第一話 終章 帰還
終章 帰還
一
封印の儀を終えた地下祭壇では、撤収作業が進んでいた。
「聖櫃の搬出は慎重にね。第三葬位からの借り物だ。傷ひとつで、始末書が聖書より厚くなる」
マルコ・ヴァレンティーニの指示で、局員たちが黒い櫃を台車へ移し替えていく。傍らには、千々石三輪が、直立のまま待機していた。任務は完了した。歴史的な聖務は成功した。祭壇の空気は、疲労と、かすかな高揚に緩んでいた。
その中で――三輪だけが、最初に、気づいた。
「……卿」
「ん?」
「聖櫃から、音がします」
マルコが振り返るのと、彼の左目の奥でアルゴスが警告を発するのと、ほとんど同時だった。
『マルコ。……脈打っておるぞ、あれは』
直後、地下施設全体が、ずん、と揺れた。
燭台が倒れ、天井から石粉が降る。台車の上の聖櫃が、がたがたと震え出し、その漆黒の表面に――罅が、走った。
罅の奥から漏れ出したのは、黒い光だった。黒いのに、光。ほとんど黒で、その奥に僅かに青の混ざった、夜そのものみたいな光が、罅から溢れて祭壇を舐めた。
「――総員、退避!!」
マルコが叫んだ。
「詠唱班、下がれ! 結界は張るな、無駄だ! 出口へ――」
言い終わるより、早く。
聖櫃は、内側から、砕け散った。
黒い光が奔流となって天井を突き、石造りのドームを震わせた。舞い散る櫃の破片の中心、ゆっくりと降り立つ影がふたつ。
セーラー服の悪魔と、その腕に抱えられた、学生服の少年。
「――ただいま戻りましたわ、皆さま」
黝・ラヴィニア・クローリィは、朔を床に降ろすと、優雅にスカートの裾を摘んで一礼した。
「虚無のお部屋、拝見いたしましたわ。星ひとつない、実に退屈なお宿でしたので――勝手ながら、チェックアウトさせていただきましたの」
祭壇が、凍りついた。
十数人の局員が、幽霊でも見るような目で、僕らを見ていた。当然だと思う。千五百年の組織の歴史で初めての封印成功、のはずだった。その成功の証が今、床一面に、黒い破片になって散らばっているのだから。
マルコさんだけが、驚愕を数秒で畳んで、いつもの穏やかな顔に戻した。
「……いやはや。驚いた。本当に驚いたよ。この歳になって、心臓に悪い驚き方をするとは。……虚無の櫃を内側から破って還ってきた存在は、観測史上、君たちが初めてだ。参考までに聞いても? いったい、どうやって」
「ふふん」
黝さんは、これでもかと胸を反らした。
「朔の欲望の、おかげですわ」
「……ほう?」
「以前の朔の欲望は、そうですわね、砂粒ほどでしたの。それが今や、石ころほどには育ちましたのよ。――それほどまでに、朔がわたくしを求めるようになった、ということですわ! ふふ、ふふふ、聞いて驚きなさいな、朔ったら虚無の中でわたくしに、『僕の願いは黝さん自身です』と! この、いたいけな乙女に向かって! 大胆にも程がありましてよ!」
「ちょっ……! 誤解を生む言い方はやめてください!?」
「あら、照れなくてもよろしくてよ?」
「照れてない! 文脈! 文脈が大事なんです!」
「事実しか申し上げてませんわー」
マルコさんが、なんとも言えない顔で僕を見た。やめてほしい。その生温かい目は、違うんです。
「……なるほど。契約者の欲望が育てば、悪魔の出力の上限も跳ね上がる。理屈は通っている。理屈は通っているが……はあ。石ころ、ね。石ころで、聖櫃が破られてしまうのか。参ったな」
マルコさんは、こめかみを揉んだ。
「それでは皆さま、ごきげんよう」
黝さんは、僕の腕を取ると、さらりと言った。
「わたくしたち、家に帰らせていただきますわ。夕飯の時間に遅れますの」
「……おや。そのまま帰れると、思っているのかい?」
「あら」
黝さんの目が、すっと細くなった。
「わたくしたちが、わたくしたちの家に帰るのに――誰の、何の許可が、いりますの?」
