が夜風に溶けて消えたとき、僕らは市内で一番高い電波塔の上にいた。
眼下に、夜見中市の夜景が広がっている。家々の明かり。走る車のライト。遠くに東京の空のぼんやりした明るさ。ついさっきまで僕が「日常」として生きていた、平和な光の海。それを僕は、空の上から見下ろしている。
「――ようこそ、朔」
僕を抱えたまま、悪魔は言った。心底楽しそうに。
「世界の、裏側へ」
こうして僕の平和な日常は、音を立てて終わった。
享年、十五歳と一ヶ月。死因は、うっかり忘れ物を取りに戻ったこと。




