ルーナ物語2
第五章 最初の異変
翌朝。
フィーニス魔法学園の近くにある小さな村から、一通の知らせが届いた。
まだ朝の授業が始まる前。
一人の職員が、息を切らしながら職員室へ駆け込んでくる。
「校長先生。」
「村から緊急の報告です。」
職員室にいた教師たちが一斉に振り返った。
校長は静かに手を差し出す。
「見せなさい。」
封を開き、報告書へ目を通す。
その表情が、わずかに険しくなった。
「何があったのですか。」
教師の一人が尋ねる。
校長は報告書を机へ置いた。
「村の家畜が消えた。」
部屋が静まり返る。
「消えた?」
「盗まれたのではなく?」
別の教師が報告書を手に取った。
「柵は壊されていません。」
「扉の鍵も閉じられたままです。」
「争った跡も、血痕もないそうです。」
牛。
羊。
馬。
村で飼われていた家畜だけが、一晩で姿を消していた。
足跡さえ残っていない。
まるで、最初からそこに存在していなかったかのように。
校長はしばらく考えた。
「教師を三名向かわせなさい。」
「村人の安全を確認すること。」
「周辺の魔力も調べてください。」
「はい。」
教師たちはすぐに杖を手に取り、学園を出発した。
「生徒には。」
一人が尋ねる。
「まだ知らせなくていい。」
校長は静かに答える。
「原因が分からないうちに、不安だけを広げる必要はない。」
教師たちはうなずき、職員室を後にした。
校長は窓の外へ目を向ける。
校庭では、一年生たちが朝の訓練を始めていた。
その中には、クロエとクレアの姿もある。
昨日までと何も変わらない朝。
誰も、自分たちのすぐ近くで異変が起きたことを知らなかった。
⸻
昼過ぎ。
村へ到着した教師たちは、家畜小屋を一つずつ確認していた。
柵は壊れていない。
扉にも傷はない。
藁も荒らされていない。
魔法を使った痕跡も見つからなかった。
「昨日の夜までは、確かにいたんです。」
年老いた村人が震える声で話す。
「朝になって小屋を開けたら、何もいなくて。」
「鳴き声は聞きませんでしたか。」
「何も。」
「犬も吠えなかったんです。」
教師は床へ杖を向ける。
淡い光が小屋の中へ広がった。
探知魔法。
残された魔力を探るための魔法だった。
しかし。
光は何も示さない。
「反応がない。」
「魔法を使った痕跡まで消されている。」
教師たちは顔を見合わせた。
何者かが家畜を連れ去ったのなら、必ず何かが残る。
足跡。
匂い。
魔力。
それらが一つもなかった。
調査を続けた教師たちは、村の外れに広がる森へ向かった。
森は昨日まで、村人たちが薪や薬草を集める場所として使っていた。
入り口へ足を踏み入れた瞬間。
一人の教師が立ち止まった。
「……静かすぎる。」
鳥の声が聞こえない。
虫の羽音もしない。
風は吹いている。
それなのに、葉がこすれる音さえほとんど聞こえなかった。
森全体が、息を潜めているようだった。
教師たちは慎重に進んでいく。
地面へ探知魔法を放つ。
木の幹へ触れる。
周囲の魔力を確かめる。
「魔力が薄い。」
「ですが、まだ木々は生きています。」
「今のところは。」
その日は、それ以上の異常を見つけることができなかった。
教師たちは村人へ、外出を控えるよう伝える。
「明日、もう一度調べます。」
そう言い残し、学園へ戻った。
⸻
翌朝。
空が明るくなり始めた頃。
村から再び使者が駆け込んできた。
その顔は青ざめている。
「先生……!」
「森が……。」
言葉を最後まで聞く前に、教師たちは立ち上がった。
すぐに村へ向かう。
森の入り口へ到着した瞬間。
全員が足を止めた。
昨日まで緑を残していた木々。
そのすべてが灰色に変わっていた。
葉は乾ききり。
枝は力なく垂れ下がり。
地面に生えていた草や花も、色を失っている。
風が吹く。
枯れた葉が枝から離れ、砂のように崩れた。
「そんな……。」
若い教師が声を失う。
杖を向け、探知魔法を使う。
光が森へ広がった。
だが。
何の反応も返ってこない。
「魔力が……ありません。」
森にあるはずの魔力。
木々。
草花。
土。
水。
小さな生き物。
すべての命が持っているはずの力が、完全に消えていた。
焼かれたわけではない。
切り倒されたわけでもない。
ただ。
魔力だけが奪われていた。
教師たちは言葉を失ったまま、枯れた森を見つめる。
その地面に。
一枚の黒い羽が落ちていた。
教師の一人が慎重に拾い上げる。
誰も何も言わなかった。
言わなくても分かった。
学園で見つかったものと、同じだった。
⸻
校長室。
戻ってきた教師たちは、机の前に並んでいた。
「村人は全員無事です。」
「ですが、森は完全に枯れました。」
「魔力の反応は一切ありません。」
教師は布に包まれた黒い羽を机へ置く。
校長はそれを見つめる。
驚いた様子はなかった。
まるで、いつかこの報告が来ることを知っていたようだった。
「範囲は。」
「今のところ、森の中だけです。」
「広がる可能性は。」
「分かりません。」
校長は目を閉じる。
長い沈黙。
やがて、静かに命じた。
「学園周辺のすべての村へ連絡を。」
「同じ異変がないか確認してください。」
「結界の点検も、これまで以上に細かく行いなさい。」
「はい。」
教師たちは部屋を後にする。
校長だけが残った。
窓の外。
昼休みを迎えた校庭では、生徒たちが笑っている。
その平和な景色を見つめながら、校長は静かに拳を握った。