ふたつの視線が、祭壇の空中で、ばちりと噛み合った。
張り詰めた沈黙。局員たちが、じり、と後ずさる。
その沈黙を、破ったのは。
――銃声だった。
黝さんの真横で、火花が散った。彼女が咄嗟に張った黒い障壁の上で、魔力回路の銃弾が弾け、白い燐光を散らす。
撃った人影は、もう、そこにいなかった。祭壇の柱を蹴り、天井すれすれを裏返しに駆け、次の瞬間には別の死角から、二丁の銃が火を噴いていた。
千々石さんだった。
「――っ、千々石さん!?」
「朔、下がってらして」
黝さんが、僕を後ろへ押しやりながら、連射のすべてを片手の障壁で受け止めた。受け止めながら、心底うんざりした声で言った。
「……仔犬ちゃんは、ご挨拶抜きですのね。よろしくてよ、屋上の借り、ここで返して差し上げますわ――」
「殺しちゃだめ!!」
「〜〜〜っ、分かってますわよ!! ああもう、めんどくさいですわねえ、わたくしの契約者は!!」
黝さんは、吠えるように言って、千々石さんへと躍りかかった。二つの影が、祭壇の奥で交錯し、銃声と斬撃の音が連鎖する。戦いの火蓋は、あっさりと、切って落とされてしまった。
「……やれやれ。うちの部下が、すまないね」
のんびりした声とともに、こつ、とステッキの音がした。
振り向くと、マルコさんが、僕の正面に立っていた。
「彼女は止まらないよ。悪魔の抹殺は、彼女にとって存在理由そのものだからね。……そして私も、立場上、君たちを黙って帰すわけにはいかない。分かってくれるかな、少年」
「……マルコさん」
「言っておくと、私はあまり、戦闘が得意なほうではなくてね。荒事は部下に任せて、後ろでコーヒーを飲んでいるのが性に合っている。……ただ」
彼は、指をぱちんと鳴らした。
彼の背後の空気が揺らいで、無数の目が、いっせいに開いた。透きとおった女性の輪郭が、祭壇の薄闇に浮かび上がる。
『……気は進まぬがな』
アルゴスの声が、低く響いた。
『契約ゆえ、付き合おう。……小僧。悪く思うな』
「――得意ではない、というだけで、できない、とは言っていないのでね」
マルコさんが、ステッキを、す、と構えた。
僕は、腰の懐刀を抜いた。白い燐光を纏った刃を、両手で、正面に構える。膝が笑いそうになるのを、奥歯を噛んで抑えた。
相手は、プロの悪魔ハンター。腕ずくで敵う相手じゃないことくらい、分かってる。でも黝さんが千々石さんの相手をしている以上、ここは僕が立ち向かわなきゃいけない。
「……ひとつ、聞いてもいいかな、少年」
マルコさんは、構えたまま、世間話みたいに言った。
「君は、いったい、何のために――あの悪魔と、契約したんだね?」
「…………」
「一度目は、生き延びるためだった。アルゴスの目で、それは確認済みだ。責める気もない。……だが、二度目は? 虚無の中で、君には選択肢があったはずだ。あの悪魔とともに永遠の眠りにつくことも、できたはずだ。なのに君は、わざわざ再契約して、檻を破って、戻ってきた。……なぜだね?」
僕は、答えた。
考えるまでもなかった。
「――救いたい人がいます」
刃の向こうの、灰色の瞳を見据えて。
「僕は、誰かが苦しんでるのを、見て見ぬふりできないんです。悪魔のせいで苦しんでる人がいるなら、助けたい。僕にできることがあるなら、何かしてあげたい。……それが人間でも、それが……悪魔でも、です。そのために、僕は黝さんと、もう一回契約したんです」
マルコさんは、目を細めた。
「……若いなあ」
しみじみと、彼は言った。
「実に若い。青い。眩しいくらいだ。……いや、馬鹿にしているんじゃないよ? そういう若さは、嫌いじゃない。私にも、覚えがあるのでね。……だが、少年」
ステッキの先が、ぴたりと僕を指した。
「口だけなら、誰でも言える。行動が伴わなければ、意味がないぞ?」
