ルーナ物語3
第三章 最後の光
夜明けが近づいていた。
東の空が。
ほんの少しずつ白くなっている。
けれど。
フィーニス魔法学園の戦いは、まだ終わっていなかった。
白かった校舎の壁は崩れ。
時計塔には、大きな亀裂が走っている。
中庭の花壇は焼け落ち。
石畳には、無数の傷が刻まれていた。
教師たちは傷つき。
上級生たちも、ほとんどの魔力を失っている。
それでも。
生徒たちの避難は続いていた。
壊れた校庭を。
クロエとクレアが走っている。
「西側へ!」
クレアが声を張り上げる。
「走れる人は、前の子を手伝って!」
クロエは、足を痛めた生徒の身体を支えていた。
制服は破れ。
右腕は、もうほとんど上がらない。
足も震えている。
息を吸うたびに。
胸の奥が痛んだ。
それでも。
クロエは歩みを止めなかった。
「もう少しだから。」
怯える生徒へ、優しく声をかける。
「絶対に大丈夫。」
待っていた教師へ生徒を預けると。
クロエは大きく息を吐いた。
その身体が、わずかに傾く。
「クロエ。」
駆け寄ったクレアが、その肩を支えた。
「大丈夫?」
「うん。」
クロエは頷く。
けれど。
その顔には、もうほとんど血の気がなかった。
クレアは何かを言おうとして。
唇を噛んだ。
「次で最後だって。」
「本当に?」
「うん。」
クレアはクロエの手を握る。
冷たかった。
「次の子を送ったら、私たちも逃げよう。」
クロエは小さく頷いた。
「約束して。」
「……うん。」
「ちゃんと言って。」
クロエはクレアを見る。
そして。
少しだけ笑った。
「一緒に逃げる。」
クレアも笑おうとした。
けれど。
うまく笑えなかった。
握った手へ。
少しだけ力を込める。
その時だった。
校庭の端。
崩れた石段の近くで。
一人の小さな生徒が転んだ。
足を押さえ。
声を上げて泣いている。
その前へ。
黒いローブの男が現れた。
男は泣いている生徒を見下ろし。
静かに杖を持ち上げる。
杖の先へ。
黒い魔力が集まっていく。
「危ない!」
クレアが叫んだ。
クロエは。
すでに走り出していた。
「クロエ!」
握っていた手が離れる。
クレアも、その背中を追った。
けれど。
二人の近くで爆発が起きた。
激しい衝撃が。
クレアの身体を吹き飛ばす。
石畳へ叩きつけられ。
一瞬。
息が止まった。
耳鳴り。
揺れる視界。
遠くで。
誰かが叫んでいる。
「クロエ……。」
クレアは石畳へ手をつき。
必死に顔を上げた。
クロエはもう。
泣いている生徒のすぐそばまで走っていた。
黒いローブの男が。
杖を振り下ろす。
「伏せて!」
クロエは生徒へ飛びついた。
その小さな身体を抱きしめ。
力の限り突き飛ばす。
生徒は石畳の上を転がり。
駆け寄った教師に抱き止められた。
助かった。
それを見届けたクロエは。
ほんの少しだけ笑った。
その瞬間。
放たれた黒い光が。
クロエの身体を飲み込んだ。
「クロエ――!」
クレアの叫びが。
壊れた校庭へ響いた。
黒い光が消えていく。
立ちこめる煙の中で。
クロエは、まだ立っていた。
けれど。
その身体はゆっくりと揺れ。
膝から石畳へ崩れ落ちた。
杖が。
手の中からこぼれる。
――カラン。
乾いた音が。
静かに響いた。
クレアは立ち上がろうとする。
足が震え。
一度、膝をついた。
それでも。
もう一度、石畳を踏みしめる。
「クロエ!」
クロエの身体が傾く。
クレアは倒れる直前に。
その身体を抱き止めた。
「クロエ。」
「ねえ、目を開けて。」
クロエは。
ゆっくりと瞼を開いた。
ぼやけた視界の中に。
涙を流すクレアの顔がある。
「……クレア。」
「しゃべらないで。」
クレアは震える両手で、傷口を押さえた。
けれど。
指の隙間から。
血が止まることなく流れていく。
「先生!」
クレアは叫ぶ。
「誰か来て!」
「クロエを助けて!」
返事は聞こえない。
聞こえるのは。
遠くで続く戦いの音と。
クロエの浅い呼吸だけだった。
クロエは静かに空を見上げた。
東の空から。
朝日が昇り始めている。
長かった夜が。
少しずつ終わろうとしていた。
「もう……朝なんだね。」
「そんなこと、どうでもいいよ。」
クレアはクロエの手を強く握る。
「約束したじゃん。」
声が震える。
「一緒に逃げるって。」
クロエは。
わずかに目を伏せた。
「ごめんね。」
「謝らないで!」
クレアの涙が。
クロエの頬へ落ちる。
「これからも一緒でしょ。」
「授業も。」
「図書館も。」
「魔法祭も。」
「まだ何も終わってないよ。」
クロエは。
泣いているクレアを見つめた。
「クレアがいてくれて。」
途切れそうな声で。
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「楽しかった。」
「やめて。」
クレアは首を横に振る。
「そんな言い方しないで。」
「終わったみたいに言わないでよ。」
助けられた生徒が。
教師に抱かれたまま泣いている。
クロエは、その子を見た。
怪我はない。
生きている。
それを確かめるように。
静かに目を細めた。
「……守れて、よかった。」
「うん。」
クレアは何度も頷く。
「守れたよ。」
「だから、もう大丈夫。」
「先生が来たら治してもらえるから。」
「それから一緒に逃げよう。」
「ね?」
クロエは。
もう一度、クレアへ顔を向けた。
涙で濡れた顔。
震える唇。
必死に自分の手を握る。
大切な友達。
クロエは最後の力を使い。
その手を、ほんの少しだけ握り返した。
「クレア。」
「なに?」
「……ありがとう。」
クロエは。
小さく笑った。
それは。
初めてクレアへ手を差し伸べた日と。
何も変わらない笑顔だった。
そして。
握り返していた指から。
静かに力が抜けた。
「クロエ?」
返事はない。
「クロエ。」
クレアは何度も呼びかける。
「起きて。」
「ねえ。」
「一緒に逃げるんでしょ。」
「クロエ……。」
それでも。
クロエが目を開けることはなかった。
「いや……。」
クレアは。
クロエの身体を強く抱きしめた。
「いやだよ。」
「置いていかないで。」
校長と教師たちが駆け寄ってくる。
けれど。
誰にも。
二人を引き離すことはできなかった。
朝日が。
壊れた学園を照らす。
傷ついた教師たちを照らす。
泣き崩れる生徒たちを照らす。
そして。
一人の少女を抱きしめたまま。
声を上げて泣く。
もう一人の少女を照らしていた。
未来の英雄。
誰もが。
クロエをそう呼んだ。
けれど。
クレアにとって。
クロエは英雄ではなかった。
転んだ自分へ。
手を差し伸べてくれた。
一緒に授業を受け。
何度も失敗し。
何度も笑い合った。
いつも隣にいてくれた。
たった一人の。
大切な友達だった。
その日。
フィーニス魔法学園は。
一人の英雄を失った。
そして。
クレア・ローウェルは。
かけがえのない友達を失った。




