二人の女神と女王ひとり
……勝った!
左の第3指までじいんとくる中、僕の身体から、どっと力が抜けた。
会場は、はりつめた空気の中で静まり返っている。
一瞬の静寂の後、ひそひそ交わす声が聞こえた。
「今の一閃……鳥肌立ったぞ!」
「あれが本物の英雄の戦いってやつか……!」
「ジークフリート、マジで伝説になるだろ……!」
やがて、ぱらぱらと拍手が聞こえはじめた。
それが次第に、歓声に変わっていく。
「やったね!」
「最強!」
「ブラボー!」
あとは手拍子と、会場中の「ハセオ」コールが荒れ狂った。
僕はただ、脱力感と指の疼痛の中、呆然とそれを聞いているしかなかった。
だが、それを鋭く制する声が、熱狂を切り裂いて響き渡った。
「インターバルを要求します!」
こんなに厳しく澄み渡った声で、これだけの人数を黙らせることができる者はひとりしかいない。
観客たちを睨み据えて立ち尽くす白いワンピース。
……紫衣里?
我に返ったところで、僕の勝利の女神は毅然と言い放った。
「彼らには、よりよい試合のために休息が必要です。違いますか?」
佐藤が困ったように舞台に立つ。
「先ほども申し上げましたが、タイムは失格……」
それを遮る声があった。
フィービーだ。
何やらまた理屈をこねだしたので、ポケットのスマホで配信画面を確認する。
「Time’ is a Japanese-made English word.It has no official meaning in competitive rules.You cannot declare a disqualification based on a term that doesn’t exist.」
(『タイム』は日本で作られた英語よ。競技ルールとしての正式な意味は存在しないわ。存在しない用語を根拠に失格を宣告することはできない)
……女神は、もうひとりいたわけだ。
つい、頬が緩むのを感じたが、そこで便乗したフォロワーが、ヤジを飛ばし始めた。
「That’s not real English!」(英語じゃねえだろ!)
「No DQ for fake terms!」(ありえねえ、インチキ!)
「Let him rest!」(休ませてやれ!)
……そう、トイレはいいから、一息だけ。
僕のささやかな願いだった。
できるなら、もうちょっと静かにしてほしいとも思ったとき、騒然となった会場は冷たい一言で再び沈黙した。
「私は、平気だけど」
聞き覚えがあるのに、どうしても思い出せない、あの声だった。
超絶テクニックを持つ、女王クリームヒルトのプレイヤーだった。
今度は、さっきのオタクたちが喚きだす。
「やべぇ……惚れる!」
「続けろよ! まだいけるだろ!」
「黙ってろ平民!」
たちまち、フィービーのフォロワーとの罵りあいが始まった。
「Why are you screaming at me?」(オレに言ってんのか?)
「日本語で話せバカ!」
「 I’m not listening to you!」(オマエの話なんか聞いてねえ!)
「女王様が平気って言ってんだよ!!」
「You shut up!」(黙ってろ!)
こうなると、もうフィービーでも収拾がつかない。
「Calm down. You’re not helping.」(落ち着きなさい。あなたたちは邪魔してるだけよ。)
ジークフリートが倒した王女メディアやクレルヴォの怨念に囚われたかのように、会場は混乱の渦の中に呑み込まれていく。
もっとも、復讐の女王クリームヒルトとしては、これ以上ないくらいに望ましい光景かもしれない。
僕はというと、もう諦めかけていた。
……もういいよ、ちょっと休めたから。
挫いた足が痛むわけでもない。
せいぜい、指三本のことだと思えば腹も立たない。
試合が再開されても、僕は次の対戦に臨むつもりでいた。
だが、その荒れ狂う憎しみの嵐は、紫衣里の清冽な声で断ち切られた。
「いい加減にして!」
オタクたちもフォロワーたちも、抜き打ちの刀で斬られたかのように、噛みあわない口論をやめて口を閉ざした。
佐藤もフィービーも、そしてアルファレイドのVIPたちも、会場中が白いワンピースの少女を見つめる。
その視線の真ん中で、紫衣里は暗い天井を見上げた。
「見てるんでしょう? プリンス! ……いや、オーナーと言ったほうがいい? エセルバート・ウィルフレッド=ヒュー・スウィンナートン4世」
二つ名を3つの言葉で呼んで、返事を待つ。
確かに、フィービーとフォロワーたちがリアルタイムで世界中に配信している映像を、軌道エレベーターを買い取ったプリンスが見ていないわけがない。
もしかすると、昼食の際の大混乱を見て、大笑いしていたかもしれない。
だが、あの誇り高くてたしなみのある鷹揚な貴公子の、冷たく落ち着いた声は聞こえなかった。
代わりに、スマホを耳に当てて何か一言二言やり取りした佐藤の、何事もなかったかのようなアナウンスがあったばかりだ。
「ボクシングのルールに則って、1分のインターバルを認めます」
フィービーが文句を言った。
「One minute? That’s barely a breath.」(1分? 息をつく間もないじゃない。)
佐藤は営業スマイルを浮かべて答えた。
「Well, it’s still longer than the thirty seconds you had before… Okay, that’s ten seconds! Tick‑tock—fifty more to enjoy!」
(先ほどの30秒より長いと思いますが……ほら、10秒経った。あと50秒!)
紫衣里が佐藤に言い放った。
「クレーン、下ろせますね……10秒で」
営業スマイルのままで挙げた手が下ろされると、対戦者席は観客席に向かって、凄まじい速さで弧を描いて降りていった。
因みに、僕は絶叫系マシンが苦手だ。
「ちょっと! ちょっとちょっとちょっと!」
しばらく悲鳴を上げたところで、すぐ足元に紫衣里の大真面目な顔が見えた。
僕に向かって、斜め上に手を伸ばす。
「手、見せて」
ちらりと眺めると、どす黒く腫れあがっていた。
怪我した指に、「竜殺しの英雄」は、そのくらい負担がかかるのだ。
顔を背けて恐る恐る下ろした左手を引っ掴むや、甲高い声で怒鳴りつけた。
「バカ!」
今度は、僕までが会場中の注目を浴びる。
紫衣里は、つま先立ちして囁きかけた。
「何で言わなかったの!」
「だって」
あの嵐の中で、タオルケットに二人でくるまりながら、肌をぴったり合わせてくすくす笑った後だ。
たいした怪我じゃないと思っているのに、そんなこと言えるわけがない。
甘い記憶に浸っていると、左手に激痛が走った。
悲鳴を上げそうになったところで、紫衣里に叱り飛ばされた。
「男は黙ってやせ我慢!」
喉まで出かかった叫びを飲み込むと、痛みは嘘のように引いていた。
ありがとう、と言いかかったところで、紫衣里は「めっ」という怖い顔をした。
「メソポタミア3500年と、アンデス文明10000年の知恵に感謝してね」
「今朝は中国4000年とマヤ文明2000年だったような気が」
その軽口をたしなめるように、紫衣里は勝利の女神が下僕に言い渡すように告げた。
「足は、普通に歩いてるから大丈夫なの。この指は……無茶したら、二度と格闘ゲームはできなくなるからね」
中国とかメソポタミアとかいう話の流れからすると、どこまで本当だか分からない。
だが、脅かしているのではないとすれば……。
帰ったら、親との直談判になるかもしれない。
紫衣里のために、学校を辞めて働くのは並大抵のことではないだろう。
それが現実的な判断かどうかは、まだ分からなかった。
いやなら、アルファレイドの籠の鳥になるしかない。
……勝つしかない。
僕の腹の中で、ひとつの考えがまとまりつつあった。




