3話 サイン会と家無しおじさん
極大の熱線を防ぎきった深夜の路地裏は、まるで時が止まったかのような奇妙な静寂に包まれていた。
溶けたコンクリートの焦げ臭い匂いだけが、夜風に乗って漂っている。
「……はぁ? 魔王?」
上空でプカプカと浮遊していた紫髪の魔法少女が、不快そうに眉間に皺をつくった。
その足元、泥と瓦礫にまみれたアスファルトに四つん這いになり、四本の腕をフルに使って必死に頭を擦り付けているのは
さっきまで彼女と戦いを繰り広げていたはずのワニ頭の怪人だ。
「魔王様、魔王様ァ……! ご降臨、心より……心より嬉しく思います……っ!」
ぐしゃぐしゃに顔を濡らし、涙ながらに心からの歓喜を叫ぶ怪人を前に、俺とミッキーはただただ引きつった顔を見合わせるしかなかった。
すると、頭上の魔法少女は空中であぐらをかくような体勢になり、ジャージのポケットから慣れた手つきで画面に日々の入ったスマホを取り出した。
液晶の明かりが彼女の冷めた顔を照らす。
「あ、もしもしハルちゃん? 今さ、クソ怪人仕留めようとしたら、なんか魔王とかいうおっさん二人組に邪魔されたんだけど。
……あ? そう、魔王。なんか怪人がそう呼んでる。これってさ、怪人一匹で十万じゃん? 魔王ならいくらになるわけ? ボーナス出る?」
どこまでも生々しく世俗的な金の話が、静かな路地裏に響き渡る。
しばらくスマホの向こうの話に耳を傾けていた少女だったが、急にその表情が露骨に不機嫌そうに歪んだ。
「はぁ!? 今月の予算使い切ったから怪人駆除も来月にしてって、何それ意味わかんねぇんだけど! 持ち越しとかできねーの? クソがよ、マジ使えねぇ……。もういいわ、帰る」
通話を荒々しく切った少女は、スマホをポケットに乱暴にねじ込むと、地上で立ち尽くす俺たちを鋭く一瞥した。
「おい、おっさん。来月までその首洗って待ってろよ。そこの糞ワニもだ。金になんねぇなら、こんな夜中に働く義理ねーから。じゃ、お疲れっしたー」
それだけ吐き捨てると、彼女は夜空の向こうへ向かって、凄まじい風切り音と共に超スピードで飛び去っていった。
あまりにも割り切りすぎた現金さに、俺とミッキーの口はぽかんと開いたままだ。
「……あ、あの、魔王様方」
恐る恐る、なおも地面に這いつくばったまま声をかけてきたのは怪人だった。
「吾輩……あ、いや、私め、お二人の大、大ファンでして! 魔王様方の復活を、首を長~くして待っておりました!」
「えぇ……」
こいつと過去にどこかで会ったことあっただろうか。まったく記憶にない。
「ぶしつけではございますが、サ、サインを頂けないでしょうか!!」
怪人は燕尾服の懐から、どこから用意したのか真っ白な色紙と太いサインペンを取り出した。
「サインやて」
こっちに話を振るな、ミッキー。
断るのも角が立ちそうなので、仕方なしに色紙を受け取り、漢字で大きく『山田太郎』と書き込んだ。
「さ、サロスちゃんへ、と書いていただけませんか、お、おねがいします!」
「ちゃん……?」
このワニ頭、メスかよ。
結局、宛名を添えてミッキーにもサインを書いてもらうと、怪人はぶるぶると全身を歓喜で震わせ、ワニ頭をぐるりと回転させた。
デスロール?
……嬉しい表現が独特すぎるだろ。
「ひゃああああ! 本物の嘆きの王とDOLLの直筆サイン……!
まおこれのぶっ壊れ人権キャラの実物が目の前に……!
尊すぎるぅ!! 私、お二人の限定水着バージョン(完凸)をホーム画面に設定しておりますぅ!」
「水着……? 完凸……?」
泡混じりの唾を飛ばしながら早口でまくし立てるワニ怪人。
おっさん二人の頭の上に、大量のハテナが浮かび上がる。水着? 俺たちの水着ってなんだ??
「一生の家宝に致します! それでは、また近いうちに拝謁に伺います!!」
怪人はバッと立ち上がると、深々と綺麗な角度の一礼を決め、路地裏の闇に溶けるように消えていった。
嵐のような連中が去り、後に残されたのは、無惨に抉れた道路と、呆然と立ち尽くすおっさん二人。
「……帰るか」
「せやな、ヤマちゃん。俺ら明日から休みやし、はよ寝よ」
いつの間にか、異形の盾は左腕へ吸い込まれるように消えていた。
しびれた腕をさすりながら呟くと、ミッキーも巨大な鋼の腕をいつの間にか元のツナギの袖に戻し、どっと疲れた顔で深く頷いた。
何事もなかったかのように、俺たちは再び社員寮へのトボトボとした足取りを再開したのだった。
◇
「……ん? ヤマちゃん、あれ君の部屋の方ちゃう?」
見慣れた寮が見えてきたところで、ミッキーがふと二階を指さした。
見上げれば二階の一番端――まさに俺の六畳一間の窓から、モクモクと不穏すぎる黒煙が夜空へ立ち上っている。
「俺の部屋だ……!」
俺は階段を二段飛ばしで駆け上がった。
ギシギシと悲鳴をあげる廊下を走り、自分の部屋のドアを勢いよく蹴り開ける。
「ゴホッ、ゴホッ……! 山田さん!? 来ないでください! 煙を吸います!」
白い煙が充満するワンルームの奥で、必死に消火器のノズルを向けている人影があった。
タイトスカートのスーツのまま、普段の崩れない髪を乱して消火剤の粉末を撒き散らしているのは――橋本さんだった。
「橋本さん!? なんでここに!」
「異常な魔力反応が……いえ、虫の知らせがして現場に急行したところ、すでに火の海でした! とにかく火元を叩きます!」
消火器の粉末を浴びせているにもかかわらず、畳の中央で何かが青白い炎を上げて激しく燃え盛っている。
あれは普通の火じゃない、俺がよく知っているアイツの魔炎だ。
「ダメです……! この消火器では炎が消せません……!
