2話 ワニと魔法少女
居酒屋を出たのは、深夜十二時を回った頃だった。
湿り気を含んだ夜風が、ビールで火照った頬を撫でていく。古びた街灯が不規則に点滅する夜道を、酔っ払った俺とミッキーは千鳥足で歩いていた。
「いやぁ今日はよう飲んだなぁ! 久々にヤマちゃんと飲めて楽しかったわ。今度はまたハッシーも誘ってビアガーデン行こや!」
「あの人が酔っ払ったところは一回見てみたい気もするな」
「わかるわ〜! きっと急に泣き出したりするタイプやで!」
さっき店内で一瞬だけ見せたミッキーの異様とも言える気配――あの空間すら歪めるような豹変は、もう深く考えないことにした。
かくいう俺だって、自分が異世界帰りだなんて、口が裂けても言えるはずがないのだから。
いやー、でも今日は飲みに誘ってもらって本当に良かった。
明日からの年休消化。
これからはがむしゃらに働くだけの毎日を少し抑えて、自分のために時間を使ってみるのも悪くないかもしれない。
退屈で、だからこそ愛おしい平和な日常。
そんな噛みしめるような幸福感に浸っていた、まさにその時だった。
ヒュッ――ドゴォォォン!!
鼓膜を揺らす凄まじい風切り音と同時に、目と鼻の先のアスファルトへ何かが強烈な速度で叩きつけられた。
舗装された道路が紙くずのようにめくれ上がり、強烈な爆風と土煙が俺のスニーカーを容赦なく叩く。
「うおっ!? なんだ!?」
思わず腕で顔を覆い、眩みそうになる視界を確保する。
爆心地にできた大きな陥没穴から、煙を払うように黒い影がバックステップで飛び出してきた。
「中々に効いたのでアール! 品性下劣なくせに、力だけは最高ランクなのでアール!」
背中には不気味に蠢く蝙蝠の翼。
仕立ての良い高級そうな燕尾服を着込んでいるが――その首から上は、凶悪な牙を覗かせる『ワニ頭』だった。
肩付近から生えた四本の腕で、神経質そうにスーツの砂埃を払っている。
その立ち振る舞いはどこか作り物めいていて、現実感を著しく欠いていた。
「クソがよっ! 潰れてねぇのかよ!」
上空から、ひどくドスの効いた少女の怒声が降ってきた。
見上げれば、電柱の街灯の光を背に、派手なフリルで飾られた魔法少女風のドレスを着た女の子がプカプカと宙に浮いている。
夜空に鮮やかに映える紫色の髪。
突き出した小生意気な口元からは、街灯の光を受けてキラリと銀色に光る舌ピアスが覗いていた。
一見すると可愛らしいアニメ調の衣装なのだが、そのひらひらとしたフリルスカートの下には、なぜか高校指定のようなダサい濃紺の芋ジャージが覗いている。
そのちぐはぐな格好が、かえって彼女の常軌を逸した異常性を際立たせていた。
「浮いてる……? なんだあの子、コスプレか……?」
「あはは、ホンマに今日は飲みすぎたかもわからんわ、ヤマちゃん。幻覚まで見えてきたで」
ミッキーは呑気な声を上げているが、俺の直感が告げていた。
ありゃ「本物」だ。
かつて異世界で対峙した、命を顧みない狂信的な魔導師と同じ破壊の光を纏っている。
「なんだおっさん、見てんじゃねーよ。邪魔だ、消えろ」
紫髪の少女は浮遊したまま、地に足をつける俺たちを見下ろし、心底不快そうに眉間へシワを寄せた。
「一般人に凄むなでアール、人払いの結界すら張ってないのかよでアール」
「うるせぇ! ワニが人間の言葉喋ってんじゃねぇよ!」
「おっさんたちも災難でアール。……あれ? んんん……?」
ぎゃあぎゃあと魔法少女と言い合いをしていたワニ頭が、ふとこちらへ視線を向け、ジッと俺の顔を凝視した。
そして首(?)を傾げ、不気味に眼球を蠢かせる。
「どこかで……お会いしましたかでアール……?」
怪人が俺たちに気を取られた隙を、少女は見逃さなかった。
彼女が突き出したおもちゃのような杖の先端に、禍々しいまでの魔力が怒涛の勢いで凝縮され始める。
肉眼で視認できるほど青白く圧縮されていく光の圧力に、杖にごちゃごちゃと括り付けられたぬいぐるみが重力を無視して浮き上がり始めた。
「……ちょっと待つのでアール! それをやったら、このおっさん達も巻き添えで死ぬのでアール!」
「知るか!!」
杖の先から放たれる圧倒的な熱量に、周囲の夜気がジリジリと焼け焦げる嫌な臭いが漂い出す。
言葉通り、俺たちごと怪人を消し去る気だ。
「おい、ミッキー、下がれ!」
ミッキーの肩を掴み、後ろへ引き倒そうとした。だが、ミッキーの身体はまるで大地に根を張った大木のようにビクとも動かない。
それどころか、彼はじっと頭上の爆炎を見つめたまま、普段と何ら変わらない気さくなトーンで呟いた。
「……最近の若いんは、お行儀の悪いのが多くて困るなぁ」
「死ねぇぇぇオラァッ!!」
少女のヒステリックな叫びと共に、フリルの裾が激しく翻り、夜の空間そのものを切り裂くような極大の熱線が解き放たれた。
直撃すれば、細胞一つ残さず蒸発するような破滅の光が、真っ直ぐに俺たちへと迫っていた。
ドォォォォォン!!!
