ルーナ物語3
第二章 希望
夜は、いつまで経っても終わらなかった。
炎に包まれた校舎。
崩れ落ちる石壁。
吹き荒れる魔力の嵐。
フィーニス魔法学園の各所では、教師たちと黒いローブの集団が戦い続けている。
「負傷者を本館へ!」
「西側の通路を守れ!」
「生徒の避難を止めるな!」
怒号が飛び交う。
学園全体を包んでいた巨大な結界は、すでに失われていた。
今あるのは。
教師たちが、その場で張る小さな防御結界だけだった。
一つの廊下を守り。
負傷者を運び。
逃げる生徒たちへ、ほんの数秒を与えるため。
結界は張られ。
砕かれていた。
その中を。
クロエとクレアは走っていた。
制服は煤で汚れ。
クロエの額には、細い傷ができている。
クレアの袖も裂けていた。
それでも。
二人は足を止めなかった。
「本館まで、あと少しです!」
クロエの声に。
前を走る生徒たちが、必死に足を動かす。
泣きながら。
足を引きずりながら。
生徒たちは前へ進んでいた。
「止まらないで!」
クレアが叫ぶ。
「前だけ見て!」
その時。
一人の少女が立ち止まった。
震える指で。
煙に包まれた廊下の奥を指さしている。
「友達が……。」
小さな声だった。
「教室に、まだ……。」
クロエとクレアは顔を見合わせる。
戻れば。
敵と遭遇するかもしれない。
けれど。
二人は何も言わなかった。
クロエは少女の前へしゃがむ。
「どの教室?」
場所を聞くと。
近くにいた上級生へ少女を預けた。
「この子を本館へお願いします。」
「君たちは?」
「すぐ戻ります。」
クロエとクレアは。
来た道を走り始めた。
煙が濃くなる。
呼吸をするたび。
喉が焼けるように痛んだ。
壁には。
魔法がぶつかった跡が残っている。
床には、持ち主のいない杖が落ちていた。
二人は足を止めず。
半分外れた教室の扉を見つける。
「誰かいますか!」
クロエが叫ぶ。
返事はない。
クレアも声を上げる。
「聞こえたら返事をして!」
しばらくして。
教室の奥から。
机を叩くような音が聞こえた。
二人は倒れた棚を回り込む。
崩れた机の下に。
一人の少年が挟まれていた。
意識はある。
けれど。
足を動かすことができない。
「助けに来たよ。」
クロエが声をかける。
少年は唇を震わせた。
「みんなは……。」
「先に避難してる。」
クレアが答える。
「あなたも一緒に行こう。」
クロエは机へ杖を向けた。
淡い光が。
倒れた机を包み込む。
机が軋む。
けれど。
持ち上がらない。
クロエの腕が震える。
すでに何度も魔法を使っていた。
それでも。
杖を下ろさなかった。
「もう一度。」
光が少しだけ強くなる。
机が。
ほんの僅かに浮き上がった。
「今!」
クレアは少年の腕をつかみ。
机の下から引き出した。
クロエが魔法を解く。
机が床へ落ちる。
重い音が教室へ響いた。
クロエの身体が揺れる。
「大丈夫?」
クレアが手を伸ばす。
クロエは肩で息をしながら。
小さく笑った。
「まだ、歩ける。」
「それは大丈夫って言わない。」
クレアは眉をひそめる。
二人は少年の腕を肩へ回し。
立ち上がらせた。
その時。
廊下から足音が聞こえた。
ゆっくりと。
こちらへ近づいてくる。
クロエは少年たちの前へ立ち。
杖を構えた。
扉の向こうに。
黒いローブの男が現れる。
顔はフードに隠れ。
杖の先から、黒い靄が漏れていた。
男は何も言わない。
ただ。
杖を上げる。
教室の空気が。
急に冷たくなった。
「逃げて。」
クロエが小さく言う。
クレアは首を横へ振る。
「一人じゃ運べない。」
「でも。」
「三人で帰る。」
クレアは少年を壁際へ座らせ。
クロエの隣へ立った。