――視線が、来た。
マルコさんの左目。片眼鏡の奥の灰色の虹彩に、無数の小さな瞳孔が、いっせいに浮かび上がった。その全部が、僕を、見た。
「≪眼差しの檻≫」
瞬間、身体が、止まった。
「……っ!? な、に、これ……!」
動かない。腕も、脚も、指の一本すら。縛られている感触はないのに、まるで空間そのものに縫い留められたみたいに、僕の身体は、その場から一ミリも動けなくなっていた。
「アルゴスの目は、視認したものを空間へ縫い留める。ゆえに私の視線を浴びた部位も、ね。……安心したまえ、痛みはない。そのまま大人しくしていてくれれば、危害も加えない。君の悪魔を確保するために、少しばかり利用させてもらうだけだ」
マルコさんは、構えを解いて、ゆっくりと歩いてくる。
まずい。まずいまずいまずい。このままじゃ、また捕まる。また、あの祭壇の台座に逆戻りだ。黝さんは千々石さんと交戦中で、こっちを助けに来る余裕はない。
考えろ。
縫い留められてるのは、視線を浴びた部位。つまり、これは物理の縄じゃない。魔力の――。
(……視える、はずだ)
僕は、唯一自由な眼球を動かして、意識を集中した。魂契脈から流れ込んでくる黝さんの魔力を、目に。あの団地の夜と、同じ要領で。左目の奥が、かっと熱くなる。
――視えた。
アルゴスの無数の目から放たれた、光の糸。それが何百本も、僕の腕に、脚に、胴に、絡みついている。糸の一本一本が、マルコさんの左目を経由して、僕を空間に縫い留めている。
視えるなら。
視えるなら、断てる。
僕の右手は、懐刀を握ったまま固まっている。動かせるのは――指先だけ。ほんの数センチ。でも、それで足りる。腕を振る必要はない。刃はもう、糸のすぐそばにあるんだから。
僕は、指先の角度だけで、刃の切っ先を、ミリ単位で傾けた。
いちばん近くの糸に、白い燐光の刃が、そっと触れる。
――ぷつん。
右手首が、自由になった。
あとは、早かった。自由になった手首から先を返して、腕の糸を斬る。腕が動けば肩の糸を、肩が動けば、全身の糸をまとめて薙ぎ払う。
ぷつ、ぷつぷつ、ぷつんっ!
「――っと」
僕は、縫い留めから解放されて、大きく後ろへ跳び退いた。
マルコさんの足が、初めて、止まった。
「…………ほう?」
片眼鏡の奥の目が、まん丸になっていた。
『……ほほう?』
アルゴスの無数の目も、揃って見開かれていた。
「これは……驚いた。本当に心臓に悪い夜だ、まったく。……≪眼差しの檻≫を破られたのは、教会の対抗術式を除けば、初めてだよ。それも、契約者になって二週間かそこらの、一般人の少年に」
「し……視えたので。糸が」
「視えたので、と来たか。はは、視えただけで、切れるものではないのだが」
マルコさんは、ステッキを下ろして、心底楽しそうに笑った。
「いいね。実にいい。口だけではない、と証明されてしまったなあ――」
――そのとき。
どがんっ!! と、祭壇の柱が一本、へし折れた。
黒い旋風と銃火が縺れ合いながら、僕とマルコさんの間に、雪崩れ込んできた。黝さんと、千々石さんの戦いだった。
いや――戦い、と呼べるものでは、もうなかった。
千々石さんは、ぼろぼろだった。制式服のあちこちが裂け、頬には擦過傷、足は縺れかけている。対する黝さんは、髪の一筋も乱れていなかった。桁違いの出力差。力を解放しているはずの千々石さんの神速を、黝さんは、あくび交じりに見切っていた。
「あーっはっはっは! どうしましたの仔犬ちゃん! 牙はそれだけですの!? 屋上でのあの威勢は! ほらほら、次はどこから飛びかかってきますの!?」
「調子に乗りすぎでは!? やりすぎですよ黝さん!!」
「勝ってるときに笑わずして、いつ笑いますのよ!」
