8話 風呂上がりの一杯と104号室
ゴクッゴクッ!
風呂から上がり、脱衣所の自販機でよく冷えたフルーツ牛乳を買い、腰に手を当てて一気に喉へと流し込んだ。
牛乳と果物の優しい甘さが、身体にじわりと染み渡っていく。
瓶を片手に、壁に張り出されている地域イベントのポスターにふと目を留めた。
そこには、夜空に大きく咲き誇る大輪の花火がプリントされている。
『花火大会開催のお知らせ』
「花火大会、か」
この季節はいつも出張や、溜まった仕事の片付けばかりだった。
帰社途中に運転する車の窓から花火を横目に見たことはあるが、まともに見に行った記憶がない。
「今年はせっかく有休もあるし、ちょっと見に行ってみるかな」
そんな、普通の人間らしいささやかな夢を胸に抱きつつ、すっかり身軽になった俺は銭湯を後にして会社へと向かった。
◇
昼下がりの事務所に入ると、いつものように背筋をピンと伸ばした橋本さんが、恐ろしい速度でキーボードを叩いていた。
「橋本さん。お疲れ様です」
俺と目が合うとタイピングの手を止め、こちらを振り返る。
「昨日は、その……消火活動を手伝っていただいて、本当にありがとうございました。」
火は消えたけど、あなたの魔法で部屋の壁ごと抉り取られたんですけど、とは言いたくても言えない。
「いえ、人として当然の行いです」
いや、そんなキリッとした顔して言われても、と突っ込みそうになった。
そうだ、橋本さんもこっち側の人なら、あの怪しいゲームのことを相談してみようかな?
なにか知っていることがあるかもしれないし。
「橋本さん、折り入って相談したいことがあるんですが、今日の仕事終わりとかって、都合いかがですか?」
その言葉に彼女がビクッと体を硬直させた。
「な、な、なんですか?いきなり。相談があるのであれば今でもお聞きしますが」
なんだ?明らかに目を泳がせて動揺している。
別に昨日の事を責める気は無いんだけど。
それに、今でも良いと言われても職場で業務中にゲームの話をするのはバツが悪い。
「いや、ちょっと人目のあるところではちょっと……」
彼女は震える手でコーヒーの入ったマグカップを持ち、一口飲んだ彼女は意を決したように俺を見つめた。
瞳の奥には、どこか探るような、怯えのような影が浮かんでいるような気がした。
「わかりました。では退勤後、寮にお伺いします。
104号室でいいんですね」
「はい、今からその鍵を受け取りに総務に行ってきます。
橋本さんが話してくれたと言ってましたが、総務の佐藤部長すごく怒ってませんでした?」
彼女は少し考えるような仕草をした後「たぶん、それは大丈夫です。誠心誠意、状況をお話しましたので」と話した。
「いやあ、助かります。佐藤部長、怖いんですよねー。じゃあ、また後程」
「はい」
橋本さんに見送られ、総務部のドアをノックして部屋に入ると女子社員達が集まり、奥のデスクの方を見てヒソヒソを話している。
なんだ?なにかあったのかな。
業務中の私語にも厳しい佐藤部長に怒られるんじゃないの?
いつもと違う雰囲気に戸惑いながら、奥のデスクに座り、パソコン画面を見ている佐藤部長に話しかけた。
「佐藤部長、この度の寮での火災の件、大変申し訳ございませんでした」
深く頭を下げ、謝罪を行ったが何秒経っても返事が返ってこない。
……ヤバい、めっちゃ怒ってるじゃん!
橋本さんが言う、誠心誠意がまったく伝わってないよ!
重ねて謝罪を行おうと顔を上げると想像とは違ったボンヤリとした顔の部長が、うつろな目でこちらを見つめていた。
「……ああ、山田君ね。寮の火事大変だったでしょ。
橋本君から経緯は聞いているから心配しなくていいよお。
代わりの部屋の鍵は、はい、これねぇ」
すんなりと104号室の鍵を渡された。
あまりのあっけなさに硬直してしまった。
「あの、火事を起こしたことについてお咎めとかは……」
「ないよお?だって老朽化したガス管から漏れたのが引火して火事になったんでしょ。
寮の管理不備はうちのミスだからねぇ、水道管が破裂して火事が収まったのは良かったけど部屋がなくなったのは災難だったねぇ。保険も下りるし大丈夫、大丈夫ぅ」
いや、あんたが大丈夫か?
橋本さんの言うことを鵜呑みにしすぎじゃないか?
いつもは「常識的に考えて」が口癖の説教魔なのに。
どう考えても状況がおかしいだろ。
「他に用がないなら、せっかくの休みなんだから早く帰った方がいいんじゃないのぉ?あ、ちょうちょだ。」
確定だ。
これは、あの女やったな。
……いや、深くは聞くまい。
新しい部屋を貰えたことは間違いないのだ。
空に手を伸ばす佐藤課長に、お辞儀をして総務部を後にした。
◇
社員寮の1階、最奥に位置する104号室の前に立つ。
周囲の部屋に比べて、ドアの隙間から妙な熱気が漏れ出ている気がする。
ミッキーがいわくつきの部屋なんていうから身構えちゃうじゃないか。
「……まぁ、昨日の今日だ。何が起きても驚かないさ」
自分にそう言い聞かせ、鍵をシリンダーに差し込んで回した。
カチャリ、と軽い金属音が響く。
意を決してドアを開け、部屋の中に踏み込んだ。
「あれ?」
拍子抜けするほど、そこは普通の部屋だった。
六畳間の和室。畳は少し古びているが、ホコリ一つなく綺麗に掃除されている。
壁のスイッチを入れるとパッと明るい蛍光灯の光が灯り、台所の蛇口をひねれば、勢いよく透明な水が流れ出た。
「なんだ、ビビって損したな。電気も水も通ってる。普通にいい部屋じゃないか」
電気と水が出るだけで十分にありがたい。
トイレも見て回ったが、特に問題はなさそうだ。
あとは風呂場か。
「どの部屋も風呂は同じだよな」
そう呟き、引き戸を引いた。
ガラッ。
引き戸が開いた、その向こう側。
「…………は?」
思考が完全に停止した。そこにあるはずの浴槽もシャワーの付いた蛇口も何もない。
代わりに目の前に広がっていたのは――。
うらびれた、饐えた吐しゃ物のような臭いが漂ってくる路地裏だった。
ビルとビルの隙間らしく、奥には通りすぎる人々とビル群が見る。
空には浮かぶ車が行き交い、ドローンのような機械がケバケバしいホログラムの宣伝広告を映している。
「…………」
静かに、そっと引き戸を閉めた。
頭を強く押さえ、息を吐いた。
意を決して、もう一度ゆっくり引き戸を開く。
ヒュゥゥゥウウウ……。
埃っぽい風が路地裏を吹き抜け、ゴミが舞い上がる。
「臭い……」
どう見ても風呂場ではない。
気のせいでも幻覚でもない。
風呂場は、地球の物理法則を完全に無視して、よくわからない場所へと直結してしまっている。
「…………」
スーと、静かに引き戸を閉じた。
ミッキーの言っていた変な声が聞こえる、という言葉が脳裏をよぎる。
声とか幽霊どころの話じゃないんだが。
「……よし。布団でも買いに行こう」
現状から目を背けるように回れ右をして、玄関へと歩き出した。
玄関のドアにに手をかけ、回そうとした――その瞬間。
(バン!バン!バン!バン!バン!!!)
部屋の中に激しい音を立てて、風呂場の戸を外から叩く音が響き渡った。




