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勇者が最後に選んだ聖女  作者: あずきまんま


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3/6

治せなかった傷

準決勝の朝、第二治療所に異変が起きた。


清潔な布を入れていた箱の封が切られ、中身が濡れていたのだ。水差しは倒れておらず、天井にも漏水はない。布の表面からは、強い香油の匂いがした。


「これでは傷口に使えません」


マルタが顔をしかめる。


「昨夜、最後に確認したときは無事でした」


エレナは箱を閉じた。


「使わずに保管して。代わりを倉庫から持ってきます」


マルタが頷いた。


「誰かがわざと?」


「可能性はあります。でも、決めつけるのはまだ早いです」


エレナは当直記録を確認した。夜間、第二治療所には負傷者が二人残っていた。見回りの係員が出入りした時刻も書かれている。


箱を開けた者の記録はなかった。


そこへ、リディアが駆け込んできた。


「エレナ様、聖女長が呼んでいます!」


執務室にはセレスティアとロザリーがいた。


机の上には、例の偽造伝票が置かれている。


「エレナ」


聖女長は厳しい顔で言った。


「ロザリーが、薬品を第二治療所へ運んだと証言しています」


「私に渡したと?」


「ええ。あなたが受け取ったのに、記録しなかったと」


ロザリーは目を伏せた。


「私は確かにお渡ししました。エレナ様が忙しそうでしたので、印章をお借りして受領印も押しました」


「いつですか?」


「三日目の午後です」


「何時頃?」


「……三時過ぎだったと思います」


エレナは聖女長を見た。


「その時刻、私は呼吸の苦しい重傷の患者さんを診ていました。マルタさんとリディアも同席しています」


「治療の合間なら、受け取れたでしょう?」


セレスティアが口を挟む。


「記憶違いではなくて?」


「その患者さんは午後二時五十分から四時十分まで、呼吸が安定せず継続して診ていました。記録にもあります」


聖女長は帳簿を開いた。


「確かに。しかも、あなたが受け取ったという薬品の箱は、どこへ置いたのですか?」


ロザリーが口ごもる。


「……棚に」


「どの棚?」


「奥の、右側です」


エレナは静かに言った。


「第二治療所の奥、右側には棚がありません。窓と洗面台があります」


ロザリーの顔が青くなった。


「そ、それは……左側だったかもしれません」


聖女長は手を組んだ。


「分かりました。確認が終わるまで、これ以上の証言は不要です」


「でも!」


セレスティアが立ち上がった。


「エレナが嘘をついている可能性もあるでしょう!」


「その可能性も含めて調べています」


聖女長の声が冷たくなる。


「侯爵令嬢であることと、調査の結論は関係ありません」


セレスティアは口を閉じた。


エレナは執務室を出た。廊下で、ようやく深く息を吐いた。


相手が誰であっても、患者を守る仕事に支障を出してはいけない。


その思いは変わらない。だが、繰り返される妨害に、疲れていないと言えば嘘になった。


昼過ぎ、準決勝の第一試合が始まった。


カイルの相手は近衛騎士団の副団長レオンハルトだった。エレナは観戦に行けなかったが、外から聞こえる歓声で試合の激しさが伝わってきた。


やがて鐘が鳴る。


「勝者、カイル・レイン!」


リディアが窓から身を乗り出した。


「エレナ様! カイル様が勝ちました!」


「そう」


エレナは微笑んだ。


「よかった」


その直後、別の担架が運び込まれた。


準決勝の第二試合で負傷したアーヴィン・ベルクだった。左脚を強く打ち、骨折している。さらに、剣で負った肩の傷から出血していた。


「こちらへ!」


エレナは治療台を空けた。


アーヴィンは痛みに顔を歪めながらも、意識ははっきりしていた。


「このままでは決勝に出られない。脚だけでも、きちんと治してくれ」


「もちろんです。痛みを抑えながら進めますね」


骨を整え、傷口を洗う。エレナが魔力を流し始めたとき、異変に気づいた。


いつもより魔力の通りが悪い。


疲労が重なっていた。朝から休まず治療を続け、補助に入った聖女も限界に近い。


「マルタさん、交代をお願いします」


「はい」


マルタが手をかざしたが、治癒の光は弱かった。


「すみません、私も……」


「謝らないでください。回復薬を使いましょう」


エレナは予備の薬瓶を開けた。ひと口飲んで、眉を寄せる。


苦いはずの薬に、甘い香りが混じっていた。


「……待って」


瓶を光に透かす。液体の色が、わずかに薄い。


「これ、いつ届いたもの?」


「今朝の補充分です」


マルタが答えた。


エレナは瓶を置いた。


「誰も飲まないで。別の薬を持ってきてください」


「どうしたんですか?」


「中身が違うかもしれません」


リディアが青ざめた。