高笑いする大悪魔。性格が悪い。うちの悪魔、勝ち戦になると本当に性格が悪い。
「……三輪」
マルコさんが、声を投げた。
「そこまでだ。下がって後方で待機。出力差は明白だ。これ以上は無意味だよ」
「……お断り、します」
千々石さんは、荒い息のまま、銃を構え直した。
「私の任務は……悪魔の、抹殺。目の前に、悪魔がいる。なら、私は、止まりません」
「三輪。命令だ」
「――《感情遮断》」
彼女の声が、変わった。
「最終段階――解放、開始」
ぞ、と祭壇の空気が凍った。
「ち、千々石さん!?」
彼女の身体から、白い冷気のようなものが、立ちのぼり始めた。瞳からハイライトが消える。銀灰色の瞳孔の周りに、魔術回路の輪が、一重、二重、三重――どんどん深く、展開されていく。
「やめよう! 千々石さん、もう戦いはやめよう! 話し合おうよ! 僕らは戦わなくていいはずだ!!」
僕は、叫んだ。
彼女は、僕を見なかった。
「……私の使命は……悪魔を、滅ぼすこと。それだけです。それしか……ないんです、私には」
それしか、ない。
あの朝の食卓と、同じ言葉だった。同じ言葉なのに、今はまるで遺言みたいに聞こえた。
「……朔。あれ、まずいですわよ」
黝さんが、笑いを消して、僕の隣に降り立った。
「あの技、魂そのものを燃料にして攻撃する代物ですわ。解放が完了すれば、あの娘は、わたくしを殺すか自分が燃え尽きるまで止まらない矢になる。……そして断言しますけれど、今のわたくしには届きませんの。つまりあの娘、このままでは――ただ、燃え尽きるだけですわ」
「そんな……! 千々石さん! やめてくれ! 千々石さんっ!!」
僕の声は、届かない。
魔術回路の輪が、四重目を描き始める。彼女の周囲の空間に、幾何学紋様と照準線が、光の蜘蛛の巣みたいに広がっていく。彼女の命が、燃料として、装填されていく――。
その、ときだった。
「…………はぁ」
深い深い、ため息が、聞こえた。
マルコさんだった。
彼は、疲れた顔で天井を仰ぎ、それから、左目の片眼鏡を、指先で軽く押さえた。
「アルゴス。――寝かせてやってくれ」
『……よいのか』
「よくはないがね。上司の務めというやつだよ」
瞬間、アルゴスの無数の目が、いっせいに、千々石さんを見た。
視線の奔流が、彼女の全身を、ふわりと包む。攻撃じゃなかった。縫い留めでもなかった。それはまるで、暴れる子供を後ろからそっと抱きしめるみたいな、柔らかな光だった。
展開しかけていた魔術回路の輪が、ひとつ、またひとつ、ほどけて消えていく。
「……ぁ……」
千々石さんの瞳に、一瞬だけ、ハイライトが戻って。
それから、彼女の身体は、ゆっくりと、崩れ落ちた。
床に倒れる寸前、いつの間にか歩み寄っていたマルコさんの腕が、彼女を抱き留めた。眠るように目を閉じた千々石さんを、彼は壁際にそっと横たえ、自分の上着を掛けてやった。
そして、立ち上がって、僕らに向き直り。
実に軽い調子で、両手を、ひょいと上げた。
「――降参だ」
「「…………は?」」
僕と黝さんの声が、綺麗に重なった。
「こうさん。ギブアップ。白旗。……おや、通じなかったかな。祖国のイタリア語のほうがよかったかい?」
「い、いや、通じてますけど……え、ええ……?」
あまりの切り替えの早さに、僕は唖然とした。黝さんですら、振り上げた拳の行き場をなくして、間の抜けた顔をしていた。
「さっきの威勢はどうしましたの。眼差しの檻だの何だのと、あれだけ大立ち回りをしておいて」
「うん、まあ、状況が変わったのでね」
マルコさんは、こともなげに言った。
「整理しよう。切り札の聖櫃は砕けた。うちの最高戦力は今、すやすや眠っている。そちらの奥方の出力は、こちらの観測値を二桁上回って、まだ余裕がある。そして契約者の少年は捕まえられない……この状況で戦闘を継続した場合、我々が得るものは、施設の修繕費の増額と、部下たちの葬儀日程だけだ。――私はね、損切りが得意なんだよ。ぐずぐず抱えて傷口を広げるのが、この世で一番嫌いでね」
