治せなかった傷
準決勝の朝、第二治療所に異変が起きた。
清潔な布を入れていた箱の封が切られ、中身が濡れていたのだ。水差しは倒れておらず、天井にも漏水はない。布の表面からは、強い香油の匂いがした。
「これでは傷口に使えません」
マルタが顔をしかめる。
「昨夜、最後に確認したときは無事でした」
エレナは箱を閉じた。
「使わずに保管して。代わりを倉庫から持ってきます」
マルタが頷いた。
「誰かがわざと?」
「可能性はあります。でも、決めつけるのはまだ早いです」
エレナは当直記録を確認した。夜間、第二治療所には負傷者が二人残っていた。見回りの係員が出入りした時刻も書かれている。
箱を開けた者の記録はなかった。
そこへ、リディアが駆け込んできた。
「エレナ様、聖女長が呼んでいます!」
執務室にはセレスティアとロザリーがいた。
机の上には、例の偽造伝票が置かれている。
「エレナ」
聖女長は厳しい顔で言った。
「ロザリーが、薬品を第二治療所へ運んだと証言しています」
「私に渡したと?」
「ええ。あなたが受け取ったのに、記録しなかったと」
ロザリーは目を伏せた。
「私は確かにお渡ししました。エレナ様が忙しそうでしたので、印章をお借りして受領印も押しました」
「いつですか?」
「三日目の午後です」
「何時頃?」
「……三時過ぎだったと思います」
エレナは聖女長を見た。
「その時刻、私は呼吸の苦しい重傷の患者さんを診ていました。マルタさんとリディアも同席しています」
「治療の合間なら、受け取れたでしょう?」
セレスティアが口を挟む。
「記憶違いではなくて?」
「その患者さんは午後二時五十分から四時十分まで、呼吸が安定せず継続して診ていました。記録にもあります」
聖女長は帳簿を開いた。
「確かに。しかも、あなたが受け取ったという薬品の箱は、どこへ置いたのですか?」
ロザリーが口ごもる。
「……棚に」
「どの棚?」
「奥の、右側です」
エレナは静かに言った。
「第二治療所の奥、右側には棚がありません。窓と洗面台があります」
ロザリーの顔が青くなった。
「そ、それは……左側だったかもしれません」
聖女長は手を組んだ。
「分かりました。確認が終わるまで、これ以上の証言は不要です」
「でも!」
セレスティアが立ち上がった。
「エレナが嘘をついている可能性もあるでしょう!」
「その可能性も含めて調べています」
聖女長の声が冷たくなる。
「侯爵令嬢であることと、調査の結論は関係ありません」
セレスティアは口を閉じた。
エレナは執務室を出た。廊下で、ようやく深く息を吐いた。
相手が誰であっても、患者を守る仕事に支障を出してはいけない。
その思いは変わらない。だが、繰り返される妨害に、疲れていないと言えば嘘になった。
昼過ぎ、準決勝の第一試合が始まった。
カイルの相手は近衛騎士団の副団長レオンハルトだった。エレナは観戦に行けなかったが、外から聞こえる歓声で試合の激しさが伝わってきた。
やがて鐘が鳴る。
「勝者、カイル・レイン!」
リディアが窓から身を乗り出した。
「エレナ様! カイル様が勝ちました!」
「そう」
エレナは微笑んだ。
「よかった」
その直後、別の担架が運び込まれた。
準決勝の第二試合で負傷したアーヴィン・ベルクだった。左脚を強く打ち、骨折している。さらに、剣で負った肩の傷から出血していた。
「こちらへ!」
エレナは治療台を空けた。
アーヴィンは痛みに顔を歪めながらも、意識ははっきりしていた。
「このままでは決勝に出られない。脚だけでも、きちんと治してくれ」
「もちろんです。痛みを抑えながら進めますね」
骨を整え、傷口を洗う。エレナが魔力を流し始めたとき、異変に気づいた。
いつもより魔力の通りが悪い。
疲労が重なっていた。朝から休まず治療を続け、補助に入った聖女も限界に近い。
「マルタさん、交代をお願いします」
「はい」
マルタが手をかざしたが、治癒の光は弱かった。
「すみません、私も……」
「謝らないでください。回復薬を使いましょう」
エレナは予備の薬瓶を開けた。ひと口飲んで、眉を寄せる。
苦いはずの薬に、甘い香りが混じっていた。
「……待って」
瓶を光に透かす。液体の色が、わずかに薄い。
「これ、いつ届いたもの?」
「今朝の補充分です」
マルタが答えた。
エレナは瓶を置いた。
「誰も飲まないで。別の薬を持ってきてください」
「どうしたんですか?」
「中身が違うかもしれません」
リディアが青ざめた。
エレナは自分の魔力を慎重に配分し、アーヴィンの脚を治し続けた。完全に回復させるには時間がかかったが、途中で処置を止めることはできない。