男の杖へ。
闇が集まっていく。
クロエの手は震えていた。
授業で使う魔法とは違う。
触れれば。
命を奪われる。
それでも。
後ろへは下がらなかった。
「《ルーメン・ヴェール》!」
銀色の光が広がる。
その直後。
黒い光が放たれた。
闇の魔法が結界へ激突する。
轟音。
窓が一斉に砕けた。
クロエの足が後ろへ滑る。
光の壁に。
黒い亀裂が走った。
「クロエ!」
クレアも杖を向ける。
小さな光が。
クロエの結界へ重なる。
弱かった光が。
ほんの少しだけ強くなる。
けれど。
敵の魔法は止まらない。
二人の腕が震える。
銀色の壁が。
少しずつ削られていく。
「もう少しだけ。」
クロエが言う。
「先生が来るまで。」
けれど。
教師が来る保証などなかった。
結界へ。
新しい亀裂が走る。
もう。
数秒も持たない。
その瞬間。
鋭い風が教室を駆け抜けた。
黒い光が横から切り裂かれ。
ローブの男が廊下の壁へ吹き飛ばされる。
一人の教師が。
教室の入口に立っていた。
裂けたローブ。
血に濡れた腕。
荒い呼吸。
それでも。
杖だけは真っ直ぐ敵へ向けられている。
「生徒に。」
教師の低い声が響く。
「何をしている。」
男は何事もなかったように立ち上がった。
教師が杖を振る。
風の刃と闇の魔法が激突する。
教室の中を。
激しい風が吹き抜けた。
「今のうちに逃げろ!」
クロエとクレアは少年を立ち上がらせる。
だが。
廊下の奥に。
新たな黒い影が現れた。
一人。
二人。
教師の表情が変わる。
三人の敵が。
同時に杖を構えた。
「走れ!」
教師は風の壁を広げ。
廊下を塞いだ。
クロエは杖を上げようとする。
「私たちも。」
「今の君たちにできることは戦うことじゃない!」
教師の声が飛ぶ。
「助けた命を。」
「最後まで守れ!」
クロエの手が止まる。
クレアが少年を支え直した。
「行こう。」
「でも。」
「この子を守る。」
クレアはクロエを見る。
「私たちにできることをする。」
クロエは唇を噛み。
教師へ小さく頷いた。
「……分かりました。」
二人は少年を支え。
廊下を走り始める。
背後で。
魔法が激突する音が響いた。
クロエは振り返りそうになる。
クレアが腕をつかむ。
「前を見て。」
三人は。
煙に包まれた廊下を進んだ。
少年の足が床を引きずる。
それでも。
二人は手を離さなかった。
廊下の角を曲がると。
小さな防御結界が張られていた。
その内側で。
教師と上級生たちが負傷者を運んでいる。
「こっちだ!」
一人の教師が駆け寄る。
「その子は?」
「教室に取り残されていました。」
クロエが答える。
教師は少年の足を確認し。
近くにあった担架を呼んだ。
少年は運ばれる直前。
二人を見た。
「ありがとう……。」
クロエは何も言えず。
ただ。
小さく頷いた。
少年が本館へ運ばれていく。
その姿が見えなくなった瞬間。
クロエは壁へ手をついた。
足から力が抜ける。
クレアも隣へ座り込んだ。
二人とも。
息をするだけで苦しかった。
「クロエ。」
「うん。」
「手。」
クロエの掌から。
血が流れていた。
クレアは自分のローブの裾を破り。
その手へ巻きつける。
「怖かった?」
クロエはすぐには答えなかった。
崩れた天井から。
灰が落ちてくる。
「怖かった。」
クロエは小さく答えた。
「先生が来なかったら。」
その先を。
言葉にすることはできなかった。
クレアは。
静かにクロエの手を握る。
「私も怖かった。」
「逃げたかった。」
クレアの手も震えている。
「でも。」
運ばれていった少年の方を見る。
「三人で戻ってこられた。」
クロエも顔を上げる。
未来の英雄。
入学する前から。