彼は、僕を見てにこりと笑った。
「それに、少年が言ったんだろう? 『話し合おう』と。……いい提案だ。乗った。話し合いをしようじゃないか」
「…………ふうん?」
黝さんが、じとりと、疑いの目を向けた。
「ずいぶんと、殊勝な言い分ですこと。……ですけれど、わたくしの目はごまかせませんことよ。貴方、損切り損切りと仰いますけれど――本音は、違うのではなくて?」
「ほう。というと?」
「貴方が白旗を上げたのは、戦力分析が終わった瞬間ではなく――そこの娘が、命を燃やし始めた瞬間でしたわ」
黝さんは、壁際で眠る千々石さんを、顎で示した。
「要するに貴方、その娘を失うのが、怖いだけなのではなくって?」
沈黙が、流れた。
マルコさんは、表情を変えなかった。
変えないまま、口の端だけで、ふ、と笑った。
「……さて、どうだろうね」
それは、肯定でも否定でもない、意味深な笑みだった。アルゴスの無数の目が、心なしか、呆れたように主を見た気がした。
「――ときに、少年」
マルコさんは、露骨に話題を変えて、僕に歩み寄ってきた。
「さっき君が語った、契約の理由。……『悪魔のせいで苦しんでいる者を、人間でも悪魔でも、助けたい』。あれは、なかなかどうして、大した願望だよ。個人的には、応援したいくらいだ」
「……マルコさん」
「ただしね」
彼の灰色の目が、すっと僕を射た。
「あの言葉の射程が、私の想像通りのところまで届いているのだとしたら――君が挑もうとしているのは、普通の人間には想像もつかないほど、途方もない困難だよ。教会千五百年の記録の、どこにも前例のない道だ。分かる人が聞いたら気でも狂ったのかと心配する。……それでも、やるのかね?」
どこまで、見抜かれているんだろう。
アルゴスの目は、嘘の皺をぜんぶ視る。もしかしたら、僕の魂の底の願いの形まで、もう視えているのかもしれなかった。
でも、僕の答えは、決まっていた。
「……はい。やれるだけ、やってみます」
マルコさんは、僕の顔を、しばらく眺めた。
それから、破顔した。
「――はっはっは! いい返事だ。大きな夢を見るのは、若者の特権だからね」
彼は、右手を、差し出してきた。
「では、交渉成立の握手といこう。詳しい話は、また後日。……ようこそ戻ってきた、伏見朔くん。それと――お帰りなさい、奥方。今夜のことは、私が上手いこと書類にしておくよ」
僕は、その手を、握った。
革手袋越しの手は、あの夜と同じで、意外なほど強く、温かかった。
こうして――僕らの、長い長い夜は、ようやく終わった。
エピローグ 悪魔と、夢と、欲望と
一
「――で?」
翌日。伏見家の玄関で、腕組みをした母さんが、仁王立ちしていた。
「二人揃って、まるまる一日、無断外泊。電話は圏外。メッセージは既読もつかない。……お母さんが、どんな気持ちで一晩過ごしたか、分かる? ん? 朔くん? クローリィさん?」
「「……すみませんでした」」
僕と黝さんは、玄関先で、揃って首を垂れた。
教会の施設で事後処理やらなにやらに付き合わされて、解放されたのが今日の朝。丸一日ぶりに帰宅した僕らを待っていたのは、当然ながら、噴火寸前の母さんだった。
「心配で心配で、警察に電話する三秒前だったんだからね!? 朔、あんたって子は、昔から手のかからない子だったのに、なんで急に……」
「お母さま」
黝さんが、す、と前に出た。
そして、深々と、頭を下げた。
「すべて、わたくしの責任ですの。わたくしが……その、どうしても外せない、面倒な用事に巻き込まれてしまって。朔さんは、わたくしを放っておけないと、最後まで付き合ってくださったんです。連絡ができなかったのも、電波の届かない場所だったからで……。叱りたければ、わたくしを叱ってくださいまし。朔さんは、何も悪くありませんの」
