第14話 婚約者だから
「コホン。フォール坊ちゃま。念願の婚約者が来られて、気持ちが浮つくのは重々承知しておりますが程々に」
「……わかっている。あと、『坊ちゃま』はやめろと言っているだろう」
「これは失礼いたしました」
涼しい顔で恭しく頭を下げる燕尾服を着た紳士……セバスさんに、跪いた状態から立ち上がった辺境伯子息様が不満そうに頬を膨らませる。
この二人、お互いのことを本当に信頼しているのね。
主従というより、家族みたい。
仲睦まじい二人を見て、アリシアが来る前の――私と使用人たちがまだ良好な関係だった頃を思い出し、少しだけ胸が痛む。
そんな私に視線を戻した辺境伯子息様が優しく微笑む。
「さて、カーラ嬢……いや、今日から俺たちは婚約者なんだ。『カーラ』と呼んでもいいか?」
「えっ」
婚約者から名前を呼んでいいかなんて言われたの、初めて。
殿下の時は『おい』とか『お前』とか『地味女』だったから。
「嫌、だったか?」
「あっ、いえ、そんなことは!」
「そうか。それなら……カーラ」
「っ!」
初対面の婚約者に名前を呼ばれた。
それだけのことなのに、どうしてこんなにも心臓がうるさいの?
『嬉しい』と思ってしまうの?
すると、笑みを深めた辺境伯子息様が私に婚約者らしいお願いをしてきた。
「カーラ、俺のことも『フォール』でいい」
「良いのですか?」
「もちろん! 俺たちは婚約者なのだから」
「こん、やくしゃ……」
婚約者の名前って、呼んでいいものだったの?
殿下の頃は名前を呼ぶことを心底嫌がっていたから。
「そう、俺たちは婚約者だ。だから、呼んでくれないか?」
「わ、分かりました。では……フォール、様?」
恐る恐る彼の名前を呼んだ瞬間、驚いたように目を見開いた彼は、太陽のような眩しい笑顔を浮かべた。
ま、眩しすぎるわ!
「あぁ! 君にまた名前を呼んでもらえる日が来るなんて……本当、夢みたいだ!」
「えっ?」
また?
私たち、今日が初対面ではなかったの?
彼の言葉に首を傾げた時、私の周囲を見回していたセバスさんが険しい表情で口を開く。
「カーラ様。失礼ながら、侍女と護衛騎士の姿が見当たらないのですが……それに、お荷物も随分と少ないようですし」
「あ、その……」
セバスさんからの指摘に言葉が詰まる。
言えるわけがない。
婚約が決まった直後、着の身着のままで追い出されるように送り出されたなんて。
……そもそも、義妹と継母が来てから、私には『侍女』と呼べる味方なんて一人もいなくなったから。
何と答えて良いか分からず、思わず視線を逸らすと、私の表情を見たフォール様から笑みが消えた。
「ひとまず、君の部屋を案内しよう。セバス、話はその後で良いな?」
「かしこまりました、坊ちゃま」
「お前なぁ……」
私の部屋。
辺境伯家の屋敷だもの。
きっととても立派な部屋に違いない。
けど……
脳裏に別邸で暮らしていた日々が過り、思わず口をついて出た。
「あの、辺境伯子息様……」
「カーラ?」
「うっ……フォール様」
「あぁ、どうした?」
この人、何が何でも私に名前で呼んで欲しいのね。
フォール様からの笑顔の圧に負けた私は、名前を呼んだ後に小さく息を吐くと恐る恐る尋ねる。
「私の部屋というのはその……別邸でしょうか?」
その瞬間。穏やかな陽気に包まれた空気が、一気に凍りついた。
「あ、あの……フォール様? 私、何か変なことを……?」
首を傾げる私を見て、彼とセバスさんが揃って顔を引き攣らせる。
それを見て、私の心臓が嫌な音を立てた。
私、失礼なことを言ってしまったの?
……また、婚約破棄をされるの?
また、家から追い出されるの?
そうなったら、いよいよ平民として生きるしか……
「……そう言えば、君は長い間、古い別邸で暮らしていたんだったな」
「え? あ、はい……」
なぜか苦しそうな表情をするフォール様を見て、頭の中を支配していた不安が吹き飛んだ。
とりあえず、怒られてそのまま婚約破棄という最悪の事態は免れたみたいだけど……フォール様、そこまで調べているなんて。
さすが、辺境伯家次期当主ね。
すると、フォール様が私の頭を撫でてそのまま腰を落とし、私と視線を合わせた。
「大丈夫だ。君の部屋は別邸ではない。この屋敷で一番日当たりが良くて、眺めのいい部屋だ」
「そう、なのですか?」
日当たりが良くて、眺めがいい部屋なんてアリシアが奪われた部屋と同じだわ。
「ああ。それに、ここでは自分のことは自分でしなくていい。なにせ、ここには、俺の婚約者として君を支え、君のために動く使用人たちがいるのだから」
「っ!」
知って、いるの?
私が公爵家でどんな扱いを受けていたのか。
食事も掃除も洗濯も……身の回りのこと全てを自分でしていたことを。
貴族の体裁を大切にされるお父様のことだから、このことは徹底的に隠していたはず。
第一王子の婚約者を蔑ろにしていると周囲に知られれば、たとえ『聖女を虐める悪女』と噂されていても、社交界での立場を無くしてしまうから。
そのことをこの人は知っていたのね。
すると、頭を撫でていたフォール様の手が、私の手を優しく包み込んだ。
「今の君に『大丈夫だ。安心してくれ』と言っても、今の君が俺の言葉を信じることが難しいのは重々承知しているつもりだ。それでも……」
フォール様のルビー色の瞳が私を捉える。
『地味女』と蔑まれた私を。
「ここには、君を蔑ろにする人間なんていない。それだけは、リスタット辺境伯家の名に懸けて……いや、俺の全てをかけて約束する」
「っ!」
視線を逸らさず、真っ直ぐ放たれた力強い言葉は、10年の間で冷え切っていた心を僅かに溶かす。
今すぐ、彼の言葉を全て信じることなんて出来ない。
彼のことをよく知らないから。
でも、これだけは分かった。
彼は……フォール様は元婚約者と違うことを。
私を『人』として見てくれて、大切に扱おうとしてくださることを。
その時、視界がぐらりと揺れる。
「あ、れっ?」
急に体に力が入らなくなり、後ろに倒れそうになる。
私、こんなに疲れていたのかしら。
王都でも、倒れたことなんてなかったのに。
「カーラ!!」
「カーラ様!」
意識を手放そうとした時、 酷く焦ったフォール様とセバスさんが視界に映った。
そして、大きくて温かいものが私の華奢な体を優しく包み込んだ。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!
というわけでフォール、カーラに出会って暴走しております(笑)
でも、カーラのことを気遣って、特別なことは何もしておりません。
名前を呼んで、日当たりの良い部屋を案内する。
ただそれだけなのに……カーラには特別に見えた。
王都での暮らしが嫌というほど分かりますね(笑)
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