熱線が衝突し、全視界が爆発的な真っ白な光線で塗りつぶされた。
周囲のコンクリートが一瞬で溶融してガラス状へと変わり、激しい衝撃波が路地裏の建物を揺さぶる――はずだった。
だが。
「……え?」
上空の少女から、拍子抜けしたような呆然とした声が漏れた。
もうもうと立ち込める土煙がゆっくりと晴れていく。
円状にくり抜かれた破壊の爪痕の中央に、ポツンと完璧に無傷な空間が残されていた。
その中心で、俺とミッキーは何事もなかったかのように立っている。
いや、平然と、ではなかった。
「……ヤマちゃん、何やそれ」
「……ミッキー、なにその腕」
お互いの姿を視界に収めた瞬間、俺たちは言葉を失った。
俺の左腕の前には、空間を引き裂いて顕現した、あまりにも見覚えのある異形の盾が蠢いていた。
赤黒い血のような脈動を繰り返し、今なお貪るように魔法の燐光を「捕食」して咀嚼している。
そしてミッキーの右腕は、作業着の袖を内部から豪快に弾き飛ばし、鈍く黒光りする巨大な鋼鉄の異形へと変貌を遂げていた。
ギギギ……と骨の軋むような重厚な機械音を立てて複雑に組み替わり、幾何学模様のラインに青白い光が奔っている。
互いが、互いを庇った。防げもした。それは間違いない。
もしあのまま受けていれば、二人して跡形もなく消し炭だっただろう。
――だけど、だ。
「……なんで今更出てくんだよ、これ」
左腕にまとわりつく、懐かしくも胸糞悪い蠢く盾を睨みつけ、込み上げる激しい苛立ちを隠せなかった。
十年間、一度たりとも反応しなかった力が、なんでこんな最悪なタイミングでしゃしゃり出てくるんだ。
ミッキーもミッキーで、自身の幾何学模様が明滅する巨大な腕を、忌々しそうに見つめている。
「ホンマそれや……! 助かったけど! 命拾いしたんはありがたいけど、何も今出んでええやろ! 逆に狙ったみたいでカッコ悪すぎるわ!」
お互いに、十年間必死に隠し通してきた過去が、まさかこんな情けない形で白日の下に晒されるとは思ってもみなかったのだ。
最悪の気分だった。楽しく飲んだ酔いが一瞬で冷めていくのを感じる。
「キモッ! なんだそれ!! アタシの魔法が効かねぇのかよ!?」
上空のジャージ魔法少女が頭を掻きむしって悔しげに喚き散らす。
しかし、地面に転がっていたワニ頭は違った。
彼は俺たちの異形の姿と、展開された盾と腕を穴が開くほど凝視すると、ガタガタと全身を激しく震わせ始めた。
「ひ、ひえぇっ……! あ、あの赤黒い盾と、鋼の右腕は……っ!?」
次の瞬間、燕尾服の膝を泥まみれのアスファルトへ勢いよく叩きつけ、平伏した。
四本の腕全てを地面に擦り付け、額を地面に擦り付ける完璧な土下座の姿勢。
「何やってんだ、ワニ野郎」
「黙れ黙れ黙れ! 無知な小娘!! 貴様、どなたの御前だと思っているのだ!!」
ワニ頭は先ほどまでの語尾すら完全に忘れ去り、必死の形相で上空の少女を怒鳴りつけた。
そして、恐る恐る顔を上げ、俺たちを上目遣いで見つめると、声帯を震わせながら絞り出すように呟いた。
「まさか、このような辺境の地で……伝説の御方々にお目にかかれるとは。……あの禍々しくも美しき、嘆きの王と、殺戮天使DOLL……」
あまりの恐怖と歓喜からか、顎からは泡のような涎がダラダラと垂れ落ちている。
「ご、ご降臨、心より嬉しく思います! 姿をお隠しになられたと聞き及んでおりました……魔王様方……!」
『魔王』
その重々しい二文字が、静まり返った深夜の路地裏に虚しく響く。
そっと隣を見つめた。
ミッキーは幾何学模様の光る鋼の腕をぶら下げたまま、頭をガリガリと掻いて、心底面倒くさそうな顔で笑っていた。
「魔王だってよ、ミッキー」
「ハハッ! 勘弁してーや、ヤマちゃん。俺は明日からせっかくの有休やねんで?」
まだ有休初日どころか、休みすら始まっていないというのに、俺の胃は猛烈な痛みを訴え始めていた。