「く、黝さん……」
嘘は、ひとつも言っていなかった。――正確には、嘘をつかないまま核心を全部ぼかす、器用な悪魔だった。
母さんの眉が、ぴくぴくと動いた。怒りの維持と、「息子のために頭を下げる美少女」への好感の間で、感情が綱引きしているのが丸見えだった。
と、そのとき。
ぴんぽーん、と、間の抜けたチャイムが鳴った。
「はーい……どちらさま?」
母さんがドアを開けると、そこには――仕立てのいいスーツを着た、彫りの深いナイスミドルが、営業スマイルの見本みたいな笑顔で立っていた。
マルコさんだった。
「夜分に失礼いたします、マダム。私、マルコ・ヴァレンティーニと申します。国際文化交流財団の、日本支部の者でして」
こ、国際文化交流財団。
初耳の肩書きが、よどみなく飛び出した。
「実は昨日、当財団主催の、日英交流の宿泊研修がございまして。クローリィさんはその招待学生、伏見くんは彼女の推薦した同伴者として、ご参加いただいていたのです。ところが施設の通信設備に不具合が起きましてね、ご家庭への連絡が、一切……いやはや、まったくもって当方の不手際です。この通り、お詫び申し上げます」
よどみない上に、その道のプロみたいな謝罪の角度だった。
母さんは、ぽかんとしていた。
「え、あ……宿泊、研修……? そう、だったの……?」
「はい。優秀なお子さんたちですよ、お二人とも。特に伏見くんは、いやあ、実に将来有望だ。この歳であれほど肝が据わっていて、それでいて心根のまっすぐな青年は、なかなかおりません」
「ま、まあまあまあ……そうですか、うちの朔が……」
母さんの顔が、みるみる緩んでいく。顔がいいおじさんの褒め言葉というのは、こうも効くものなのか。効いてる場合じゃないんだけどな、母さん。それ全部、その場ででっち上げた嘘なんだけどな。
「今後はこのようなことのないよう、重々気をつけますので。では、私はこれで。……ああ、伏見くん、クローリィさん。研修の『続き』の日程は、また追って連絡するからね」
最後だけ、僕らに分かる意味を込めて、マルコさんは片目をつぶった。
そして、来たときと同じように、ステッキの音を残して、夕闇に消えていった。……あの人、ああやって世界中で何人、丸め込んできたんだろう。
「……もー、それならそうと、早く言いなさいよね」
母さんは、すっかり毒気を抜かれた顔で、はーっとため息をついた。
それから、僕と黝さんを、まとめて、ぎゅうっと抱きしめた。
「……何はともあれ。二人とも、おかえり。無事で、よかった」
母さんの匂いがした。
僕は、その腕の中で、ようやく、本当にようやく――帰ってきたんだ、と実感した。
虚無からでも、地獄からでもなく。
この、夕飯の匂いのする玄関に。
「ふえ……あ、あの、お母さま……? わ、わたくしまで……?」
腕の中で、黝さんが、うろたえた声を出した。
「当たり前でしょ。あんたも、うちの子みたいなもんなんだから」
「…………」
黝さんは、それきり、黙った。
ただ、おずおずと、遠慮がちに、母さんの背中に手を回すのが見えた。
数千年生きた悪魔の、ぎこちない「ただいま」だった。
二
さらに数日後の、昼休み。
屋上前の踊り場に、三人分の昼食が並んだ。
僕の、いつもの弁当。黝さんの、山盛りの激辛チキン。そして――
「……千々石さん、それ」
「なんですか」
千々石さんの膝の上には、いつもの銀色の栄養ブロックと、野菜ジュース。それに加えて今日は、つやつやしたみかんが、ひとつ、ちょこんと乗っていた。
「みかん、だ。珍しいね」
「……生の食物も摂取しないと、身体に悪いので」
