決勝の日
決勝前夜、エレナが治療所を出ようとしたとき、入口でロザリーと鉢合わせた。
「……エレナ様」
ロザリーは目を合わせようとしなかった。
「お帰りですか」
「ええ。あなたは?」
「忘れ物を取りに……」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
第二治療所にロザリーの私物があるはずはない。エレナはその矛盾を指摘せず、扉を開けたまま待った。
「何かお話があるなら、聞きますよ」
「……私、何も知りません」
「まだ何も尋ねていません」
ロザリーの目に涙が浮かんだ。
「私は、セレスティア様に逆らえないんです。侯爵家から推薦状をいただいて聖女になりました。家族もお世話になっていて……」
「そうだったんですね」
「私が何か言ったら、父の仕事まで失くなるかもしれない」
エレナはすぐに慰めることができなかった。ロザリーが恐れていることは、単なる思い込みではないのかもしれない。
「でも、治療所の薬がなくなって、困った人がいます」
エレナは静かに言った。
「私たちは患者さんの命を預かっています。あなたが知っていることを黙っていたら、次の患者さんが危険な目に遭うかもしれません」
「……分かっています」
ロザリーは両手を握り締めた。
「だから、苦しいんです」
その声は震えていた。
「エレナ様は、私を許せますか」
「まだ何をしたのか聞いていません。許すかどうかは、その後で考えます」
ロザリーは顔を上げた。
「……正直ですね」
「曖昧な返事をしても、あなたのためにならないでしょう」
エレナは廊下の先を見た。
「聖女長は事実を調べています。あなたが知っていることを話せば、少なくとも誰が何をしたのかはっきりします」
ロザリーは長い間黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……明日、話します」
「分かりました」
エレナは彼女を見送った。
その背中が角を曲がるまで、ロザリーは一度も振り返らなかった。
翌朝、エレナはいつもより早く治療所に入った。
窓の外には、まだ薄い霧が残っている。マルタが湯を沸かし、リディアが寝台を整えていた。
「おはようございます」
「おはよう。昨日の患者さんの様子は?」
「全員、夜間の急変はありませんでした。アーヴィン様も痛みは落ち着いたそうです」
「よかった」
エレナは記録を受け取り、一枚ずつ確認した。
その間にも、昨夜のロザリーの顔が頭から離れなかった。
もし彼女が本当に話すなら、調査は進むだろう。しかし、その証言によって彼女自身も責任を問われる。
エレナは、誰かが罰を受けることを喜びたいわけではなかった。
ただ、薬が消えた理由を知りたかった。患者を守るために必要なことを、きちんと決めたかった。
「エレナ様、何かありましたか?」
リディアが尋ねる。
「少し考え事をしていたの」
「疲れているなら、私が帳簿を整理しますよ」
「ありがとう。では、昨日の補充記録をお願い」
リディアは嬉しそうに帳簿を受け取った。
エレナは彼女の横顔を見た。初日には包帯を巻く手さえ震えていた少女が、今は負傷者の症状を聞き取り、自分で必要な準備を考えられるようになっている。
人を育てることも、聖女の仕事なのだ。
そのことを忘れたくなかった。
昼前、治療所へ一人の老人が訪ねてきた。
「こちらにエレナという聖女様はおられますか」
「私ですが」
老人は帽子を取り、深く頭を下げた。
「初日に助けていただいたダリオの父です」
エレナは思い出した。肩を深く切った若い剣士だ。
「その後、お加減はいかがですか?」
「おかげさまで、すっかり元気です。昨日、家に帰ってきました」
老人は布に包んだ小さな籠を差し出した。
「村の焼き菓子です。たいしたものではありませんが、どうか受け取ってください」
「お気持ちだけで十分ですよ」
「それでは私の気が済みません。あの子は、あんたに助けてもらったと何度も話しておりました」
エレナは少し迷い、籠を受け取った。
「ありがとうございます。皆でいただきますね」
老人は満足そうに頷いた。
「大会では強い人が注目されますが、あんた方のような人がいてくれるから、安心して送り出せるんですな」
その言葉に、エレナは胸が詰まった。
老人が帰ったあと、リディアが籠を覗き込んだ。
「おいしそうです!」
「休憩のときに分けましょう」
エレナは籠を棚に置いた。
闘技場の歓声は、相変わらず大きい。
誰かが勝ち、誰かが負ける。そのたびに怪我をした人が運ばれてくる。
自分たちの仕事は、その人たちが家に帰れるようにすることだ。
それで十分だった。
午後、第一治療所から一人の若い剣士が運ばれてきた。腕の傷は浅かったが、熱を出していた。
「昨日から少し具合が悪かったんです」