夕方、ようやくアーヴィンが自力で立てるようになった。
「助かった。ありがとう」
「今夜は歩きすぎないでください」
アーヴィンは何度も礼を言って帰っていった。
エレナは椅子に腰を下ろした。指先が震えている。
薬瓶を見つめると、背筋が冷たくなった。
もし何も気づかず、別の患者に飲ませていたら。
薬の成分によっては、治療が遅れるだけでは済まなかったかもしれない。
薬瓶は聖女長の手で封印され、薬師に検査を依頼された。
エレナはその夜、事情聴取を受けた。使用した薬の種類、患者の症状、瓶を開けた時刻。覚えている限りを話した。
「あなたが気づかなければ、危険でした」
聖女長が言った。
「すみません。もっと早く確認するべきでした」
「あなたが謝ることではありません。ただ、今後は封を切る前に必ず二人で確認しましょう」
「はい」
聖女長は深く息を吐いた。
「明日の決勝までに、治療所の安全を確保します」
執務室を出ると、廊下の窓辺にカイルが立っていた。
「エレナ」
「カイルさん。どうしたんですか」
「聖女長に聞いた。治療所で問題が起きたって」
「詳しいことは調査中です」
「そうか」
彼はエレナの顔を見て、眉を寄せた。
「疲れてるな」
「少し」
「座ろう」
返事を待たずに歩き出すのではなく、彼は廊下の長椅子を示した。エレナは迷った末、隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外では、大会を祝う灯りが王都の通りに連なっている。屋台の呼び声が遠く聞こえた。
「俺が冒険者になった頃の話をしてもいいか」
カイルが言った。
「はい」
「最初の仕事で、仲間が怪我をした。俺は何もできなかった。治療師のところまで運ぶことしかできなくてな」
彼は自分の手を見下ろした。
「そのとき、治してくれた人がいた。礼を言っても、『仕事だから』って笑うだけだった」
「その方も聖女だったんですか?」
「いや、町の治療師だ。でも、あの人がいなければ仲間は死んでた」
カイルはエレナを見た。
「俺にとって、命を救う人はみんなすごい。だから、治療した人の名前より、誰が目立ったかを気にする奴のことが分からない」
エレナは胸の奥が苦しくなった。
「……私も、分かりません」
「だろうな」
カイルは小さく笑った。
「エレナはそういう人だから」
「そんな立派な人間じゃありません。今日は、腹が立ちました」
「何に?」
「治療所の備品が何度もおかしくなって、患者さんに迷惑がかかっています。私個人が嫌われるだけなら我慢できます。でも……」
言葉が詰まった。
「患者さんが危険な目に遭うのは、許せません」
カイルはすぐには答えなかった。
「我慢しなくていいんじゃないか」
「え?」
「嫌なことをされたなら、嫌だと言っていい。相手が偉い家の人間でもな」
「……簡単にはいきません」
「そうだろうな。でも、エレナが黙ってると、何も知らない奴は本当に何も知らないままだ」
エレナは窓の外を見た。
自分が記録を残したのは、誰かを責めるためではなかった。正しい治療を続けるためだ。
けれど、事実を明らかにすることを恐れてはいけないのかもしれない。
「ありがとうございます」
「俺は何もしてない」
「話を聞いてくれました」
カイルは少し照れたように視線を逸らした。
「明日、決勝だ」
「はい」
「見に来られるか?」
「治療所の状況次第です」
「それでいい」
彼は立ち上がり、エレナに手を差し出した。
「約束を一つしてくれないか」
「何でしょう」
「俺が勝っても負けても、試合が終わったら話をしてほしい」
「治療の相談ですか?」
「違う」
カイルは真っ直ぐに彼女を見た。
「大事な話だ」
エレナはその目を見返した。
「……分かりました」
差し出された手を取ると、温かい掌がそっと指を包んだ。
同じ夜、第一治療所の控室では、セレスティアが机を叩いていた。
「どうしてあの女が、カイル様と一緒にいるの!」
ロザリーは青い顔で立っていた。
「セレスティア様、もうおやめになったほうが……」
「何を?」
「薬のことです。聖女長が調べています。これ以上は……」
「あなた、私に意見するつもり?」
ロザリーは黙った。
セレスティアは窓の外を見た。遠くの廊下で、カイルがエレナに手を差し出しているのが見えた。
胸の中で、怒りが膨らんだ。
自分は侯爵令嬢だ。幼い頃から礼儀を学び、聖女としての訓練を積んできた。美しさも家柄も、何一つ劣っていない。
それなのに、カイルは自分ではなく、あの地味な聖女を見ている。
「……明日になれば、分かるわ」
セレスティアは低く呟いた。
「勇者になった方が、誰を選ぶべきなのか」