千々石さんは、こともなげに言って、みかんの皮を、器用な手つきでむき始めた。
彼女は、あの夜の翌々日から、何事もなかったように登校してきた。頬の擦り傷に、小さな絆創膏がひとつ。それ以外は、いつも通りの、教室の隅の図書委員だった。
昼を三人で、というのは、僕から誘った。断られるかな、と思ったけど、彼女は三秒ほど沈黙した後、「監視任務の一環として、受理します」と言った。彼女なりの「いいよ」の言い方だと、僕はもう知っていた。
みかんをひと房、口に運んでから、千々石さんは、ふいに切り出した。
「……先に、言っておきます」
「うん?」
「私の考えは、変わっていません。悪魔は、私の敵です。この世から滅ぶべきものだと、今も思っています。それは……たぶん、この先も、変わりません」
彼女は、まっすぐに、僕と、僕の隣の黝さんを見た。
「あの夜のことも、謝りません。私は任務を遂行しただけです。次に教会が『敵』と定めれば、私はまた、あなたたちに銃を向けます。……それが、私です」
「……うん」
僕は、頷いた。
簡単に「仲直り」なんて言えない場所に、彼女が立っていることは、分かっていたから。
「……ただ」
千々石さんは、視線を、手の中のみかんに落とした。
「ヴァレンティーニ卿に、言われました。『おまえは視野が狭い。もう少し、いろんな視点を持て』と。……業務命令なので、従います。今後は、あなたたちの監視業務を、継続します。監視を通じて……その、対象を、もっと知る努力を、します。敵を知ることも、局員の務めなので」
早口の、事務連絡みたいな言い方だった。
でも、それが彼女なりの精一杯の歩み寄りなんだということは、痛いくらい、伝わってきた。
「……うん。よろしく、千々石さん」
「はい」
「あーらあらあらあら」
横から、にんまりした声が割り込んだ。黝さんが、チキンの骨を振りながら、実に嫌な笑みを浮かべていた。
「素直じゃありませんこと、仔犬ちゃん? 『敵を知る努力をします』? ふふん、要するに、わたくしたちともっと仲良くなりたい、と。そういうことですわよね?」
「違います。業務です」
「照れなくてもよろしくてよー? ほらほら、チキンを一本差し上げますから、あーんしてごらんなさいな」
「いりません。あと、それは激辛です。嫌がらせですか」
「あら、貴女、こんなチキンも食べれないのかしら? それじゃあ今後は仔犬ちゃんじゃなくて、チキンちゃんと呼んだ方がいいかしら」
「……っ。……分かりました。その挑戦、受けてたちます」
「受けて立たなくていいから!」
千々石さんは、真っ赤なチキンを受け取ると、無表情のまま、しゃくしゃくと囓った。そして無表情のまま、「……辛い、です」と言った。黝さんが「でしょう!?」と胸を張る。なんだこれ。仲がいいのか悪いのか、全然分からない。
いつものドタバタが、屋上前の踊り場に、ぎゃーぎゃーと響く。
僕は弁当の卵焼きをつまみながら、この騒がしさを、じんわりと噛みしめていた。
ああ――帰ってきたんだなあ、と。
三
放課後。
ホームルームが終わって、クラスメイトたちが三々五々、教室を出ていく。部活へ。塾へ。遊びへ。それぞれの日常へ。
気がつくと、夕陽の差し込む教室には、僕と黝さんの、二人だけが残っていた。
「……ふふ。こうしていると、思い出しますわね」
窓際の席で頬杖をついた黝さんが、悪戯っぽく笑った。
「初めて、貴方とお話しした日のこと」
「……思い出させないでくださいよ」
僕は、苦笑いした。
でも、本当は、僕もさっきから、同じことを考えていた。
あの日も、こんな夕方だった。
忘れ物を取りに戻った、オレンジ色の教室。ぐちゅ、という音。夕陽の中に立っていた彼女。消えていったクラスメイト。横長の瞳孔と、目が合った瞬間の、心臓が凍る音。