剣士は申し訳なさそうに言った。
「でも、試合に出たくて……」
「無理をしたんですね」
「はい」
エレナは体温を確認し、傷口を洗った。
「熱があるときは、傷の治りも遅くなります。今日は休んでください」
「負けたのに、こんなことまで言われるなんて」
剣士は苦笑した。
「負けたことと、体を大事にすることは別です」
「……そうですね」
エレナは彼の手を取った。
「大会に出るために、たくさん練習したのでしょう?」
「はい。三年、ずっと」
「なら、その努力を無駄にしないためにも、今は治しましょう。次に剣を握るとき、痛みが残らないように」
剣士は目を伏せ、やがて頷いた。
「ありがとうございます」
エレナは治癒の光を流した。
白い光が傷を包む。
その光を見つめながら、エレナはふと思った。
勝つことだけが、その人の価値を決めるわけではない。
カイルも、きっと同じように考えているのだろう。
彼が決勝で勝っても負けても、自分が彼を好きだという気持ちは変わらない。
そのことに気づいた瞬間、エレナの心は不思議と落ち着いた。
決勝の開始が近づくと、闘技場には前日以上の観客が詰めかけた。
カイル・レインと、東部辺境伯家のアーヴィン・ベルク。二人が決勝に進むことになった。
アーヴィンは準決勝で負った傷を治し、医師の診察も受けて出場許可を得ている。
どちらが勝つかは分からない。王都の賭け屋では予想が割れ、観客たちも互いに違う名前を叫んでいた。
エレナは第二治療所で最後の準備を進めた。
「今日は備品の確認を二人一組で行います。薬品は封印を確認してから開けてください」
「はい!」
リディアたちが答える。
聖女長は夜間の警備を増やし、治療所の出入りを記録させていた。薬品の補充も、担当者二名の署名がなければ受け渡せない。
朝のうちに薬師から検査結果が届いた。
問題の回復薬には、本来の成分がほとんど含まれていなかった。代わりに、魔力の流れを鈍らせる鎮静薬が混ぜられていたという。
過剰に飲めば、治療を受ける患者だけでなく、服用した聖女自身も危険にさらされる。
「悪質です」
聖女長は報告書を握り締めた。
「犯人が誰であろうと、見逃しません」
エレナは頷いた。
これ以上、誰も傷つけさせない。
決勝前の最終確認が終わる頃、第一治療所からアンナが駆け込んできた。
「エレナ様、少しだけお時間をください」
「どうしました?」
アンナは周囲を見回した。
「セレスティア様のことで、お話があります」
エレナは別室へ案内した。
アンナは震える手を握り合わせていた。
「最初の日、肺を傷つけた方を治療したとき、私があなたを呼びに行きました。それなのに、後からセレスティア様に、エレナ様が勝手に来たと説明するよう言われたんです」
「……そうだったんですね」
「私は断りました。でも、ほかの方には、セレスティア様がそう話していて……」
アンナは涙を拭った。
「昨日、ロザリー様が泣いているのを見ました。薬の受け渡しで嘘をついたって。私、怖くて何も言えませんでした」
「話してくれてありがとうございます」
「遅くなって、ごめんなさい」
「今からでも遅くありません。聖女長に一緒に話しましょう」
エレナが立ち上がると、アンナは深く頷いた。
聖女長は二人の証言を記録し、ロザリーを呼んだ。
ロザリーは最初、何も知らないと言い張った。しかし、アンナが自分の見聞きしたことを話すと、顔を覆って泣き始めた。
「私が……私が伝票を持っていきました」
聖女長は静かに尋ねた。
「誰の指示ですか」
「セレスティア様です。第二治療所の薬を一時的に第一治療所へ移すだけだと……。受領印を押すように言われました」
「薬はどこへ?」
「第一治療所の奥の保管庫です。鍵はセレスティア様が……」
ロザリーは肩を震わせた。
「でも、薬の中身を変えたことは知りません。私がやったのは伝票だけです」
聖女長はすぐに警備責任者を呼んだ。
第一治療所の保管庫を確認するためだった。
その頃、決勝戦が始まった。
カイルとアーヴィンが剣を交える音が、闘技場に響く。
エレナは治療所の窓から一瞬だけ舞台を見た。二人の剣がぶつかり、火花が散っている。
カイルが押し込まれた。
観客席から悲鳴が上がる。
だが彼は踏みとどまり、体勢を立て直した。
エレナは拳を握り締めた。
勝ってほしい。
その気持ちが、いつの間にか胸の中で大きくなっていた。
彼が勝つところを見たい。けれど、それ以上に、無事に戻ってきてほしかった。
彼ともう一度、話がしたい。
そう思ったとき、廊下から足音が近づいてきた。
「エレナ様!」
リディアだった。
「大変です。第一治療所の保管庫で、薬が見つかったそうです!」
エレナは振り返った。
「本当に?」
「はい。それと……セレスティア様が、こちらへ来るそうです」
リディアの顔が強張っていた。