くっ、せっかく力を取り戻す手がかりを見つけたというのに……! 水魔法でも使えれば……!」
パニックになりながらも、相変わらず事務的な口調で橋本さんが何かを口走る。
水魔法? と俺が耳を疑った、次の瞬間。
「あれ? これ出せちゃう?」
一瞬だけ素の口調が漏れた彼女が、勢いよく両手を突いた。
次の瞬間、バキバキバキッ!! と空間そのものが裂けるような重厚な音が響き、彼女の手元から大質量を持った巨大な濁流が解き放たれた。
「え?」
ドゴォォォォォン!!!
火が消えた、どころの騒ぎではなかった。
あまりの水の勢いと凶悪な水圧により、俺の部屋の外壁、天井、そして床の一部が、コンクリートごとボコォンと綺麗に抉り取られて消失した。
一瞬にして、俺の六畳一間は心地よい夜風が吹き抜ける開放的なテラス席のようになってしまった。
静まり返る破壊の跡。
部屋が文字通り半壊し、呆然と立ち尽くす俺と橋本さん。
そして、開いた大穴から見える一階の地面から、「ヒエッ」と怯えるミッキーの声が聞こえてくる。
吹き飛んでなくなってしまった壁を呆然と見つめていると、ガラガラと崩れる瓦礫の中から、「クゥーン、クゥーン……」と情けない犬に似た鳴き声を上げながら何かが転がってきた。
見れば、ついさっきまで物干し竿代わりにしていた、あの『炎の魔剣』だ。
刀身にはまだ、あのシトラスの香りのタオルが半焦げの状態で巻き付いている。
「くぅーん……(ごしゅじん、ひさしぶりにおきたらなんでいないんですかぁ)」
蘇った魔剣は、完全にただの淋しがり屋の駄犬と化していた。
「いや……元々こんな奴だったな、お前……」
どうやら俺が飲みに出かけた隙に目が覚め、主がいない寂しさのあまり魔力が暴走して発火してしまったらしい。
「うー、わんわん!(ぼくに水ぶっかけたあの女斬っていい?)」
「良いわけあるか! 橋本さんはお前が起こした火事を消そうとしてくれたんだぞ!」
溜息交じりに窘めると、魔剣は「キャン……(ごめんなさいですぅ……)」としょんぼり刀身を震わせた。
「きゅ~う(おこられちゃった、もういいもん、ごしゅじんの影の中に入ってよ……)」
魔剣は切なげにひと鳴きすると、俺の足元に伸びる影の中へ、ぬるりと自ら溶けるように沈み込んで引きこもっていった。
夜風が、壁のなくなった開放的な部屋に虚しく吹き込んでくる。
一階から階段を駆け上がってきたミッキーが、部屋の悲惨な惨状と橋本さんを見比べ、引きつった笑いを浮かべた。
「……ヤマちゃん。ハッシーも、こっち側の人やったん?」
俺たちの視線を一身に浴びた橋本さんは、乱れたスーツの襟をピシッと整えると、何事もなかったかのように人差し指で眼鏡の位置を直した。
自身が解き放った圧倒的魔法の残痕と、完全に抉れて夜空が丸見えになった壁の向こうを指さし、極めて平然と言い放った。
「……大変でしたね。どうやら古いガス管が爆発した衝撃で、偶然にも水道管が同時に破裂し、そのおかげで一瞬にして鎮火したようです。不幸中の幸いでしたね」
「「いや無理あるだろ(やろ)!!」」
俺とミッキーの心の叫びが見事にハモる。
しかし橋本さんは表情一つ変えず、手に持っていたボロボロの消火器をそっと床に置いた。
「では、私は業務時間外のボランティアを終えましたので、これで失礼します。本来であれば即座に損害報告書を提出していただく規則ですが、人道的な緊急事態を考慮し、書類手続きは休み明けで不問とします」
自分で被害を圧倒的に大きくしたのを完全に棚に上げやがった。
「さしあたり、今日の山田さんの寝床はありませんので、三木谷さんの部屋にでも居候してください。代わりの住居手続きは私からも総務に話をしておきます。それでは、おやすみなさい」
ぐるぐると視線が定まらない動揺した瞳のまま、一礼すると流れるような美しい動作で、今しがた吹き飛んで吹き晒しになった部屋の端から颯爽と夜の闇へ向かって身を躍らせた。
タイトスカートを翻し、重力を無視したような軽い着地音を残して、彼女は夜の路地へとそそくさと消え去っていく。
「いや、そこから帰んなや」
ぽかんと夜空を見つめる俺の横で、去っていく彼女の背中に向かってミッキーが呆然と呟いた。
爽やかな夜風が、壁のなくなった六畳一間に虚しく吹き込んでくる。
休み初日、俺は家を失った。