あの日の僕にとって、黝・ラヴィニア・クローリィは、世界で一番恐ろしい「化け物」だった。
それから、たった、ひと月足らず。
僕は彼女と契約して、同じ家に住んで、悪魔と戦って、人の最期を看取って、裏切られて、封印されて、地獄の底まで行って――帰ってきた。
今、目の前で頬杖をついているこの悪魔を、僕はもう、そこまで怖いとは思っていない。
でも、忘れたわけでもない。
彼女は、悪魔だ。人の魂を喰らって生きる、正真正銘の悪魔。人間の味方では、決してない。いつか僕の魂を食べるかもしれない捕食者で、その約束は、今も僕らの間で生きている。それに――彼女自身も知らない場所で、今この瞬間も、業火に灼かれ続けている誰かが、いる。
彼女には、彼女の事情がある。
僕には、僕の、やると決めたことがある。
あの人を、あの地獄から救い出すこと。黝さんを、本当の意味で、自由にすること。
その願いを――当の黝さん本人には、まだ、言えないけれど。
「……ねえ、黝さん」
僕は、口を開いた。
「なんですの、改まって」
「僕はこれから……たぶん、無茶をします」
夕陽の中で、僕は言った。
「悪魔に苦しんでる人がいたら、首を突っ込みます。厄介事があったら、たぶん、放っておけません。それだけじゃなくて……もっと大きな、途方もない、馬鹿げた夢も、追いかけるつもりです。何年かかるかも、そもそも叶うのかも、分からないやつを。……普通の契約者なら、絶対にやらないことばっかりだと思います」
黝さんは、頬杖のまま、黙って聞いていた。
「だから、その……聞いておきたくて。こんな契約者ですけど。こんな、面倒で、無茶ばっかりの僕の道に――黝さんは、ついてきてくれますか」
黝さんは、目をぱちくりさせた。
それから、ゆっくりと頬杖を外して、姿勢を正して――噴き出した。
「……ふ、ふふっ。あっはっはっは!」
「わ、笑うとこですか、今の」
「笑うところですわよ! だって貴方――」
彼女は、立ち上がって、僕の正面に立った。
夕陽を背にした彼女は、あの日と同じ場所で、あの日とはまるで違う顔で、笑っていた。
「――愚問ですわ」
黄金の瞳が、まっすぐに僕を射た。
「わたくしは、貴方の悪魔。貴方は、わたくしの契約者。魂の底まで繋がった、一心同体の腐れ縁ですのよ? 貴方が無茶をするなら、わたくしはその無茶ごと、丸呑みにして差し上げますわ。地の果てだろうと、地獄の底だろうと――どこへなりとも、お供いたしますの。ですから」
彼女は、すっと、右の拳を突き出した。
「そんなことは、二度と聞かなくてよろしい。……ほら、朔」
「……ふふ。はい」
僕も、拳を握って。
こつん、と。
僕らは、拳を、突き合わせた。
契約の血判よりも、ずっと軽くて。
でも、どんな契約書よりも、確かな感触だった。
「……さ、帰りましょうか、朔。今夜の夕飯はなんですの?」
「んー……冷蔵庫に豚こまがあるから、生姜焼きかな」
「ではわたくし、白米を三合炊いておきますわ」
「炊きすぎでは?」
「あら、育ち盛りですのよ、わたくしたち」
鞄を取って、僕らは教室を出る。
夕陽の廊下を、二人分の足音が、並んで歩いていく。
――僕の名前は、伏見朔。十五歳。夜見中市在住の、ごく普通の高校一年生。
隣を歩くのは、黝・ラヴィニア・クローリィ。数千年を生きる、最古にして最強の悪魔。
僕らの奇妙な二人三脚は、まだ始まったばかりで。
この街の夜には、まだまだ、いろんなものが潜んでいて。
そして僕の胸の奥には、誰にも言えない、途方もない夢がひとつ、灯っている。
――見ててください。
夕陽の向こうの、ずっとずっと遠くの誰かに、僕は心の中で、そっと呼びかけた。
――僕、やってみせますから。
悪魔を使役し、悪魔を調伏する。
これは、そんな僕と悪魔の――夢と、欲望の物語だ。




