第四章6 日本③
「日本の、いわゆる『失われた30年』について聞きたい」
『はい』
「なぜ、日本は長期間にわたって経済の停滞から抜け出せなかったのでしょうか」
超越者は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
『「失われた30年」という表現には、注意が必要です』
男は顔を上げる。
『当初、あなたたちが想定していたのは、現在一般的に呼ばれている30年ではありません』
『バブル崩壊後、経済の停滞が続いた時期は、失われた10年と呼ばれていました』
『それが20年になり、現在では30年と呼ばれている』
男は資料に目を落とした。
確かに、その通りだった。
『そして、このまま何も変わらなければ、40年、50年と続くでしょう』
その言葉に、部屋の空気が僅かに変わった。未来を予測しているわけではない。
条件を示しているだけだ。男はそう理解した。
「バブル崩壊が原因なのですか?」
『それだけではありません』
『バブル崩壊によって発生した問題は、大きな要因の一つです』
『しかし、それ以前からの要因もあります』
「それは?」
『説明するには、さらに過去へ遡る必要があります』
男は資料をめくった。
そこには、バブル形成までの経済政策、国際情勢、金融政策、企業行動などが整理されている。
プラザ合意。金融緩和。資産価格の上昇。そして、バブル崩壊。
どれも、すでに多くの研究者が議論してきたことだった。
男は一瞬、拍子抜けした。
「つまり……」
「結局のところ、複数の要因が重なったということですか?」
『はい』
それは、特別な答えではなかった。
経済学者なら、いくらでも同じような議論をしている。
バブル。金融政策。財政政策。企業。雇用。人口。国際環境。
原因を一つに決めることなどできない。
男はそう思った。
超越者は続けた。
『しかし』
男が顔を上げる。
『問題の本質は、そこではありません』
「……何ですか?」
『…回答しません』
男は眉をひそめた。
「なぜです?」
『私の目的は観察です』
『介入はしません』
男は黙った。
その言葉は、これまで何度も聞いてきた。
だが、今は意味が違って聞こえた。
未来について質問したときも、超越者は同じことを言った。
政治には介入しない。
人類の未来を決定しない。
そして今。
過去について尋ねているのに、答えない。
男は資料に目を落とした。
そこには、バブル崩壊後に日本政府が行ってきた政策が並んでいる。
金融政策。財政政策。規制緩和。景気対策。税制変更。
そして政権交代。
何度も問題が指摘され、そのたびに修正が試みられてきた。
男は、あることに気づいた。
「……過去の話なのに」
超越者は答えない。
「なぜ、それが介入になるのですか?」
『あなたたちが、その説明を現在の判断に利用するのであれば』
『それは、現在への介入になり得ます』
部屋が静まり返った。
男は、ゆっくりと資料を閉じた。
過去を知ることが、現在を変える。
それは当たり前のことだった。
歴史を学ぶのは、過去を知るためだけではない。
未来の判断に利用するためでもある。
ならば。
超越者が答えない理由は――
「……今でも、何かが続いている?」
『回答しません』
男は苦笑した。
やはり、答えない。
だが、それだけで十分だった。
男は再び質問票を見る。
「では、聞き方を変えます」
「日本には、問題を修正するための制度があります」
『はい』
「選挙があります」
『はい』
「国会があります」
『はい』
「政府を監視する仕組みもあります」
『はい』
「政策を変更することもできます」
『はい』
男はそこで一度言葉を止めた。
「政権交代だって、できます」
『はい』
男は、そこで一度言葉を止めた。
「ならば……」
男は超越者を見る。
「なぜ、失われた10年は20年になったのですか?」
沈黙。
「なぜ、20年は30年になったのですか?」
超越者は答えない。
男はしばらく待った。
だが、返事はなかった。
そこで、男は気づいた。
質問を変えなければならない。
「制度が存在することと」
男はゆっくりと言葉を選んだ。
「制度が十分に機能することは、同じではない?」
超越者は答えなかった。
それでも、男は続けた。
「問題が発生した場合、それを指摘することはできます」
「検証することもできます」
「責任を問うこともできます」
「政策を変えることもできます」
「選挙によって、政治を変えることもできる」
男は一つ一つ確認するように言った。
「それでも……」
そこで言葉が止まる。
目の前には、三十年間の資料がある。
バブル。崩壊。停滞。政策変更。政権交代。再び停滞。
男は、それらを眺めた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……問題を直す仕組みは、確かに存在している」
超越者は沈黙している。
「でも、その仕組みが存在するからといって、問題が必ず直るわけではない」
男の声が少しずつ低くなる。
「そして……」
「もし問題そのものが、制度や社会の仕組みと結びついていたら?」
沈黙。
「その仕組みの中にいる人間が、その仕組みそのものを変えなければならないとしたら?」
超越者は、何も答えなかった。
だが男は、もう質問を続ける必要がないような気がしていた。
これは経済の話だけではない。
バブルが悪かった。
政策が悪かった。
政治家が悪かった。
企業が悪かった。
そんな単純な話ではない。
失敗は、一度だった。
しかし、その後も問題は残り続けた。
そして、問題が残っていることは、何度も指摘されていた。
それでも。
十年。二十年。三十年。
男は資料を閉じた。
その表情には、先ほどまでとは違うものが浮かんでいた。
「……なるほど」
小さな声だった。
そして、ふと笑った。
日本政府は、もしかすると最初から分かっていたのかもしれない。
少なくとも、疑問には気づいていた。
だからこそ、この質問を用意した。
経済政策の正解を聞くためではない。
誰が悪かったのかを決めるためでもない。
自分たちが見ているものを、外側から見たらどう見えるのか。
それを確認するために。
男は、もう一度超越者を見た。
そして思った。
――日本政府に、してやられた。
だが。
悪い気分ではなかった。
むしろ、ここまで来たのなら。
最後まで聞いてみたくなった。
男は質問票を置いた。
「では――」
一度だけ息を吸う。
「その仕組みを直すのは、誰なのでしょうか?」




