第五章 その心は③
……夜。時刻は十一時ほど。
リッカは一人、サザン伯爵邸の廊下を進んでいた。
(私は……)
コツコツと。
足音だけを響かせて、リッカは瞳を細めた。
脳裏によぎるのは悪夢のようだったあの男との日々だ。
騎士の矜持も、女の純潔も。
何もかも奪われた日々だった。
自分は、やはり今も穢れていると思う。
(その気持ちだけは変わらないな)
緋色の瞳を細めた。
本来ならば死を迎えていた自分を呼び戻してくれたのは閣下だった。
騎士としての矜持も、彼が呼び起こしてくれた。
どれほど感謝しても感謝しきれない。
(だが、本当に私でいいのか?)
それは拭えない疑問だった。
他の方々は閣下に相応しい女性ばかりだ。
誰もが気高く美しい。穢れなど一つもない。
けれど、自分だけは違う。
自分の心と体は、あの男によって穢されている。
自分の胸元に手を添える。自在に年齢を変えられる彼女の今の姿は二十歳ほど。本来の彼女の姿だった。そしてあの男に穢された姿でもあった。
ズグンっと、胸の奥が痛む。
吐き気がする。こんな穢れた姿で閣下の前に立っていいのか。
本当に閣下に愛されるだけの価値があるのか。
歩を進めながら、ずっと自問していた。
(私は……)
眉根を寄せて悩み続ける。
数分ほど経って、彼女は足を止めた。
目の前にはドアがあった。閣下に割り当てられた客室だ。
結局、悩んでも自問の答えは出てこなかった。
(いや。そもそも関係などないか)
ドアを見つめて、リッカは自嘲気味に口角を上げた。
別に愛されなくてもいいのだ。
きっと今、閣下は怨敵のことで心穏やかではいられないはずだ。
この穢れた体でも、その御心の影を少しでも払えるのならば、それで充分だった。
(よし)
リッカは決意した。服の中に異界の宝珠もあることを確認する。
必要ならばこの宝珠も使うつもりだった。
「……閣下」
リッカは、ドアをコンコンとノックした。
ドアの向こうからは『……うん。どうぞ』という声が返ってきた。
リッカは瞳を細める。
それから「失礼いたします」と告げてドアを開けて入室した――。
…………………………。
……………………。
……そうして。
どれだけの時間が経ったのだろうか。
その時、リッカはただただ困惑していた。
ベッドの上で仰向けになり、豊かな双丘を上下に揺らす。
その裸体には汗が滲んでいた。
……はァ、はァ。
喉が鳴って息が零れる。とても熱い吐息だった。
(わ、私は……)
困惑。快楽。そして溢れるような多幸感。
頭の中が、ずっとチカチカと点滅しているようだった。
すると、おもむろに彼に抱き起された。リッカは彼の首に手を回して体を支えた。肌を重なりあい、熱い体温を感じる。
そして、
「……リッカ」
彼の優しい声が耳朶を打つ。
「リッカの責任感が強いことは知ってるよ。騎士としても、護剣獣としても、ボクのためにどうすべきかをいつも考えてることは」
「ふ、あ……」
リッカは言葉に出来ず、声を零した。
「今のボクには大切な人たちがいる。メルも。リノも。リーゼも。ボクを支えてくれて傍にいてくれる」
一拍おいて、彼は告げる。
「そしてリッカ。君もだ。君もボクの守るべき大切な人だ」
「……かっか……」
「今は閣下じゃないよ」
少し困ったような顔を見せて、彼はリッカを強く抱きしめた。
「もう二度と自分を軽く見ちゃあダメだ。それだけは今後禁じるよ」
そう命じられたリッカは、こくんと小さく頷いた。
(……嗚呼)
涙が自然と零れてくる。
本当に奪い尽くされる想いだった。
心をその傷ごとすべて。何もかも貪欲に。
奪い尽くすとはどういうことなのかを知ることになった。
彼に愛された少女たちが、彼を魔竜だと言っていたことを思い出す。
それは本当に正しい認識だった。
「……大丈夫。ボクはもう迷わないから。暴走もしない。あの男のためなんかに立ち止まる気もないよ」
優しく彼女の髪を撫でてくれる。
「だから共に歩こう。リッカ」
「はい。コウタさま……」
リッカは微笑んで、頷いた。
(嗚呼、この方は……)
すべては杞憂だった。
その夜。彼女の中のホラン=ベースはようやく救われた。
リッカは正真正銘の彼の騎士となった。
そして、真の悪竜の花嫁となったのである。