エレナは自分の魔力を慎重に配分し、アーヴィンの脚を治し続けた。完全に回復させるには時間がかかったが、途中で処置を止めることはできない。


夕方、ようやくアーヴィンが自力で立てるようになった。


「助かった。ありがとう」


「今夜は歩きすぎないでください」


アーヴィンは何度も礼を言って帰っていった。


エレナは椅子に腰を下ろした。指先が震えている。


薬瓶を見つめると、背筋が冷たくなった。


もし何も気づかず、別の患者に飲ませていたら。


薬の成分によっては、治療が遅れるだけでは済まなかったかもしれない。


薬瓶は聖女長の手で封印され、薬師に検査を依頼された。


エレナはその夜、事情聴取を受けた。使用した薬の種類、患者の症状、瓶を開けた時刻。覚えている限りを話した。


「あなたが気づかなければ、危険でした」


聖女長が言った。


「すみません。もっと早く確認するべきでした」


「あなたが謝ることではありません。ただ、今後は封を切る前に必ず二人で確認しましょう」


「はい」


聖女長は深く息を吐いた。


「明日の決勝までに、治療所の安全を確保します」


執務室を出ると、廊下の窓辺にカイルが立っていた。


「エレナ」


「カイルさん。どうしたんですか」


「聖女長に聞いた。治療所で問題が起きたって」


「詳しいことは調査中です」


「そうか」


彼はエレナの顔を見て、眉を寄せた。


「疲れてるな」


「少し」


「座ろう」


返事を待たずに歩き出すのではなく、彼は廊下の長椅子を示した。エレナは迷った末、隣に座った。


しばらく、二人とも黙っていた。


窓の外では、大会を祝う灯りが王都の通りに連なっている。屋台の呼び声が遠く聞こえた。


「俺が冒険者になった頃の話をしてもいいか」


カイルが言った。


「はい」


「最初の仕事で、仲間が怪我をした。俺は何もできなかった。治療師のところまで運ぶことしかできなくてな」


彼は自分の手を見下ろした。


「そのとき、治してくれた人がいた。礼を言っても、『仕事だから』って笑うだけだった」


「その方も聖女だったんですか?」


「いや、町の治療師だ。でも、あの人がいなければ仲間は死んでた」


カイルはエレナを見た。


「俺にとって、命を救う人はみんなすごい。だから、治療した人の名前より、誰が目立ったかを気にする奴のことが分からない」


エレナは胸の奥が苦しくなった。


「……私も、分かりません」


「だろうな」


カイルは小さく笑った。


「エレナはそういう人だから」


「そんな立派な人間じゃありません。今日は、腹が立ちました」


「何に?」


「治療所の備品が何度もおかしくなって、患者さんに迷惑がかかっています。私個人が嫌われるだけなら我慢できます。でも……」


言葉が詰まった。


「患者さんが危険な目に遭うのは、許せません」


カイルはすぐには答えなかった。


「我慢しなくていいんじゃないか」


「え?」


「嫌なことをされたなら、嫌だと言っていい。相手が偉い家の人間でもな」


「……簡単にはいきません」


「そうだろうな。でも、エレナが黙ってると、何も知らない奴は本当に何も知らないままだ」


エレナは窓の外を見た。


自分が記録を残したのは、誰かを責めるためではなかった。正しい治療を続けるためだ。


けれど、事実を明らかにすることを恐れてはいけないのかもしれない。


「ありがとうございます」


「俺は何もしてない」


「話を聞いてくれました」


カイルは少し照れたように視線を逸らした。


「明日、決勝だ」


「はい」


「見に来られるか?」


「治療所の状況次第です」


「それでいい」


彼は立ち上がり、エレナに手を差し出した。


「約束を一つしてくれないか」


「何でしょう」


「俺が勝っても負けても、試合が終わったら話をしてほしい」


「治療の相談ですか?」


「違う」


カイルは真っ直ぐに彼女を見た。


「大事な話だ」


エレナはその目を見返した。


「……分かりました」


差し出された手を取ると、温かい掌がそっと指を包んだ。


同じ夜、第一治療所の控室では、セレスティアが机を叩いていた。


「どうしてあの女が、カイル様と一緒にいるの!」


ロザリーは青い顔で立っていた。


「セレスティア様、もうおやめになったほうが……」


「何を?」


「薬のことです。聖女長が調べています。これ以上は……」


「あなた、私に意見するつもり?」


ロザリーは黙った。


セレスティアは窓の外を見た。遠くの廊下で、カイルがエレナに手を差し出しているのが見えた。


胸の中で、怒りが膨らんだ。


自分は侯爵令嬢だ。幼い頃から礼儀を学び、聖女としての訓練を積んできた。美しさも家柄も、何一つ劣っていない。


それなのに、カイルは自分ではなく、あの地味な聖女を見ている。


「……明日になれば、分かるわ」


セレスティアは低く呟いた。


「勇者になった方が、誰を選ぶべきなのか」

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