何度も呼ばれてきた言葉。
けれど。
本当の戦場では。
一人の生徒を助けることさえ。
自分たちだけではできなかった。
敵を倒すことも。
傷ついた者を完全に治すこともできない。
それでも。
少年は生きている。
「クレア。」
「なに?」
「私たちにも。」
クロエは。
血の滲んだ手を握る。
「できることがあったんだね。」
クレアは一瞬だけ驚き。
やがて。
小さく笑った。
「最初から言ってる。」
「クロエ一人じゃなくて。」
「私たちでしょ。」
二人は顔を見合わせる。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
こんな時なのに。
一瞬だけ。
いつもの二人へ戻ったようだった。
その時。
背後から。
何かが床へ倒れる音がした。
二人は振り返る。
先ほどの教師だった。
壁へ手をつきながら。
ゆっくりと歩いてくる。
ローブはさらに裂け。
顔にも新しい傷が増えていた。
それでも。
自分の足で戻ってきた。
「先生!」
クレアが駆け寄る。
教師は周囲を見回す。
「助けた生徒は。」
「本館へ運ばれました。」
クロエが答える。
教師は。
息を吐いた。
「そうか。」
その身体が大きくよろめく。
二人が両側から支えた。
「座ってください。」
「まだ動ける。」
「動けてません。」
クレアが言う。
教師の脇腹から。
血が流れていた。
深い傷だった。
クロエは教師の前へしゃがみ。
杖を傷へ向ける。
「何をするつもりだ。」
「少しだけなら。」
「君も限界だろう。」
「それでも。」
クレアも隣へしゃがむ。
「私も手伝う。」
二人の杖から。
柔らかな光が生まれる。
弱い光だった。
傷を塞ぐことはできない。
それでも。
流れ続けていた血が。
僅かに遅くなる。
教師は驚いたように二人を見た。
「治癒魔法まで使えるようになったのか。」
「まだ、少しだけです。」
クロエが答える。
教師は。
自分の傷を包む光を見る。
「十分だ。」
「治療班が来るまでは持ちそうだ。」
クレアが。
教師のローブをつかむ。
「もう少し戦えるじゃなくて。」
「ちゃんと戻ってきてください。」
教師は一瞬。
言葉を失った。
やがて。
小さく笑う。
「努力する。」
「絶対です。」
「……約束する。」
本館の方から。
治療班が駆けつけてくる。
教師は担架へ乗せられた。
運ばれる直前。
クロエとクレアを見る。
「助けた命を。」
「最後まで守ったな。」
クロエは静かに頷いた。
「はい。」
教師が運ばれていく。
けれど。
戦いは終わっていない。
廊下の先では。
防御結界が闇の魔法を受け続けていた。
その背後で。
生徒たちが負傷者を運んでいる。
杖を失った者が。
倒れた生徒を背負っている。
誰も。
英雄と呼ばれてはいなかった。
それでも。
誰かが誰かの手を取り。
誰かが誰かの前へ立ち。
誰かが誰かの帰る道を守っていた。
未来の英雄。
世界はクロエだけを、そう呼んでいた。
けれど。
この戦場には。
誰にも知られないまま。
誰かを守ろうとしている者が何人もいた。
その一つ一つは。
小さな光だった。
敵の闇を消すほど。
強い光ではない。
戦いを終わらせるほど。
大きな光でもない。
それでも。
暗闇の中にいる誰かにとっては。
進む道を照らす光になる。
生きて帰ろうと思える理由になる。
クロエは隣にいるクレアを見る。
クレアも。
クロエを見ていた。
「行こう。」
クロエが言う。
「うん。」
クレアが答える。
二人は。
再び廊下を走り出した。
終わらない夜の中で。
決して消えない。
小さな光の一つになるために。
それが。
誰かにとっての。
希望になると信じて。




